第2巻・第3章
第4章[1] かくのごとくにして、テラメネスは刑死した。「三十人」は、もはや恐れることなく僭主支配できるようになったので、名簿に外れた者たちに市域に立ち入ることを禁じ、領土から追い払い、かくて、自分たちと友たちが彼らの農地を取得した。さらに、ペイライエウスに逃れた人たちのうち、多くをそこからも追い払ったので、メガラも テバイも落ち延びた人たちに満ち満ちた。 [2] しかし、間もなく、トラシュブウロスは、およそ70人の者たちといっしょにテバイから進発し、 ピュレの堅固な砦を占拠した。対して「三十人」は、市域から「三千人」および騎兵隊とともに、救援に赴いた。とびきりの上天気であった。彼らは到着するや、若者たちの中の向こう見ずな連中が何人か、すぐに砦に攻撃を仕掛けたが、何ら得るところなく、傷を負って退却した。 [3] そこで、「三十人」は遮断壁を築き、彼らを攻囲して、必需品の輸入路を遮断したいと思ったが、夜の間に大雪が降り、次の日も降り続いた。そのため、彼らは雪の中を市域へと引き下がったが、ピュレからの者たちによって輜重隊のほとんどを失った。 [4] こうして、何らかの守備ができないかぎりは、〔敵は〕農地からでも掠奪できると彼らは判断して、ピュレから15スタディオンだけ離れた最前線に、わずかな人数を除いたラコニケの守備隊と、騎兵隊の2部族とを分遣した。この者たちは低木地帯に布陣して守りについた。 [5] 対して、トラシュブウロスは、およそ700人がすでにピュレに集結していたので、これを引き連れて夜陰に乗じて攻め下ってきた。そして、守備隊から3ないし4スタディオンだけ離れた地点に武器を置いて静かにした。 [6] やがて夜が明け、起床してそれぞれが所要の場へとすっかり武器から離れ、馬丁たちも馬をこするために大騒ぎしている、まさにこの時、トラシュブウロスの一味は武器を取って駆け足で襲いかかった。そして相手の何人かを打ち倒した者たちもいるが、全軍を背走させ、6ないし7スタディオンも追撃し、重装歩兵隊はその120人以上を殺害、騎兵隊は、美男と称された ニコストラトスと、他にも2名を、まだ寝床の中にいたところをひっとらえた。 [7] そして引き返すと勝利牌を立て、取得したかぎりの武器および具足を荷ごしらえして、ピュレへと引き上げた。かくて、市域から騎兵隊が救援に駆けつけたが、敵の姿はもはや一人も見あたらず、親類縁者が屍体を回収するのを待って、市域へと引き返した。 [8] こういう次第で、「三十人」は、もはや自分たちの政権は安泰ではないと確信して、 エレウシスを我がものにして、必要とあらば自分たちの避難所にしようと望んだ。そこで、騎兵隊に下知して、 クリティアスその他の「三十人」は、エレウシスに進攻した。そして、騎兵隊の前で点呼閲兵を行い、どれだけの人数いるのか、また、どれだけの守備兵を追加徴兵できるのかを知りたいと称して、全員を登録するよう命じた。そして、登録がすんだ者ごとに、裏門から海の方へ行くように、と〔命じた〕。海岸には騎兵隊が両側を固めていて、出てきた者ごとに従士たちが捕縛した。こうして全員が捕まえられると、騎兵隊指揮官 リュシマコスに命じて、彼らを連行して「十一人」に引き渡させた。 [9] 次の日、名簿登録されている重装歩兵たち、および、その他の騎兵たちを オデイオンに召集した。そしてクリティアスが立って発言した。 「われわれが」と彼は言った、「おお、諸君、この国制をこしらえあげんとするは、われわれのためというよりは、むしろあ諸君のためなのである。それゆえ、諸君のなすべきは、名誉に与るのとまったく同様に、危難にも与ることである。それゆえ、この捕縛されたエレウシス人たちに有罪票決が下されねばならない。諸君がわれわれと同じことで大胆ともなり恐怖もするためである」と。そして、彼は所定の場所を示して、そこにはっきり見えるように票を投ずることを命じた。 [10] 他方、ラコニケの守備隊は完全武装して オデイオンの半分を占めていた。だが、市民たちの中でも、より多くを取得することにばかり気をとられている連中にとっては、事態は満足すべきものであったのだ。 その後、トラシュブウロスはピュレからの人たち――すでに1000人ばかりも結集していた――を率いて、夜陰に乗じてペイライエウスに到着した。これを察知するや、「三十人」はすぐにラコニケ人たち、ならびに、騎兵隊および重装歩兵隊とともに救援に駆けつけた。そうしてペイライエウスに通じる輸送路に沿って前進した。 [11] 対して、ピュレからの人たちは、初めは彼らを進入させまいとしたが、囲壁が大きすぎて、多くの守備兵を必要とするにもかかわらず、まだ〔自分たちの〕人数が多くないと思われたので、 ムウニキア方面に集結した。対して、市域からの者たちは、 ヒッポダモス市場に進撃し、ここで最初の戦闘配置についた。ために、ムウニキアのアルテミス神殿と ベンディス神殿に通じる道を充満した。じつにその縦深は楯50層を下らなかった。かくのごとき戦闘配置で攻め上ってきたのである。 [12] 対して、ピュレからの人たちも迎撃態勢をとって道を充満したが、縦深は重装歩兵10層以上にはならなかった。しかしながら、彼らの後衛には軽楯兵(pelto-phoros)と裸兵の投槍兵(psilos akontistes)が、さらにその後衛には投石兵(petro-bolos)が配置されていた。しかもその数はおびただしかった。地元から参集したからである。 さて、相手方が前進してきたとき、トラシュブウロスは自分の同志たちに楯を置くよう命じ、みずからも置いたうえで、しかしその他の武器は持ったまま、真ん中に突っ起って言った。 [13] 「市民諸君、あなたがたのある人たちには教示し、ある人たちには想起させたい。――進撃してくる者たちのうち、右翼を固めている連中は、これを今を去る5日前に、あなたがたは背走させて追撃したのであり、最左翼を固めている連中、――やつら「三十人」こそは、何ら不正していないわれわれから国家までも奪い、家からも追い出し、われわれのものの中で最も愛すべき人たちを排斥したやつらである。しかし、今や、やつらが想ってもみたことのない、しかしわれわれがいつも祈念してきた事態に立ちいたっているのだ。 [14] すなわち、武器を執って断固としてやつらに対峙しているのはわれわれなのである。また神々も、かつてわれわれが食事中や睡眠中や、はたまた商いの最中に逮捕され、またある者たちは、不正していないのはもちろん、内地にさえいなかったにもかかわらず、亡命の憂き目にあったのだが、今は公然とわれわれの同盟者となってくださっておる。というのも、好天を嵐に変えてくださったのは、われわれを益するためであり、われわれが攻撃するときも、相手は多かったにもかかわらず、寡勢のわれわれに勝利牌を立てる恵みを与えてくださったからである。 [15] 今も、われわれをこのような地の利に導いてくださった。ここでは、やつらは斜面を登るために、前列の者たちの肩越しに〔槍を〕突き出すことも、投げることもできないのに、われわれの方は、長柄でも投槍でも飛礫でも、麓に向けて放つのだから連中に届かせ、多くに重傷を負わせることができよう。 [16] とはいえ、少なくとも最前列の者とは互角に闘わなければならない、と思っている者がいるかもしれない。だがじっさいは、あなたがたは、務めとして本気になって飛び道具を放ちさえすれば、道を満たしている誰かに当たらないはずはなく、相手は防戦一方で楯の陰に終始逃げまどうことになるのである。その結果、われわれはあたかも盲人を相手にするように、望むところで撃ち倒すこともでき、飛びかかってひっくり返すこともできるのである。 [17] いざ、おお、諸君、勝利の一番の原因はわれにありと、各人が自覚できるほどまでの働きを示さねばならぬ。なぜなら、神のおぼしめしならば、勝利によってのみ今まさにわれわれに返してもらえるはずだからである。