母権制とはいかなる概念か
江戸川大学紀要『情報と社会』9号 1999所収
平山満紀
1.端緒
現在、男女の力の行使の仕方には諸次元で複雑な変化が起きている。これには先進国に共通の変化もあり、また日本社会に固有の変化もある。この変化は、単に女性が政治的、経済的、社会的な力をより多く行使できるようになり、男性が相対的により少ない力しか行使できなくなってきたということにとどまらない。女性が従来ある種の力を振るってきたことが問題視されるようになり、女性が自らその力を放棄しつつある、ということも起きているのである。
例えば先進国に共通した社会現象として、共依存co−dependencyの問題化がある。共依存とは、夫婦、恋人、親子関係などで、身近な人に献身的に世話をしつつその人を感情的な面で支配するということへの依存であり、従来は、女らしさとして文化で正当化されてきた姿勢である。アルコール依存症者の妻によくみられる、夫の飲酒問題に全力で関わり、「絶対飲まないで下さいね」「今度飲んだら私にも覚悟があります」などと夫に感情的な力を振るい、その実、その抜きさしならない関係における献身的な世話、ひいては夫に飲酒問題があることを、どこかで生き甲斐にしてしまっている、という姿勢がその典型であり、今日これが問題化されるようになってきたのだ。これを自覚した人たちは、この種の感情的な力の行使をやめ、それをしなくても自分が空しさにさいなまされないよう、自分を越えたハイヤーパワーに身をゆだねたり、また同じことだが、内的な力の自己確信へと歩んでいる。これを一例として、現代男も女も、ある種の力から別種の力へと行使する力の質を変えつつあり、それが多くの人に生き方の変更を迫っている。
日本社会については先進国に共通したこのような変化と、ある日本固有の変化が相伴って生じているように筆者には見える。女性が姉的、母性的に男性や子どもを抱擁しつつ彼らを感情的に支配してきた母性社会が揺らいできているという指摘もなされている。・この変化の全貌を描くのは非常に手間のかかる作業となろう。これまでフェミニストたちが、日本の女性たちがどのような力を奪われてきたかを描くのに熱心で、どのような力を行使してきたかを等閑視してきたためもあり、母性社会における女性の力の実証的研究自体が十分されておらず、母性社会の揺らぎ以前に母性社会そのものの記述が、まずなされなくてはならないからである。日本の妹の力、女の霊力、フォーマル、インフォーマルな女の力、母の力と、女性差別の実証的研究とが、まずは接合されなくてはならない。
力の諸次元の相違に着目して男女の力の行使の変化の全体を描くこと、これは今日のジェンダーの社会学の大きな課題である。本稿は、しかし、この大きな課題を念頭に置いた、準備的な作業のひとつである。
日本は母性社会といわれる。この概念も明確にしていかなければならないのだが・、では日本は母権制社会であろうか。そもそも母権制とはどのような意味だろうか。このこともまだ全く曖昧である。そこで本稿は、母権制概念をめぐる議論を整理ながら、母権制の意味を明確にし、この概念がどのような人たちにどのような意義をもっているのかを明らかにして、私たちの実証分析に用いられるのか否かを検討したい。
2 Bachofenとその影響 最初の二つの流れ
母権制をめぐるあらゆる議論は、J.J.Bachofen,Das Mutterrecht『母権論』(1861)に直接、間接に依拠している。これは、進化論が一世を風靡しようとしていた時代、学問諸分野が未文化でありかえって総合的学問関心が成立していた時代、そして西欧市民社会のモラルとジェンダー観が成立した時期の作品である。それゆえ確かに時代への射程の長い、根本的な批判をなしえ、それ故長く生き続ける作品となっていることは評価すべきであるとともに、今日の研究水準からすると時代からの強い制約を受けていると見ざるをえない。これは思想的霊感で学会を何度も揺り動かし、また厳しい実証主義的批判の的ともなってきた、いずれにせよ、問題の書物である。そこでまず、ごく簡単にこの特徴をまとめておこう。
