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2001年5月下旬 |
【5月30日(水)】
▼“御教訓作家”の船見幸夫さん(2001年3月5日・8日の日記参照)が公式サイト「フナちゃんのホームページ」を開設なさった。『御教訓カレンダー』(パルコ)を中心に、船見さんがいままでに“御教訓”関係の媒体・イベントなどで発表なさった輝かしい“御教訓”の数々が読める。さすがは常連であり、おれの「今月の言葉」などとは、またひと味ちがった異様なセンスを持った方である。こういう“御教訓”だって、俳句などと同じで、日常生活の中でも感覚を研ぎ澄ましていないとなかなかいいものは浮かばないものだ。武道などといささかも変わるところはなかろう(?)。
それにしても、なんの世界でも共に切磋琢磨するライバルがいるというのは美しいもので、「御教訓カレンダー」25周年記念の「御教訓王バトル」のようすなどを読んでいると、まるで〈ショートショートランド〉のような〈ネオ・ヌル〉のような〈宇宙塵〉のような「森下一仁のショートノベル塾」のような、SFファンでない方にはさっぱりわからない喩えで申しわけないのだが、まあ、そういったものに通じる清々しさがある。“御教訓”の世界にも、やはりこういうえも言われぬ人間関係があるのだなあ。おれのように、SFファン活動、同人活動というものをほとんどしたことがなく、三十くらいまでただただひとりで読んだり書いたりしておった“遅れてきたSFファン”には、なかなかそのあたりの機微はわからないのであり、ちょっと入ってゆきにくい思いが、コンベンションなどに参加しておっても、いまだに抜き難くある。もっとも、そうした同じ穴の狢――じゃなかった、同じ釜の飯を食ってきた人々のやりとりを傍で聴いているのは、微笑ましく清々しく、けっして不快ではない。なんの世界でも、こういう人たちが支えておるのだなあ、この宇宙も捨てたもんではないなあという気がするからである。
【5月29日(火)】
▼田中眞紀子くらいに元々有名な女性が外務大臣になったからいいようなものの、今後、民間から抜擢された無名の女性がいきなり外務大臣になったりすると、少々ややこしいことになりそうだ。パーティーなんかに出ても、ほかの人は新しい外務大臣の顔を知らないので、失礼なことを尋ねたりする――
「おお、むさい男ばかりの宴に、お美しい方がいらっしゃる。失礼ですが、ご職業は?」
「はい、外相などやっております」
「……そっ、それはそれは、じじじつに歴史のあるお仕事で、あは、あはは、は」
【5月28日(月)】
▼「ピップ内服液」(ピップフジモト)のCMで、弟子だかモデルだかの華奢な女性に大きなカボチャを頭の上に掲げさせ、彼女が「せ、せんせいっ、か、肩がっ」と苦しんでいるのに「肩がなんだっ!」と塑像を作り続ける芸術家の先生を見るたび、「あ、きくち先生」と思ってしまうSFファンはかなりいると思う。菊地秀行ではないぞ。
▼《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。
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「Treva」で撮影 |
うーむ、ちょっと書影の写りが悪いのはご勘弁を。鈍く銀色に輝く装幀なので、おれの部屋で写真を撮ると、どうしても蛍光灯が映り込んでしまうのだ。まあ、しょせん「Treva」ですから。
小林泰三、ひさびさの書き下ろし長篇。腰巻によると、これは「超・ハード・SF・ホラー」なのだそうである。「“超ハードSFホラー”ってなんや?」てか? ちゃうちゃう、「超・ハード・SF・ホラー」や。小林泰三作品に対峙する場合、とくに「・」ひとつとておろそかに考えてはならない。で、「“超・ハード・SF・ホラー”ってなんや?」てか? さあ? 〈SFマガジン〉2001年7月号の「新・SFインターセクション〈第6回〉」(ゲスト・小林泰三、インタビュアー・大森望)によると――