――祖国をも、家族をも、自由をも、名誉をも、子どもたちをも。――〔今は〕やつらのものになっているのだが――妻女までもが。おお、浄福なるかな、われわれの中で、勝利に与るばかりか、何にもまして最も喜ばしい日を迎える余得に与る人たちは。とはいえ、戦死したとしてもなお幸福である。なぜなら、富裕であったとしても、これほど美しい記念を手にできる人はいないのだから。それでは、吶喊歌を唱える好機とみれば、そのときこそわたしは鬨の声を挙げよう。われら、 エニュアリオス〔軍神アレスの呼称の一つ〕の名を呼ばわるとき、その時こそみな心を一にして、凌辱されてきたことの報復をやつらに果たそう」。 [18] こう言うと、彼は相手方の方に向き直って、静かにした。というのも、占者が彼らに告げて、自分たちの中の誰かが斃れるなり、負傷するなりしないうちは、先に攻撃を仕掛けてはならないと言っていたからである。「しかし、それが起こったなら、主導権を握るのは」と彼は言った、「われわれの方であり、勝利は〔わたしに〕続くあなたがたのものとなろうが、しかしわたしには死が〔見舞うであろう〕、そうわたしには思われる」と。 [19] じっさい、彼の言ったことは嘘ではなく、武器を執るや、みずからは、何か運命に導かれるようにまっさき駆けて突撃し、敵たちに襲いかかって戦死し、 ケピソス河(1)の渡し場に埋葬されたのである。そして、その他の者たちは勝利し、平野地まで追撃した。この戦いで死んだのは、「三十人」の中では クリティアスとヒッポマコス、ペイライエウスの10執政官の中では グラウコンの子 カルミデス、その他の中では約70名であった。しかし、〔勝利した側は〕武器は取得したが、市民たちの誰の着物も剥ぎ取ることはしなかった。さて、それもすみ、休戦の申し入れによって屍体を引き渡しているとき、多くの者たちが相互に接触して対話した。 [20] この時、秘祭の伝令官(kerux) クレオクリトスが、――非常によい声の持ち主であったが――、静粛を命じて言った。 「市民諸君、あなたがたはなぜわれわれを追い出そうとするのか? なぜ殺したいのか? われわれはあなたがたに何ら悪いことをしたことはなく、あなたがたといっしょに、厳粛きわまりない神事にも供儀にも、最美な祭礼にも参加してきたし、踊り仲間、通学仲間となり、戦士仲間ともなり、あなたがたといっしょに多くの危険を冒してきた。陸上でも海上でも、われわれ両派共通の救いと自由のためにである。 [21] 父系・母系の神々と、同族と姻戚と同志とにかけて――これらすべてをわれわれの多くは共有しているのだから――、神々にも人間たちにも羞恥を感じて、祖国に対して過ちを犯すことをやめ、不敬きわまりない「三十人」に聴従してはならぬ。やつらは個人的な利得のために、すんでのところで、ペロポンネソス人たち全員が10年間の戦争の間に〔殺した〕よりも多い数のアテナイ人を、8ケ月の間に殺害したのだから。 [22] われわれは平和裡に市民生活できるのに、連中は何にもまして最醜、困難きわまりない、不敬きわまりない、神々にも人間たちにも最も憎まれる戦争をわれわれ相互にもたらしたのだ。とにかく、よく知ってもらいたい――今、われわれの手にかかって戦死した人たちのために〔泣くのは〕あなたたちばかりではなく、われわれもまた多くの涙を流したのだということを」。 彼はそういったことを言った。だが、生き残った支配者たちは、自分たちの配下の者たちがそういったことに耳を傾けだしたので、市域へと引きもどした。 [23] 次の日、「三十人」はすっかり意気阻喪・孤立無援となって、公廷(synedrion)で合議をもった。他方、「三千人」の方は、それぞれが配置された場、至る所で相互に仲違いを始めた。なぜなら、何らか、より暴虐なことをしてきて、それゆえ恐れをなしているかぎりの連中は、ペイライエウスの人たちに譲歩すべからずと懸命に言う。