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2001年6月中旬 |
【6月19日(火)】
▼おおおおお。京阪電車の駅でおれは愕然とした。紅いスーツを着て、インテリ風の眼鏡をかけた美女が、ポスターの中から微笑んでおるではないか。右手には指示棒を持ち、いまにもなにやらいろいろな、とてもいろいろなことを教えてくれそうな構えである。よい。非常によい。誰じゃ、この女性は? こんな人、関西におったか――とコピーを見て、二度愕然とする。「おけいはんの、耳寄り情報。」
なんと、この眼鏡の美女は、あの“おけいはん”(“地方在住”の方は、2001年4月6日の日記など参照のこと)か! こんなに眼鏡が似合うのなら、なぜいつものぺっとしたカエル顔を晒しているのか! けしからん。最初から眼鏡をかけて出てこんか!
これはなんとしても一枚盗んで帰って野尻抱介さんに送らずばなるまい――とは思ったが、野尻さんのために捕まってもつまらんと思い直して、踏みとどまった。きっと、ウェブサイトに縮小版くらい載っているだろう。
はたして――載っていた。というわけで、野尻さん、全国七千万人の眼鏡っ娘ファンよ、「おけいはん◆ポスターギャラリー」は「株主さん優待編」を見よ!
それにしても、“おけいはん”はいつのまにか全国区になっているらしい。ポスタープレゼントには、わざわざ東京から応募して当たっている人がいたりするうえ、ウェブサイトのBBS「私のおすすめ京都」掲示板にも関東の人のものらしき発言が乱れ飛び、おけいはん・水野麗奈本人もしばしば登場して、やけに盛り上がっている。とても、京都と大阪を結んでいるだけの一ローカル電鉄会社のキャンペーンとは思われない。こういうケッタイな現象も、インターネットあればこそであろうなあ。京阪電車がどこを走っていようが、もはやどうでもよいことなのである。
【6月18日(月)】
▼今度は杉並区の幼稚園に刃物女出現。こういう事件はひとつ起こると、あとからあとからゴキブリのように湧いて出てくるのが不思議である。「おお、そうか。私はああいうことがやりたかったのだ!」と隠れた欲望に火が点くやつが増えるのか、はたまた、いつもこんな事件は規模の大小はあれ同じような頻度で起こっていて、マスコミがことさらネタになりそうなものを選択的に報道するから似たような事件が立て続けに起こっているように見えるのか、その両方か、それとも、まったく想像の埒外にある理由によるものか――。
やっぱり玄関には木刀くらい置いておいたほうがいいのかなあ。かといって、賊に奪われたのでは洒落にならんし、年寄りには使えん。となると、スタンガンがいいかなあ。だが、おれの母親は信じられないほど機械に弱いうえに老眼と白内障が進んでおるから、せっかくスタンガンを買っても、電極のほうを持って賊に突き出す確率が、おおざっぱに計算しても二分の一くらいにはなる。もったいないから、買うのはやめておこう。
【6月17日(日)】
▼一日原稿書き。忙しい忙しい。じつは……って、それは昨日説明したか。
【6月16日(土)】
▼一日原稿書き。忙しい忙しい。じつは、大迫純一の《ゾアハンター》シリーズ(ハルキ・ノベルス)が面白い面白いと推しまくっていたら(〈SFオンライン〉:『ゾアハンター』『ウリエルの娘 ゾアハンター』/間歇日記:2001年2月8日、3月30日、4月12日など)、四巻めの解説を書けという話が来て、書く書くと引き受けて書いているのである。四巻めからはハルキ文庫の新レーベルで出るということで、よりお求めやすくなります。レーベルが変わるので、厳密に言うと“四巻め”ではなく《ゾアハンター》のシリーズ“四作め”ということになる。どうちがうねん、て? ハルキ・ノベルス版をあんじょう見てみ、巻の番号なんてついとらへんやろ? つまり、そういうこっちゃ。ハルキ文庫で初めて手にする読者にも、ちゃんとついてこられるように工夫したある。ついてきにくいところは、解説を読んどくなはれ、と、うまいことしたあるわけや。『カムラッドの証人 ゾアハンター』(大迫純一)は、七月十三日発売予定。四作めも痛快だぞ。
【6月15日(金)】
