間歇日記

世界Aの始末書


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2000年1月上旬

【1月10日(月)】
▼ううむ、そうか、こりゃ気に留めたこともなかったな。二○○○年から二○○九年を英語でなんと呼ぶかって問題が持ち上がっているそうなんだが、いったい最終決定は誰がするのかね? 英語といったって、もはや無国籍語なんだから、イギリスやアメリカが決定するのだとしたら、英語を使っているほかの国が面白くないだろう。zeroes だの naughties だのが有力候補に挙がっているそうだけれども、いずれもなんとなく気色の悪い表現だ。まあ、慣れの問題でしょうがねえ。zeroes よりも、まだ naughties のほうが年代っぽい語感があってましかな。やはり、二○一○年代になってから、ディスク・ジョッキーが言いやすい表現にしたほうがいいんでは? あまりにも視野が狭いか。
 英語のことはさておくとして、そもそも日本語でどう言うことになってるんだ? “ゼロ年代”“零年代”か、はたまた“マル年代”か? “マルマル年代”だと、なにやら自衛隊のヒトみたいである。どのみち、この手の表現は、国語審議会やらなにやらが“正式に”決めたところで、みながそれに従うとはかぎらない。“E電”って、いったいどこの路線だっけ? “大江戸線”は、みんながあちこちで「死して屍……」って言ってるおかげで、意外とすんなり受け入れられてるみたいだな。
 さてさて、あなたは“○○年代”をなんと呼びます? なんだかこのままだと、年代を意図的にぼかした表現みたいだ。“ゼロ年代”が最有力候補のような気がするなあ。

【1月9日(日)】
▼土曜の深夜(日付は今日だ)、携帯電話に奇妙なメッセージが飛び込んでくる。まったく心当たりのないアドレスからで、ただ「届いた」とだけ記されていた。なななんだこれはと思っていると、またもや別のアドレスからメッセージがやってきた――「まみごん」
 ショート・メッセージが混信しているのだろうか。電子メールの混信というのは、むかし NIFTY-Serve で経験したことがある。以前、NIFTY-Serve には毎年恒例の“年賀メール”というサービスがあり、大晦日にいっせいに自動発信するよう旧年中に年賀メールを出すことができた。ある年、大晦日の負荷に耐えかねてシステムがヘンになってしまい、他人へのメールが送られてくる現象が頻発したのだった。おれのところにも二、三通やってきたが、他人宛のメールが届くというのは、じつに気味の悪いものである。年賀メールなら当たり障りのない内容だからまだいいが、ラブレターだの不倫メールだの督促状だの殺人依頼だのが送られてきたら、これはまことに気まずいにちがいない。「このあいだはとてもよかった。君のXXXに初めてXXXをXX、XXXX、XX、XXXっXXXっと、XXXXX。あの夜のことを思い出すと、XXXがXXXXするので、いまXXX、XXXXX、XXXXXX。XXX」(青少年の読者を考慮し、一部伏せ字にしました)などというメールがまちがって配送されてきたら、はたして正しい宛先に転送してあげるべきかどうか、はなはだ悩むであろう。「○月X日□時◎分、テレビ△△に小渕出演。ブツは大道具部屋着ぐるみピンクの熊の中。逃走経路は計画通り。成功を祈る」なんてのが送られてきたらどうしよう。適当に内容を書き換えて身元の割れない方法で転送してやったら面白かろうな。
 それはともかく、ショート・メッセージの誤配信は、内容が短いだけにいっそう想像をかき立ててくるものがある。「届いた」って、なにが届いたのだろう。さっき飛ばしたメッセージが届いたのか、田舎から送ってきたミカンが届いたのか、はたまた人間の頭か手足が届いたのか。いやあ、楽しい楽しい。「まみごん」となると、なおさらである。「まんごみ」のアナグラムだろうか。そうにちがいない。問題は「まんごみ」とはなにかだ。マミという少女のあだ名である可能性もある。だが、マミが少女であるとはかぎらない。七十三歳の爺さんかもしれぬ。
 おや、電話がピピッと鳴った。またやってきたらしい。顫える手でメッセージを開封する――「警告あります」
 ってなことになると、おれの人生ももう少し面白くなるのだが、残念ながらおれの人生担当の神様にはそれほどのサービス精神はない。なに、ネタがわからない? そういう人は、『偏執の芳香 アロマパラノイド』(牧野修、アスペクト)をお読みください。昨年のSF・ホラー(SFホラーではない)の傑作だ。読んでるうちに気が狂いそうになるので、もともとそういう気のある人は読まないほうが安全かもしれない。

