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back.gif第6巻・第3章


Xenophon : Hellenica



第6巻






第4章



[1]
 こういう次第で、アテナイ人たちの方は、守備隊を各都市から引き上げさせるとともに、イピクラテスならびにその艦隊をも呼びもどし、また、ラケダイモンで成立した誓約後になって彼が取得したかぎりのものすべてを、返却するよう強制した。

[2]
しかしながら、ラケダイモン人たちの方は、他の諸都市からは総督たちやその守備隊を引き上げさせはしたが、クレオムブロトスは、ポキスに軍隊を保有していて、いかにすべきかを家郷の首脳部に問い合わせたところ、 プロトオスは次のように言った、――自分に思われるところでは、誓約どおりに軍隊を解散し、諸都市には、〔年賦金を〕各都市が望むだけをアポロンの神殿に奉納するよう布令を回し、そのうえで、諸都市が自治権を有するものとなるのを認めぬものがあれば、その時は再び、自治に援助するを望むかぎりのものに呼びかけて、反対者たちの攻撃に引率するのがよい。かくすれば、と彼は主張した、神々も嘉したまうのみならず、都市も決して憤慨することはあるまい、と。

[3]
しかし民会はこれを聞いて、やつは戯言をいっていると考えた。これは、どうやら、すでにダイモンの導きであったようなのである。かくして、クレオムブロトスには、軍隊は解散せず、ただちにテバイに向けて引率するよう――〔テバイが〕諸都市の自治を認めなければだが――通達した。そこで彼は、〔テバイが〕諸都市を解放するどころか、軍隊を解散しもせず、自分に向けて攻撃態勢をとっているように察知して、かくしてボイオティアへ軍隊を引率することになるのである。
 そして、彼はポキスから侵入して来るとテバイ人たちが予想し、そこで〔テバイ人たちが〕いくぶん狭隘なところで守備を固めていたのだが、その道によっては〔クレオムブロトスは〕侵入せず、 ティスバイ市から山がちで思いがけない道を通って進軍し、クレウシスに到着すると、城壁を攻略し、テバイ人たちの三段櫂船12艘を取得した。

[4]
こういったことを実行したうえで、海から攻め上り、テスピアイにあるレウクトラに宿営した。対してテバイ人たちは、ほど遠からぬ反対の丘の上に陣取ったが、同盟者はボイオティア人たち以外に一人も有していなかった。このような情勢下、クレオムブロトスの友たちがやってきて言った。

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 「おお、クレオムブロトスよ、闘わずしてテバイ人たちを取り逃がしたら、君は国家によって極刑を被る危険性がある。なぜなら、彼ら〔本国のラケダイモン人たち〕は思い起こすであろうからだ、――君がキュノス・ケパライに着きながら、テバイ人たちの領地を何も荒さなかったときのことを〔 第5巻 第4章 15-16〕、また、その後の出兵では、アゲシラオスはキタイロンを越えて何度も進入したのに〔 第5巻 第4章 36-3847-48〕、君はその進攻を撃退された時のことを〔 第5巻 第4章 59〕。だから、いやしくも君が自分のことを気にかけるなり、祖国を恋い慕うなりするのなら、あの連中の攻撃に引率すべきである」。
 友たちはそういうことを言った。また反対者たちは、
 「今度こそ」と彼らは主張した、「きやつが、噂どおり、本当にテバイ人たちのことを気にかけているのかどうかを暴露するだろう」。

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 クレオムブロトスとしては、これらのことを耳にして、交戦せんものと焦っていた。逆にテバイ人たちの指導者たちの方は、闘わなければ、自分たち周辺の諸都市は離反するであろうし、自分たちは攻囲されることになろう。また、テバイ人たちの民衆が必需品を手に入れられないなら、国家も自分たちに対立する危険性がある、というふうに計算していた。とりわけ、彼らの多くがかつて亡命者となったことのある者たちだったので、再び亡命するぐらいなら闘って死んだ方が勝っているとも計算していたのである。

[7]
かてて加えて、神託もかなり彼らを勇気づけていた。それは、ラケダイモン人たちの一部の者たちに暴行されたために自殺して果てた処女たちの記念碑のあるところ、まさにここでラケダイモン人たちは敗北しなければならないというふうに言われていた。だからこそ、テバイ人たちはこの記念碑を戦いの前に飾り立てたのであった〔この話は、 伝プルタルコス「情炎物語」第3話に詳しい〕。さらにまた、国から彼らに伝達されたのは、神殿という神殿がひとりでに開き、神官たちは、神々が勝利を告知しているというふうに言っているということ。さらには、 ヘラクレス神殿からは武器までが消え、ヘラクレスが戦闘に出かけられたからだというふうに主張しているということであった。もちろん、これらのすべては指導者たちの作りごとだという者たちもいた。

