間歇日記

世界Aの始末書


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99年10月上旬

【10月10日(日)】
▼東海村の臨界事故、事情聴取が進むにつれ、ますます怖ろしくなってくる。この日記では、もうあれを“臨界事故”と呼ぶのはやめる。“臨界事件”でしょう、やはり。被曝した作業員のうちで軽傷だった副長は、臨界について「23年前に(会社に)入った直後に研修を1回受けただけで、意味がよく分かっていなかった」(1999年10月10日付・朝日新聞朝刊)などと供述しているそうではないか。ひえええ。えーと、おれがもうじき三十七だから、二十三年前というと……十四ですな。つまり、おれが中学二年生のときに一回だけ「臨界とはこういうことです」と習っただけで、よくわからんままいままでずーっと作業をしていた(というか、させられていた)わけですな。なんちゅう会社じゃ。いやしかし、このジェー・シー・オーの場合、今回たまたま臨界事件があってこういうことがわかったからよかったものの、まだまだ氷山の一角ではあるまいかと背筋が寒くなる。マクドナルドなんて、店長になるには“ハンバーガー大学”とやらいう研修施設に放り込まれて、べつにハンバーガーをまとめて置いておいたら核爆発が起こるわけでもないのに、厳しい訓練を受けるそうではないか(トレイに敷いてある紙に書いてある)。核燃料を扱っている会社なら、“臨界学校”かなにかを作るべきでありましょうって、さてはこれが言いたかっただけやな。
▼ブックレヴューのコーナー「天の光はすべて本」をひさびさに更新。といっても、このサイトのコンテンツが増えたわけではなく、NIFTY-Serve〈SFファンタジー・フォーラム〉「本屋の片隅」で隔月連載しているブックガイドがウェブで読めるようになっていたので、そちらにリンクを張っただけである。ここいらがWWWの便利なところですなあ。直リンクを拒否する媒体の場合、道義的にこういうことはできないが、〈SFオンライン〉にしても「本屋の片隅」にしても、ライターがこういう利用のしかたをするのを黙認してくれているからありがたい(〈SFオンライン〉は、サイトの設計思想から考えると、むしろ推奨しているのではあるまいか)。
 この「本屋の片隅」のブックガイドは、「大古典でも新作でもないが、再読しても面白いし、初めて読んでも面白いはず」といった“ちょっと前のSF”をご紹介する主旨の連載だから、「SFはよく知らないが、冬樹の日記にはつきあっている」とおっしゃる方には、とくにお薦め。SFに手を出してみたいが、最先端っぽいやつはわけがわからんと腰が上がらない方は、ここらあたりから読んでご覧になるとよいと思う。“ちょっと前のSF”の中には入手しにくいものがある(というか、実際には入手しやすいもののほうが珍しい)のが難点だが、できるだけいまも手に入るものを優先的にご紹介している。「本屋の片隅」のブックガイドには、おれのほかにもEQMMさん(じつは〈ムー〉から作家デビューなさっている方である)とうさぎ屋さん(おなじみ、ファンタジー作家の妹尾ゆふ子さんですね)のお二方が書いてらっしゃる。おれの選ぶ作品が好みに合わない方は、ほかのお二方のお薦めもぜひ参考にしていただきたい。

