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2001年6月下旬 |
【6月29日(金)】
▼会社の帰りにコンビニに入ると、花火を売っている。当たり障りのないファミリーセット(というのかあれは?)に混じって、煙幕花火(花火じゃないよな。“煙幕玉”とでもいうのかあれは?)があった。やあ、ひさしぶりに見るなあ。火を点けると色の着いた煙がやたらもくもくと出るだけの、暗いところでやってもちっとも面白くないアレである。売っているのはいいのだが、子供がこれで遊んでいるところなど、ここ二十年ばかり見たことがない。下手にこんなもので遊ぶと、消防局が飛んでくるのではあるまいか。サンマ焼いたって通報されたりするくらいだからなあ。いつぞや、渋谷だったかの雑踏の中で大量の花火を仕掛けて人騒がせをした事件があったが、あれはどちらかというと派手系の花火ばかりだった。赤やら青やら黄色やらの煙が大量に出たとて、東京ではそんなもの、珍しくもなんともないのかもしれん。
たまには花火でもしたいなあとは思ったものの、夜中にスーツ姿の中年男が空地で煙幕を焚いていたら、これはもう、挙動不審以外のなにものでもない。どうも子供がおらんとやりにくいことというのは、たしかにあるものである。煙幕もいいけど、ヘビ花火やりたいなあ。あれなんか安いものだから、大量に買い込んで大人の背丈くらいに積み上げ、一気に火をつけたらさぞや楽しかろう。でも、ほんとにやったら、挙動不審なんてもんじゃないわな。
大人になってもこういうことがやりたくてしかたがない人種は、存外にたくさんいるんじゃないかと思っている。ルーカスやらスピルバーグやらも、結局、これの延長線上にいるのではないのか。煙幕玉にハマったルーカスやヘビ花火にハマったスピルバーグが、それぞれ十トンくらい買い占めて、自宅の庭で火を点けて喜んでいる光景なんてのは、想像するだに愉快である。
【6月28日(木)】
▼体調最悪。梅雨のようでも梅雨ではない。べんべん。夏のようでも夏ではない。べんべん。冷房を入れないと暑くてたまらないが、入れたら入れたで妙な悪寒がする。ああ、まったく、いま時分の気候がいちばんかなわんよ。早く初冬が来ないかなあ。人間、自分の生まれた季節の気候がいちばん好きだとかよく言うが、おれに関しては、まったくそのとおりである。ああ、蒸し暑い蒸し暑い。蒸し蒸し大行進である(いつのネタだ、いつの)。しかたがない、気を紛らわせるために歌でも唄おう。「♪京都〜、大原、参院選」――って、三年前に「今月の言葉」で使ったよな。きっとおれは、参議院選挙があるたびに、一生この歌を唄い続けるにちがいない。これを読んでしまったあなたも、参議院選挙があるたびに、必ず一度はこのフレーズを想起してしまうことになるであろう。ざまあみろ。
おれは死んだはずなのだが、なぜか目を覚ますとどうやら遠い未来の世界である。過去に一度でも存在した任意の人間の意識を、どういう原理でだか再現して“走らせる”技術が完成しているのだった。
「なななんだ、こ、ここはどこだ? いまは……いつだ?」
「そうですね、あなたが死んでから、かれこれ五千年は経っています。あなたが冬樹蛉さんですね?」
「い、いかにも」
「おお、大成功だ! おーい、みんな、来てみろ。『京都、大原、参院選』の冬樹蛉だぞー!」
……などと言われた場合、おれは喜べばいいのか、悲しめばいいのか? よくわからないが、こういうバカなことを考えているあいだは、少しでも暑さを忘れることができる――と、思い出してしまったら暑くなるではないか、くそ。
【6月27日(水)】
▼駅のホームに立ち、ふと、向かい側のホームにいる人からおれがどのように見えるかを考える――眼鏡をかけた背広の男が鞄からなにやら黒い煉瓦のようなものを取り出したかと思うと、それをリスのように両手で持っておもむろに胸の前でパカっとふたつに割り、なぜか割断面をじぃ〜っと見つめている。なんだ、あれは?