▼大きな事件が起きるたびに毎度毎度出現するのだが、今回もやっぱり「児童殺傷ゲーム」とやらが出現したらしい。池田小学校の事件が起きてから一週間も経たぬうちにゲーム一本作ってしまうとは、なんとも驚くべき開発力である。それだけの腕をもう少しましなことに使えんか? もっとも、この手のゲーム、社会的にインパクトの大きな事件のたびに現われるところからすると、すでに大量殺人ゲームのテンプレートか開発キット(!)があって、事件に合わせてちょこちょこパラメータやモジュールをいじくるだけでできてしまうようになっているのであろう。
こういうものを作って配っている輩を、マスコミはよく「無神経」と評したりしているけれども、「無神経」などといったニュートラルなものではない。無神経なやつは事件が起ころうが起こるまいが無神経なのであって、他人がどんな思いをしようが知ったことではなく、世間とはまったく無関係にひたすら己の心地よい道をゆくはずである。待ってましたとばかりに(事実、待っていたのだろう)こんなゲームを作って配るようなやつは、無神経なのではなく、あからさまに「悪意がある」に決まっておるではないか。被害者や被害者の家族が傷つくのが、「けしからん」と世間の人々が怒るのが、楽しくてしようがないのである。「殺された子供の家族や友人がどう思うか、想像できんのか」などと嘆いてみたところで無駄であるどころか、そいつらを喜ばせるだけだ。想像できるからこそ、こんなことをやっておるのである。
こういう手合いを、おれは犯人以上に品性下劣であると見なす。これはおれの価値観であるから、ご賛同いただかなくともけっこうだ。妙な言いかただが、犯人はまだ自分の手を汚しておるし、捕まっておるわけである。それにひきかえ、このゲームの作者はどうだ。自分だけは安全なところから、なんのリスクも取らずに、なんの罪もない人々を鞭打って楽しんでおるだけではないか。このような阿呆に人権など認めてやる必要はない。更正させてやるべき? 無駄だ無駄だ、こういう阿呆は一生こういう阿呆である。税金の無駄遣いだ。おっと、「なんのリスクも取らずに」というのはまちがいであった。おれが殺された子供の親であったら、このようなゲームを作っておる輩を刺し殺してやろうと思うにちがいない。そんな理不尽なって、殺意というのは理不尽なものだ。こういうゲームを作って配るからには、それくらいの覚悟を持ってやるべきであり、もしそれだけの覚悟があるのなら、阿呆ながらあっぱれと褒めてやろう(ないに決まっているが)。考えてみれば、おれが殺された子供の親であったら、犯人を刺し殺すわけにはいかんから、代わりに怒りを向ける対象としては、この手の虫けらはちょうどよい。警察が身辺警護をしているわけでもないし、まさにおあつらえ向けの殺意の対象である。このような虫けらが試しに一匹、見せしめに殺されてくれればよいとおれは願っている。おれがやらなくても、誰かがやる可能性は十分にあるだろう。おれはまだこの手の虫けらと刺しちがえるには自分の人生がもったいないが、もう思い残すことはない、最後にひとつくらいよいことをしようと開き直ったら、この手の虫けらを探し出して手を下すのも面白いと思っている。「ごごごごめんなさい、そんなつもりじゃありありありありませんでしたっ」どんなつもりだったというのだ? 「ひいいぃっ、ひひひとごろしぃ〜ッ!」まだ殺しとらん、これから殺すのだ。「ほんとにごめんなさい、ひいっ、ひっ、ぐわっ、ぎゃああああああ!」と、小便をちびりながら命乞いをする虫けらをメッタ刺しにして腹を裂き、ひきずり出した腸を首に巻いて、「ほれ、止まるまで持っておれ」と心臓を手に握らせてやったらさぞや爽快にちがいない。今後痛ましい事件が起こった際、それをネタにゲームを作ろうなどというやつが少しは減るだろう――いや、減らんな。なぜなら、おれのような価値観の持ち主が楽しめるゲームを開発してくれるやつが絶対現われるからである。つまり、「児童殺傷ゲームを作って配るような虫けらを殺傷するゲーム」という、たいへん楽しそうなゲームだ。
というわけで、あの手のゲームを作って配ってる虫けらよ、月夜の晩ばかりではないぞ。インターネットというのは、現実の社会、生身の人間に繋がっておることをいつか学習するときがやってくるであろう。学習したことは、その後の人生で役立てることができるはずだ。もっとも、それを学習した後の人生があるほど運がよければ、の話だが……。
