間歇日記

世界Aの始末書


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2001年2月下旬

【2月28日(水)】
“きんさん・ぎんさん”ぎんさんが死去。享年百八歳。百八歳ねえ……。口で言うのは簡単だが、想像を絶する。おれなら、あと七十年弱は生きないと百八歳になれないのだ。おれが百八歳になるのは西暦二○七○年である。二○一○年よりも、二○六一年よりも先だぞ。
 SF読みの言うことではないが、いや、SF読みだからこそそう思うのかもしれんが、二○七○年に世の中がどんなことになっているか、まったく想像がつかん。まず、世の中もへったくれも、人類は滅びているかもしれん、といちばんに思う。これはまあ、冷戦時代に育った人間の条件反射だからして、それほど可能性は高くないかもしれん。いくらなんでも木星くらいまでには行っているかもしれん。月には確実に人が住んでいるだろう。地球の軌道上にスペース・コロニーもできてるかな。人々は量子コンピュータ内蔵のPDAを手帳のように持ち歩いているかもしれん。当然、量子通信をしているだろう。重力工学も手にしているかもしれん。おれが八十歳くらいまでに死ねば八十歳くらいまでに死ぬだろうが、八十歳くらいまで生きれば百二十歳まで生きることになるやもしれん。あるいは、おれという人格は実質的には死ななくなるやもしれん。人々が自由に平等に平和に暮らしているやもしれんし、人間らしい暮らしをするひと握りの特権階級と、虫けらのようにうようよ生まれてはばたばた死ぬ大部分の下層階級とが、まったく別の種属のようにして没交渉に暮らしているかもしれん。宇宙からやってきた知的生命体と友好関係を結んでいるやもしれんし、支配されているやもしれんし、雑菌を消毒でもするかのように皆殺しにされているやもしれん。意図か事故かで、人類はいまとはまったくちがう姿になっているやもしれん。わからんわからん、それくらい先のこととなるとまったくわからん。
 どんな姿になっているか、生きているか死んでいるかそれ以外の状態になっているかさっぱりわからんが、おれは二○七○年にもこの日記を書き続けているのかもしれん。それがいちばん怖ろしいような気もするが……。

【2月27日(火)】
〈日経モバイル〉に、「HOT RANKING」という、要するにケータイの売れ行きランキングのコーナーがあるが、四月号のPHSランキングを見ていて興味深く思った。東日本では東芝「Mega Carrots DL-M10」が一位なのだが、西日本ではサンヨー「Leje RZ-J90」がいちばん売れている。ふつうに考えれば、これは地元企業の販売力がご当地に近いほど強いのであろうということになるだろうが、ひょっとしてひょっとすると、デザインも寄与しているんじゃあるまいか? Mega Carrots は見るからにいかにも「トーキョーーっ!」って感じだし、Leje もそういう目で見るとなんとなく「オーサカーーっ!」って感じでしょう? 東芝のはさりげなくメカっぽくて鋭角的でクールな印象であるのに対し、サンヨーのは押しが強くて丸っこくて舐めればブルドッグソースの味がしそうだ。そういう“雰囲気”が東日本人と西日本人の識閾下に作用して、それぞれの地元の人たちに好まれているのだとしたら、これはなかなか面白い現象かも。そんなふうに見えるのはおれだけだろうか? なんか、それぞれのウェブサイトにしてからが、「トーキョーーっ!」「オーサカーーっ!」って感じがするぞ。

【2月26日(月)】
〈SFマガジン〉2001年4月号を買う。田中啓文特集」である。『銀河帝国の弘法も筆の誤り』(ハヤカワ文庫JA)のプロローグが英訳版(訳・Dogwood Hope)で載っていて驚く。予告は聞いていたが、まさかほんとうにやるとは……。田中啓文の作品、とくにこの系列の作品を英訳するなど暴挙以外のなにものでもない。やはりかなり苦労したらしく、どうも英語としてのリズムを失調しているようだ。はっきり言ってはなはだ読みにくい。日本語に引きずられている。とても引きずられている。とはいえ、こういう直訳調のものは中学校の教科書あたりには使いやすいかもしれず、中学校の英語の先生は一度目を通してご覧になることを……私はお薦めしません!