【10月9日(土)】
▼唐突に言葉の話だ。“ぎこちない”“ぎごちない”は日常会話でも混在している。おれは“ぎこちない”派であって、“ぎごちない”のほうは、より感情を込めたときに濁ってしまったものであろうと勝手に想像していた。“すさまじい”“すざまじい”と言ったりするじゃないか。ところが、今日思い立って広辞苑を引いてみたところ、“ぎごちない”のほうがオリジナルであることがわかった。むろん“ぎこちない”も容認される語として併記されているが、これは個人的にはびっくりである。ひとつ賢くなった。
 濁るか濁らないかでたまに話題になるのが fantasy である。[s]音を使うほうがより一般的だが、一応、[z]音も辞書的には認められている。実際には、おれは英語国民が[z]音で発音しているのを数えるほどしか聞いたことがない。[s]音の fantasy のほうが、たしかに耳に心地よい。日本語表記だと長年の慣れというものがあるので、おれは“ファンタジー”を使う。
 一般的に、音が濁るのと濁らないのとでは、濁るほうがなんとなく強い感情を伴っているかのように感じられる。「きゃあ」だと学園マンガで女子学生が戯れているかのようだが、「ぎゃあ」だと楳図かずおのキャラクターが口の中に糸を引きながら叫んでいるかのようである。
 強い感情を伴うということと、がさつに聞こえるということは、ほとんど隣り合わせだろう。英語でも同じようなことが言えそうだ。たとえば、事故や病気などで身体の機能を一部奪われた状態を指す disabled という言葉がある。法的な能力をがないなどという意味にも使う。この語の発音にも[s]音と[z]音の両方があるが、おれの経験では[z]音はあまり好まれないようである。学生時代、アメリカ人の先生と話していて、おれが[z]音で disabled を発音したところ、先生はちょっと厭な顔をなさり、やんわりと[s]音で訂正し、たしなめられた。その先生が女性だからか、出身地によるものかといろいろ想像したが、その後、英語国民が disabled を使うたびに気をつけて聴いていると、[z]音のほうが無教養な感じを与えるらしいと掴めてきた。もろに“カタワ”とでもいった響きになるようだ。そもそも、disabled という言葉自体があまりにも直接的であり、障害者を指す語としてはいささか無神経なのである。“ able な状態でない”と、マイナスのニュアンスを前面に出しているわけだ。さらに英語がわかってくると、濁ろうが濁るまいが、身体(精神)障害者個々人を指して disabled などとは、良識のある人間であればまず言わないし書かないことがわかってきた。「右腕の機能が失われた」といった、部分的なことに関する客観性を帯びた描写だと文脈からあきらかな場合は、使われる頻度がやや上がるようである。学生のころのこととはいえ、ちょこちょこっと辞書で覚えたような言葉を得意になって使っていると、とんだ恥をかくという好例だ。
 じゃあ、身体(精神)障害を指す形容詞や名詞としてなにを使うのが穏当かといえば、physically (mentally) handicapped あたりが当たり障りのない表現として一般的だろうと思う。最近では、challenged などという粋な表現にもたまに遭遇するようになってきた。障害を持っているということは、神(かなにか)に試されているわけであって、己の真価を示す機会を与えられているのだというポジティヴな意味を付加しているのだろう。キリスト教的な価値観が透けて見えるような感じがしておれ自身は積極的に使ったりはしないけれども、なかなか藝のある言葉だと思う。泣く子も黙るリーダーズ英和辞典(第一版/研究社)にすら載っていないのだが、昨年秋に出たエクシード英和辞典(三省堂)には、なんと、もう載っている。かなり認知が進んできたということなのだろう。
 などと蘊蓄を垂れている場合ではない。げげげ。いろいろと原稿の締切が近づいてきているではないか。連休はがんばらねば。こういうときも、やっぱり「げげげ」と言うのであって、「けけけ」と笑うやつはいない。もっとも、さらに締切が近づいてくると「けけけけけ、けけけけけけけ」とつぶやき出すこともあり、こうなるとかなり危ない。

