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Grail, Holy(聖杯)

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 キリスト教の神話によると、聖杯はキリストが最後の晩餐に使った杯であり、そのときキリストは、「わたしの契約の血である」(『マタイによる福音書』 26: 28)と言いながら、その杯にブドウ酒をついで十二使徒に飲ませた。キリストが磔の刑に処せられたのち、アリマタヤのヨセフは、その杯をイングランドへ運んでグラストンベリーの聖所に祀ったが、やがてこの杯はそこから姿を消してしまった。

 ヨーロッパ人がこのキリスト教の神話を耳にしたのは、 12世紀以降のことだった。聖杯は、実は、キリスト教の産物ではなく、本来は異教の産物だったのであり、スペインにおけるムーア人の聖なる伝承を通じて、キリスト教に導入されたのだった[1]。血で満たされたこの器(聖杯)は、それと同類であるあのケルトの聖なる「再生の大なべ」と同じように、子宮のシンボルとされ、霊魂が別の肉体に宿って再来するという、古代オリエントやグノーシス派において信奉された再生を意味していた。聖杯には、男性的な意味ではなく、女性的な意味が込められていたのである。

 聖杯は壮麗な神殿に保管されていて、その神殿は、聖娼の古代の称号ルパンス・ド・ジョワ(I「喜びを分け与える者」)と同名の女王が支配していた。吟唱詩人たちの言葉によると、女王の夫はムーア人で、女王の息子ジョンは、東方テンプル騎士団、すなわち、聖杯の神殿と女性守護とに身を俸げた戦士の集団の創設者だった。貴婦人に助けが必要になると、ギャラハツッド、パーシヴァル、ローエングリンといった聖杯の騎士たちは、聖杯の縁に浮かび出る炎の文字で命令を受け、馬を駆って救助に向かった。

 スペインに住んでいたムーア人たちの伝承によれば、聖杯の神殿はスペイン領ピレネ一山脈の「救済の山」 Montsalvatchにあった[2]。神殿は宇宙をかたどっており、神殿の頂には、世界の母なる心臓にあたる「神聖なバラ」を表した巨大なルビーがはめ込まれていた。この擬似宇宙ともいえる神殿の内部には、神殿自体のミニチュアまでがあり、その中に聖杯が収められていた。

「神殿の建物は直径が100尋あり、その周囲には72を数える八角形の礼拝堂があった。礼拝堂は2つずつが1組になっていて、それぞれの組には高さ6階の塔が1つずつついており、塔の中へは外側に取りつけられた螺旋階段から入れるようになっていた。……神殿の丸天井は青いサファイアで造られ、その中心にはエメラルドの板がはめ込まれていた。……祭壇の石はすべてサファイアでできていた。……神殿の屋根にそびえている頂塔の内側には、太陽とが数多くのダイヤモンドとトパーズで表されており、夜の闇の中でもまるで真昼のような光を放っていた。窓は水晶や緑柱石やそのほかの透明な石でできていた。床には半透明の水晶が張られ、その下にはいろいろな海の魚が、縞瑪瑙を使ってまるで生きているかのように彫られていた。塔はすべて金をちりばめた宝石で造られており、屋根には金と青い琺瑯が使われていた。それぞれの塔の頂には水晶の十字架があり、十字架の上には、賞金製の1羽のワシが両翼を広げていた。このワシは遠くから見ると実際に飛んでいるようだった。主第の頂には大きなざくろ石(カーバンクル)が取りつけられていたが、この宝石は、星と同じように、夜でもテンプル騎士団の騎士たちに神殿のありかを知らせるのに役立った。神殿の中央の丸天井の直下には、神殿全体を模したミニチュアがあり、このミニチュアの中に聖なる杯が保管されていた[3]

 アラビアの宗教的結社ハシシム(point.gifAladdin)の場合と同じく、伝説上のテンプル騎士団の騎士たちも、イスラム教徒の救世主マーディに匹敵する「待望の騎士」が、世界を暴虐の圧政から救い出し、聖杯の慈愛に満ちた統治を確立してくれるのを待っていた。さもなければ、世界は「荒地」Waste Landに化してしまうという不吉な予言がもう一方にあったからである。「荒地」は、アラビア砂漠のあの不毛の荒野が原型になっており、東方の賢者たちの中には、砂漠が生じたのは太女神の不在が原因であると見る者もいた。