Bachofenは、膨大な神話伝承、古典文学、著述当時の旅行者の手記を題材として、ギリシャ、エジプト、インド、中央アジアに共通して、古代に女性支配の社会体制を見出そうとした。彼の所謂母権制とは、女性が、特に母性をもっている存在としての女性が、崇敬すべき母性を根拠に宗教的祭祀と、世俗生活の両面で支配的な力を発揮している社会体制である。宗教的な女神信仰や女性の宗教的指導力が基盤となって、家族制度や法律においても母から娘へ財産が相続されたり、家長権を女性がになうなど女性優位が成立しているとみている。彼は女性支配Gynaikokratieという語も用いている、タイトルの母権とは原語でMutterrecht、母の権利という法的概念である。法学者として彼は家族法における女性の権利に注視している。また彼の謂う母権制には母系制、母方居住制の要素も含まれている。そしてまた、母権制社会では価値観において普遍的自由、平等、競争の不在、愛、生命力の尊重などが尊ばれ、父権制社会で法律、秩序、理性、ヒエラルキーが尊ばれるのと対照的だとする。彼は野蛮(物質的、母性中心的、乱婚制)−母権制(物質的、母性中心的、排他的婚姻制)−父権制(精神的、父性中心的、排他的婚姻制)の発達段階を構想し、野蛮に乱婚制、母権制に排他的婚姻制度を対応させている。じつは今日の目から見れば、彼のいう乱婚制は、家族−親族構造上の特質ではなく、当時のヴィクトリア朝的性規範からは非常に異質にみえた、自由な性規範をさしている。(女神崇拝の元では、性と生殖に内在する力は宗教的に崇敬され、性の力の自由な発露は肯定されることが多いが、それは家族−親族構造上の排他的婚姻関係と両立するものである。次元を異にする二つのことの両立を、彼は歴史的前後関係をもつ二つの段階を構想してしまったのだった。)
この書物への実証主義的批判は、事実認識に無数の誤りを発見していった。まず、古代における、家族制度や法律上の女性優位はきわめて限定された局面以外には存在が否定されてきた。母権制と母系制、母方居住制は別の概念だと整理されてきた上で、母系制では財産が母から娘へと相続されるが財産管理権は娘の兄弟にあるなど女性の力への限定が発見された。また、原始乱婚制社会も、実在は否定された。学問諸分野の分化以前の時代らしいともいえる、家族制度=法=思想世界という諸領域の混同は、後代の実証主義的批判には耐えられないものであった。
これらの批判にも拘らず、この著は「ファンタジー」・として退けることのできない、見るべき点をもっている。これは詩人、芸術家を含め多方面に深い影響を与えてきた書物である。ここでは学問上の影響に限定し、彼に始まる母権制の議論を四つの流れにまとめたい。・
第一に文字どおり、母または女性の政治的統治や社会的な地位の高さ、家族制度における権利の優位、という意味で母権制を用いる議論である。上述のようにこの実在は実証的に否定されてきたが、それでもある人たちはそのことを知らず、また、注意すべきことだが、あるフェミニストたちはあえて女性たちを鼓舞するファ塔^ジーとして『母権論』を受容しているのである。新しい女性像や社会体制のヴィジョンを模索する上でファンタジーにも一定の必要がある、と見ることができよう。また、厳密には母権制とはいえなくても、女性の地位が注目すべき高さにあった社会は歴史上に存在し、それを指す論者もある。因みに、ウーマンリブ期の米国で、初めに父権制在り、という立場のKate Millet『性の政治学』(1970)に対抗して書かれた、Elizabeth DavisのThe First Sex『第一の性』(1971)は、『母権論』に直接依拠して女性劣位でない社会のヴィジョンを提供し、人気を博したという。ドイツ語圏でも、私達の挙げた批判点をほとんど考慮にいれずにBachofenを受容するフェミニスト達が、今日でもかなりいるようである。・
ところで、Bachofenは、母権制から父権制への移行を文化段階の高度化として必然視しており、その点でも、彼の論述に望ましい社会像を探そうとするフェミニストは裏切られてしまう、という読解がなされることがあるが、テキストを丹念に読むならばそんなに単純ではないことがよみとれるだろう。臼井隆一郎が評しているように、これは、「『父権的な秩序に対する敬意』を縦糸に、『母権的な精神に対する尊崇』を横糸に、バッハオーフェンが生涯をかけて編み上げた織物」といいうる。・彼は父権制と母権制との止揚をこそ構想していたのである。
第二に、Morgan、Engelsとつづくマルクス主義の議論がある。Bachofenは原初の野蛮段階の婚姻制度を乱婚制とし、その克服として次の段階の母権制社会を想定した。L.H.Morganの『人類の血族と姻族の諸体系』(1870)と、F.Engelsの『家族、私有財産、国家の起源』(1884)は、乱婚制を平等社会である原始共産制と結びつけ、原初のユートピアを描いた。厳密にはBachofenの母権制は一夫一婦制であるのでこれとは対応しないのだが、マルクス主義思想では、母権制は普遍的な進化段階の初めにある、男女に生産物と権力が平等に分配される平等社会という意味を付与されていった。
3 歴史的現実としての女神崇拝