[8]
しかし、とにかく、戦闘においては、ラケダイモン人たちには万事が裏目に出たのに対し、相手方には万事が、運にまでもめぐまれたのであった。というのは、クレオムブロトスによって戦闘に関する最後の評定がもたれたのは朝食後であった。ところで、彼らは昼間に一杯ひっかけるのが常であったが、この酒が彼らをいくぶん焦らせたと言われているのである。

[9]
かくて、両軍ともに武装して、もはや戦闘開始は必至となって、先ず最初に、市場の準備をしていた連中や輜重隊といった連中や、戦闘を望まぬ連中が、ボイオティア軍から離れるために進発した時、 ヒエロン(2)麾下の傭兵たちや、ポキスの軽楯兵たちや、騎兵隊のうち、ヘラクレイア人たちやプレイウウス人たちが、ぐるりと取り囲んで、離れようとしていた連中に攻めかかり、これを背走させてボイオティア人たちの軍陣の方に追い返した。その結果、ボイオティア人たちの軍勢を初めよりもはるかにより大きく、より密集したものにしてしまったのである。

[10]
さらに、第二に、〔両軍の〕中間地帯は全くの平坦地であったので、ラケダイモン人たちは騎兵隊を自分たちの密集戦列の前衛に配置し、対してテバイ人たちも自分たちのそれ〔騎兵隊〕をこれに対置した。ところが、テバイ人たちの騎兵隊は、オルコメノス人たち相手の戦闘やテスピアイ人たち相手の戦闘で仕込まれていたのに対し、ラケダイモン人たちにとっては、当時、騎兵部隊は貧弱きわまりないものであった。

[11]
というのは、馬を飼養したのは最も裕福な者たちであった。また、動員令が発令される時に、そのつど編成がなされた。そうなれば、馬と彼に給付される類の武器とを受け取って、即座に出兵することになろう。しかも、馬に乗るのは、将兵たちの中でも身体の最も不能な者や少しも名誉愛のない連中であった。

[12]
これが、両軍の騎兵部隊のありさまであった。他方、密集戦列はといえば、ラケダイモン人たちは結盟隊〔小隊enomotia〕を3列にして引率したと言われている。このことは、彼らの縦深は12層を越えないことになる。対してテバイ人たちは、楯列およそ50層を下らない数で密集していたが、これは、王側近の部隊に勝利すれば、その他の部隊はすべて御しやすしとの計算からであった。

[13]
 かくして、クレオムブロトスは敵に向かって引率を開始したのであるが、先ず第一に、彼の麾下の軍隊が嚮導されていると感知するよりも早く、わけても騎兵たちが激突し、たちまち敗北したのはラケダイモン人たちのそれであった。しかも、敗走したために、自分たちの重装歩兵たちに衝突したばかりか、なおそのうえに、テバイ人たちの旅団(lochoi)が突入してきた。にもかかわらず、クレオムブロトス側近の者たちは、初めのうちこそは戦闘を制していたということは、次の証拠によってはっきりと判断できよう。すなわち、彼を救出し、生きているうちに運び去るようなことはできなかったであろうということである、――もしも彼の前面で闘っていた者たちが、あの時、優勢を保っていなかったとしたらば……。

[14]
とはいえ、軍令官のデイノン、幕僚たちのうちスポドリアス、彼の息子のクレオニュモスが戦死したために、騎兵たちも、軍令官のいわゆる護衛官(symphoreus)たち、ならびに、その他の者たちも、群集に圧倒されて後退する一方、ラケダイモン勢の左翼にあった者たちは、右翼が圧倒されているのを眼にしたために、崩れた。かくして多数が戦死し、敗北したとはいえ、それでも自分たちの軍陣の前にたまたまあった塹壕を渡り、自分たちが発進した場所に武器を置いたのであった。もちろん、軍陣があったのは、全くの平坦地ではなく、いくぶん小高くなったところであった。こういう次第で、ラケダイモン人たちの中には、この災禍を堪え難いものと考えて、勝利牌を敵たちが立てるのを妨害すべし、屍体は休戦の申し入れによってではなく、闘いによって収容する努力をすべしと主張する者たちもいたのである。