【6月14日(木)】
▼二、三日前に申し込んでおいた〈小泉内閣メールマガジン〉の第一号が昼前に届く。はっきり言って、内容は全然面白くないけれども、一国の首相が総編集長となり、一国の内閣が国民に直接メールを送ってくるなどという事態は、十年前に誰かに言ったら「アホか」と笑われるにちがいなかったのであって、象徴的な意味でやはり第一号を直接手にしたくて申し込んだのであった。ケータイに転送されてきた小泉メルマガを小さな画面で読みながら、二十一世紀じゃなあと感慨に耽る。
それにしても、ついこのあいだ三十万だかそこいらだと報道されていた登録者数が、今日は七十万だかとそこいらだと言われていて、これだけのメールを確実に配信するインフラにはずいぶん金がかかっているにちがいないとちょっと羨ましくなる。しかも、見るみるうちに登録者は百万、二百万と増えてゆくに決まっているのだから、最初からかなり余裕を持った設備になっているはずだ。セキュリティーにも金をかけているだろう。このメルマガの登録者リストが漏洩したり、このインフラを乗っ取られて「レイちゃんでーす。すごいサイト作っちゃったの。アタシの恥ずかしい写真がいっぱい。絶対キテね!」みたいなメールを百万人に出されたりしたのでは、またまた大喜びする人がたーくさんいるのである。教科書問題や靖国問題絡みで、セキュリティーの甘い地方自治体などのサイトをしばしば攻撃している中国などのクラッカーたちも手ぐすねを引いているにちがいない。メルマガのインフラを管理している人の心労はたいへんなものであろう。ご同情申し上げる次第である。
▼今日は、偶然メルマガの話題が続く。朝日放送が運営しているオフィシャル・ファンクラブ「club A:bocca(クラブ・エーボッカ)」というのがあって、そこでも当然メルマガを出しているのだが、今日届いた今週号に「A Ray of Hope」が、つまりこのサイトが、紹介されている。「ABCアナウンサーがよく見るサイト特集」で、畏れ多くも「関西女子アナの中で一番脚が長いと噂の鳥木千鶴アナが定期的に覗いているというサイトを推薦して」くださったのであった。あわわわわ。もったいないもったいない。鳥木様、どうもありがとうございます。このところ、日記が遅れがちなので、今日ご挨拶をしてもしかたがないのだが、「club A:bocca」のメルマガでここを覗きにいらした方々、こんな字だらけのサイトですみません。鳥木アナからは過分なお褒めの言葉を賜っておりますが、少なくとも「どうでもいいことに真剣にこだわる」ことだけは人後に落ちぬものがあると自負しておりますので、そういうのがお好きな方は、今後ともご贔屓に。
【6月13日(水)】
▼『TV・マスコミ「ことば」の真相』(メディアファクトリー、藤井青銅)を読む。これもちびちび読もうと思っていたのに、食後にちょこっと手をつけたら、あまりに読みやすくてつるつると全部読んでしまった。ああ、もったいない。
藤井青銅は、こういうのやらせたらうまいなあ――って、こっちが本業といえば本業なのであるが、彼の登場と活躍を〈ショートショートランド〉と〈SFアドベンチャー〉でリアルタイムに目の当たりにした世代のおれは、やっぱり藤井青銅をSF作家と認識しているため、どうしてもこっちの路線が世を忍ぶ仮の藝のように見えてしまうのであった。
「ワイドショー、ニュース報道、スポーツ番組にだまされない。タブーなことば禁じ手用語辞典」と腰巻にあるように、要するに、藤井青銅版・放送業界『悪魔の辞典』である。たとえば――
●ワイドショー・バラエティー
【あ】
【あとは現場で】と言われて現場に行ったところで、なんの準備もされていない。これは「あとは現場で(困ってください)」ということ。
【こ】
【今回は泣いてくれ】毎回、今回である。永遠に次回はない。
●スポーツ・報道
【に】
【日本人の乗客はいませんでした】海外での大事故ニュースにおける結語。
【ゆ】
【夢をありがとう】日本人スポーツ選手が国際的な大会で破れたときに贈られる。つまり最初から、勝つことなど「夢」だと思っていたということ。
●タレント
【し】
【女優開眼】パッとしなくなった女性タレントが、ハダカになってブルーリボン新人賞を得ること。