――そこで今回の『ΑΩ』では、“超ハードSFホラー”という新キャッチが登場したわけですね。宇宙が出てきても大丈夫だぞと。
あれは僕が考えたキャッチじゃないんですけど、たぶんいま日本で超ハードSFホラーを書いている人はそう多くないと思うんです。
――そりゃそうでしょうねえ。
まあ、それはそれでウリになるかな、と。
――ということである。なんという深謀遠慮であろうか。作家志望の方々は、いま「超・ハード・SF・ホラー」を書くといいかも。なにしろ、ライバルが少ない。小林泰三のほかに「超・ハード・SF・ホラー」を書いているのは、おれの知るかぎりでは三・一四一五九……(およそ三)人くらいのものである。
で、どういう話なのだろうと、さらに腰巻を読むと、こういう話らしい――『ジャンボジェット墜落。真空と磁場と電離体からなる世界から、「影」を追い求める「ガ」。再生する男・諸星隼人。宗教団体「アルファ・オメガ」。世界に溢れかえる“人間もどき”。――人類が破滅しようとしている。――「日本ホラー小説大賞短編賞」受賞の小林泰三が描く、ハードSFホラー超大作』
じつによくわかる。え? わかりませんか? おかしいなあ。“諸星隼人”ですか“人間もどき”ですか“人類が破滅”ですか。とくに昭和三十年代生まれの人間には身体に顫えがくるくらい意図的に陳腐なこれらの怪しい言葉どもを絡み合わせ、この平成の世に小林泰三が例によってどれほど大真面目で新鮮で壮大な悪ふざけをぶちかますのか、わくわくしてくるではないか。
【5月27日(日)】
▼日本語の不思議をまたひとつ発見する。落ちている食いものを拾って食ったら、それは“拾い食い”である。が、落ちている本を拾って読むのは“拾い読み”ではない。それはまったく別の意味になるのである。また、立ったままものを食うのは“立ち食い”である。では、“立ち読み”とは立った姿勢で本を読むことかというとそうではなく、たとえ座っていても、書店で本を買わずに読む行為は“立ち読み”と呼ばれる。“食中毒”とは食材に元々含まれている毒素や微生物の繁殖などによって産生された毒素で健康を損なうことであるが、“本中毒”とは毒のある文章を読んで健康を損なうことではない。
してみると、食べるという行為と読むという行為はよほど相性が悪いのだろうか。だが、本に関して「栄養になる」とか「咀嚼する」とか、食関係の言いまわしを借りてくることも多いから、必ずしも相性が悪いわけでもなさそうだ。待てよ、食のほうで本についての言いまわしを借りることはあるか? 「てにをはの怪しいサラダ」とか「キャラの立ってない懐石料理」とか「センス・オヴ・ワンダーのないカレー」とかいった言いかたをするだろうか? 人が使っているのはあまり耳にしないが、使えば意味は通じるような気もするな。しかし、「センス・オヴ・ワンダーのない料理」ならなんとなく意味はわかるが、「センス・オヴ・ワンダーのある料理」と言われると、頬が落ちんばかりの驚きに満ちた料理ではなく、“甘口抹茶小倉スパ”のようなものを連想してしまう(1998年9月2日の日記参照。どうしても写真が見たい人は、タニグチリウイチさんの「裏日本工業新聞・縮刷版98年8月下旬号」を参照のこと)。
げに、日本語は難しいけれども、“食道楽”と“本道楽”は、対象がちがうだけでほとんど同じ意味であるのがせめてもの救いだろう。なんの救いなんだか。
【5月26日(土)】
▼月日の流れを実感させる言いまわしとして、おれがたまに使う表現がある――「岡田有希子が生きていれば、今年で○○歳なんですよねえ」
べつにおれはさほど岡田有希子が好きだったわけではないが、ショッキングな死にかたであっただけに誰の記憶にもよく残っているから、「そうか、あれからもう○○年も経ったのか……」と誰もがしみじみと実感しやすいのである。こんな用途に供せられては岡田有希子も迷惑だろうが、少なくとも、「宇野さんが首相を辞めてから、もう○○年か……」などという言いまわしよりは、ずっとわかりやすいことはたしかだ。え? 岡田有希子って誰だって? キミは……十四歳? そりゃ、知らんわなあ。むかし、そういうアイドル歌手がいたのだ。岡田有希子を知らない若者は、「ユッコスマイルをもう一度!」あたりで、歴史として勉強してくれたまえ。