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しかし、軍令官たちは、全ラケダイモン人たちのうち、戦死したのが1000人に近いのを眼にし、スパルテ人たちだけでも、そこにはおよそ700人いたのが、戦死したのは約400人なのを眼にし、同盟者たちがみな戦意喪失している反面、中には出来事に心痛さえしていない連中もいるのを察知して、参謀たちを集めて、いかにすべきかの評定を開いたのであった。そして、休戦を申し入れて屍体を収容するのがよいと全員に思われたので、やっとのことで条約に関する伝令官を遣ったのであった。しかしテバイ人たちは、その後で勝利牌をも立て、休戦の申し入れを受けて屍体の引き渡しもしたのであった。

[16]
 さて、このことが起こったあと、この受難を報告する者がラケダイモンに到着したのは、体育祭の最終日、男声合唱隊がまだ内にいる時であった。そして、監督官たちは、この受難を聞くや、思うに、当然ながら、苦慮はした。しかしながら、合唱隊を引っ込めることはせず、最後まで競わせた。そうして、戦死者たちの名前を各人の家族に渡した。が、女たちには、悲鳴をあげぬよう、黙ってこの受難に耐えるようにと注意した。そして次の日、眼にすることができたのは、戦死した者たちの関係者たちは、輝かしい晴れやかな顔をして公然と暮らし、他方、生きているとの報告を受けた者たちの関係者は、その姿〔を眼にするの〕はわずかであったが、こちらの方は陰気に沈んだ表情をして忍び歩いている姿であった。

[17]
 間もなく監督官たちは、残り二つの軍団の、兵役年齢初年から40歳に至るまでの者に動員令を発令した。さらにまた、外地にある軍団からも同年齢層に至る者を急派した。というのは、この前のポキスへは、兵役初年から35歳に至るまでの部隊が出兵していたからである。さらに、このとき公職にあったために残留していた者たちにも、追随するよう命じた。

[18]
ところが、アゲシラオスは病み上がりで〔 第5巻 第4章 58〕まだ強健になっていなかった。そこで国は彼の息子のアルキダモスに嚮導を命じた。この彼と共同出兵することに熱心だったのがテゲア人たちであった。なぜなら、まだ存命していた スタシッポスの一派はラコニケ贔屓で、国内において決して無力ではなかったからである〔 本巻 第5章 6-10〕。さらにまた、勇敢にも、マンティネイア人たちも村々から出て〔 第5巻 第2章 5-7節参照〕共同出兵した。彼らはこの時たまたま貴族制支配下にあったからである〔 第5巻 第2章 1-7〕。さらにコリントス人たち、シキュオン人たち、プレイウウス人たち、アカイア人たちも追随することを大いに欲し、他の国々も将兵を急派した。さらにまた、ラケダイモン人たち自身とコリントス人たちとは三段櫂船を艤装したが、シキュオン人たちも同船するよう求めた。これに乗って軍隊を渡海させる算段だったのである。

[19]
かくして、彼アルキダモスは越境の供犠をおこなった。
 対してテバイ人たちはといえば、戦闘の後すぐさま、花冠をかぶせられた使者をアテナイに派遣し、かつは勝利の大きさを話して聞かせると同時に、かつは救援を頼み、今こそラケダイモン人たちが為してきたことすべてに自分たちが報復できる時だと述べた。

[20]
このとき、アテナイ人たちの評議会はたまたまアクロポリスに着座していた。だが、出来事を耳にするや、彼らがはなはだ困惑したということは、誰の眼にも明らかであった。その伝令官を客遇もせず、救援についても何も答えなかったからである。アテナイからはこんな状態で伝令官は退去した。しかしながら、イアソンに対しては、彼は同盟者であったから、テバイ人たちは熱心に使者を遣り、救援を頼んだ。それは、将来どういうふうに決着するか計算していたからである。

[21]
そこで彼はすぐさま三段櫂船を艤装して、海路救援に向かうとみせて、外人部隊ならびに自分の側近の騎兵たちをかき集めると、ポキス人たちが宣戦布告なき戦争を仕掛けていたにもかかわらず、陸路ボイオティアに押し通ったのである。彼が行軍中と報告される前に、多くの諸都市に立ち現れて。とにかく、〔迎撃部隊が〕あちこちからそれなりにかき集められる前に、彼はさっさと遠くへ行っていたのであり、いかなる場合でも、必要事を達成するのは武力よりもむしろ迅速さであることを明らかにしたのである。