【1月8日(土)】
▼おせちの残りの数の子を晩飯に食う。マダム・フユキとしては、よっぽど“数の子天丼”を作ってやろうかと思ったのだが、母がますますおれを狂人扱いするにちがいなく、こっそりかすめ取るのも困難であったので、とうとうふつうの食いかたをしてしまった。洒落のわからない人間と暮らしていると、日常が面白くない。
 今年手に入った数の子(厳密には去年手に入った数の子を今年食っているのだが)は、妹夫婦にお裾分けしたところが、たいへん評判がいいのである。粒が固く、粒同士の結合もしっかりしていて、歯応えが小気味よい。
 数の子天丼にし損ねたその数の子を食っていると、どういうわけかハーケンクロイツを掲げたドイツ軍が意気揚々と行進している映像が脳裡に浮かんだ。そうなのだ。あれを食っているときに食っている本人の耳に響いてくるザックザックザックという音は、兵隊が集団で歩いている軍靴の響きにそっくりなのである。そう思いませんか? きっと、戦時のトラウマのある人には、それがゆえに数の子が嫌いな人もいるにちがいない。どこかで誰かがいかにも小説やエッセイに書いていそうなんだが、こんなケッタイな連想するのはおれだけかなあ?
▼いやあ、かっちょええ。なにがって、カシオが発表した「リストカメラ」と「リストオーディオプレーヤー」だよ。デザインはオーディオプレーヤーのほうがかっこいいけど、さすがにこの大きさでは使用時間が短くなってしまうのはいたしかたないな。おれはリストカメラのほうに、より魅力を感じる。とにかく、なんでも腕時計型になっているだけで「おおお」と思ってしまうのは、テレビや映画のSFで刷り込まれているせいだろうか。
 このスペックでこの価格とはたいしたものだなあと、ひとしきり感心し、最後にあるべきものを捜した――が、さすがになかったね。いや、当然のことながら、「時間を知る機能だけはないので、時計は別途買うように」という古典的なオチがあるだろうと思ったのだ。なんと、「時刻表示・アラーム・タイマー・ストップウオッチなどの基本時計機能」は搭載されているのだとのこと。つまらないが、そのほうが便利ではあるよな、もちろん。