対して、何ら不正したことがないと自信のあるかぎりの者は、それほどの害悪を被ることはないと勝手に推測し、また他の者たちにも教え、「三十人」に聴従すべきではなく、まして国家を破滅させるがままにしてはならないと主張した。そして結局は、彼ら〔「三十人」〕を罷免し、他の者たちを選ぶことを決議した。そして部族あて一人、計10名を選んだ。 [24] そこで、「三十人」はエレウシスに撤退した〔BC 403〕。他方、10人は、騎兵指揮官たちといっしょになって、市域の人たち――ひどい混乱情態と相互不信に陥った人々――の管理にあたった。また騎兵隊も、馬と楯とを携行したまま、オデイオンに寝泊まりしたが、不信感のあまりに、晩は楯を持って城壁沿いに、暁には馬を伴って巡回していた。ペイライエウスからの人たちが、誰か彼らに襲いかかるのではないかと常時恐れていたからである。 [25] しかし相手方は、すでに多人数となり、種々雑多な人たちであったが、大楯――ある者たちは木製の、ある者たちは柳づくりの――を作り、それを白く塗っていた。しかし10日もたたぬうちに、誰でも戦争に参加した者は、外国人であっても、平等権(isoteleia)を得るとの確約を与えていたので、多くの重装歩兵と多くの軽装兵(gymnetes)とが出撃した。彼らには70騎ばかりの騎兵隊までできていた。そして糧秣をあさって、材木や作物を略取し、再びペイライエウスにもどって宿泊するを常とした。 [26] 市域からの者たちのうち、他には誰も武器を執って出撃しようとする者はいなかったが、騎兵隊は、ペイライエウスからの者たちからなる略奪部隊を手に掛けたり、相手方の密集隊に仇を成したりしたことがある。さらにまた、 アイクソネ区民が、自分たちの農地に必需品を取りに行こうとしているのに遭遇したことがある。騎兵隊指揮官のリュシマコスは、彼らの喉をかき切った。あれこれ哀願しているにもかかわらず、また多くの騎兵たちも苦々しく思っているにもかかわらずである。 [27] 対して、ペイライエウスの人たちも、騎兵隊の カリストラトス(1)―― レオンティス部族の――を、その農場で捕らえて殺し返した。というのも、彼らはすでに尊大になっていたあまりに、市域の城壁にさえ攻撃を仕掛けていたのである。また次のことも、市内の兵器製作者について述べるべきなら〔言及するのがふさわしいであろう〕。彼は〔敵が〕リュケイオンからの輸送路に沿って兵器を運び上げようとしているのを知って、荷車隊全隊に、荷積みするほどの巨石を運び、それぞれ輸送路の好きなところに投げるよう命じた。じっさいそのとおりになされたので、石の一つひとつが多大な難儀を〔敵に〕与えたのである。 [28] さて、エレウシスにあった「三十人」は、使節団をラケダイモンに派遣し、市域にあった〔三千人〕登録者たちもそうして、民衆がラケダイモン人たちから離反しようとしているからといって、救援を頼んだので、リュサンドロスは、必需品を遮断すれば、ペイライエウスにいる者たちを陸上・海上両方からすぐにでも攻めつぶせる心づもりで、彼らに100タラントンを貸し付け、自分は陸上総督として、弟の リビュスを艦隊指揮官として、派遣するよう助力した。 [29] そして自分はエレウシスに出陣し、多くのペロポンネソスの重装歩兵を召集しようとした。他方、艦隊指揮官の方は海上にあって、彼らに必需品の輸入ができないよう守備した。このため、たちまちにしてペイライエウスの人たちは再び困窮し、対して市域の人たちは、リュサンドロスを頼みとして再び尊大になった。かかる状況下、王のパウサニアスが、リュサンドロスに嫉妬して進攻してきた。彼は、〔リュサンドロスが〕事を成就すれば、勇名をはせるばかりか、アテナイを私物化するといって、監督官たちの3人を説得して守備隊を率いて出陣してきたのである。 [30] 同盟者たちもみな従軍したが、ボイオティア人たちとコリントス人たちは別であった。