で、岡田有希子が生きていれば今年で何歳かというと、岡田有希子は一九六七年生まれ、おれより五歳年下だから、今年で三十四歳になっていたはずである。ほうら、そこのおじさん、おばさん、月日の流れをしみじみと実感したでしょう? さらにSFファンの方にわかりやすい表現で駄目押しをしてみようか。岡田有希子は、日下三蔵さんよりも森山和道さんよりも年上である。これ、そこのあなた、なにも熱を出して倒れなくてもよろしい。それだけ月日が経ったということなのだ。
そこでおれははたと考えた。岡田有希子と同い年の人を思いつかないのだ。手近な〈SFマガジン〉の「今月の執筆者紹介」を二、三冊調べてみても、なぜか一九六七年生まれが見当たらない。なにもSF関係者にかぎることはないか。この日記を読んでくださっている人にはおなじみの六七年生まれの人はいないか。六七年生まれの人、六七年生まれの人……あっ。思い当たった。朝日放送の鳥木千鶴アナウンサー(1998年9月8日、2001年2月2日・6日、3月5日、4月21日の日記参照)が一九六七年生まれでいらした。そうかそうであったか、おれもたったいま気づいたばかりだ。岡田有希子も、生きておればいまごろ鳥木さんのような大人の色気をふりまいていたであろうに、残念なことである。切っても突いても死なない松田聖子の爪の垢を、なぜ誰かが早く煎じて飲ませてやれなかったかと悔やまれてならない。なんかこう書くとおれが松田聖子を嫌っているように聞こえてしまうが、おれは三十すぎてからの松田聖子はけっこう好きだよ。
▼《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。
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「Treva」で撮影 |
『かめくん』(北野勇作、徳間デュアル文庫)の衝撃(“衝撃”という言葉がこれほど似合わない作品もないけれど)もあって、今年はウェブ上のSF系読書人のあいだににわかに北野勇作ブーム(にわかにではないぞとおっしゃるヒラノマドカさんみたいな方もたくさんいらっしゃるでありましょうが)が起こっている。そのせいも少しはあるのかどうかは知らないが、長らく入手が困難だった第四回日本ファンタジーノベル大賞優秀賞受賞作であるこの作品が、ついに復刊された。めでたやめでたや。
「徳間デュアル文庫版あとがき」を読んで、以前に書いた喫茶店の件がますます気になってきた。北野さんが勤め帰りに小説を書いていたという喫茶店と、おれがたまたまふらりと入って第四回日本ファンタジーノベル大賞の結果発表の新聞記事で初めて北野勇作の名を目にした(じつは〈SFアドベンチャー〉で目にしているはずなのだが、失礼なことに記憶になかったのだ)喫茶店とは、同じ喫茶店であったのかどうかという点である。今回、「三宮駅の高架下にある喫茶店」という記述を見て、さらに驚いた。お、おれが入った喫茶店も高架下にあったのだ。喫茶店というよりも、どちらかというと大衆食堂に近いような雰囲気の店だったように記憶している。夕方だというのに、客はあまり入っていなかった。おそらく、静かなだけが取り柄の店だったのだろう。だとすると、ますます同じ喫茶店である可能性が高くなるではないか。確認することが絶対に不可能なわけではない。北野さんと三宮へ行って、「この店ですか?」とやればいいのだ。三宮で京都SFフェスティバルでもないかぎり(あったとしたら、それはすでに京都SFフェスティバルではない)、たぶんそんな機会はないだろうが……。もっとも、そんな機会があったとしても、なんとなくはっきりさせるのが惜しいような気もする。「そうそう、この店です!」「いや、この店とはちゃいます」と“観測”して過去を収束(?)させてしまうのも無粋だ。過去が確定したとたん、“北野勇作がカリカリと小説を書いていた喫茶店にスーツ姿の不機嫌なおれが入ってきて新聞を読みはじめた”という世界は永遠に失われてしまうのである。これはあまりにもったいない。そうであったかもしれず、そうでなかったかもしれぬ愉快な思い出(?)のままにしておくのがよいのかもしれない。
