京の町 ふたつの大火

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京の町を襲ったふたつの大火


 花の元禄期ともいえる十七世紀末、京都には伝統的な権威の象徴でもある京都御所と、武家の権力を示す二条城が置かれ、近世京都の形成がなされていた。だが、十八世紀を迎えて、京都はふたつの大火による災害を被り、甚大な打撃を受けることとなった。「宝永の大火」および「天明の大火」である。
 宝永の大火は一七〇八(宝永五)年三月、油小路通姉小路付近から出火し、二日間に渡って燃え続けた。火は西南風に煽られ、延焼地域は東北部へと拡大し、最終的には東は鴨川、西は堀川、北は今出川南、南は四条までが被災地域となった。「宝永五年炎上記」によると町数四一五町、家数一万百三十軒余、寺数五十ケ所、社頭十八ケ所、西道場十二ケ所、東道場二十三ケ所、土蔵火入六百七十余と記録されている。さらに禁裏御所の焼失も余儀なくされ、七十八軒もの公家屋敷ほか、諸藩の武家屋敷も二十四軒焼失している。
 宝永の大火よりちょうど八十年後に起きたもうひとつの大火が天明の大火である。応仁以来の大惨事をもたらし、京都史上、最大規模の大火ともいわれている。「天明炎上記」「京都大火」「京都大火記録」などの記録も多く残され、当時は京都焼亡図や木板による大火記録も売り出されたばかりでなく、後にわらべ唄にもなったほどだ。


 炎が上ったのは一七八八(天明八)年一月二十九日未明、鴨川東宮川町団栗図子の空家から出火した。火は鴨川の西岸へも飛び火し、やがて全市中へと燃え拡がった。火消の人々の尽力ではもはやどうにもならず、火消たちは禁裏をはじめとする警固を担い、また亀山、高槻、郡山、膳所、淀、篠山などからかけつけた近国の大名もなす術なく、各所の警衛にあたるほかなかった。
 焼失家屋は三万六千軒以上、洛中の戸数がおよそ四万軒であるから、実にほぼ九十パーセントが焼失したことになる。焼けた寺は二百一ケ所、神社は三十七にのぼっている。また、この大火により御所も炎上を免れず、二条城や周辺の武家屋敷の焼失をも招いている。
 禁裏においては、宝永の大火の先例にならい、下鴨神社への避難の行幸が決まった。が、その後、御所が炎上したとの注進を受け、還幸が不可能となったことから再び聖護院へと行幸している。
 天皇は仮御所を聖護院に置き、そこで避難の日々を過すこととなった。あわせて仙洞御所は青蓮院、女院御所は修学院竹内宮御殿、女一宮は妙法院へと落ち着き、東西両町奉行はそれぞれ焼け残った北南両二条門番頭の屋敷に入って仮奉行所とした。
 この天明の大火で死者についての正確は記録は残されていない。「大島家文書」では百五十人とされているが、「伊藤氏所蔵文書」では千八百人余と記されている。
 なお、寺町清浄華院境内には、「焼亡横死百五十人之墓」と刻まれた天明大火の供養塔が建てられ、死者が祀られている。