【10月8日(金)】
▼このサイトもめでたく丸三年。テレビ朝日との契約も切れたので、ここらで三か月ばかり休養を……なんてことは言わず、しぶとく続ける。開設当初など、トップページのカウンタが一千に達するのに一か月以上かかっていたが、いつしか日記ページがトップページを追い抜き、昨今では日記ページのカウンタは二〜三日で千の桁が変わる。こんなにたくさんの方が読んでくださるようになるとは、夢にも思わなかった。網の上にも三年である。いろいろと嬉しいメールや励ましのお言葉も頂戴する。ありがたいことだ。いわく「毎朝、新聞のようにして読んでいる」、いわく「ブラウザのホームページに設定している」、いわく「友だちにも教えてあげた」、いわく「プリントアウトしてマーカで線を引きながら読んでいる」、いわく「会社から帰るとまず読むのが日課だ」、いわく「一日二十分読んでいたらペン字検定に合格した」、いわく「女房ゴキゲンで、近ごろつやつやしてきた」、いわく「髪の毛が生えてきた。次は三か月後にメールする」、いわく「さっき剃ってきたばかりなのに……」、いわく「寝たきりの父に読ませましたところが、急に窓の外を歩きたいと言い出し驚かされました。希望どおり窓の外を歩かせたら庭石につまづいて転倒し、帰らぬ人となりました。遺産と保険金がたくさん入り、これで三丁目の源蔵さんと余生を楽しく暮らせると母も喜んでおります。間歇日記がなかったら、きっと立たせるだけで精一杯だったことでしょう」などなど、ああ、言いたい放題のこんな日記でもささやかな楽しみにしてくださる方がいらっしゃるのだなと、よりいっそう、いままでに輪をかけて言いたい放題にする決意を新たにする。
 くだらない日記もこれだけ溜まってくるとけっこう便利なこともある。たとえば、ある話題でメールを頂戴したとすると、「それについては、日記のここでこれこれこういう意見を述べたことがあるので、ご参考までにお読みいただければ幸いです」などと、URLを示すことができたりする。知らない相手などに、おれの考えを手っ取り早く知ってもらうのにじつに都合がいい。そりゃあ、その日その日の思いつきでこれだけいろんなテーマについて好き勝手をほざき続けていれば、おれの思考パターンや性向や美意識が、かなり広範囲にわたってカバーされることにもなろう。自分の“意見倉庫”として役に立つ。ちがう相手に同じ意見をその都度述べる手間を省くことができるのである。
 というわけで、これからもご贔屓にお願いいたします。

【10月7日(木)】
▼最近、ミスター・ドーナツのテレビCMで、英語の歌詞がついたヘンテコな曲が流れているなあ――と、もしかしたら若い人は首を傾げているかもしれないので、念のため書いておこう。なにしろ、赤穂浪士の討入りが成功するかどうかわくわくしている人もいるくらいだ。あれは“ロバのパン屋”が流していた曲である。おれたち以上の年代の関西人には、とても懐かしい歌だ。というか、京都ではいまもまだ、ごくまれに“ロバのパン屋”の歌が聞こえてくることがある。「なんだそれは?」とおっしゃる方は、「キョウ・ト・アス」というサイトにある「ロバのパン屋」をご覧ください。おれが子供のころ近所によく来てたのは、ワンボックスカーだったなあ。なんでも、「ロバのパン屋はチンカラリン」なるページによれば、あののんびりした曲は「パン売りのロバさん(ロバパンの歌)」というらしいのだ。関西人の耳元で「パルナス」とつぶやくと、天空の城ラピュタがたちまちがらがらと――じゃなくて、必ず“あの歌”を唄い出す現象を水玉螢之丞さんが指摘なさっているが、「ロバのおじさん」とつぶやいてもやっぱり唄い出すから、職場にある程度年配の関西人がいる関西圏外の方は実験してみてね。「♪ぽっこぽっこぽっこぽっこ、ふわぁぁああ〜」などと、イントロからはじめる人もきっといるから。
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

『天魔の羅刹兵 一の巻』
高瀬彼方、講談社ノベルス)

 会社から帰ると届いていて、むろんまだ読んでない。織田信長がどうのとカバーに書いてあるから、戦国時代の話なのだな。だけど、ただの歴史小説がおれのところに送られてくるはずがない。そう、どうやら、ただの歴史小説ではないらしいのだ。税別で八百八十円である。ギャグが古典的すぎますかそうですか。
 アオリ文句で今野敏氏が「あ、この手があったか」とおっしゃっているように、まさに「この手があったか」である。種子島に伝来したのは鉄砲ではなかった――って話なんだけど、じゃあなにかというと、そこがSFファンが喜びそうなアイディアなのである。冒頭、長篠の合戦でいきなりそいつが出てくるので隠すまでもないかもしれないが、カバーや腰巻では気を持たせてあるので、あえてここでも明かすまい。なんだ、歴史改変ものかと思った方、それはどうやらちがうらしいのである。カバー折り返しの「著者のことば」で、開口一番、「歴史の流れは変わりません」と宣言してある。とにかく日本が戦争に勝って勝って勝ちまくるといった話ではないみたいだ。察するに、“替え歌”みたいなものなのであろうか。つまり、元歌の歌詞をそのまま残しながら、まったくちがう意味を持たせていかに面白がらせるかが勝負かな、と想像するのである。まあ、SF好きな人は、○○○○○○が戦国時代に伝来するというアイディアを聞いただけで、手に取ってみたくはなるよな。あまりにもシンプルなアイディアだが、書くとなるとたいへんそうで、うまく行けば面白そうだと“そそる”ものが感じられる。それにおれ、信長が好きだしね。溜まってる仕事を片づけたら、酒食らいながらゆっくり読ませていただこう。