もはや確定させることはけっしてできないが、かなり存在した確率が高かったであろう過去の事象はもうひとつある。“学生時代のおれと田中哲弥が文学部の古ぼけた学舎のトイレで並んで小便をしはじめ、同時におちんちんを振って余滴を切った”という過去(1999年6月8日、6月12日の日記参照)である。『過ぎ去りし日々の光(上・下)』(アーサー・C・クラーク&スティーヴン・バクスター、冬川亘訳、ハヤカワ文庫SF)の“ワームカム”(現在と過去のあらゆる地点・時点がデバカメできる装置だ)みたいなものが発明されたら、この事象は発生したかどうか、無粋でも確認してやろうと思っている。大笑いできるにちがいないからだ。
【5月25日(金)】
▼帰宅して、買ってきたばかりの〈SFマガジン〉2001年7月号を開き驚愕する。百八十ページの「てれぽーと」欄に書かれている「SF界では知的でカッコいいと評判の冬樹蛉氏」とは、いったいどこの冬樹蛉氏のことであろう。工藤央奈さんも罪な人である。誰かが本気にしたらどうするのだ。しかも、よく読んでみると「SF界では知的でカッコいいと評判の冬樹蛉氏と塩澤快浩氏をゲストに迎え」と書いてある。これは『「SF界では知的でカッコいいと評判の冬樹蛉氏」と「塩澤快浩氏」』というふうに誰が読んでも誤解の余地なく読めてしまうのであり、はなはだ塩澤編集長に失礼である。ここはやはり、「SF界では知的でカッコいいと評判の冬樹蛉氏とSF界では知的でカッコいいと評判の塩澤快浩氏」とするのがテッテ的に正しい文法であろうと思う。それにしても、「SF界では」に妙に力が入っているような気がするのはなぜだろう? まあ、そういう些細なことは忘れて、ここに付箋を挟んで家宝にしよう。
▼本を読んでいて、「あ、このあたりは、むかし夢で読んだ」と、ほとんど確信に近い既視感が生じることはないだろうか? 本をよく読む人は、おそらく“本を読む夢”をたまに見ると思う。“本を読んでいる”というシチュエーションを夢に見るのではなく、夢の画面(?)いっぱいが本の版面そのものになっていて、そこに書いてある内容を読んでゆくと、はたしてそれが本来の夢の内容であるといったややこしい夢を見ませんか? で、目覚めているとき実際に本を読んでいる最中、「あっ、ここはいつか夢で読んだぞ!」と愕然とするのである。こういう話を母や妹にすると、狂人を見るような一瞥をおれに投げたかと思うと、なにごともなかったかのように別の話をはじめたりするのだ。
どうも、おれだけの体験だとは思えないんだがなあ……。
【5月24日(木)】
▼ケータイのディスプレイのフロントライトが点かなくなる。これは困ったな、すぐには修理に出しにゆく時間がない。日中はいいのだが、少し暗くなってくるとめちゃくちゃに不便だ。ライトが点かなくなってみてはじめて、自分が暗闇でいかにケータイを使っているかを思い知った。駅から家に歩いて帰ってくる最中など、気がつくとメールニュースやらを読んでいたりするわけである。本にはライトが点かないからだ。