[22]
 かくて、彼がボイオティアに到着すると、テバイ人たちが、――今こそラケダイモン人たちに攻めかかる好機である、あなたは外人部隊とともに内陸から、自分たちは正面から――と言い立てたのに対して、イアソンは彼らの気をそらせようとして教えた。つまり、立てられた武勲は美しいのだから、もっと大きいことを実現しようとか、あるいは、手にした勝利までも失うとかいうような危険に身を挺するのは、彼らにとって意味のないことである、と。

[23]
 「貴殿たちは見えているのではないか」と彼は主張した、「貴殿たちこそ、どうしようもなかったからこそ、〔戦いを〕制したのだということが。だから、ラケダイモン人たちも、どうしようもなくなったら、命を捨てて闘い抜くだろうと考えるべきだ。また神も、どうやら、小さな者たちを大きく、大きな者たちを小さくなさるのがお好きなこと、しばしばなのだ」。

[24]
 テバイ人たちにはこういうことを言って、危険に挺身することから気をそらさせた。しかし、逆にラケダイモン人たちに対しては、敗北した軍隊というものがいかなるものであるか、勝利したそれはいかなるものであるかを教えた。  「だから、もし貴殿たちが」と彼は言った、「出来した受難を忘れたいと望むなら、忠告しよう、――ひと息ついて、ひと休みして、より強大となって、そのうえで無敗の者たちに戦闘を挑むようにと。だが今は」と彼は主張した、「よくおわかりのように、貴殿たちの同盟者たちの中にさえ、友好について敵たちと対話している者たちがいるのだ。とにかく、あらゆる点から見て、講和条約を結ぶ努力をすべきである。このことを」と彼は主張した、「拙者が欲する所以は、貴殿たちを助けたいと望んでである。父と貴殿たちとの友好のゆえに、また、貴殿たちの保護役であるゆえに」。

[25]
 とにかく、彼が言ったのはそういうことであったが、彼の行動の動機は、たぶん、これらの者たちはともに互いに確執があったが、どちらもが彼を必要とするようにさせるためであったろう。しかしながら、ラケダイモン人たちは、彼の話を聞いて、条約を締結するよう頼んだ。そして条約が成立したとの伝達を受けるや、軍令官たちは全員に、夜明けとともにキタイロンに登れるよう、夜間行軍のつもりで、夕食後荷造りをするよう下知した。だが、夕食が終わるや、休む前に追随するよう下知し、夕方からすぐさまクレウシスを通る道を嚮導した。条約よりも隠密行動の方を信用したのである。

[26]
だが、その行軍は大いに困難なものであった。夜間の、怯えながらの、難路による撤退であったからであるが、ともあれメガリケ〔メガラ領〕のアイゴステナに到着した。そして、そこで、アルキダモス麾下の軍隊と遭遇した。〔アルキダモスは〕ここに留まって、同盟者たちもみな勢ぞろいするのを待って、全軍をいっしょにコリントスにまで連れもどった。そしてこの地で同盟者たちは解散し、市民軍は家郷へと連れもどったのである。

[27]
 ところでイアソンは、ポキス領を通って退却する途中、 ヒュアンポリス人たちの郊外を攻略し、土地を破壊し、多くの住民を殺害した。だが、その他のポキス領は平穏に通過した。だが、ヘラクレイアに到着すると、ヘラクレイア人たちの城壁を占領したのであるが、明らかに、この通路が開いてしまえば、自分の支配圏に誰でも行軍できるのではないかというようなことは恐れておらず、むしろ、自分がヘラスのいずれかの地に行軍したいと望んだ時に、狭隘の地〔テルモピュライ〕に位置するヘラクレイアを誰かが占領して、自分を封じ込めることのないようにと欲したのである。

[28]
かくして、再びテッタリアにもどると、彼は偉大となっていた。法にしたがってテッタリアの総統(tagos)となった〔 本巻 第1章 18節参照〕ゆえに、また、陸戦隊〔歩兵隊〕にせよ騎兵隊にせよ、自分の周りに多くの傭兵を養い、しかも、これらができるかぎり最強になるよう手入れされていたがゆえに。なお、さらに偉大であったのは、多くのものたちが同盟者に――以前から彼の同盟者であったものもいるが、なおもっと多くの者が同盟者になりたがったがゆえにである。したがって、誰一人にとっても侮りやすい者ではないという点で、彼は同時代者の中で最も偉大な人物であった。

