信長と京都
京都における織田信長ゆかりの場所として、まず旧二条城を挙げよう。信長は一五六八(永禄一一)年、第十五代将軍となる足利義昭を奉じて入洛を果たした。その翌年一五六九(永禄一二)年二月、義昭の居城として信長は二条城を築城した。それまで義昭は本圀寺を宿所としていたが、この一月に三好三人衆の軍勢に襲撃され、義昭の身の危険を案じて築くことを決めた。普請にあたっては洛中の公家屋敷や寺社から庭石や墓石を強奪し建材にあて、わずか二か月半で完成させている。平城ではあるが、掘は深く、石垣も高く築かれている。また城中には殿舎が設けられ、京における邸宅城郭のはしりといえよう。なお、現二条城は関ヶ原の合戦に勝利した徳川家康が上洛用の宿所として築城したものだ。
そしてもう一ヶ所、「本能寺の変」で有名な本能寺が挙げられよう。一五八二(天正一〇)年五月、信長は坂本城にいた明智光秀に備中の高松城を包囲している羽柴秀吉の救援の先陣を命じ、信長自身もわずかな近習をつれて二九日に上洛、本能寺を宿所とした。
ここで信長は持参した秘蔵の名茶器を披露するために大茶会を催している。その後、酒宴となり、就寝を迎えた頃には深夜零時を過ぎていた。一方、坂本城を出発した光秀は、備中路とは逆の方角に進路を取り、桂川を渡って京都へと入った。六月二日未明のことだった。そう、「敵は本能寺にあり」、光秀は信長の襲撃を決意したのだ。
光秀は京都に入ると、ただちに本能寺を包囲し、攻撃を加えた。信長に一万三千の光秀の軍勢による突然の来襲を防ぐ術はなかった。自らも弓、槍を持って応戦したが、最期は居室に火を放たせ自刃するにいたっている。壮年四十九歳、また妙覚寺にいた信長の嫡子信忠は変を聞いて本能寺へ駆けつけようとしたが、本能寺が落ちたことを知らされ、やむなく二条城へ入った。が、戦いはここへも飛び火し、忠信もまた力尽きて自害している。
光秀の謀反の真相には様々な説が唱えられてきた。もっとも有力な説は怨恨説だといわれている。信長の命令で丹波の八上城の波多野秀治を攻めた光秀は開城に成功した。その際、光秀は人質として母を波多野氏に差し出していたが、信長が講和の条件を破り秀治を殺してしまった。この処置に憤慨した秀治の家臣は光秀の母を惨殺してしまい、それを光秀はひどく怨んでいたという。他にも信長に代わって天下を取ろうとした野望説や、秀吉との対立説なども飛び交っている。
ところで、信長は入洛後、特に定まった宿所を持たず、東福寺や清水寺、妙覚寺、相国寺、本能寺を宿所とした。一五七六(天正四)年には二条御新造の普請を命じ、翌年居を移したものの、一五七九(天正七)年、普請を終えた二条御新造を禁裏へ献上し、自らは妙覚寺へと戻っている。信長は京都においてはついに「本拠地」たるものを持たなかったとされている。