本が読めないとき、あるいは、本を読むにはあまりに空き時間が細切れであるとき(横断歩道の信号待ちとか)、反射的にケータイに手が伸びて、なにか活字を読もうとする。どんなくだらない情報でも、とにかく情報が常時脳に流れ込んでいないと不安なのである。では、そのぶん賢くなっているのかというとまったくそんなことはなく、たぶん、脳に情報が流れ込んできているのと同時に、脳の隅っこのほうに空いた穴からどんどん大事なことが流れ出ていっているのにちがいない。人はよく「やあ、これはいいことを憶えた。ひとつ賢くなった」などと言うものであるが、「やあ、これはいいことを忘れた。ひとつアホになった」とは言わないのだ。なんとなれば、なにを忘れたかを指摘できるのであれば、ちっともそれを忘れていないからである。つまり、なにかを憶えるのは自覚できるが、忘れるのは、それを思い出そうとでもしないかぎり、自覚できない。よって、どんな人でも、“主観的には”自分はどんどん賢くなっているものと錯覚しているのではあるまいか。とはいえ、なにかを忘れるときに、「脳の容量がいっぱいです。いまから“これ”を忘れますが、よろしいですか?」などと額の裏にダイアログボックスが現われ返答を迫ってきたら、これは怖い。「う〜む、どうしよう。“これ”は、もしかしたら、あとで必要になるかもしれない。忘れるべきか、忘れざるべきか……」と、その都度悩んでしまうことであろう。優柔不断な人はなかなか[OK]ボタンが押せず、その結果、いつ使うのかわからない記憶がどんどん脳に溜まってゆき、ある日、なにか難しいことを考えようとした途端、「作業ファイルが作成できません」などと額の裏に出てきて、あわててブラウザのキャッシュやアダルト画像をごそっと消してその場をしのいだりする羽目になるわけで――って、なんの話だ?
【5月23日(水)】
▼会社の帰りにコンビニに入ると、またもや“虫系”の玩具菓子が出ていたので、試しに一個買う。トミーの「昆虫の森」というやつだ。トミーはおもちゃが本業なのだから、玩具菓子じゃなく菓子玩具、食玩ではなく玩食なのかもしれない。「全長一○○ミリのビッグサイズ! 超リアルモデル!!」などと謳っており、カブトムシ、アトラスオオカブト、ネプチューンオオカブト、オオクワガタ、ミヤマクワガタの五種がある。
帰宅してさっそく組み立ててみたのだが、うーむ、これはイマイチですなあ。五種類という半端なラインナップといい、メジャーどころばかりの安全牌でまとめた“選虫”といい、ちっとも大人にアピールするところがない(だから、アピールしなくていいんだってば)。ここはやはり、タケトビイロマルカイガラトビコバチとかニセクロホシテントウゴミムシダマシとか、そういうものを入れてほしかった。どういうものか知らないが。
最近気になっているのは、この手の食玩フィギュアのパッケージにしばしば登場する“超リアル”という言葉である。“超リアル”な昆虫モデルということは、surreal、すなわち、“柔らかいカブトムシ”とか“不安がらせるトンボたち”とか、そういったもののことを指すのではないかと反射的に思ってしまうのだ。かといって、“激リアル”なんてのも妙だしなあ。
▼《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。
「Treva」で撮影 |
こっ、これは“濃ゆい”面子やなあ。“濃い”ではない“濃ゆい”である。なんでも、怪異現象を専門に担当する「国枝特殊警備保障」なる組織があり、その三人のメンバーが怪事件を解決する話だそうである。『面妖な方法で邪霊を祓う和製エクソシスト、怪僧洞蛙坊。人の妄念を昆虫や獣の形で「見る」ことのできるバイセクシャルの美青年比嘉。すべての怪異現象は科学的・合理的に説明できると主張する元大学教授山県』――と、著者紹介、じゃない、腰巻に書いてあるが、これら癖のありそうな(どころではないが)登場人物たちを活躍させる担当は、ご想像どおり、洞蛙坊は田中啓文、比嘉は牧野修、山県は我孫子武丸だ。誰や、そこで「まんまやないか」と言うとるのは? まあ、まんまかもしれんが、バイなのは牧野さんではなく森奈津子さんなのではないかと、そのような安易な“見立て”にはあえて異を唱えておきたい。
というわけで、こいつは面白そうだ。欲を言えば、著者近影は、口絵の登場人物紹介の“実写版”を特殊メイクでやってほしかったなあ。
【5月22日(火)】