【10月6日(水)】
▼昨日は夜など寒いほどになったと思ったら、今日はまたやたら暑い。死ぬ死ぬ。自律神経がますます狂う。
 こうした妙な気候のときには、気をつけなくてはいけないことがある。気温や湿度がワイルドに変動すると、本の山が崩れるのである。ずいぶん前に、本の山がおのずと持つ“制震構造”について長々と考察したことがあったなあと思い、ローカルディスクに検索をかけてみると、97年9月21日の日記がそれであった。やはり、いま時分だったわけだ。本の山が急激に傾いてきたために、ああいうネタで書きたくなったのだろう。えらいものである。なんとなく本の山が傾いてきているのに気づくと、「ああ、秋だなあ」と感じる。この日記の読者には、本の山の中で生活している人も少なくないと思うので、くれぐれもお気をつけになってください。
二千円札が出るというのだが、あんまり便利そうな感じがしないよなあ。おれは財布に入っている紙幣の向きが全部きちんと揃っていて、下から額面順に並んでいないと気色が悪くてしかたがない(98年2月4日の日記)。札の管理が煩わしくなるだけだ。煩わしいほど持ち歩きたいものだが。
 諸外国にも二十だの二百だのが額面の紙幣はけっこうあるということなのだが、どうせなら、もっとひねこびた額面にして独自性を打ち出してはどうか。二千円札、三千円札、五千円札、七千円札、一万千円札、一万三千円札……と出してゆけば、なんとなく宇宙人にもわかってもらえそうだし(わかってもらってどうしようと?)、いっそ負数にしても面白い。借金が増えると、財布の中に負数の札が貯まってゆくのだ。無理数もいいな。ルート3円札などを持っていた日には、人並みに奢らなくてはいけないような気になることだろう。虚数の札ってのもややこくて楽しい。定価1000i円の本を1000i円札を二枚出して2i冊一度に買おうとすると、本屋から2000円もらったことになるわけで……あっというまに経済が崩壊するな。しかし、2i冊ってのはどうやって買うんだ? 二千円札などというみみちい額面ではなく、高額紙幣でもっと半端なやつを出すのもいいかもしれない。十万円札、七万円札、五万円札、運命の別れ道――って、最近ネタが爺いだね。
高野八誠(『ウルトラマンガイア』の藤宮ね)に萌え萌えのスミタさんから、すごいメールを頂戴した。スミタさんのお知り合いにジャニーズJr滝沢秀明目当てでNHKの大河ドラマ『元禄繚乱』を観ている人がいて、スミタさんは「ジャーニーズ滝沢、高野八誠の美貌には及ばない」などと書いた暑中見舞いを送り付けて挑発したそうな。すると、その滝沢ファンの方は朝七時からスミタさんに抗議電話をかけてきて、最後にほんとうに心配そうな口調でこう言ったのだという――「ねえ、あの赤穂浪士の討ち入りって、どうなるのかなあー。“成功”すると思う?
 念のため言っておくが、このスミタさんのお知り合いは、外国人ではないらしい。三十年間、日本で生きてきた方だそうである。うーむー。ある意味で、たいへん羨ましい。