この人たちは、アテナイ人たちが何ら条約違反していないのに、これを征討するのは誓約にかなっているとは信じられないと言った。が、彼らがこのような挙に出たのは、ラケダイモン人たちがアテナイ人たちの領土を占有・確保しておきたがっているものと判断したからである。 さて、パウサニアスは、ペイライエウスに向かう ハリペドンと呼ばれる地に陣を布いて右翼を受け持ち、リュサンドロスは傭兵たちとともに左翼を受け持った。 [31] かくて、パウサニアスは使節団をペイライエウスの人たちのもとへ派遣して、自分たちの家へ退散するよう命じた。彼らが聞き入れなかったので、鬨の声だけは一応それらしく張り上げて攻撃を仕掛け、自分が彼らに好意的であることが明らかにならないようにした。そして、その攻撃によっては何ら得るところなく引き上げた後、次の日、ラケダイモン人たちの中から2軍団、アテナイ人たちの騎兵隊からは3部族を引き連れて、コポス〔清閑〕港(Kophos Limen)方面に進撃し、ペイライエウスのどの地点が最も遮断壁を築きやすいか偵察した。 [32] ところが、彼が接近したところ、何人かの者が攻撃してきて、彼に被害を与えたので、腹を立てて、騎兵隊には馬を駆って連中に向かって突撃するように、また、兵役10年層の将兵には後続するように命じた。そして、自分はその他の者たちといっしょに殿をつとめた。こうして裸兵の30人近くを殺害し、さらにその他の敵勢をペイライエウスの劇場まで追撃した。 [33] しかし、そこでは軽楯兵の全員と、ペイライエウスからの人たちの重装歩兵たちとが、たまたま完全武装していた。そして、裸兵たちがすぐさま走り出てきて槍を投げ、突き出し、矢を射かけ、投石具攻撃した。そのため、ラケダイモン人たちは、その多くが重傷を負ったので、大いに押しまくられて歩一歩と後退した。この時、相手方はなおいっそう激しく攻め立てた。この小競り合いで死んだのは、今度は カイロンと ティブラコス――両名ともに軍令官(polemarchos)であった――、オリュムピア競技の勝者 ラクラテス、他にも、ラケダイモン人たちのうち〔現在〕 ケラメイコス区の城門の前に埋葬されている人たちであった。 [34] さて、これを見たトラシュブウロスその他の重装歩兵たちは、救援に駆けつけ、すぐさま他の兵士たちの前に8層の攻撃態勢をとった。対してパウサニアスは、〔自軍が〕激しく押しまくられて、小高い丘まで4ないし5スタディオンほども後退したので、ラケダイモン人たちとその他の同盟者たちとに、自分のところまで退却するよう下知した。そうして、そこで完全に縦深の深い密集隊の隊列を組み、アテナイ勢に立ち向かわせた。相手方も白兵戦を受けて立ったが、ある者たちは ハライ区の湿地に押し出され、ある者たちは突き崩された。かくして彼らのおよそ150人が戦死した。 [35] そこで、パウサニアスは勝利牌を立てて引き上げた。それでも、彼らに腹を立てることはせず、ひそかに使いを送って、自分とそこにいる監督官たちとにどう言って使節団を送ったらいいか、ペイライエウスの人たちに教えてやったのである。彼らは聴従した。その一方で、〔パウサニアスは〕市域の者たちにも、仲間割れをさせたうえで、できるかぎり多くの者が寄り集まって、自分たちのもとへ出向いて来て次のように言うよう命じた。――自分たちはペイライエウスの人たちと戦争する必要は何もなく、和解して両派ともにラケダイモン人たちの友となりたい、と。 [36] これには監督官の ナウクレイデスも喜んで聞き入れた。なぜなら、監督官たちの中の二人は王とともに出兵するしきたりになっていたのだが、この時も彼ともう一人とが陪席し、両者ともリュサンドロスとよりはむしろパウサニアスと見解を同じくしていたからである。そういうわけで、ラケダイモンへも、ラケダイモン人たちとの和平条約を持った使節団を熱心に派遣したのである。ペイライエウスからの使節団ばかりか、市内派の中の私的な使節たち―― ケピソポンと メレトス――をも。 [37] ところが、この者たちがラケダイモンへと出発した後になって、市内派の公式の〔為政者たち〕も〔使節団を〕送って、次のように言わせた。――自分たちとしては、自分たちの保持してきた城壁をも自分たち自身をも、望むがままにしてくれとラケダイモン人たちに引き渡してきた。したがって、ペイライエウスの者たちにも、やつらがラケダイモン人たちの友だと称するからには、ペイライエウスとムウニキアとを引き渡すよう要求すべきだ、と彼らは主張した。 [38] 監督官たちと民会議員たちとは、これらの者たちすべてから聞いたうえで、15人をアテナイへ派遣し、パウサニアスといっしょになって可能なかぎり最美の方法で和平条約を結ぶよう下命した。彼らが和解した条件とは、――お互いに和平を結ぶこと、各々は自分の家にもどること、ただし、「三十人」と「十一人」とペイライエウスの執政官たち10人とは除く、――というものであった。また、市内派の者たちの中で、恐れを感ずる者たちは、エレウシスに居住するよう彼らによって決められた。 [39] 以上のことが施行されたので、パウサニアスは軍隊を解散させ、ペイライエウスからの人たちは武器を携えてアクロポリスに上り、アテナ女神に生け贄を捧げた。そして下ってくると、将軍たちは民会を開き、ここにおいてトラシュブウロスは発言した。 [40] 「あなたがたに」と彼は言った、「おお、市域からの諸君、わたしは忠告しよう、――汝ら自身を知れ、と。あなたがたがそれを最もよく知りうるのは、あなたがたが推理するときである。――あなたがたが尊大であり得るのは、したがって、われわれに対する支配を企て得るのは、いかなる資格においてなのかを。はたして、あなたがたはより義しい人たちなのか? いや、民衆は、あなたがたよりも貧しいにもかかわらず、金銭のためにあなたがたに何ら不正したことは未だかつてない。しかるにあなたがたは、誰よりも富裕ではあるが、利得のために多くの醜いことをなしてきた。したがって、あなたがたには正義は何らふさわしくないのだから、尊大であってしかるべしとの勇気がはたしてあなたがたにあるかどうか考えてみるがよい。 [41] しかし、その判別は、われわれが、お互い、いかなる戦いを経験したかということよりも美しい判別方法が、何かあるであろうか。それとも、あなたがたは見識の点で凌駕しているとでも主張し得るのか。――城壁をも、武器をも、金銭をも、ペロポンネソス人たちという同盟者たちまでも持っていながら、そういったものを何も持っていない人たちによって狩りたてられてしまったあなたがたが。それとも、ラケダイモン人たちを頼りにしてこそ尊大にし得るとあなたがたは思うのか。何ゆえに? あたかも、噛みつく犬どもを首輪でつないで引き渡すかのように、あいつらもあなたがたを、不正をうけてきたこの民衆に引き渡したうえで退却し去った連中なのに? [42] しかしながら、あなたがたには、おお、〔民衆派〕諸君、わたしは要請したい。――あなたがたが誓約した内容には何ひとつ違反しないように、と。むしろ、その他の美徳に加えて、あなたがたが誓約に忠実でもあり、敬虔でもあるという、この美徳をも示してくれるように」と。 こういったこと、および、他にもこれに類したこと、つまり、扇動には乗らず、古来の法を用いるべきことなども言って、彼はその民会を閉会した。 [43] また、この時に、彼らは公職者たちを任命して為政した。後日〔BC 401〕、エレウシスにある者たちが外国人たちを雇い入れていることを耳にして、これに向けて全軍で出兵し、彼らの将軍たちを、話し合いに出向いてきたところを殺害し、その他の者たちには、友たちや肉親を送って和解するよう説得させた。かくして、誓って遺恨を残さぬとの誓いを立てて〔前401/00年〕、今に至るもなお同所で為政し、民衆はその誓いを堅持しているのである。 1996.10.17.訳了 |