というわけで、『ルー=ガルー 忌避すべき狼』(京極夏彦、徳間書店)を読んでいるのであった。“黒い煉瓦”ってのは、黒いブックカバーをかけているからである。おれはいつも思うのだが、京極夏彦ってのは売れているのか売れていないのかよくわからない。書店の平積み台を見て「うわあ、大量に平積みしてあるなあ」と思っても、じつはほんの三、四冊が積んであるだけだったりする。二、三日して同じ書店に行っても、やっぱり“大量に”平積みしてある。全然売れていないのか、わずかのあいだに平積みの山がいくつも売れてしまったのか、さっぱりわからないのである。これもひとつの手だよなあ(って、なんの手だ?)。今度、いちばん上に積んであるやつに髪の毛でも挟んでおいてやろうかしら。
【6月26日(火)】
▼大阪の某所で坂村健氏の講演を聴く。サラリーマン仕事のほうの一環といえば一環なのであるが、SF書評屋のほうの仕事の藝の肥やしにもなるというお得な講演であった。いやあ、それにしても痛快である。某マイクロソフトをけちょんけちょんにこきおろし、返す刀でアメリカの戦略に乗せられて踊っている日本人を叩っ斬る。もちろんこんな講演は、多少なりとも某マイクロソフトの息のかかった催しではできないわけで(坂村氏ならやるかもしれんが)、ビル・トッテンという日本人みたいなケッタイなガイジンのおっさんが経営している独立系某社主催の講演会であるからこそ、思う存分坂村節が炸裂するわけである。ものすごい早口で反復横跳びのように脇道に逸れながらも、聴衆を飽きさせずに言いたいことはちゃんと言ってしまい、伝えたいことがちゃんと伝わってしまうという特異なスピーカーであった。これが音に聞こえた坂村健であったか。東大の学生はいつもあんな講義を聴いているのかと思うと、羨ましいかぎりである。なんとなくどこかに似たものがあったような気がして、講演後もずっと考えていたら、帰りの電車の中でようやくわかった。立川談志の落語にそっくりだったのだ。ああ、おもろかった。
▼《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。
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「Treva」で撮影 |
小松左京賞受賞作『エリ・エリ』に続く、平谷美樹の受賞後第一弾の長篇である。タイトルを見て「おや……」と思い、装幀を見て「おやおや……」と思い、「火星の荒野に奏でられる滅びしものたちの哀歌…」という腰巻の惹句を見て「おやおやおや……」と思い、裏返して腰巻のアオリを読んで、「おやおやおやおやっ」と思った――『時は二十九世紀。宇宙開発の先駆けとしていちはやく“地球化改造”(ルビ:テラフォーミング)が実施されていた火星は、その自由を尊ぶ気風から、男女の性の決定をも自ら選択する「モラトリアム」という存在を生み出していた。モラトリアムの一人、アニス・ソーヤーは火星考古学者トシオ・イサカ・ヴァインズを導師(ルビ:マスター)として、性決定のための火星運河の旅へと出るが、その途上、原火星文明にかかわる衝撃の事実を知る』
これらすべてから早くも薫ってくるのは、光瀬龍の香りである。読む前からあんまり予断を持ってはいかんけれども、本全体がそういう予断を持てと迫ってくるのだから、多少は予断を持ったほうがいいのかもしれない。いま若手のSF作家(SF作家は四十くらいでも若手なのである)には、かつて光瀬龍がいたところに嵌まってくる人が見当たらない。あそこいらへんは空いたままなのである。もしかしたら、平谷美樹はそういうものを書いてくれたのだろうか? わくわく。こいつは読むのが楽しみである。
【6月25日(月)】
▼まだ『ΑΩ(アルファ・オメガ)』(小林泰三、角川書店/5月28日の日記参照)を引きずっている。“パーセクマシン”のひとまわり(?)下が“アストロノミカルユニットマシン”だというのはわかった。では、ひとまわり上は何マシン?
