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back.gif第7巻・第4章


Xenophon : Hellenica



第7巻






第5章



[1]
 さて〔BC 362〕、このことがアルカディア人たちの同盟議会、ならびに、諸都市に伝達されると、これを基に、マンティネイア人たちと、その他のアルカディア人たちの中で、エリス人たちやアカイア人たちと同様、ペロポンネソスに関心のある人たちとが計算したのは、テバイ人たちは明らかにペロポンネソスが脆弱になることを望み、そうやってこれをできるかぎり易々と奴隷化しようとしているのだ、ということであった。

[2]
 「いったい、なぜ、やつらはわれわれが戦争することを望むのか、――われわれがお互いに仇を成しあって、われわれのいずれもがやつらを必要とするようになるのでないとしたら? あるいは、なぜ、目下のところわれわれはやつらを必要としないとわれわれが言ったからとて、やつらは出撃すると言って準備を始めるのか。われわれに何か悪事を働くためにやつらが出兵の準備をしていること、明らかではないか」。

[3]
 そこで彼らはアテナイへも救援を求めて使いを遣った。さらには、ラケダイモンへも、選抜隊の中から使節団が出立し、ペロポンネソスを奴隷化せんとして出撃する連中のいる場合、望むなら、共同で阻止してもらいたいとラケダイモン人たちに呼びかけた。しかしながら嚮導権については、自国内ではそれぞれが嚮導するというふうにその場で取り決めたのである。

[4]
 さて、こういったことが行われている間に、エパメイノンダスは出撃したが、率いたのはボイオティア人の全員、エウボイア人たち、テッタリア人たちのうち、アレクサンドロスのもとからと〔 第6巻 第4章 34節以下〕、その反対者のもとからとの多数であった。しかし、ポキス人たちは追随しなかった。自分たちにとっての取り決めとは、誰かテバイ攻撃に向かう者あらば救援するということであって、他の者たちに向けて出兵するということは取り決めにないと言ってである。

[5]
しかしながら、エパメイノンダスの計算では、ペロポンネソス内で自分たちに帰属しているのは、アルゴス人たち、メッセネ人たち、および、アルカディア人たちの中で、自分たちに与する者たちである。すなわち、それは、テゲア人たち、 メガレ・ポリス〔メガロポリス〕人たち、アセア人たち、パラティオン人たち、および、いずれの国であろうと、小国なるがゆえに、また、内陸部にあるがゆえに、これらの諸都市に親近とならざるを得ない諸都市である、と。

[6]
そこで、エパメイノンダスは速やかに出撃した。だが、ネメアに着くと、ここで暇つぶしをした。アテナイ人たちが通りがかったところをつかまえようと望んだからであるが、彼の計算では、そうすれば自分たちの同盟者たちにとっては、これを勇み立たせるのに大いに役立つであろうし、反対に敵たちにとっては、戦意喪失に突き落とすのに〔大いに役立つ〕、要するに、アテナイ人たちの損は、何でも、すべてがテバイ人たちの得(=善きものagaton)になるはずであった。

[7]
だが、彼のこの暇つぶしの間に、〔反テバイで〕想いを一にする者たちがみな、マンティネイアに参集してきた。それでも、エパメイノンダスは、アテナイ人たちが陸路での進軍を断念し、海路で、ラケダイモンを通過してアルカディア人たち救援の準備をしていると聞いたため、かかる状況のもと、ネメアを進発してテゲアに到着した。

[8]
わたし〔=筆者〕としては、彼のこの出兵には武運がなかったのだと主張したい。それでも、先見性(pronoia)と大胆さ(tolme)とをもった作戦行動の点で、この人物がやり残したことは何もなかったとわたしには思われる。すなわち、先ず初めに、わたしが彼を称賛したいのは、陣営をテゲア人たちの城壁内にこしらえ、こうすることで、外側に宿営する場合よりも安全であったばかりか、自分たちが何をしているのかを敵たちにわからなくしたということである。さらに、何か必要なものが生じた場合に準備することも、都市内にいることでよりたやすくなった。また、外側に宿営している相手方についても、何を正しく行い、何を過っているか、観察することができた。いや、そればかりか、敵方よりも勝っていると思っても、相手が地の利を占めていると見るときには、彼はこれに攻めかかるような嚮導の仕方はしなかったのである。