第三に、政治的統治、社会的な地位の高さ、家族制度における権利の優位という次元については問わずに、母権制を「女神崇拝という価値と社会秩序」の意味で、「一神教的男神崇拝という価値と社会秩序」の意味の父権制と対比的に用いた流れが存在する。この意味の母権制が過去に歴史的現実としてあったと実証する神話学者、考古学者、歴史学者らや、その歴史の現代的復興を試みる運動家たちの潮流である。第一、第二の立場が実証的には否定されているのに対して、ユダヤ教、キリスト教以前に 中東、小アジア、地中海沿岸、ヨーロッパ大陸に女神崇拝が盛んであり、一神教的男神崇拝であるユダヤ教やキリスト教が後にそこに侵入して文化的価値の大きな転覆をした、ということは証明されてきた。
女神崇拝としての母権制は、農耕民族の生活様式と、性と生殖の関係を知らず母だけが親だと信じる考えに関連し、一神教的男神崇拝としての父権制は遊牧民の、一頭の特権的オスを家畜の群れの中心としたり種付けをさせる、特有の生活経験に関連するといわれる・。母権制は、価値としては豊穣、多産などを尊ぶ生命主義的な性格をもち、性や肉体の要素を肯定し、天体や季節の変化など自然の運行を尊重し、善悪のアンビバレンスをそのまま受け入れるといった特性があり、父権制は、あらゆる被造物の神格化を峻拒し、戦士的で、性や肉体を不潔視し、自然の運行を超えた抽象的な普遍的秩序を尊重し、悪を厳しく否定しようとする価値観の上の特性をもつ。また後述するが、女神崇拝と一神教的男神崇拝では、政治、経済的力や社会的地位とは別の次元での男女の行使しうる力に違いがあり、前者では女性にある特有の力が公認されている、という社会秩序上の特性がある。
BC一千年紀より父権的ユダヤ教と母権的な他の民族宗教との対立は顕著になり、民族間の熾烈な闘いは、生命観や生活経験に根差す感覚すべてを含めたものとしての宗教の争いとしてあった。勝利民、敗北民の間で、政治、社会体制、宗教などのさまざまな次元で相互作用があり、宗教とその本来の土壌の生活様式は離れていったと考えられる。そして父権的キリスト教がヨーロッパ大陸に進出していく段階で再び土着の女神崇拝を異教として圧迫し迫害していったのである・。この意味に限定すればBachofenの主張は間違ってはいなかったと言える。
ここでいったん母権制概念を措いて、女神崇拝の歴史的現実への着目の経過を描こう。Bachofenの影響を受けた考古学者、神話学者たちが20世紀半ば頃までにすでに古代の母神または女神崇拝についての実証的研究の基本的な蓄積を作った。Helen Diner(1929)、E.O.James(1959)、Rover煤@Graves(1948)などがその代表的な著作である。また一方で女性の女神崇拝に着眼した魔女研究をMargaret Murrayらが切り拓いていった。
ヨーロッパの古層の宗教への着目は学問的成果と部分的に重なりつつ、復興運動の形でも現れた。この運動がネオ・ペイガニズムであるが、その中で最も有力な潮流は、Murrayらに影響を受け魔女の宗教を現代によみがえらせようとするウイッカの運動である。これは西欧では魔女狩りで撲滅させられたが、魔女たちは魔術、伝承、集団的女神信礼拝などをつたえていた、として女神を礼拝する儀礼の体系を再構成している。
続いて1960年代から大きな盛り上がりを見せた欧米のフェミニズムは、父権制の根源を探索し、ついにユダヤ・キリスト教という男神的一神教に、その根源のひとつを発見した。これを行ったのはフェミニスト神学者たちである。その中心的存在であり、ついにキリスト教の枠の外にでていったMary Dalyはいう。「ユダヤ・キリスト教の伝統は、性的に不平等な父権制社会を合法化するのに役立ってきた。こうして、例えば、人間の想像力のなかで生まれ、父権制によってもっともらしいものとされた、父なる神のイメージは、女性を抑圧する機構を正当でふさわしいものと感じさせることによって、この種の社会に奉仕してきたのである。」・彼女はまた、男神的一神教は男性支配だけでなく、他者や自然への征服を正当化する価値体系でもあるという。そしてこれにかえて母権制を提唱するがそれは女神崇拝をもち、父権制の男性優位を裏返した女性優位ではなく、「女性及び自然という、生を愛する存在」の尊重を特徴とする。・彼女は男女がともに母権的価値を担うことを提唱し、エコロジー思想を展開していった。
こうして男神的一神教の文化的価値秩序への根本的批判に欧米のフェミニズムは着手することとなった。これは神学、哲学、心理学といった理論面、歴史学、考古学などの実証面、そして運動面の大きな変化を引き起こしていったのだが、その脈絡でDinerらの発掘し始めていた前ユダヤ・前キリスト教的女神崇拝の歴史が大きく注目されたのである。