【10月5日(火)】
▼うーむ、横山ノック知事は、なぜあんな安易な解決策(ちっとも解決策じゃない)を選んだのだろう。政治の場に於いては、そこいらの生え抜きプロ政治屋どもより、よっぽど説明責任能力があると思っていたのだが、じつに解せん。公務に専念したいと言われたって、現職の大阪府知事がセクハラで訴えられているのだぞ。府民の預託に応えるという意味では、セクハラ訴訟で闘うのも公務じゃないか。「府民が選んだ人物は、地位を利用して婦女子に本人の望まない性的行為を強要するような卑劣な輩である」という訴えが挙がっているわけでしょう。いわば、「府民の目は節穴だ。アホだ」と府民が言われているに等しい。よって、ノック知事は裁判で事実をあきらかにする努力をすべきなのだ。なんでそんなあたりまえのことがノック知事にはわからんのだろう。これでは、痛くない腹だか痛い腹だかを探られてもいたしかたないな。「まさか、あの人がやってるわけはないだろう」と大阪府民が思ってくれると考えているのだとしたら、それは片想いというものである。府民に甘えているのではないか? いくらたこ焼きに似ているからといって、公人なんだから説明はせにゃならんでしょう、説明は。
▼ロンドンのパディントン駅近くで通勤客を乗せた列車が正面衝突して脱線とな。なんか、世界中事故だらけだ。「これらすべてを指して、ノストラダムスは“恐怖の大王”と呼んだのだ」とビリーバーの方々は、いまごろまた奇天烈な解釈をでっちあげていることだろう。韓国の原発でも四日に重水漏れ事故があり、作業員が被曝していたと報じられている。でも、このニュースって、東海村の臨界事故がなかったら、日本でわざわざニュースで取り上げられたかどうか。ニュースにも流行ってやつがありますからね。
 パディントン駅と聞いて、「四時五十分発かな」とつまらん反応をしてしまった。ミス・マープルものに『パディントン発4時50分』(アガサ・クリスティ、大門一男訳、ハヤカワ・ミステリ文庫)ってのがある。たしか、おれはこのタイトルでイギリスにパディントン駅なる駅があることを覚えたのだったと思う。「私もそうだ」という読者も多いんじゃなかろうか。でも、どんな話だったか、すっかり忘れてしまったな。読んだのは、もう二十年以上むかしだ。憶えてないくらいだから、あまり面白くなかったのかもしれない。
▼放射線が人体に与える影響についてちょいと記憶をリフレッシュしておこうと、“ありもの”の放射線生物学の本などを引っぱり出してみる。おれは専門家でもなんでもないので、9月19日の日記にも書いたようにあくまで素人としての感想しか述べられないのだが、『生きものと放射線』 (江上信雄、UPバイオロジー・シリーズ3、東京大学出版会)ってのはいい本だと思う。原子力に賛成か反対かといった問題には触れず、タイトルどおりのことがただただ淡々と書いてある。《UPバイオロジー・シリーズ》というのは、言ってみれば東大出版会の“生物学ブルーバックス”みたいな位置づけのシリーズだ。学生の副読本として、また教師や一般社会人向けとして、興味のあるテーマごとに“拾い買い”ができる分冊形式の簡潔な解説書があるべきだというコンセプトなのである。専門的すぎず、基本的すぎない。ふつうに高校を出た読者であれば、十分に主旨は理解できる程度の説明がなされている。やたら「放射能・放射線は安全だ」と印象づけようとする本や、逆に「すご〜く怖いものだ」とおどろおどろしく語る本はあまり信用ならない。まず、事実としてなにがどうしてどうなるのかを押さえなくては、安全も怖いもあったものではない。
 『生きものと放射線』の初版は一九七五年。おれが持っている版は、八四年・第七刷だ。数値データなどには当然古くなったものもあるだろうし、その後得られた知見で支配的解釈が変わっている部分もあるとは思うのだが、生物に対する放射線の作用機序に関した基本的なところは、新しい資料やウェブページなどを見てもほとんど変わっていない。吸収線量線量当量の単位にラドレムが使われているのがややこしいといえばややこしいが、いずれも百分の一にしてSI組立単位のグレイシーベルトのつもりで読めば、一般読者には差し支えないはずだ。なによりも、放射線が生物に影響を与える仕組みの基本が価値観を抜きにして押さえられる点で、おれたち素人衆にはありがたい本である。書かれた時点で、「ここまではわかっている」「こう言われているが、ちがう解釈も一部にはある」「ここはまだよくわからないので、今後の研究が期待される」と、科学者らしくきちんと述べているのも便利だ。著者の江上信雄氏は、今回の事件報道で再三登場する放射線医学総合研究所の生物研究部長だった方である。
 紀伊國屋 BookWeb で検索してみると、まだ絶版にはなっていない。「出版年月:90/08」とあるから、たぶん改版されているのだろう。問題は、おれが買ったとき九百八十円だったのが、総ページ数が同じなのに現在千六百円になっていることである。こうしてみると、本ってけっこう値上がりしてるねえ。