そもそも“アストロノミカルユニットマシン”の上が“パーセクマシン”であるのがおかしくて、AUマシンの上はドコモマシンに決まっておろうが――などというベタなネタはこの際無視する。パーセクが天文単位から導かれているのであれば、たとえば、太陽と銀河系の中心との平均距離が視差角一秒を見込む距離なんてのを定義してはどうか。Galactic Parallax Second 、GPSとでも名づけよう――って、さてはこれが言いたかっただけやな。
もっとも、それくらいの距離の話ともなると、われわれが距離の単位を使うときに無条件に受け入れている、途中の時空が十分に平坦であるという前提が不自然になってしまうから、こんな単位を作ったところで、ほとんど意味はないか。一メートルの物差しを作るのと同じ感覚で一GPSの物差しを作り、それを宇宙空間に置いて距離を計っているようなものである。その物差しは完全剛体(すなわち、絶対座標)であることが前提になっているのだから、この宇宙での使いみちはあんまりない。素直に“光年”で表現するほうが、よっぽど実用的であろう。
しかし、“光年”というのも、考えてみればローカルな単位やなあ。光速という普遍的なものに“年”などというめちゃめちゃローカルな単位を掛けているのが、なんとも人間らしい(?)。どうせなら、いっそプランク距離を基準にした単位を天文学でも使えば異星人にもわかりやすくてよさそうなものだ。もっとも、異星人にはわかりやすいかもしれないが、地球人には感覚的にはさっぱりわからない。結局、人間の使うものは人間から逃れられないんでしょうな。このあたりは、SFに通じるものがある。より汎用性を持つように持つようにと一般化・相対化を進めていっても、度が過ぎると自分がばらばらになってしまう。SFは相対化を武器とする文学ではあるが、同時に相対化してもしてもそこに残る滓を愛でる文学でもある。相対化もおもろいし、滓もおもろいわけやね。この魅力がたまりませんなあ。
【6月24日(日)】
▼今日は、『ΑΩ(アルファ・オメガ)』(小林泰三、角川書店/5月28日の日記参照)を読んだ人向けの、ちょっと細かい話である。読んでいない方にはちんぷんかんぷんのはずなので、将来真っ白な頭でこの本を読みたいと思う方は、今日の日記は読まないでください。
いや、じつはおれとしたことが、『ΑΩ』を読んでいるときになんとなく感じていた気持ちの悪さの正体と意味にようやく気づいたのだった。なぜ「ガ」たちは、時間の単位にカルパを、距離・大きさの単位にパーセクやAUやキロメートルやマイクロメートルやナノメートルを使っていたのかという点である。
いずれも、地球人が作った単位であることは言うまでもないが、サンスクリットのカルパ(永劫の“劫”、億劫の“劫”ですね)は、むろん科学的な単位ではない。宇宙規模の生滅流転を云々できるほどの長い時間を、無理やり人間に把握させているような単位であって、1カルパであろうが10カルパであろうが、人間の実感としては同じようなものである。大きな数を持たない民族が「たくさん」っつってるようなものだ。インド神話の時間の単位を現代人の時間になにやら厳密に(?)換算している例がいろいろごちゃごちゃとあったはずだが、あんまり意味のあるものではなかろう。とにかく「たくさん」なのである。つまり、カルパは、人間を超えたスケールの時間を、人間に雰囲気として理解させるための単位、人間を超えたなにものか(“神”の類)の世界を人間界に無理やり引きつけている単位と言ってよい。
『ΑΩ』の「ガ」たちの生活の中に“カルパ”なる単位が出てくると、「おや、これは地球人の単位だろう?」という違和感が生じる。しかし、「まあ、どのみち“たくさん”だから、人間のスケールを超えた知性体が“カルパ”を使っていたとて、これは彼らの感覚を地球人である読者のためになんとか翻訳している描写なのであろう。いっそ“カルパ”は“長〜い時間”という架空の単位だと考えてもよかろう」と一応納得する。
が、待てよ。距離の単位には、パーセクやAUやキロメートルやマイクロメートルやナノメートルを平気で使っているではないか。パーセクなどというとなんとなく汎宇宙的な感じはするが、たしか中学だか高校だかの地学で習うように(習わんかもしれんけど)、地球から恒星などを観測するときに年周視差角一秒を見込む距離がパーセク( PARallax SECond )であるから、要するに、天文単位(AU)を基準に三角測量で定義しているようなベタベタの地球ローカルな単位である。もちろん、小林泰三はそんなことは百も承知で、パーセクのすぐ下の単位にAUを持ってきているところからも、これらのローカルな単位を意図的に用いていることがわかる。