【と】
【友達のつきそいで来たら……】「弟が勝手に応募」を見よ。
●CM・その他
【ふ】
【フランスパン】買物袋から必ず半分はみ出している食べ物は二種類ある。フランスパンと長ネギ。前者の場合の女性は若く、後者はそうでもない。
【れ】
【レモン×個分】ビタミンCの含有量換算のときに使われる。が、多くの果物や野菜のビタミンCが平気でレモン五個分であったり、一○個分であったりする。つまり、レモンはビタミンCが少ない果物だということ。
――と、こんなのがまるまる一冊続くのだが、面白いから飽きない。けらけら笑いながらも、いちいち納得してしまう。しかし、「禁じ手用語辞典」と言われても、こういう言葉を使わずに放送をすることはほぼ不可能なのではないかと思うのだが……。放送関係者には厭な本にちがいない。頭の中で「ああ、この言葉、あの本にあったよなあ。ヘンな言葉だよなあ」と思いながらも、やっぱり“禁じ手”の言葉を使ってしまうだろうからだ。藤井青銅氏に於かれては、『書評・解説「ことば」の真相』などという本はくれぐれもお書きにならぬよう。「【読んで損はない】買うのは損だということ」なんて調子で“禁じ手”を一冊分書かれたのでは、怖くて誰も書評など書けなくなるのではないか。
【6月12日(火)】
▼ケダちゃんお薦めの『男を抱くということ』(斎藤綾子・南智子・亀山早苗、飛鳥新社)を読了。鼎談なので読みやすく、細切れの空き時間にちびちび読んでいるうちに終わってしまった。
早い話が三人の性の求道者が猥談をしているわけだが、これがそこいらのおばさんの猥談ではない。まるで科学者の鼎談のようである。この猛者たちはそれぞれに言葉のプロであって、自分のものの感じかたを分析して言葉にできる能力の持ち主だから、ただただ「やりました」という性体験談にはない知的興奮が楽しめる。なにしろ、ふだん女性同士が男性のいない場所でどのような猥談をしているのかは量子論の観測問題みたいなもので、男性であるおれがありのままを観測することは原理的に不可能だ。だが、なるほど、そういう猥談を本にしてしまえば、これは男性にも読めるのである。
いやあ、じつに勉強になった。風俗業の南氏が職場で遭遇した「ブラックホール男」の話はハードSF的にも面白いが(本気にせんように)、それよりも人間の飽くなき探求心と未知に挑む崇高な冒険心に大笑いしながら怖くなった。女性の腕とはいえ、四本入るか、ふつー? 男体の神秘である。フィクションでこんなことを書いたら、「そんなバカな」と一蹴されるにちがいない。
「基本的に私はバイセクシャルとゲイセクシャルって全然、異質なものだと思うのね。ゲイセクシャルは好きな性が決定しているもんでしょ。だからヘテロセクシャル(異性愛)と同じに見えるわけ。バイの私からすると」(斎藤綾子)ってのには、目から鱗が二、三枚落ちた。なーるほど、そうにちがいない。おれはヘテロだが、たしかにレズやホモの感覚のほうが、バイのそれよりはずっと想像しやすい。マジョリティーとマイノリティーとに怠惰に分けるような見かたよりも、ずっと本質に迫った認識である。こりゃ、SFだSFだ。そうか、ヘテロはイルカで、バイはサメ、レズはゾウでホモはモグラだとすると、ヘテロは、サメよりもよほどゾウやモグラのほうに近いのだ。次元がちがう視点を与えられてしまったおれは、今後ヘテロもホモもレズも同じようなものと見てしまうことであろう。それにしても、いまごろこんなことを発見するとは、SF者としてまだまだ甘いなあ。
▼《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。
「Treva」で撮影 |