[9]
しかし、自分に向かって進撃してくる都市が一つもなく、時間の経過を眼にしたときには、何らかの行動に移らなければならないと彼は信じた。さもなければ、それまでの令名の代わりに、多大な不評を身に受けたことであろう。だから、マンティネイア周辺に敵方が守備につき、アゲシラオスおよびラケダイモン人たち全員を呼びに遣ったと知り、また、アゲシラオスは出陣してすでに ペレネ(2)にあると察知するや、夕食をとるよう下知したうえで、軍隊をただちにスパルテに向けて嚮導した。

[10]
万一、クレテ人がアゲシラオスのもとにやってきて、敵軍接近中との通報を、一種神的な運命によってしなかったとしたら、警護するものまったく皆無の雛鳥のように、その都市を〔エパメイノンダスは〕略取していたことであろう。しかしながら、このことをあらかじめ聞き知ったアゲシラオスは、急遽都市に引き上げると、スパルテ人たちは持ち場に別れて守備した。その数はきわめて少なかったけれども。というのは、彼らの騎兵たちは全騎、アルカディアに出払っていたし、外人部隊も、それから、12旅団あるうちの3旅団も〔出払っていたからである〕〔 本巻 第4章 20節〕。

[11]
 さて、エパメイノンダスはスパルテ人たちの都市に着くと、〔自軍が〕地上で闘い、家屋〔の上〕からの飛び道具攻撃を受けることになる、その道によっては進入せず、また、自分たちは多勢であるものの、寡勢の相手より何ら利を占めることなく闘うことになる地点からも〔進入しなかった〕。利を占めると彼が思った地点、この地点を押さえて攻め下ったのであって、都市に攻め上ったのではない。

[12]
ところが、ここで起こったことは、神的なものに責めを帰することのできることであって、死にものぐるいの者たちには誰も抗することはできないと言うことができることである。すなわち、アルキダモスは100人もいない将兵を率いて嚮導し、何やら障害物と思われたものを越えて、敵方の方へ、山の手に向かって進軍したのであるが、まさしくここにおいて、火を吐く者たち、ラケダイモン人たちに勝利した者たち、圧倒的な多勢にして、なおそのうえに上手の地を占めた者たちが、アルキダモス麾下の将兵を受けきれず、崩れたのである。

[13]
かくして、エパメイノンダスの第1戦列は戦死した。しかし、この勝利に喜び勇んで、城内からの者たちが適当以上に遠くまで追撃したために、今度はこちらが戦死した。すなわち、勝利がどの程度まで彼らに許されているのか、どうやら、神によって下書きされていたらしいのである。かくて、アルキダモスは、自分が優位を保ったところに勝利牌を立てるとともに、そこにおいて斃れた敵兵たちを、休戦の申し合わせのもと引き渡した。

[14]
他方、エパメイノンダスの方は、アルカディア人たちがラケダイモンに救援にやって来ると計算して、これと闘うことを、まして、一ケ所に落ち合ったラケダイモン勢〔 本章 10節〕全部と闘うことを望まなかった。とりわけ、〔相手は〕武運にめぐまれ、対してこなたは武運に見放されたとあっては。そこで、可能なかぎり速やかに行軍して再びテゲアにもどり、重装歩兵は休ませ、しかし騎兵はマンティネイアに遣った。その際、さらなる艱難を我慢するよう頼み、マンティネイア人たちの家畜はみな城外にあるらしい、とりわけ穀物の取り入れの時期だから、人々も〔そうらしい〕とほのめかしながらである。