さて、母権制概念は、女神崇拝の社会の歴史的記述で、時折用いられてきた。たとえば次のように。
「かつて女性は、シャーマン、女神、女祭司であった。その姿は、ウル、ウガリット、ニネヴェなど有史以前の礼拝所や古代の寺院において崇拝された。女性は、人間と動物の守護者にして博識な植物収集家であり、農業、紡ぎ車そして機織りの発明者であった。女性は、大地および天体と密かに結び付いていた。女性は、死者たちの霊と、『万物を胎内から生み出す』母親と、そして『死して成れ』という永遠の循環に深く結ばれている月の女王と対話した。女性は、『古代世界』の生命の寄贈者であり、ドナウ川、黒海、コーカサス南部から地中海、ペルシャ湾まで広がる、あの『文化の揺籃の地』の始まりに立っていた。女性は紀元前数千年前に、東地中海とその島々、およびその後背地のあの母権制の文化を生み出したのである。ついで北方から、戦闘的な男性集団であるインド=ゲルマン語族の父権的な遊牧民がやってきた。」・
この引用にも示唆されるように、この意味での母権制においては、女性は、男神崇拝としての父権制においては正当に評価されない、いくつかの種類の力を認められることも実証されてきたのである。それをまとめると、1.祭祀的能力(政治とは複雑な関係がある)、2.生と死の境にかかわる能力(産婆、死の見取り、死者への供養など)、3.女神の司るとされた領域の仕事の能力(上の引用に関して言えば植物収集、農業、糸紡ぎ、機織りなど。また他の例で言えば食物貯蔵、醸造、水や泉の管理、宿屋など。)、4.人間関係において他者の肉体的、精神的状態を左右する力(呪術的能力、弱者や年少者の保護、養育、性愛にまつわる力、近年関心が高まってきている「癒し」をもたらす能力など)といえよう。・
癒しに関して多少取り上げるが、女性が病を癒すことへの意味付けは、女神崇拝=母権制と男神崇拝=父権制ではきわだって異なっていたことが発見されてきた。「女性が癒しの技を自由に権限をもって行使することができたのは、その文化における支配的な神が、女性的、中性的、あるいは両性具有的であるような時代に限られていた。」・西欧がキリスト教化する過程で、主に女性が携わっていた呪術的癒しは、天なる神しかなしえない業を悪魔的手段で行おうとする、と否定的に位置付けられていったが、とくに15−17世紀に熱狂を見せた魔女狩りにおいて、産婆をふくめた女性ヒーラーたちは第一の標的とされた。これと対照的に、同じキリスト教でも民族的、土俗的要素を重んじ、マリア信仰に古来の女神信仰を色濃く引き継いでいる東方教会の東欧諸社会には、今日もなお閉経後の女達がほぼだれでも、魔術的な癒しの技を使えるようになるセルビア人社会の一地方のような例もある。ここは父系制、父方居住制、そして公的役割を男が独占するという意味での父権制の社会であるという・。にもかかわらず西欧では歴史的に弾圧されてきた種類の力の行使が女に認められているのである。この例からも、政治的、経済的な意味での父権制とは別の次元で、父権制/母権制の対比を考えなければならないことがわかる。
母権制で女性が行使する力が父権制(政治的・経済的、また一神教的男神崇拝の価値秩序の両者)で男性が行使する力と異質であることは、Bachofenをはじめ、母権制概念を用いる多くの論者が共通する主張である。たとえば「権力をふるい、他を従わせる家長patriarchの特徴とはあべこべのものを、家母長matriarchは体現する…家母長は責任をもって他の人達を保護する。年老いて風雪にさらされた家母長は、自分よりもさらに弱い者たちをかこい守る。」・というように。「多くのフェミニストたちは母権制を、(父権制とは)違った力として、また女性的な物事が価値を持ち、力が非所有的、非支配的で、自然と調和した有機的は仕方で用いられる領域として定義してきた。」といわれる。そのため、matriarchyのarchy(支配体制)の含意は意味したい現実とそぐわない、としばしば指摘されてもいる。ネオ・ぺイガニズムなどではmatriarchyにかえてmatristicを用いる人たちもいる。
ともあれ女神崇拝としての母権制では、Bachofenの考えた女性の力より限定されているとしても、女性は現実に特定の社会的な力を公認されていることが歴史的に明らかにされてきている。しかし具体的にその力がどの領域の、どのくらいの強さのものなのか。政治、経済的な力や社会的地位とクロスする場合にはどのような有効性を確保しうるのかについては、なお厳密に現象学的な研究が必要と考えられる。