【10月4日(月)】
▼いやあ、おれがこれほど日本人の食生活に貢献しているとは思わなかった。まあ、自覚のないところが天才たるゆえんなのであろう。99年8月16日の日記“マダム・フユキの宇宙お料理教室”で、カップ焼きそばを使った「納豆焼きそば」をご紹介したところ、DDさんから喜びのメール(?)が寄せられた――『あの調理法を一度試してみましたところ、「素」の状態での「夜店の一平ちゃん」が何やら味気なく感じられてしまい、それ以来、カップヤキソバを食べる時には納豆を用意するのが定番となってしまいました』
 聞いたか聞きましたか。定番ですぞ、定番。このような人がいるかぎり、おれも褌を締め直して、これからも日夜世界の平和のために新しいメニューを開発してゆかねばなるまい。じつは“企画もの”として、“マダム・フユキの宇宙お料理教室スペシャル 『買ってはいけない』篇”ってのをやってみようかと、先日考えることは考えた。あれに載ってる食いものにことごとく納豆を混ぜて食うだけの画期的な企画である。しかし、『買ってはいけない』(「週刊金曜日」増刊、船瀬俊介ほか、金曜日)のような本をわざわざ買うのは癪に障るので、結局ボツにした。それにしても、まだ売ってるね、あの本。〈SFマガジン〉増刊号もあれくらいしぶとく書店に並んでいるといいのだが……って、本心から思ってないよ、そんなもん。それほどSFがもてはやされたら気味が悪いわ
▼おれがよく読むあちこちの日記で言及されていた「あなたの運命の人を探します」という“診断もの”を、思い出したように(思い出したのだが)やってみる。どうも今月はめちゃくちゃに忙しくて、そういうときにかぎっていろいろくだらないことを思い出すようにできているのである。
 こういうのはペンネームでやる。なんでも、おれの“運命の人”は、R・Hのイニシャルを持つ男性で、神奈川県あたりに住む八十九歳歯医者だそうだ。おれのストーカーをやっていて、いまおれの写真を眺めておれの部屋を盗撮しているらしい。そんなやつがいるものだろうか。もっとも、いそうにないからこそ運命の人なのかもしれん。ロン・ハバードだったら厭だな。