【2月25日(日)】
▼体調最悪、一日のびている。いったい暑いのやら寒いのやら、自分ではさっぱりわからない。
英文毎日、すなわち、Mainichi Daily News がネット新聞になってしまうとのこと。“紙版”は三月三十一日で休刊になってしまうのだ。なんとなく妙な感慨がある。またひとつの時代が終わったなという実感とでも言おうか。学生時代から十五年間愛読していたが、販売店の自堕落かつ横柄な態度に頭に来てやめたのが一九九七年八月十九日だ。そのころから長くはないなと思っていたが、ついに休刊か。
 いやあ、しかし思い出もあるなあ。なにがすごかったといってあなた、この新聞、昭和天皇がまだ一応は生きているというのに、社説に天皇追悼文を載せたのである。目が点になるとはあのことだ。もっとも、おれのことであるから、それを見て憤慨したのではなく、大笑いしたのであるが……。
 日本語の新聞ならまず考えられないことである。途中で誰かが見出しだけでも目に留めて気づくはずだ。社説なんか読まない、新聞の流通に携わる肉体労働をしているだけの方々でも、いくらなんでも気づくはずである。英文であるというだけで、流通過程でのチェック機能がまったく働かなかったのだろう。その新聞は、まんまとおれの家までやってきてしまった。ほかのいろんなところにも配られてしまった。日本の戦後英語教育の成果がよくわかるエピソードと言えよう。たしか編集長のクビが跳んだっけなあ。あの社説の見出しを見たとき、一瞬わが目を疑ったが、やがて、さあーっと編集長の顔から血の気が引く音がおれのところまで聞こえてきたような気がした。お気の毒といえばお気の毒である。あのころは、もう天皇がいつ死んでもおかしくない秒読み段階であり、どの新聞だって追悼社説をすでに用意していたはずだ。ほんのちょっと、どこかでなにかの手ちがいがあったのであろう。あのころはといえば巷は自粛自粛で、もう戦後ではない、貧乏人も麦を食わない近代的な国になったと思っていた日常生活の板子一枚下にどろどろぬとぬとべちょべちょと広がる日本という国の正体を垣間見せられているような暗鬱きわまりない日々の、あの事件は一服の清涼剤とすら言えたのではあるまいか。その点で、身を挺して笑わせてくれたかの編集長におれは感謝する。
 あの日の英文毎日の社説は、まだどこかに残してあるはずだ。どこへ行ってしまったかわからないのだが、探し出すのは老後の楽しみにとっておこう。ひとまずは、さようなら英文毎日。ま、ネットで読めるわけだけどね。

【2月24日(土)】
「e-noodle」日清食品)とやらを食ってみる。こんなネタばっかりが続くが、おれは新しもの好きなのでしようがない。「焼豚しょうゆ味」「醤油とんこつラーメン」「ソース焼そば」の三種類があり、まずは「醤油とんこつラーメン」を試す。「焼豚しょうゆ味」は“しょうゆ”とひらかななのに、「醤油とんこつラーメン」のほうは“醤油”なのである。ひらかなとカタカナと漢字の配分を考えてあるわけで、さすがはインスタントラーメンの王者、こういうところも手を抜かない。
 奇抜なテレビCMでご存じとは思うが、この「e-noodle」、電子レンジ専用のインスタントラーメンなのである。「焼豚しょうゆ」と「醤油とんこつ」の“汁物”は、湯ではなく“水”を入れて電子レンジに放り込むとできあがる。「ソース焼そば」は水すら不要だ。
 で、「醤油とんこつ」を食ってみた感想だが、べつにどうということはない。飛び抜けてうまいわけでもなくまずいわけでもなく、電子レンジで作ることに関しても、あんまりありがたみはない。六分から七分も電子レンジに入れておかなくてはならないのだ。ふつう、それくらい待たねばならんのなら、素直に湯を沸かさんか? 意図のよくわからない商品である。
 無理やり「e-noodle」の狙いを推理すると、こういうことになる――冬のあいだは、たいていどこの家庭でも、湯が常に手に入る状態だと思われる。いつでも熱い茶などが飲めるよう電気ポットに湯をスタンバイしている家庭も多いだろうし、ストーブの上にやかんを乗せていたりもするだろう。しかし、温かくなってくると、それらをやめてしまうので、ふと小腹が空いたときなど、「くそ、このあいだまでは、いちいち沸かさなくてもすぐ熱湯が手に入ったのに」と無性にくやしくなったりする。べつに真夏にそんなふうには思わないのだが、春先にはとくにくやしくなる。そこで日清は、そろそろ頃合いだとばかりに、湯が要らないインスタントラーメンを出してみた……。
 ……としかおれには思われないのだが、なにかもっと深ぁ〜い狙いがあるのだろうか?