女神崇拝としての母権制概念はこのように、宗教的価値と、上記四点のような特定の力を女性が行使しえるという社会秩序の、二つの側面をもっているものと捉えることができる。西欧はキリスト教化によってこれら二つともを歴史の途上で喪失している。それゆえ二つの復興が求められてきたのだが、復興の方向には非フェミニズム的な、宗教的価値の復権と、フェミニズム的な、政治、経済、社会的地位とは別の次元において西欧の女性たちに認められていない力の獲得と、そしてフェミニズムの流れひとつとしてこの二つの側面を現代的状況に適合的に復権させようとする、エコロジカル・フェミニズムがあるといえる。
ところで、これまでの叙述にやや反するようなことをこれから述べなくてはならない。それは、以上のような意味の母権制の概念は確かに用いられているものの、その当の論者にとっても使いやすい概念として好まれているようにはみえない、ということなのである。これはどういうことだろうか。
まず、ユダヤ教、キリスト教は父なる神を信仰するので父権的と呼んでまったく問題ないが、それが敵対してきた女神信仰は母なる神だけでなく、処女神、性的な存在としての女の神、老婆の神など女のライフサイクル上の姿に対応する多面的な神々に対するもので、「母」権という概念とはずれが小さくないからであろう。一方父以外の男性の多面的な姿を神格化した信仰は、一神教的ユダヤ・キリスト教が唯一神の絶対性を根拠に否定し、聖者崇拝のなかに限定してきたものである。
つぎに、女神崇拝は一神教への傾向が弱く、一神教的でない男神崇拝とも併存することが多い。そのためこれを母権制と呼ぶのはやはり無理が大きいからである。
そして女神崇拝の社会において現実の女性に公認されている特有の力も、「母の」力と特徴づけられる以上の、多様な力であり、その面でも母権制という語はふさわしくない。
論者たちは、おそらくこのような理由でユダヤ・キリスト教については父権的と呼ぶが、前ユダヤ・キリスト教については母権制と呼ぶより、端的に「女神崇拝」と称していることが多い。母権制概念が用いられるのは、女神崇拝のなかでもとくに太母神信仰が強い地域・時代についてであるようだ。
4 心理的現実としての女神崇拝
第四の流れとして、Bachofenを独自の仕方で受け継いだ、女神崇拝を重視する心理学者たちをあげることができる。彼(女)たちは女神崇拝を歴史的現実としてみることもあるが、どちらかというと心理的現実として理解し、現代人の精神性に直接に生かす方途を拓いているので、別の分類に便宜上分けたが、第三の流れと重なり合うところが実際は大きい。これはC.G.Jungに先鞭をつけられユング派のErich Neumannによって展開させられた流れと、精神分析の流れを汲んだErich Frommらがある。
Neumannは『グレート・マザー 無意識の女性像の現象学』のなかでこう述べている。「バッハオーフェンは、疑いもなく、母権Mutterrechtという法律的現象の発見から、女性の地位という社会的現象を誤って導いてしまった。しかし、この事にもかかわらず、彼が全体的な文化−心理的全体構造をいつも心にとめていて、決して社会的または法的関連に視野を限定しなかったことは重要である。まさに、文化状況とその人類の発達上の位置のこの全体性に対する見通しをもっていたからこそ、彼は 本人がわかっていたよりはるかによく 人間の発達とその象徴体系の心的段階を発見し、追及することができた。」「社会学的にはともかく、心理学的に理解する限り、彼の発見には不朽の価値がある。」・
NeumannはBachofenの議論を社会的次元と心理的次元に剥離して、後者のみをその議論の本質として救い出そうとした。彼は『意識の起源史』のなかでこう述べている。「ここでいう父権制とは、純粋にバッハオーフェン的な意味での、精神−太陽−意識−自我の世界の支配、すなわち男性性優位の文化世界である。これに対して母権制においては無意識が、そして前意識的・前論理的・前個性的な思考、感情のあり方が支配的である。」・彼のいう母権制、父権制は次のような、人類の意識の発達理論にもとづいている。
自我確立の最初の段階は、古代から世界中で見られる象徴であるウロボロス−自らの尾を飲み込んでいる蛇−で表される。一切の対立の現れる以前のカオスの状態であり、自我は無意識に埋没している。自我がそこからわずかに分離し始めると、世界は太母の姿をとってその前に顕現する。太母は自我にとって肯定的な豊穣性、養育、かかえこむ姿として現れることもあれば、無意識の中に引き戻す恐ろしい力をもった否定的な姿、貪り食い、破壊し、殺す姿としても現れ、両義性をもっている。太母が支配的な心理的世界を彼は母権制とよぶ。自我は次に、天と地、昼と夜などの分離に象徴される、意識と無意識の分離を経験する。そして人間の意識の発達段階はここに画期を迎え、神話の形も創世神話から英雄神話へとかわるのである。英雄は、無意識を表す太母である怪物や、文化的社会的規範を体現する父親である怪物を退治し、発達した段階の神話では、宝や囚われの女性を奪取するに至る。この段階をNeumannは父権制の幕開けであると定義する。かれが太母からは分離したアニマ像ととらえるこの女性は、原動力、変化の駆動力として自我に創造的変容をもたらす。彼は相対的に太母やアニマの働きの強い意識を母権的意識、無意識の支配力の弱い意識を父権的意識とも呼んでいる。