【10月3日(日)】
「皆さんは、仕事で疲れていると、なんの脈絡もなく美女の太ももの内側をスリスリとなでたくなりませんか?」「森奈津子の白百合城」で城主様はおっしゃるわけであるが、ええ、なりますとも。疲れていなくてもなります。
 それにしても、最近は森奈津子さんの日記から目が離せない(っつっても、いつも読んでいる)。そうだったのか、田中啓文さんが「ウラ色男」だったとは知らなかった(「浮き世の間」99年9月某日参照)。これだから世の中は油断がならない。はて、“ウラ色”とはどんな色なのか? 田中さんは大部分が肌色ではないか(中のほうは見たことがないが……見たいですか?)などと人は問うであろう。いいから問いなさい。じつはこれは“ウラ・色男”なのである。森さんの日記よれば、一見モテそうには見えないが、どう考えてもモテないはずがない属性を備えている「本当はもてる男」を“ウラ色男”と呼称することに決まったそうだ。なにがどう決まったんだかわからない。たぶん、国会で青島幸男が決めたのだろう(いつのギャグだよ)。
 なるほど、言われてみれば、田中さんはいかにも女性にモテそうな属性を多々備えている。才能がある。頭がいいくせに勉強家だ。いい学校も出ている。演劇や音楽や落語に造詣が深く、楽器もできる。一流企業の勤務経験がある。いまは専業作家だ。藝域が広い。喋ったらおもろい。礼儀正しい。妻も子もある。しかし、ちょっと見るとヘンなおっさんなのである。よく見ても、やっぱりヘンなおっさんだ。同性のおれが見ても、あんまりモテそうな雰囲気ではない。なるほど。これが噂に高い“ウラ色男”なるものであったのか(さっき知ったのだが)。おれはいま猛烈に感動している。そこにあることはわかっていたがなにやらもやもやとして形のなかった抽象概念に、ビシッと名前が与えられた劇的な瞬間に立ち会っているという感動だ。ヘレン・ケラーもこうだったのであろう。色男にはなれないが、おれも努力すればウラ色男にはなれそうな気がしてきた。ウラ色男を目指してがんばろう。新たなミレニアムの口火を切る流行は、ずばり“ウラ色男”である。さあ、さっそくパソコンの辞書に登録するように。
▼おっと、お礼を言うのを忘れていた。これではウラ色男への道は遠いな。先日、狼谷辰之さん(お話ししたことはないのだが)に、かわゆいカエルの携帯電話ストラップをもらったのだった。ありがとうございます。じつは、おれには気に入ったケータイ・ストラップを見つけたら、すぐ買ってしまう癖がある(99年2月13日の日記参照)。ふだん使うのは、地味な一本であるにもかかわらずだ。コレクターというほどではないが、自然に貯まってゆくのを楽しんでいるのだ。カエルものはこれが初めてなので、たいへん嬉しい。観賞用に愛用させていただくことにする。もっとも、気が向いたらどこかの催しにでも“してゆく”やもしれない。なんか、ネクタイみたいですな。

【10月2日(土)】
▼開いた口が塞がらない。東海村に対しても、国に対してもである。「臨界事故で東海村の住民の避難場所となったコミュニティセンターなど、避難場所に指定した公共施設に、原子力事故を想定した放射線防護服やヨウ素剤、線量計などの備品や飲料水、食料がまったく備わっていなかったことが分かった」1999年10月2日付・朝日新聞朝刊)というのだ。おいおい。おれは不注意な原子力関係者が「絶対安全だ」と言うのを、あくまで戦略的な言葉の綾として解釈していたのだが、ほんとうに絶対安全だと思っていたとは知らなかった。やはり、人間長生きはするものだ。
 ふと「もしかしたら……」と思って、原子力事故対策関連でネットを検索してみると、爆笑もののページが見つかった。日本共産党このページによれば、九八年三月十九日の衆院予算委員会第一分科会で、同党の木島日出夫議員が、〈もんじゅ〉から半径十キロメートル圏内の全戸にヨウ素剤(ヨード剤)を配布するよう要求している。「ヨウ素剤は現在、原発から半径十キロメートル圏内の各保健所に一括して保管されています。そのため、緊急時にすみやかに服用できるように各家庭に配布してほしいとの住民の強い要求がありました」というのだ。もっともな要求と言える。全戸が無理なら、せめて各学校くらいには置いてほしいものだ。この要求に対し谷垣禎一科学技術庁長官(当時)は、「ご指摘の点はまったく無視ということでなく、頭に入れて対策を講じていきたい」と述べたそうな。きっと頭に入れたが出すのを忘れたんだろう。おれは共産党が嫌いだし、彼らに与党としてやってゆく能力はないと思っているが、“ツッコミ”役として優れた能力を持っていることは認めている。そのためにこそ、存続してほしい党だ。おれが怖くなってきているのは、かつてはちゃんと計算して“ボケ”役をやっていた相方のほうが、かなり前から“天然ボケ”になっているのではないかと思われる点である。
 東海村の住民からはこうした声が上がったことはなかったのだろうか。よくわからん。そもそも、ジェー・シー・オーとやらでああいう事態になり得る作業をしていることすら知らなかったと言っている人も多いようだ。お上の言うことを鵜呑みにしていたのだろうか。まあ、全戸にヨウ素剤を配るのもいいけどさ、富山県の山田村みたいに、一世帯に一台パソコンを無料貸与してインターネットが使えるようにしておいたほうが、長期的にはヨウ素剤よりも身を守れると思うよ。少なくとも、誰かエラい人の言うことを鵜呑みにする習性はなくなってゆくことだろう。