▼おやおや、おれはなにを書いているのだ。昨日の日記に、文脈と逆のことを書いてしまっている箇所があった。「“可及的すみやかに”なら、かなり“可及的”のほうに重点があるように聞こえる」って、ちがうがな、“可及的に”が血肉の通った大和言葉でないので、“すみやかに”のほうに重点があるように聞こえるんやがな。ややこしいので直しておきました。
▼それにしても、ハンバーガーに入っているピクルスは、なぜあんなにうまいのだろうか。あれが嫌いで、わざわざピクルスを抜いてくれと注文している人をたまに見かけたりするのだが、ずいぶんと人生を損している人であるなあと哀れみの眼差しを向けざるを得ない。たしかに、単品のピクルスはまずい。いや、そもそもあんなもの単品で食ったことなどないから、ひどくまずいにちがいないと想像するのみである。だが、ひとたびハンバーガーに挟まると、世の中にこれほどうまいものはそうはないと思われるほどで、じつに不思議である。ハンバーガーにあんなものを入れることを最初に考えついたやつは、今世紀最大の天才だ。いったい誰だろう。さては、その人こそ、かの有名なピーター・パイパーさんではあるまいな。
おれがいかにハンバーガーに代表されるファーストフードが好きであるかは、この日記の常連読者の方々はよくご存じであるかと思うが(「迷子から二番目の真実[17]〜 ファーストフード 〜」参照)、だからといって、アメリカに魂を売り渡したやつだと思われるのも癪にさわる。おれは、おにぎりも大好きである。ハンバーガーほど好きではないというだけだ(やっぱりアメリカに魂を売り渡しているかも)。一日に一回も米を食わない日がしばしばあったりするけれども、米は食わなくても納豆は食うから、まだまだおれの大和魂も捨てたものではない。
そんなおれが言うのもなんだが、おにぎりは不滅だ。どんなに日本人が米を食わなくなっても、茶碗で食わなくなっても、おにぎりだけはそうそう簡単には滅ぶまい。バイオハザードかなにかで世界中の稲が絶滅するようなことがないかぎり、おれは三百年後にもおにぎりが存在しているほうに賭ける。ひょっとしたら、三百年後の人々は、意識をコンピュータにアップロードしてデジタルなヴァーチャル空間の中で暮らしているかもしれないが、そのデジタルな日本人たちは、やっぱりデジタルなおにぎり(のデータ)を食っているにちがいないと確信するのである。
【5月21日(月)】
▼“可及的すみやかに”という言葉は、どうも気色が悪い。“可及的”という堅苦しい漢語と“すみやかに”という柔らかい大和言葉との取り合わせもちぐはぐだが、それよりなにより、「どうして“できるだけ早く”と言わんのか」と突っ込みたくなる。なにか“できるだけ早く”ではいかん理由でもあるのか?
と、考えてみたら、なるほど、理由があった。“できるだけ早く”では、早くできそうにないときに、“できるだけ”のほうに心理的な重点がかかってしまうのである。できるだけでいいのだ、できるだけやっているではないか、これがおれのできるだけだ、と思ってしまい、たとえば、締切に……まあ、その話はやめよう。“可及的すみやかに”なら、かなり“すみやかに”のほうに重点があるように聞こえる。
“可及的すみやかに”は、そうした心理的効果を考慮し、言われたほうがより大きなプレッシャーを感じるように、あとで言いわけがしにくいように編み出されたお役所用語、もしくは、政治家用語なのであろう。そのわりには、お役所も政治家も、あまり“可及的すみやかさ”とは縁がないように思えるが、せめて言葉の上だけでも緊張感を醸し出そうということなのかもしれない。気色の悪い言葉だが、それなりの工夫が込められた言葉なのである。
あっ、しまった、要らんことを解明してしまった。もし、あなたのところに、「可及的すみやかにお願いします」と、クライアントとかスナックのママとか編集者とかから電話がかかってきても、おれのせいではないぞおれのせいではない。
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