彼も心理的母権制に父権制がとってかわることは、人類史の中ではある程度普遍的であると考える。しかし、アジアのような、母権的基礎構造が強く残って父権制を相対化している発達も可能なことを知っていた。彼が近代西洋社会を危機意識をもって描いたように、意識と無意識が分離に止まらず分裂するにいたると、意識の硬直、全体性機能の喪失、情動の遮断、超個人的なものの無価値化、合理化の過大評価などが起こり、自我生活と文化は危険な状態に陥る・。Neumannは母権的世界観をこれに再び統合することが不可欠だと考え、それを個人の心理療法との類似で、「文化治療」としてとらえているのである。西洋の神話やおとぎ話は繰り返し、王子と王女の結婚というモチーフを語ってきたが、そのことにとどまらず、エジプトのウシル〔オシーリス〕神話が、母権的段階と、より後代の父権的段階のモチーフを対等のものとして統合しつつ体系化されてきたことを高く評価するように、母権制を抑圧、撲滅するのではなく保存し取り込んでいくことに、人類の精神の可能性を見出だしているのである・。
<BR><BR>ユング派には優秀な女性の研究者、分析家が多いのだが、女神崇拝を尊重しながら、文化全般の価値を問題にしたNeumannとはやや傾向を異にし、個人としての心理的成長のプロセスを、女神神話の解釈をもちいつつ探求する、ユンギアン・フェミニストと呼ばれる人達がいる。スピリチュアル・フェミニズムの古典となっている『女性の神秘』などを著わしたEster Hardingのほか、Marie−Louise von Franz、Poly Young Eisendrath、Marion Woodman、Sylvia Brinton Pereraらである。母権制概念の用法を見る前にここで女神崇拝がどのような意義を見いだされているのかを概観しよう。
彼女たちは女神を、Neumannと同様、男女共にもっている女性性と捉えることもあるが、女性の心理的経験や心理的成長のシンボルととらえる傾向がより強い。このようなシンボルは父権的キリスト教文化圏の女性たちには決定的にかけていたものである。そのためこの女性たちは、Pereraの言葉をかりるなら、「私たちには特種化され、矮小化された女神しか残されていない。そしてかつて女神がもっていた力のほとんどが女の生き方と繋がりを失ってしまった−からだで現された、陽気な、情熱的でエロース的な女性性、力強く、独立した、自分の意思をもった女性性、志があり、王者のような、多面的な、女性性が。」・このように女神というシンボルを欠いた文化では、女性が肯定的な発展性のあるジェンダー・アイデンティティーを抱きにくいのである。彼女らは女神のシンボルを積極的に取り上げ、歴史上の女神崇拝の経験に限定されずに創造的にこのシンボルを活用する。これが運動と結び付いたのが西欧諸国や北米で現代的に再生されている魔女集会や、女神崇拝のワークショップである。
フェミニスト神学のCarol Christは、女神というシンボルが女たちにとってもつ意味を、次の四点にまとめている。1.女神は女の慈悲深く独立した力の正統性を認める 2.女神は(月経、出産、子供やしに行く人へのケアといった)女性のからだとライフサイクルを肯定する 3.女神の礼拝は、女性後からとしてのエネルギーを現実に喚起し、女性の意思の力を強めるワークショップとなる 4.女神をシンボルとした女の伝統的な絆や遺産を再評価することができる このように、女神は前節で述べたような、女性が対人的、対社会的に発揮する力を肯定する文化的シンボルであるだけでなく、そのような力とは当然不可分のものだが、より内的、潜勢的な、いわば外部に発揮される力の源泉の文化的シンボルでもあるのだ。スピリチュアル・フェミニズムでよくいわれるpersonal power、spiritual powerとはそのような質の力であると思われる。その源泉とダイレクトにつながることは、人をしてより生き生きと、自己肯定的に、生命力を発揮することを可能にするのである。