「ガ」たちの生活が描かれる第一部では、カルパという神話的な準架空の時間単位と地球人の科学が用いるローカルな距離・大きさの単位とが混在している。この違和感が気になっていたのだ。が、小説の構造をよく眺めわたしてみると、この第一部の違和感が、それ以降の展開に不可欠な重要なものであったことがわかる。磁場とプラズマから成る超生命体なんてものが地球人と関係を持ち地球上で活動するなどという話が、なんらかの嘘なしに離陸するはずがなく、いきなり両者をくっつけたのでは、それこそジェイムズ・ティプトリー・ジュニアの「大きいけれども遊び好き」(『故郷から10000光年』伊藤典夫訳、ハヤカワ文庫SF所収)や「星ぼしの荒野から」(『星ぼしの荒野から』伊藤典夫・浅倉久志訳、ハヤカワ文庫SF所収)みたいになってしまう(「一族」なんて言葉遣いからすると、小林はこれらを念頭に置いてはいたのかもしれない)。ああいうのは問答無用の中短篇だから面白いので、長篇では破綻するだろう。とてもウルトラマンを活躍させることはできない。そこで小林泰三は、第一部で宣言をしたのである。『「ガ」たちの視点からの描写だけでは、これが彼らの世界で閉じている描写なのか、作中の地球人の意識と関わってくる描写なのかわかりにくいでしょう。ですから、カルパという神話的な準架空時間単位と地球ローカルな科学の単位をいけしゃあしゃあと混在させることで、第一部からすでに“地球上での物語がはじまっているのだ”とわかるようにしておきます』
こう考えると、第一部の違和感は必要なものだと納得がゆく。端的に言えば、ハードSF的描写をしながらも、時間の単位にカルパを持ってきたセンスがニクいのである。厳密に科学的描写をしようというのなら、多少読みにくいにしても「ガ」たちの日常時間を“年”に換算して書くか、まったく架空の単位を創ればいいだけの話で、小林泰三にとっては簡単なことだろうが、そうしてしまったのでは彼らと地球人とのあいだの根本的な“隔たり”が感覚的に出ないのである。考え抜いてこのような結論に達したのであればさすがは作家であるし、なにも考えずに直感がこのように書かせたのだとしたらなおさら作家である。
つまるところ、あたりまえの話ではあるが、異質な存在( alien )を描こうとすれば、必ず嘘をつかねばならないのだ。どんなに厳密に科学的描写をしようとしても、そもそもそれは不可能なのである。なぜなら、書こうとしている対象は異質なのだから。異質なものを書き得たとすれば、その異質なものは必ず“こちら側の世界”、われわれが理解できる世界に片足を突っ込んでいる。われわれの認識に汚染されているため、すでに異質なものではなくなっている。その“すでに異質なものではなくなっている異質なもの”(ややこしいな)とわれわれとを両側から引っ張って、ああ、もう“すでに異質なものではなくなっている異質なもの”の片足がわれわれから離れる、抜ける、ちぎれる〜――ぶちっ、という瞬間を描いた、いわば“ハードSFの極北”が、ほかならぬスタニスワフ・レムの『天の声』(深見弾訳、サンリオSF文庫)である。あそこから“北”はもうないので、そこを目指しても無駄だ。となると、ハードSF作家に最も必要な才能というのは、いかにエレガントに科学的に正確・厳密な描写ができるか(それは“科学者”に必要な才能だ)ではなく、むしろ、科学的に書き得ない部分でいかにエレガントに嘘がつけるかであるということになろう。
そういう意味で、小林泰三は邪悪なまでにハードSF作家であり、『ΑΩ』は、現時点での超・ハード・SF・ホラーの最高傑作(嘘ではない嘘ではない)と言えよう。
【6月23日(土)】
▼昨日深夜に帰宅したため、録画しておいた『er V 緊急救命室』を今日になってから観る。それにしても、『アリー・myラブ3』のやたら力の入ったウェブサイトに比べて、《ER》サイトの貧弱なこと。一流のドラマであることはもはや衆知の事実なので、宣伝してもしなくても関係ないということだろうか?
《ER》の登場人物で誰が好きか――ってのは、けっこう性格が出るんじゃなかろうかと前から思っている。おれは、なんといっても、ウィーバー先生が好きである。あの鼻声でコンピュータがしゃべるように淡々とまくしたてるところがたまらない。ウィーバー先生が手術をはじめると、わしゃ、テレビに身を乗り出して食い入るように観る。ウィーバー先生の手術シーンを観るために『er V』を観ているといっても過言ではない。もちろん眼鏡もいい。日常生活ではヘンに生活感のあるところもいい。妙な喩えだが、『ウルトラマン』で言えばイデ隊員が好きだった人は、きっとウィーバー先生も好きなのではないかと思っている。なんとなくわかりませんか? いや、わからんかったらいいです、ハイ。
まあ、あとの“脇役”も悪くはない。日本語トラックでは、ベントン先生がOVAの『ブラック・ジャック』と同じ声(大塚明夫)でしゃべっているのも洒落が利いていていいし、なぜか火星の大元帥が医者をやっているのも面白い(なんて理由だ)。SF作家でもあるマイクル・クライトンがジョン・カーターを知らないわけがないから偶然の一致ではないはずで、あの優男をあんな名前にした意図をいろいろ想像するとこれまた面白い。ハサウェイ婦長も捨て難いよねえ、いつも眠そうで。