 聖杯の神殿は、王妃グィネヴィアが愛人と一緒に身を隠したジョイアス・ガルドの城と同じく、モンジョワ(「喜びの山」)と呼ばれることがあった。モンジョワは、山岳聖所であると同時に比喩的には女性の生殖器を指したモンス・ヴェネリス(すなわち、ウェーヌスベルク)と同じだった。モンジョワという語の持つこの性的な象徴性は、性を抑圧したキリスト教会に対する異端者たちの反乱を結集するのに役立った。ウィリアム・カール(またはケイル)と自称した14世紀の農民指導者は、戦いの喊声に「モンジョワ」を使い、旗印には、女神の昔からの表象である「3弁のユリ」を採用した[4]。聖杯の城の近くで戦死したとされている伝説上のローランの戦士たちも、やはり「モンジョワ」という喊声を使った[5]。更に古い時代の神話によれば、聖杯の王が戦闘で用いた喊声はアモール(愛)だったという[6]

 聖杯が初めてキリストの最後の晩餐の杯に変えられたのは、プルゴーニュの詩人ロベール・ド・ボロンの著作『アリマタヤのヨセフ』においてであり、 1180年から1199年にかけてのことだった。しかし、この神秘の器の起源についてのド・ボロンの説は、やはり信用するに足るものではなかった。彼によると、聖杯はもともとはサタンの冠にはめ込まれていた宝石だったという。サタンがまだ天界の住人だった頃、 6万人の天使たちがその冠をサタンに贈った。サタンが地獄に落とされたとき、その宝石は冠からはずれて地上に落ち、発見されて杯が作られた[7]。アリマタヤのヨセフがその杯を手に入れ、十二使徒との最後の晩餐に使うようにとキリストに献呈した。この杯は破滅の杯であり、イエスは心弱くなったとき神に向かつて次のように祈った。「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせて下さい」 (『マタイによる福音書』 26: 39)。

 ド・ボロンによると、ヨセフはユダヤ人によって監禁され、太陰暦の1年と1日(すなわち、太陽暦の1年で365日)の間、食べ物も飲み物も与えられずに地下の土牢に放置された。しかし彼は、聖杯を所持していたおかげで生き長らえ、しかも元気だった。ヨセフはローマ皇帝ウェスパシアヌスによって釈放された。皇帝は、聖ヴェロニカがイエスの顔の汗を拭ったヴェールのおかげで癩病が治り、キリスト教に改宗していたのだった。その後、ヨセフは巡礼者の一団とともにイングランドに渡り、グラストンベリーに聖杯の神殿を建て、聖なる晩餐の儀式に用いる「円卓」を備えつけた。彼に従った者の中に聖杯保管者となったブロンがいたとされているが、しかし、このブロンなる人物は、ウェールズの聖なる大なべの神「福者」ブランの神話からじかに盗用されたものだった。このいろいろな要素が混じり合ったチャウダー風スープとも言える幻想に反ユダヤ的宣伝の風味を添えるため、ド・ボロンは、円卓で空席になっていた「危険な座」はユダの席であると主張した。別のユダヤ人モイセス(モーセ)は僭越にもこの「危険な座」に座ったが、彼は高慢のかどで大地に呑みこまれてしまった[8]

 1230年頃、更に雑然とした内容を持つ『翌杯之巻』が現れた(この物語は、古代フランス語で書かれた5つの散文物語から成る「流布本物語群」の中の1篇だった)。『聖杯之巻』の著者は、その書物がキリスト自身の亡霊によって、西暦717年の聖金曜日にシトー会の1修道士に与えられたという体裁をとっていた。この作品では、聖杯はずばりその古い名称である「大なぺ」 escueleの名で呼ばれていた。霊杯を信奉する一団は、モルドランとナシャン(「死と誕生」)が支配する町サラスに入植した。モイス(モーセ)は炎の手で、「危険な座」からつかみ出された。ソロモンの船は、誰の力も借りずに独力で海上を航行し、キリスト教を各地に広めた。聖杯の集団の構成員たちは、さまざまな冒険を経験した。ブロンはスコットランドに出かげて、トリスタンと同じように毒を塗られた刃で負傷した。彼は、その国の王女の介抱で傷が癒えると、王女の父を殺して彼女と結婚した。「猟犬」の異名を持つアランは外国へ出かけ、聖杯のために新しい城を築いた。その城の名はコルベニック城だった(ちなみに、 corsbenoizは「豊饒の」または「聖心」の意である)。 7代目の聖杯保管者ランボールは、ソロモンの船から持ち出された魔法の剣で、サラセン人に殺害された。聖杯を失ったその国は、「荒地」la terre gasteと化してしまった[9]