さまざまな女神が力の源泉の異なった側面を表すシンボルとしてとりあげられる。そこでは、養育者、冥界の女王、愛と美の女神、炉の守り神などが注目されることが多いが、それだけでなく、男性的性格と考えられがちな競争者、知恵と工芸と策略などの女神を守護神としながら、女の政治的、社会的活動も含めた多彩な活動を支持しようとする立場もある。また、男女ともに心理学的両性具有性を、心理的成長の出発点と目標におく立場の人達もいる。
さて、母権制概念の使用についてであるが、例えばHardingは月の女神というシンボルを取り上げてこう語っている。「西欧父権社会では何世紀もの間、男たちは支配的で優勢でありたがり、一方女性は、依存と劣等の地位に追やられてきた。 月の母と神との関係は全く異なっている。彼女は性的愛の女神であるが、結婚の女神ではない。夫として彼女の行為を支配したり、あるいは彼女の性質を決定したりする男性神はない。そのかわり彼女は、自分が支配する息子の母である。彼は成長すると彼女の恋人となり、その後で死ぬが、再び息子として生まれるのである。月の女神は、父権制ではなく、母権制に属している。」「(20世紀の)女性が、彼女自身の本性のこの原理(月の女神のもつ創造性と破壊性)と正しい関係にさえあれば、女神は多産と魔力を彼女に授けるのである。」ここで彼女は母なる女神崇拝の意味で母権制といい、女性がこのシンボルから心理的力を引き出しうると述べているのだが、彼女は母権制概念を多用はしていないし、この箇所についても、母にして、処女、そして性愛の女神を母という格で代表させることはやや無理があると思われる。このように、女神達の特性は多様であり、母なる神の特性は重要ではあるが要素のひとつでしかない。そのためユンギアン・フェミニストたちも、とくにすべての生命を生み育て、すべての生命を奪う母神崇拝の心理をさす場合以外には、じつは母権制という概念は、あまり用いていないのが現実なのである。
Neumannと同様非フェミニスト的立場で、心理的現実としての母権制の今日的意義を評価した論者たちのひとりに、Erich Frommを見い出せる。彼はユダヤ教の伝統に前父権的要素が現代まで見え隠れしつつ伝えられていることを、幼時からの経験で感じ取っていた。彼も熱心にBachofenから現代人への精神的糧をくみ取り、1930年代から1970年に渉って繰り返し母権制の意義を論じている。ちなみに彼はBachofen同様、母権制にMutterrecht、mother rightの語を用い、archyという含意を避けている。
彼によると「母権制の原理はすべてを包括する原理であり、父権制システムが制限性の体系であるのと対比的である。…母権制は、普遍的な自由及び平等の原理の基礎であり、平和と愛の人間性との原理の基礎である。それはまた、物質的福祉と現世的幸福に対する周到な配慮の基礎でもある。」という。彼は母権制を、母親との心理的絆に基礎をもった心理構造や価値観として捉えている。彼はフロイト派精神分析を背景としているので、女神崇拝を問題にすることはなく親子関係で形成される心理構造に着目して、Bachofenを換骨奪胎しているのである。
Frommは、豊かな社会における世界的な若者の反乱の時期、1970年に、当時の社会心理学的変化が母権理論の再評価を求める情況だとし、その理由としていくつかをあげている。父権制的=権威主義的体制の機能不全、女性の解放、子どもと青年の革命(彼らが父性的権威に従わない主体となった)、消費者パラダイスという想像図(母の乳房からいつも乳があふれているのと同じように、物質的欲望がテクノロジーの力で充足されるため、現代人は情緒的には乳飲み子となる)、青年たちはあらゆる欲望を直接に充足しようとするなど、幼児的態度に退行している、等。彼の主張は、純粋に母権制的な社会は、個人の十分な発達を妨げ、純粋に父権制的な社会は、愛や同権化に関心を払わないため、両者がひとつに総合されることの希求であった。
5結論
母権制とは、実に多義的に用いられてきた概念であることがわかる。(しかしそれを言えば、父権制も同じくらい多義的なのであるが。)これまで概観してきた用法をここで振り返るなら、現在なお有効な母権制概念の用法としては何が残っているのだろうか。
第一の流れのなかで、あえてファンタジーと知りつつ、人を鼓舞するものして、Bachofenが述べたような母の統治の世界のヴィジョンをもつという姿勢は、批判すべきではないだろう。これに対して、近代よりはある限定された面において女性の地位が高かった社会を指す用語としては、母権制という語は語義が強すぎてふさわしくないと思う。
第二の流れはもはや過去のものとなった。むしろ、マルクス主義的な発想から解放された現在という時点は、母権制概念を考え直す好機だといえよう。