【10月1日(金)】
▼東海村の臨界事故は、ひとまず連鎖反応を食い止められたようでよかったことだ。核分裂連鎖反応を起こしているウランが入った容器のまわりの冷却水が中性子を内側へと反射し、反応を促進している可能性があるとして、冷却水を抜く決死の作業が行われた。ガマの油を絞っている最中に、まわりの鏡を取り除けようというわけである(不謹慎な喩えだな〜)。もし、なんらかの不確定要因で科学者たちの読みが外れていたら、最悪の事態を招いた場合、作業員は一瞬にして蒸発してしまうだろう。うまくいったとしても、作業員の被曝は避けられない。いやあ、いくら自分の会社が起こした事故とはいえ、おれならどんなに頼まれても厭だな。命あっての物種だ。その場で辞表を書いて遠くに逃げる。幸か不幸か妻も子もないから、母親は妹夫婦に押しつけるとして辞表も書かずに蒸発するかもしれん。物理的に蒸発するよりはましだ。
 ああいう作業をしなければならなくなった作業員個々人の心中は、いったいどのようなものなのであろうか? まあ、客観的には“自業自得”以外のなにものでもないわけである。だが、今回のようなケースでは、「自分たちの会社がやったことだから」とか「ここで逃げては、あとで家族がうしろ指を差されるのでは」とか、そういったことが行動の主たるドライヴにはならないような気がする。「やりたくはないが、おれがやらねばほかの誰かがやらねばならない。そんなやつは多くはいないだろうし、いたとしたらそいつに命を削ってくれとおれが頼むようなものだ。やはり、おれがやるしかあるまい」という心境になるのではなかろうか。おれはたぶんならないと思うが、なる人はなるのであろう。自分たちの会社の尻拭いとはいえ、あのようにあまりにも多くの人命や生活がかかっている状況では、会社がどうのといった俗なことは逆に考えられなくなるのではないか。「おまえは自己を犠牲にして、大勢の人を救えるか?」と、ひとりの人間としての自分が選択を迫られているように感じるのではあるまいかと思う。そういう意味では、あの作業をした十八名の人々には、やはり心から敬意を表する。自己犠牲は美しい。しかし、自己犠牲がいついかなるときも美しいかというと、必ずしもそうは思わない。とにかく、美しいものは怖ろしいので、気をつけていなくてはならないだろう。
 おっと、おれはあくまで個々人としての作業員たちの心境を想像して敬意を抱くわけであって、会社としてはもちろん自業自得だよ。あんな物騒なものを扱っているとはとても思われない杜撰な現場であり、いい加減な管理であり、愚かな経営である。
 こういうときにドラえもんがいてくれたらいいなと思う。東海村に専用の“どこでもドア”を設置し、もう一方のドアは関連民間各社の社長室科学技術庁長官のオフィスおよび首相官邸に接続しておくのだ。なにかあったら、東海村側からはいつでもドアを開けてよいことにする。二度とこんな事故が起こらないようにするには、抜群のアイディアだと思うのだがどうか。
「寿司の降る町を〜」という“頭の中で回る歌”を唄っていたら、二番と三番ができた。もっともこの歌は、一番がどこで終わるかが決まっていないため、別の歌がふたつできたと言うほうが適切かもしれない。こんな歌である――

ユッケの降る町を〜、ユッケの降る町を〜♪
思い出だけが通り過ぎてゆ〜く♪     
ユッケの降る町を〜、ユッケの降る町を〜♪
思い出だけが通り過ぎてゆ〜く♪     
ユッケの……              

ホッケの降る町を〜、ホッケの降る町を〜♪
思い出だけが通り過ぎてゆ〜く♪     
ホッケの降る町を〜、ホッケの降る町を〜♪
思い出だけが通り過ぎてゆ〜く♪     
ホッケの……              

 もういいですかそうですか。


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