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Wate Land(荒地)

WasteLand.jpg 中世の騎士物語で強迫的に頻出する主題は荒地のモチーフであり、とくに聖杯物語集成におけるそれであった。

 聖杯伝説そのものと同じく、荒地のモチーフはおそらく中東に由来するものであった。ヨーロッパ人の旅人や十字軍の戦士が中東に来て、本当の荒地を目のあたりにしていた。荒地とは、イスラムが豊餅の太母を否認したためにできた、と東洋の神秘主義者たちが考えた大砂漠のととである。西洋の異教徒も、太母を怒らせたり、無視したりすると、彼女は大地に呪いをかけて、アラビア砂漠や北アフリカに見られるのと同じような絶望的な不毛地にしてしまうかもしれないと主張した。
 point.gifGrail, Holy.

 ある聖杯物語によれば、イングランドの王(ログレス)がかつて女神の巫女の1人を犯し、女神の黄金の杯(彼女の愛の象徴)を盗むという致命的な罪を犯した(この杯は盗み取るものではなくて、与えられるものでなくてはならなかった)。これ以降、聖なる泉の巫女たちが、旅人を食べ物と飲み物で歓迎することはもはやなくなった[1]。「女神の平和」は破られた。というのは女はもはや男を信頼しようとしなかったからである。「大地は荒廃した。木々は葉を落とし。草や花は枯れ、水はどんどん引いていった。……女性的なる存在に対して罪が犯され、自然に対する略奪が行われた。……そもそもこういう事態にいたったのは妖精の世界、すなわち、具体的には自然が侵害されたからであるとみなされた。……男性的な意識の発達と、キリスト教の視点がもつ父権制社会的なロゴス原理の発達が、この事態と少なからず関連がある」[2]

 聖杯物語集成のいくつかの神話において女神は、相続権を奪われた大いなる貴婦人として、またはシトー修道会の騎士物語『聖杯探究』Queste del Saint Graalの中の「荒地の女王」La Reine de la Terre Gaste のように、相続権を奪われ、財産を盗まれ、暮らしにひどく困っている女王として登場する[3]。財産権を剥奪され、女神を擬人化した3人の支配者(女王、娘、孫娘)のもとに、「やんごとなき乙女らの城」に身を寄せた女たちについて語っている話は多い。

 呪文が敵を食い止めてくれるのを願いながら、女たちは1人の勇者が現れて、自分たちの大義を守ってくれるのを待ち望んだが、聖杯の騎士とはまさにそういう勇者と考えられていた。女王はある博学な天文学者を抱えていたが、彼の魔術は臆病、嫉妬、貧欲、または他の性格の弱さのために挫けそうな騎士はすべて城に寄せつけなかった。貴婦人たちは自分たちの救世主「待望の騎士」の到来を待ち望んだ。それは申し分のないほど高潔で勇気があり、彼女たちの敵をすべて滅ぼし、多くの盗人男爵に巻き上げられた彼女たちの土地や財産を取り戻すカをもつ騎士であった。新しい父権制の法律によって相続権を奪われ、「孤児となった乙女たち」もまた上述の女たちの城に難を避けた。以前の母権制の法律下にあるときと違って、もはや財産相続を許されない年配の寡婦たちも同様であった[4]

 「待望の騎士」到来の伝説は女たちによって、あるいは、お気に入りのテーマで女たちを喜ばそうとした吟唱詩人たちによって広められたものかもしれない。しかし荒地のイメージにはこれ以上の意味があった。このイメージは次のような社会につきまとっていた。つまり、そこでは「中世ヨーロッパの迫害的なキリスト教の専制体制のもとで、確かにキリスト教の教義は名目上は、偉大な知識人たちに受け入れられたが、それは脅迫されたからであり、また、留保をつけた上でのことであった。……最高の知性の持ち主たちは、内に泌めた信仰を、この上なく慎重な言葉遣いで表現せざるを得なかった」[5]。こういう場合、しばしば言葉は象徴性を帯びた。真の意味を問い質されてもいつでもそれを否定することができたから、象徴性を帯びた言葉は、あらゆる言葉のうちでも最も用心深いものであった。象徴的な荒地は「精神のの風景」であった。そこでは宗教の諸概念は、普通の人々の感情や生活体験から遊離しており、また、困惑して気の進まない大衆に、権威主義的な教化の力だけによって押しつけられていた[6]