[15]
 そうやって彼らは立ち去った。対して、アテナイの騎兵たちは、エレウシスを進発して、イストモスで夕食をとり、 クレオナイをも通過して、たまたまマンティネイアに通りがかり、城壁の内側で家屋に陣取った。そこで、敵たちが突進してくるのが明らかであったので、マンティネイア人たちはアテナイ人たちの騎兵たちに、どうにかできることならと、救援を願った。というのは、すべての家畜も、耕作者たちも、さらには多くの自由人たちの子どもたちも老人たちも、城外にいるのだから、と。これを聞いてアテナイ人たちは救援することにした。自分たちも馬たちもまだ朝食をとっていなかったけれども。

[16]
まさしくここにおいて、またしても彼らの徳に驚嘆しない人があり得ようか。彼らは敵勢がはるかに多勢であるのを眼にしながら、また、コリントスにおいて騎兵たちに不運が生じたが、このことは何ら計算に入れず、テバイ人たちもテッタリア人たちも最強の騎兵集団との評判が高いが、これと闘おうとしているのだということも〔計算に入れず〕、居合わせながら同盟者たちを何ら益することができないとしたらと、そのことをただ恥じて、敵たちの姿を眼にするや否や、激突したのである。父祖伝来の評判に瑕をつけないことのみに恋いこがれて。

[17]
かくして、闘って、マンティネイア人たちのために城外にあったすべてのものを救う起因となり、彼らのうちで戦死したのは善勇の士であったが、彼らが殺した相手もまた、明らかに、そういう〔善勇の士〕であった。なぜなら、両軍とも持っていた武器は、短すぎてお互い相手に届かないといった代物などではなかったからである。かくして、戦友の屍体は放置することなく、また敵のそれも申し合せによって引き渡したのである。

[18]
 逆に、エパメイノンダスの方も、この出兵に〔認められた〕期間も超過したため、わずかな日数で撤退を余儀なくされていることに思いを致し、同盟者としてやってきながら、その相手を孤立無援のまま後に残したのでは、彼らは敵方によって攻囲されるであろうし、自分は自分の名声にまったく泥を塗ることになろう、――ラケダイモンでは、多勢の重装歩兵部隊を引き具しながら寡勢に負かされ、マンティネイアでは騎兵戦に負け、自分のペロポンネソス出兵によって、ラケダイモン人たち、アルカディア人たち、アカイア人たち、エリス人たち、アテナイ人たちが連帯する起因となったのだから。したがって、彼に思われたのは、戦いなしに引き上げることはできないということであった。彼の計算では、もし勝利すれば、これらすべては帳消しになるであろう、と。よしんば戦死したとしても、ペロポンネソスの支配権を祖国に遺そうと努めてきた者として、その最期は美しい、と彼は考えた。

[19]
彼がこんな想いに陥ったのは、決して驚くべきことではないとわたし〔=筆者〕には思われる。というのは、こういった想念は、名誉愛の強い男のものだからである。むしろ、おのれの軍隊をして、夜も昼もいかなる労苦をも放棄せず、いかなる危険にもたじろがず、必需品をわずかしか持っていなくても、依然として進んで聴従するように仕込んだこと、このことの方が驚くべきことのようにわたしには思われる。

[20]
というのも、戦闘があるはずだからと、準備するよう彼らに最終的に下知したとき、彼の命令に応じて、騎兵はその兜を白く塗ることに熱中し、アルカディア人たちの重装歩兵たちまでが、テバイ人であるかのように、〔楯の〕表面に棍棒(rhopala)の絵を描き、全員が槍先をも戦刀をも研ぎすまし、楯を磨き始めるのである。

[21]
しかしながら、こういうふうに準備した将兵を率いて出陣するときに、彼が何をしたかは、もう一度心にとめておく価値がある。すなわち、先ず第一に、尤もなことながら、戦闘態勢をとらせた。そうすることで、戦闘の準備をしているのは明白だと思われた。ところが、彼の軍隊が自分の望みどおりの配置につくと、最短距離を敵方に向けて引率することをせず、西方の山の方へ、テゲアの反対側に嚮導した。こうして、その日は闘いが起こらないものとの思いを敵たちにいだかせたのである。