【2月23日(金)】
アサヒビールがようやく出した発泡酒「本生」をようやく飲んでみる。おお、いけるじゃん。輪郭のはっきりした味で、アルコール飲料でなければいくらでも飲めそうである。ビールなら多少は舌で味わうという感じがあるが、発泡酒なんてものはノドで味わうものだ。おれの感覚では、発泡酒をうまいと思う神経は、うどんをうまいと思う神経と同じなのである。でも、こういうのは、冬よりも夏にいいかもな。

【2月22日(木)】
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

『SFが読みたい! 2001年版』
(SFマガジン編集部編、早川書房)
「Treva」で撮影

 “ご恵贈御礼”にはちがいないが、手前も記事を書いているので、ふつう一冊はもらえるのがあたりまえである。でも、宣伝を兼ねて今回はご紹介してしまう。今年から〈SFマガジン〉別冊ではなく、書籍扱いになったとのことで、だとすると喜多哲士さんが明後日の日記で書くことになる(とおれはいま、予知した)ように、これは“共著書”ということになるのであろうか。しかし、印税がもらえるわけではなく、この原稿は買い取りである。もし、五千万部ほど売れたら、この“本”に書いた人たちはみな、「およげ!たいやきくん」子門真人のような思いをすることになろう。いま調べてみたら、あれは四百五十四万枚も売れたのか。心配だ心配だ、はなはだ心配だ。五千万部も売れませんように……。
 と、祈っていたら屁が出たのでわれに返る。「発表! ベストSF2000[国内篇・海外篇]」を読み、まずまず妥当とおれには思われる結果に納得する。納得はしたが、『鵺姫真話』(岩本隆雄、ソノラマ文庫)がちょっと低いのが腹立つ。『希望の国のエクソダス』(村上龍、文藝春秋)に至っては、ベスト5に入れているのはおれだけである。不思議だ。面白いんだがなあ。コメントで言及している方はいらっしゃるので、SFとして扱いかねた方が多いのかもしれぬ。あるいは、IT業界のサラリーマンとしてのおれがこの作品をやや過剰に面白がったということもあるのかもしれぬ。
 それにしてもいつも驚くのは、山岸真さんの選ぶ作品である。なぜか山岸さんとは、いつもだいたい好みが一致するようだ。気味が悪いほどである。同い年だからというわけでもあるまい。この業界、ほかに同い年の人はいっぱいいるのである。しょっちゅう会ってはSFの話をしているというのであれば評価が似てくるところもあるいは出てくるのかもしれないが、おれが生身の山岸さんに会うのは多くて年に二回くらいだ。ふだんもほとんどやりとりはない。つくづく不思議である。よって、山岸さんが面白いとおっしゃる作品が未読であった場合、ある種の期待と警戒を抱いて接することになる。おれも面白いと思う可能性が非常に高いので、純然たるおれの感覚が「ああ、やっぱり山岸さんの褒めるものは面白かった」という期待の充足によって汚染されるのを怖れるような気持ちを、なんとなく抱くからである。
 『SFが読みたい! 2001年版』の今年の表紙マンガ(水玉螢之丞画)には、昨年度版の邪悪な表情の大森望さんに代わって、山岸さんが登場している。『「山岸真絶賛!」 てことはアレね』と、本を手に取りなにかに納得している風情の女性の独り言を聞いた山岸さんが、「どきぃ」となぜか冷や汗を流しているマンガだ。アレとはなんなのだろう? なじかは知らねど、おれも「どきぃ」とする。山岸さんがアレなのであれば、おれもかなりアレである可能性は高いからだ。どきぃ。

【2月21日(水)】
“しょうがゆ関係”の情報をいろいろいただいているのだが、バタバタしていてお返事ができない。情報をお寄せくださった方々、ありがとうございました。近日中に“しょうがゆ特集”をやりますので、いただいた情報はまとめて紹介させていただこうと思います。いや、これがなかなか深くて面白いのでありますよ。
ケダちゃん「納豆あめなめちゃいました。」に続いて、今度は高野史緒さんから袋入りの「水戸納豆飴」なるものが送られてきた。ありがとうございます。それにしても、茨城県人はこういうものばかり食べているのであろうか。
 さっそく袋を開けるや、中からまさにあの匂いがぷ〜〜〜んと立ち上ってくる。とても“飴”とは思われぬ風情である。が、そこいらの袋入りの飴となんら変わらぬ姿をしている。納豆の粒が埋め込まれているのが見える「納豆あめなめちゃいました。」とはちがい、ホントにただの飴だ。袋には「おいしく食べる納豆パワー!」「カリコリ食べれるクランチキャンデー」などと書いてある。試しにカリコリ噛んでみると、中はまだ少し湿り気のある納豆――。よよよ要するに、これはウィスキーボンボンのウィスキーの代わりに納豆が入っているだけという怖るべき菓子なのであった。奇妙な食感である。うまいことはうまい。癖になりそうな気もする。言うまでもないことだが、納豆が嫌いな人にはお薦めできない。
 どこの酔狂な会社がこんなもの(失礼)を作っているのだろうと袋の記述を見てみると、「販売者 株式会社イオ」と書いてあってたまげた。え、SFだ。いやまあそりゃ、小松左京氏の事務所とは無関係なのでありましょうが、無重量状態で納豆を食いながらセックスをする三浦友和といった奇怪な映像が一瞬脳裡をかすめる。納豆はどういう運動をするのであろうか。ちょっと連星みたいな感じになるのかな。


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