 上述のことは「待望の騎士」の到来が、漠然とてもはあるが、キリスト(または、マーリン、アーサー、フレデリックなど)の再臨と同一視されていた、12世紀のヨーロッパを見事に描写していると言えよう。抑圧されて絶望的になった多くの人々が、自分たちのために抑圧者たちに反抗してくれる力強い英雄を切望していた。荒地のテーマは、石器時代以降すべての農耕社会が経験した例の集団恐怖を呼びさました。つまり、周期的に食物を生み出すという、大地母神の奇跡が起こらなくなるのではないかという恐怖である。しかしこのテーマが意味するのはこれだけではない。荒地は、精神の根が欠けていることがその構成員にもわかっている社会における集団的無気力・抑鬱状態も表していた。

 荒地のテーマの、現代における有名な応用例は、もちろんT・S・エリオットの詩であって、これは聖杯象徴を用いた種々の西洋の作品だけでなく、『プリハッド・アーラニアカ・ウパニシャッド』に語られているような、真の「力ある言葉」を求めての望みなき探究に関するヒンズー教の物語をも下敷きにしている。ヒンズー教版の方は次のごとくである。

「神々、人間、デーモンたち(阿修羅) は雷の王の装いをしているシヴァ-プラジャーパティのもとに赴き、彼から究極の言葉(すなわち、オームOm*が万物の始まりを意味するように、万物の行きつく目標と終わりを意味する言葉)を聞きだそうとした。しかし雷の王は、まさに雷でしかないので、ただ1つの言葉、ダー Da以外のいかなる言葉も発することができなかった」。

 人間はこの言葉を聞くと、それはダッタdatta (「与えよ」または「受胎させよ」)のことであると考えたが、その理由は、子をもうけることは彼らにできる唯一神聖なことであり、施しは神の恵みにあずかるための、彼らの知っている唯一の方法であったからである。デーモンたち(阿修羅)はこの言葉を聞くと、ダヤドヴァム dayadhvam (「同情せよ」または「思いやりをもて」)を意味していると考えた。東洋では、デーモンたちは悪霊ではなく古い母権制社会の宗教の神々であり、彼らはカルナ(「母の愛」)を説いた。神々はこの言葉を聞くと、彼らの成功の秘訣である「抑制せよ」の意のダームヤタdamyataのことであると考えた。自己抑制によって彼らは神となり、神性によって彼らは他のものすべてを支配する力を獲得した。

 しかし雷の王はこれらの3つの言葉を区別できなかった。彼はそんなことは意に介せず、自分の知っている唯一の言葉をくり返すだけであった、「ダ! ダ! ダ!」と[7]


[1]Spence, 138.
[2]Jung & von Franz, Jung & von Franz, 202, 204.
[3]Campbell, C. M., 543.
[4]Jung & von Franz, 229.
[5]Shirley, 31-32.
[6]Campbell, C. M., 5-6, 373, 388.
[7]Upanishads, 112.

Barbara G. Walker : The Woman's Encyclopedia of Myths and Secrets (Harper & Row, 1983)

point.gif「異界としての砂漠」(鈴木順)

 画像は、ドキュメンタリー映画『Waste Land』(2010年)のポスター。
 この映画は、ブラジル人作家のヴィック・ムニーズ(Vik Muniz)が、リオ・デ・ジャネイロ近郊の世界最大のごみ集積場に暮らす人々と3年間かけて行ったアート・プロジェクト「Pictures of Garbage」の制作舞台裏を追ったドキュメンタリー作品。