[22]
というのも、山に達したところで、自分の密集戦列が伸びきるや、高台のたもとに武器を置かせ、こうして、宿営するかに見せかけた。こうすることで、大多数の敵には、戦闘の備えを心の中で解かせ、戦闘隊形の備えも解かせたのである。ところが、彼は縦隊で行進しながら旅団を横隊に開進させ、自分の周囲の楔形戦列を強固となしたうえで、はじめて武器をとるよう下知して嚮導した。彼らは追随した。対して、敵たちは、思いがけず攻め来る相手を眼にしたために、彼らの中に平静を保てる者は一人もおらず、ある者たちは持ち場に駆け出し、ある者たちは攻撃態勢をとり、ある者たちは馬に馬勒をつけようとし、ある者たちは胸甲を身につけようとし、とにかく全員が作戦行動に移るというよりも、何かを受難する者に似ていたのである。

[23]
一方、彼の方は、軍隊を三段櫂船の船首のようにして攻め込んだが、それは、どこでも突入して分断できれば、相手の軍隊全体を壊滅させられると考えたからである。というのも、彼は〔敵が我が方の〕最強の戦列と勝負するように仕組み、最弱の戦列ははるか後方に配置したのであるが、それは、そこが負ければ自分の麾下の将兵には戦意喪失を、逆に敵方には奮起をもたらすということを知っていたからである。さらには、騎兵たちについても、敵方は重装歩兵の密集戦列のように、縦深6層で、従卒歩兵もなしで反撃態勢をとらせていた。

[24]
対して、エパメイノンダスは、騎兵隊の突入も強固とし、これに従卒歩兵まで配備したが、それは、〔敵〕騎兵部隊を分断しさえすれば、相手部隊全体に勝利できると信じたからである。たしかに、自軍の中に敗走する者のいるのを目撃したときに、踏み留まろうとする者たちを見い出すのは、大いに困難だからである。さらに、左翼のアテナイ勢が隣の〔右翼〕の加勢に救援するのを阻止するために、いくつかの丘の上に、彼らの反対に騎兵をも重装歩兵をも配置して、もし救援に行こうとすれば、背後から彼らに襲いかかるとの恐怖を彼らに持たせようと望んだ。
 彼が行った突撃とはじつにかくのごとくであり、また希望を欺かれることはなかったのである。というのは、彼は突撃をかけた地点で制圧することによって、敵の部隊全体を敗走させたのである。

[25]
ところが、その彼が斃れたとき、残された者たちは勝利しながらこれをもはや正しくものにすることができず、彼らの相手の密集隊が敗走しているのに、重装歩兵たちはそれを一人も殺さないどころか、激突が起こった当の場所から前進することさえしなかった。さらには、彼らによって騎兵たちまで敗走しているのに、騎兵は〔相手の〕騎兵をも重装歩兵をも、追撃して殺すことさえせず、まるで敗者のように、敗走する敵たちの中を、恐る恐る逃れ出たのである。しかも、従卒歩兵や軽楯兵も、騎兵に協力して勝利をおさめ、制圧したと思って〔敵の〕左翼の領域に踏み込み、彼らの大多数がその場でアテナイ人たちによって殺された。

[26]
 こういったことが起こったとき、起こるであろうと誰しもが思ったこととは正反対のことが起こった。すなわち、ほとんど全ヘラスが相まみえ対陣しているのだからして闘いが起これば、制圧した者は支配し、制圧された者は臣従すると、思わないような者は誰もいなかった。ところが、神が為したもうたのは、両軍が勝利者のごとくに勝利牌を立て、これを立てる者を両軍とも妨害せず、屍体は両軍とも勝利者のごとくに申し合せによって引き渡す一方、両軍とも敗北者のごとくに申し合せによって収容し、勝利したとどちらもが称しながら、領土も都市も支配権も、どちらもが、闘いが起こる前よりも余計に取得するということもない。かくして、この戦争の後、ヘラスには不鮮明(akrisia)と混乱(tarache)とが以前にもまして多くなったのである。
 ここまではわたしによって書かれたとしてもらいたい。だが、この後は、おそらく、他の人の課題であろう。
                         1997.11.20. 訳了
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