小林泰三初の長篇書き下ろし作品の文庫化である。腰巻には「著者初の長編ホラー推理」などと書いてあり、初の超・ハード・SF・ホラー長篇(そんなものはたいてい初だと思うが)『ΑΩ(アルファ・オメガ)』(5月28日の日記参照)と同時に発売されることとなった。『密室・殺人』の文庫と『ΑΩ』が同時期に書店に並ぶという事実は、多分に偶然ではあるのだろうが、小林泰三のことであるから、そのこと自体がなにかのいたずらであると解釈したとしても、それを否定しきれるものではない。なぜなら、『ΑΩ』を注意深く読んだ人はすでに気づいてらっしゃると思うが、『密室・殺人』と『ΑΩ』とを並べて眺めてみることはけっして無意味ではないからである。というか、それに気づいた読者は、それ自体が『ΑΩ』そのものに仕掛けられた大いなるいたずらを見抜くヒントのひとつとなっていることにも気づいてしまうはずなのだ。文庫版『密室・殺人』の香山二三郎氏の解説にある「だが、著者の新世紀最初の長編はもちろんハードSF。二○○一年HAL、否、初夏、本書と時を同じくして刊行されるそのタイトルは『ΑΩ』(角川書店刊)。SF者の血が騒ぐであろうこの年、著者の関心がミステリーから少し離れるのも、まあ致しかたあるまい。シリーズ第二作が書かれるとしても、まだ少し先になるかもしれない」というくだりを読んで、小林泰三(と、おそらく担当編集者)は「ぐふふふふふ」とほくそ笑んでいるのにちがいないのだ。ほんまに食えんおっさんである。
『ΑΩ』のウルトラマン・ネタをばらしたとてそれは小林泰三作品的にはちっともネタばらしにはならないのだが、今日の日記はじつは『ΑΩ』のものすごいネタばらしである。しかし、このネタばらしがネタばらしだと認識できない読者にはちっともネタばらしにならないため、このくらいの思わせぶりなネタばらしをしておいてもよろしかろうと思う次第なのだった。なに? 思わせぶりすぎてさっぱりわからん? 小林泰三の読者なら、消去法で推理してみたまえ。なに、やっぱりわからん、冬樹は性格が悪い? いやあ、小林泰三には遠く及ばない。
【6月11日(月)】
▼またもや5月26日の日記に絡む話である。“北野勇作さんが小説を書いていた喫茶店の件”について、田中啓文さんからメールをもらったのだ。なんと、北野さんが三宮の喫茶店で小説を書いていたちょうどそのころ、田中さんもやっぱり三宮の喫茶店で小説を書いていたのだという。作家志望の若者は、これからはなにがなんでも三宮の喫茶店で小説を書くとよいと思う。交通費がバカにならない人は、三宮に引っ越してはどうか。だが、三宮の地の霊力はあの二人が吸い尽くしてしまったあとであるかもしれないから、まったく効果がなくてもおれは知らん。
それで、だ。北野さんが三宮の喫茶店で小説を書いていたことをなにかで読んで知ったとき、田中さんも「絶対に同じ店だと確信」したのだそうである。ところが、よせばいいのに、田中さんは後日北野さんに確認してしまい、ちがう店であることが判明してしまったのだった。もったいない。訊かんかったら、若き北野勇作と若き田中啓文が互いに気づかずカリカリと小説を書いていた世紀の喫茶店が存在した可能性を残す世界におれたちは住めていたのに。
田中さんは、おれの日記の記述から、おれがふらりと入った喫茶店をある程度特定しているそうで、しかも、ちゃんとおれには黙っていてくれるそうである。ありがたいことだ。
それにしても、あそこいらへんには、SFに所縁のなにかがあるのか? しかも、三人とも同い年だというのがはなはだ不気味である。もしかしたら、三十年前くらいに放映された特撮番組かなにかにサブリミナル・メッセージが仕込んであって、未来の同じころ三宮で喫茶店に入るように暗示をかけられておったのかもしれん。
▼小学生殺傷事件の犯人、宅間守が、ケッタイなことをほざいている。最初からケッタイなことをほざいているが、ますますケッタイである。なんでも、こいつは死刑になりたかったらしく、「エリートでインテリの子供をたくさん殺せば死刑になると思った」などと言っているそうだ。文法的にはなはだ曖昧な供述である。“エリートでインテリの子供”というのは、“エリートでインテリである親の子供”という意味か、“小学生ですでにしてエリートでインテリである子供”という意味か。“エリートでインテリの子供”でも少し殺したくらいでは死刑になるかどうか怪しい、あるいは、ボンクラの子供(親がボンクラである子供、または、自身ボンクラである子供)を殺したのでは、エリートでインテリの子供を殺すのよりも死刑になる確率は低いとでも思っているのであろうか。じつに幼稚な供述だが、それだけにその言葉の底に流れる歪んだ論理が図らずも醜く表現されてしまっていて、とてつもなく気味悪い。
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