第三と第四の流れについては、全ユダヤ的、全キリスト教的女神崇拝の歴史的古層が発見され、心理的現実として現代人の精神生活に生かせると気付かれたことは、ひとかたならない意義をもつものである。しかし見てきたように、女神崇拝のうち母神崇拝は一部分であるし、女神崇拝は一神教的でない男神崇拝を排斥しないので、これを母権制と呼ぶのは無理が大きい。
見るべき用法はNeumannとFrommのものであるが、Neumannの説は西洋的自我の確立過程を前提としていると、とくに非西洋社会の研究者からは異論も唱えられている。彼の理論の定理である「意識は男性像で、無意識は女性像で表される」は、実は西洋文化で長い歴史を持つ性的二元論のシンボリズムに裏打ちされている。そして性的二元論とは、切断の原理を前提としている。日本などでは二元論の発想が弱く、意識と無意識の区別が曖昧であるので、彼の母権的意識という概念は日本人の心理などには適用しにくいというのである。詮ずるに、母権制という概念は、そもそも一神教的男神崇拝のキリスト教社会で、父権制の対概念として立てられたものであり、その来歴を大きく負っていて使用を制限しているといえる。一神教的父神教のアンチになるような一神教的母神教などはないのにこの語はそれを指そうとするほか、父神教的な二元論の発想を背後にもっており、非西洋文化の分析にはなじまないことも多い。
Frommの用法は、親子関係で形成される心理構造に着目しており、比較的通文化的に適用可能だと思われる。
<謝辞>この小論は、平成9年度江戸川大学の共同研究費の助成を受けて書かれたものである。共同研究者である小笠原祐子氏から日頃の議論を通じ、多くを啓発された。江戸川大学ならびに小笠原氏に感謝申し上げます。
注
(1)平山(1997)
(2)青木やよひと河合隼雄がこの概念をめぐって対談「母性社会の母性と父性」を行ったことがある。(河合 (1989))日本社会の「家父長制イデオロギー」を青木が指摘すると、河合は「僕のはイデオロギーではなくて、サイコロジーなんです」と、言及している現象の層が違うことを示す。そして互いに日本社会を「男性社会」だ、「母性社会」だ、と論議を戦わせながら、概念をより厳密に規定しなければならないと共通に認識している。
(3)上野(1986)
(4)Adler(1979)を参考にしているが、分類の仕方は同じではない。
(5)臼井編(1992)
(6)臼井(1992)
(7)市川(1993)
(8)上山(1993)
(9)(10)Daly(1973)
(11)Schmoelzer(1986)
(12)上山(1993)、Stone(1976)、Schmoelzer(1986)
(13)Achterberg(1990)
(14)Halpern(1989)
(15)Demetrakopoulos(1983)、訳85頁
(16)Neumann(1955)、訳108頁以下、42頁
(17)Neumann(1971)、訳243頁
(18)Neumann(1971)、第二部C
(19)林(1985)
(20)Perera(1981)、p19
(21)Christ(1979)
(22)Bolen(1984)
(24)Harding(1971)、訳134頁、149頁
(25)Fromm(1970)訳244、245頁
(26)Fromm(1970)訳245〜249頁
(27) 河合隼雄は日本の昔話を分析し、西洋の昔話とちがって男女の幸福な結婚という結末がほとんどなく、女の英雄が活躍し、老人がたびたび登場し、すべてを相対化する「無」の顕現の力が大きいことなど興味深い多くの発見をしている。そして「日本人の意識は女性像であらわされる」と総括し、ノイマンの母権的意識と類似するが異なる面もそなえた「女性の意識」という概念を、男女を問わず日本人の意識のあり方をよくあらわすものとして生みだしている。(河合( 1982))「女性の意識」は無意識とつながりが強く、自然のリズムや時や運命を受け入れるが、一方で能動的な積極性や行動力もあわせもっていて能動/受動などの二分法でわりきれない性格をもつ。このような意識にとっては、太母の肯定面と否定面も、日本の山姥が一般にそういう像であるように分離されず、否定的太母との深刻な葛藤もなければ、これを殺害しようと強い動機をもつことも少ない。今後の詳しい研究に期待したいが、一神教的男神崇拝でない社会では、このような意識のあり方は広く共有されている可能性もある。
参考文献
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