結局、このドラマは登場人物が全員脇役で、観る側が勝手に自分の主役を決めてしまえる点がいいんである。クレジットの人名が全部小文字で表記されているのも、『十二人の怒れる男』に通ずる思想の表明であろう。だから、NHKが番組名を『ER V』と表記するのはどうかと思うのである。フィルムの中ではタイトルも『er V』としてあるわけで、たしかに小文字では番組名としてなんだか締まらないけれども、この番組に関しては、意味なく流行で小文字にしているわけでもないと思うんだけどな。シリーズ最初から『ER』と表記しちゃったからには、しかたがないのかもしれないけれども。おれもそのあたりは迷っているんで、シリーズ名としては《ER》、番組名としては『er』と表記することに勝手に決めているのであった。
【6月22日(金)】
▼滑稽な出来事を前にすると、むかしの人はよく「はは、マンガやな」といった表現をしていたもので、おれもいまだにそう言ったりする。が、どうも最近あまり聞かないことに気がついた。もしかしたら、「滑稽なこと=マンガ」という連想は、もはや滅びつつあるのだろうか。いや、そりゃ、おれたちの子供のころだって、マンガは豊かなヴァリエーションを持つものではあったけれども、それでもまだ「マンガやな」という表現が説明なしで通じるほどには、マンガはマンガであったのだ。
もしかしたら、最近の若い人や子供には、「はは、マンガやな」と言っても、ほんとうにどういう意味なのかまるで見当もつかない、なんてことになっているのかもしれない。あるいは、“マンガトリオ”などというグループ名を若い人が聞いたら、ヒューマニスティックなテーマをシリアスに掘り下げる演藝集団とか、男女の心理の機微や性行動を大胆に描写する創作グループとか、激動の時代を生きた人物たちのドラマを壮大なスケールで謳い上げる三人の語り部とか、そういったものを連想するんじゃあるまいな。だとしたら、マンガにとっては喜ばしいことにちがいない。機会があったら、一度姪たちを相手に実験してみよう。
【6月21日(木)】
▼むかし『イナズマン』という変身ヒーローがおって、こいつはなにやら蝶のようなもので、人間の姿からいったん“サナギマン”という力だけは強いがなんの藝もない形態に変身し、それからいろいろ超能力を持った“イナズマン”に変身するのであった。二段変身である。たしか同じころにおった『サンダーマスク』というのは“二段変身”を売りにしていたわりには、そのじつ、いったん人間と同じ大きさのサンダーマスクになってから巨大化するだけの話で、ちっとも二段変身ではないのであった。そうか、いろいろ変身すればよいのかと思ったのかどうかはしらないが、やがて、ひとりで七通りに変身するレインボーマンだとか、三機の飛行艇が合体する組み合わせで姿が変わるゲッターロボだとか、だんだんややこしいやつが現れた。いろいろ変身できるのも良し悪しで、どうもレインボー・ダッシュ4とダッシュ6、ゲッター2の出番が不当に少ないことに子供たちが気づくのも時間の問題であったのだった。
おれがそのころ考えたヒーローに“カイコマン”というのがあった。カイコマンは、まず一令幼虫マンというやつに変身する。闘っているあいだにエネルギーが貯まってくると(なぜ闘っているのにエネルギーが貯まるのかはよくわからない)、目映い電光と派手な電子音を発し、砂塵を巻き上げて大変身するのだ。砂煙の中から悠然と姿を現わしてポーズを取るのは、二令幼虫マンである。なんとなくひとまわり大きくなったような気がするだけで、どこがどう変わったのかよくわからない。二令幼虫マンは闘っているうちにエネルギーを蓄え(なぜ闘っているのにエネルギーが蓄えられるのかよくわからない)、派手な光と音と共に三令幼虫マンに変身する。よそ見をしていて変身するところを見逃した子供には、変身したのかどうかよくわからない。三令幼虫マンは……もういいですかそうですか。
まあ、なんだかんだで、最後にはカイコマンに変身するのだが、どう見ても、あらゆる変身形態の中でこいつがいちばん弱そうなのだ。なにやら縮れた翅が申しわけ程度に背中についており、当然、飛ぶこともできない。ヒーローのくせに異様な中年肥りで、まるで妊婦のように腹が出ている。動きも鈍く、敵の戦闘員や怪人のあいだをのたのたと歩きまわるだけなのである。そう、カイコマンは、うっかりカイコマンにまで変身してしまうと極端に弱くなるので、幼虫マンのうちに敵を倒さねばならないのだった。いい。ウルトラマンのように“縛り”があって面白くなりそうだ。
映像化したいという方がいらっしゃいましたら、お問い合わせは冬樹蛉まで。
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