 聖杯が、異教のシンボルからキリスト教のシンボルへという変貌の最終段階を迎えたのは、シトー会修道士によって書かれた『聖杯の探究』が出現したときのことだった。この書物の中で、ギャラハッドは、アリマタヤのヨセフの血統を引く完璧な「待望の騎士」と言われることになった。ギャラハッドは何事もなく無事に「危険な座」に収まったのであり、それは、彼が童貞を失わない純潔な身であったからである。彼は川に浮かぶ石から魔法の剣を引き抜いたが、これもやはり、彼が純潔の身であったからだった。ギャラハッドを通して聖杯の姿(ヴィジョン)が円卓の騎士たちに伝えられた。騎士たちは、ただちに競技や宴会や馬上試合(すなわち、彼らが身につけていた異教的傾向)から離れ、世界の果てまでも聖杯の幻を追いかけ、本物の聖杯を探求した。

 『探求』には、当時の宮廷風恋愛礼賛に対する反感が明瞭に示されていた。しかし、霊杯からそれにまつわる女性的な神秘の香気を取り去ってしまったとき、聖杯が持っていたロマンチックな魅力の方も薄れてしまった。聖杯がただ単にキリストの血を入れた杯にすぎないならば、あれほど大がかりな探求を行う理由は何もなかったのである。キリストの血を入れる杯ならば、礼拝堂(チャペル)と名のつく所へ行きさえすれば、誰にでもすぐに入手できたのであり、それが聖なる秘跡と呼ばれていても、発見に胸が高鳴るということはなかった[10]。結局のところ、聖杯をキリスト教に取り入れたことは、聖杯の秘められた本質に備わっていた魅力を消し去ってしまうことにほかならなかった。

 修道士だった『探求』の著者の真の意図は、純潔の美徳を大いにたたえることにあった。円卓の騎士たちは、 1人を除いて他のすべてが、何らかの性的な罪を犯していたという理由で聖杯の探求に失敗した。パーシヴァルは、過去において宮廷風恋愛礼賛に加担していたために失格だった。ガーウェインは、他のいくつかの物語では「待望の騎士」の役割を担ってはいたものの、この書物では全然問題にならなかった。ランスロットは、王妃グィネヴィアとの姦通の罪により、夢の中でしか聖杯を見ることができなかった。純潔な騎士はただ1人、ランスロットの生まれ変わりで、しかも1点の穢れもない、ギャラハッドだけだった。ギャラハッドは、その純潔さのゆえにキリスト教の宝物すべてに巡りあうことができたのであり、その中には、シトー会修道院の1つに保管されていたアリマタヤのヨセフの盾も含まれていた。その盾には白地に赤の十字架が描かれており、これは、イスラム教アッサシン派秘密結社の赤と白のエンプレムが表していた「純潔と血の色」と同じだった。この紋章は、まず十字軍によって模倣され、のちに「パラ十字の騎士」、あるいは、「パラ十字会会員」と自称した神秘主義者たちによって借用された[11]

 聖杯は、他から孤立している地域にあっては、その異教的伝統をひそかに維持し続けた。イングランドの聖杯物語では、聖杯のアイルランド版である「豊饒の」が手本になっていた。この「」は「精霊の器」と名づけられ、飲料用の血(すなわち、ブドウ酒)が入っていた。ドイツのブランシュワイクでは、 「聖杯」という名の祭りが、1481年に禁止されるまで、 7年ごとに祝われていた[12]


[1]Guerber, L. M. A., 182-83.
[2]Guerber, L. M. A., 185, 200.
[3]Guerber, L. M. A., 186-87.
[4]Tuchman, 177.
[5]Goodrich, 81.
[6]Campbell, M. T. L. B., 163.
[7]Guerber, L. M. A., 182-83.
[8]Campbell, C. M., 534.
[9]Campbell, C. M., 535.
[10]Campbell, C. M., 550, 507.
[11]MacKenzie, 117.
[12]Jung & von Franz, 115, 121.

Barbara G. Walker : The Woman's Encyclopedia of Myths and Secrets (Harper & Row, 1983)


[画像出典]
The Damsel of the Sanct Grael or Holy Grail(1874年)
Dante Gabriel Rossetti (1828-1882)
Arthurian and Grail Poetryを参照せよ。