[29]
 さて〔BC 370〕、 ピュティア祭が近づいたので、市民たちには牛や羊や山羊や豚を供犠のために準備するよう下知した。すると、各都市に布令された量は程々であったにもかかわらず、それでも牛は1000頭を下らず、その他の家畜は10000頭を上回る数になったと言われている。また優勝賞品として、先導用に最美な牛を神のために飼養した国には、黄金の花冠があると触れを出した。

[30]
さらにまた、テッタリア人たちはピュティア祭の期間に軍事演習を行う準備をするようにも下知した。つまり、彼は神の祝祭も競演も自分が執り行う心づもりだった、と言われている。しかしながら、聖財について彼がどうする心づもりだったかは、今もなお不明である。だが、デルポイ人たちが、彼が神の財産を取得しようとしたら、どうしたらよいか伺ったところ、彼は自分で処理するであろうと神が答えられたと言われる。

[31]
とにかく、この男は適齢であり、また、これほどの、そしてこのようなことを心づもりした人物であったが、ペライ人たちの騎兵隊の閲兵と審査をし終えた後、すでに着座して、何か願い事があってやって来る者がいれば、これに答えていた時、7人の若者たちが、お互いに何かいさかいがあるかのようなふうをして接近してきたのだが、これによって喉をかき切られ切り倒された。

[32]
そばにいた槍持ちたちが勇敢にも救援したので、イアソンをなおも穂先(lonche)で突いていた一人は撃ち倒されて死んだ。もう一人は、馬に乗ろうとするところを引きずりおろされて、深手を負って死んだ。だがその他の者たちは、用意していた馬に飛び乗って逃げ去った。そしてヘラスの国々のいずれに行っても、それらの都市で栄誉を受けたのである。このことによっても明らかなように、ヘラス人たちは彼が僭主になるのではないかと強く恐れていたのである。

[33]
 ところで、彼が死ぬと、彼の兄弟のポリュドロスとポリュプロンとが総統に就任した。しかし、 ポリュドロスは、二人で ラリサ(2)攻撃に行軍中、夜、寝ている時に兄弟の ポリュプロンによって殺された、と思われている。なぜなら、彼の死は唐突であるばかりか、明白な理由もなしに起こったからである。

[34]
他方、ポリュポンの方は、1年間支配したあと、統治職を僭主に等しいものに仕立て上げた。というのは、パルサロスでは、ポリュダマス、ならびに、他にも最有力の市民たち8人を殺し、ラリサでは、多くの亡命者を輩出させたのである。しかし、こういうことをしたので、この男も、ポリュドロスの報復者にして僭主制の解体者たる アレクサンドロスによって殺された〔BC 369〕。

[35]
しかし、これが支配を引き継ぐと、テッタリア人たちには難儀な総統、テバイ人たちやアテナイ人たちにとっては難儀な敵対者、また、陸上においても海上においても不正な掠奪者となった。しかし、こういう人物であるからして、自分もまた殺された〔BC 358〕。下手人は自分の妻の兄弟たちであったが、策謀は彼女本人によるものであった。

[36]
すなわち、彼女は兄弟たちに、アレクサンドロスが彼らに対して策謀していると通報し、彼らをまる一日、邸内に潜伏させた。そうして、酩酊したアレクサンドロスを迎え入れると、寝かしつけた後で、松明は灯したままにし、彼の両刃剣(xiphos)は持ち出した。しかし、アレクサンドロスの部屋に入るのを兄弟たちが臆していると察知するや、早くやらなければ、彼を起こすと言った。それで彼らが押し入ると、彼女は扉を引っ張って、自分の夫が殺されるまで、扉のノッカーにしがみついていたのである。

[37]
ところで、自分の夫に対する彼女のこの敵意は、一部の人たちに言われているところでは、アレクサンドロスが彼自身の愛童――美しい若者であった――を投獄した時、釈放するよう彼女が頼んだにもかかわらず、彼はそれを連れ出して喉をかき切ったからだという。またある人たちは、彼には彼女から子を成すことができなかったので、イアソンの未亡人に求婚するため、テバイに使いを遣ったからだともいう。ともかく、この女による謀略の理由は、そういうふうに言われている。他方、これの実行者たちについて言えば、兄弟の中の最年長である ティシポノスは、この物語が書かれている今に至るも、支配権を握っているのである。
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