【1月7日(金)】
▼会社の帰りに家の近所を歩いていると、団地の集会所の前にある電話ボックスの中に、なんと、珍しく人がいる。若い男だ。この日記をはじめたころに、かつて電話ボックスの常連だった若者たちを見かけなくなったと書いたことがあるが、近所の電話ボックスが使用されているところを、今日、ほんとうにひさびさに見た。やっぱり、まだまだクラーク・ケント以外の人間にも電話ボックスは役に立っているのだなあ……と、通り過ぎようとしたおれを、そこはかとない違和感が襲ったのだった。なにかがおかしい。“まちがいさがし”クイズの絵を見るように、おれは電話ボックスの中で話す若者の図をいま一度じっくりと見た……。あ、まちがいめっけ。ボックスの中の公衆電話には、受話器が掛かったままだったのである。
 もうおわかりであろう。その若者は、電話ボックスの中に入って、自分の携帯電話で話していたのであった。なんともはや……。
 見知らぬ人がたくさんいるところで大声で携帯電話を使っている人がよくいるが、エチケットがどうのこうのという問題以前に、おれは恥ずかしがりなので、どうもああいうことが苦手だ。外で携帯電話を使うときには、できるだけ人のいないあたりを捜して、ハーモニカでも吹くかのように口を覆い隠しぼそぼそと話す。なーるほど、考えてみれば、電話ボックスの中ほど落ち着いて携帯電話で話せる場所もそうそうないのではないか。あの若者はすごい。発想が柔軟である。いっそのこと、中に公衆電話がついていない電話ボックス、というか、電話用ボックスをあちこちに設置してはどうか。冬場なんかはありがたいと思うぞ。夏はたまらんけどね。ご経験のある方も多いだろう。夏の炎天下の電話ボックスは、ほとんどサウナ風呂、いや、サウナ風呂そのものである。背広着て入って三分も話してごらんなさい、頭からバケツの水でもかぶったような姿で出てくる羽目になる。少々体形が気になる女性にはお勧めだ。長電話をすればするほど痩せられるにちがいないから、一石二鳥である。
amazon.com から、Joe Haldeman の Forever Free が届く。これが『終りなき戦い』(ジョー・ホールドマン、風見潤訳、ハヤカワ文庫SF)の“直接の続篇”である。一冊買いするなどという送料がもったいないことをしたのだが、いつのまにかハードカバー一冊買いの場合の包装が改善されていたようである。1998年10月7日の日記に書いたように、以前は段ボールの包装の上から樹脂製のベルトをがちがちに掛けてあって、そいつを切るのにひと苦労だったのだ。今日送ってきた包みは、いわゆる“キャラメル包装”になっている。開封指定箇所を持って引っ張るとミシン目に沿ってコンビーフみたいにくるりと剥ける。こういうところにも不断の改良が見られるねえ。そりゃあ、ここまでやってりゃ、第四四半期の売上が前年比の二・五倍になりながらも赤字幅が拡大するなどという藝当を演じられるはずである。ネット通販ってのは怖い世界や。だけど、いまシェアを掴んだ者には、やがてウハウハの先行者利益がもたらされる――はずだ。それまで投資家の気が変わらず、アマゾンが保ちゃいいけどね。というか、アメリカ経済のインターネット・バブルそのものが……。
 おっと、ついでだから注意を喚起しておこう。『終りなき戦い』は“終りなき”と表記するが、いま書店に出まわっている『終わりなき平和』(ジョー・ホールドマン、中原尚哉訳、創元SF文庫)のほうは“終わりなき”なので、おまちがいのないように。あっちこっちで誤表記を目にするのだ。アーサー・C・クラークChildhood's End も、ハヤカワは『幼年期の終り』(福島正実訳)で、創元は『地球幼年期の終わり』(沼沢洽治訳)なのと同じなんでしょうね。
▼SF関係者のウェブページ開設のお知らせが近接して二件届いたので、ご紹介しておこう。とっとと「リンクワールド」に入れればいいのだが、一年以上もほったらかしにしてしまっていてストックがかなり滞留しており、一気に更新する作業ができるときを窺っているのである。一度待ち行列ができてしまうとなかなか腰が上がらず、いつまで経っても更新できないから、そのうち、ストックをちびちび小出しにしはじめるかもしれないので、「リンクコーナーの次回更新時にリンクさせていただきます」と申し上げた方々、もう忘れちゃってる人もいるかもしれませんが、今年こそ「リンクワールド」を更新しようと思ってますんで、呆れながらお待ちください。
 さて、ついに瀬名秀明さんがご自分のウェブページ「瀬名秀明のページ」をお立ち上げになった。あくまで暫定版ということなのだが、特定の地域でしか読めない新聞への掲載原稿など、単行本未収録原稿が再録されているから、瀬名ファンは必見である。瀬名さんといえば、ドラえもんクーンツだ。さすがにドラえもんは(まだ?)ないけれども、「ディーン・クーンツのコーナー」の資料はすごい。もうこれからは、クーンツのビブリオグラフィーはここが定番となろう。
 いまひとつの新サイトは、京都SFフェスティバル常連の方々にはご本名でおなじみ、Arteさん(カレー左派)の「Arte's page 息をするタピオカ」だ。こちらには、ジョン・ウィンダム邦訳作品の丁寧なリストがある。ううむ、やっぱりうちも、なにかこういう役に立つコンテンツを置きたいものであるが、役に立たないことがウリになってしまっている感もあるので、まあ、これからも堂々と役に立たないでいることにしよう。
 さらに Arteさんのサイトのなにがすごいといって、京都SFフェスティバル’96で伝説となった、あの振り付き替え歌「ときめきビレニアム −梅原克文氏に捧ぐ−」が、詳細な舞い踊り資料と共に完全収録されている点である。替え歌などと軽々しく呼ぶのも憚られるな。あれはみごとなミュージカルの一シーンであった。わからない人にはさっぱりわからない内輪ネタなんだが、わかるあなたの前には、この世のものとも思われぬあの夜のひとときが、いま甦る!

【1月6日(木)】
▼先日、パソ通友だちのOCHIKA/LUNAさんからコミケのおみやげにもらった『カエル読本 第1章 〜カエルとはなんだ?〜』『カエル読本 第二章 〜カエルのミレニアム〜 「古代〜平安」』「かえるの学校」編)を読む。手作りのコピー誌である。日本文学に登場するカエルを紹介したもので、たいへん勉強になった。これを発行している「かえるの学校」のサイトも、「全国かえる奉賛会」の会員なんだよな。お仲間だったとは――って、べつに、カエル好きの人ならウェブパージにバナーを貼れば誰でも会員になれるんだけども、こうやってカエルの輪が広がってゆくのは嬉しい。カエル界に於けるゲコゲコ大王7世さん(全国かえる奉賛会会長)の功績たるや、大なるものがある。「かえる新聞」もずいぶん長く続いている。よくもこれだけカエルのネタが尽きないものだと思うが、それだけ日本全国にはカエル好きがいるのであろう。
 なぜにおれはこれほどカエルに惹かれるのだろうか? いやじつは、商業誌に書く段になってペンネームを決めるとき、よっぽどカエルにちなんだものにしてやろうかと思ったのだが、分野はちがえど中山かえる氏や木川かえる氏といった大先達がいらっしゃるので、おれの知るかぎりでは誰も使っていないトンボにすることにしたのだった。まことに罰当たりながら、おれにとっては聖なる“虫”の字がどうしても使いたかったのである。トンボなら、おれの中ではカエルとセットになっているし、音読みも『火星年代記』の大SF作家の名が借りられる。いやあ、こりゃいかにも名前負けしそうで気障でいい、これでいこいこ――と安易に採用した。
 ちょっと待て、と賢明な読者諸氏は首を捻られることであろう。どうしてカエルとトンボがセットなんだよ、と。由緒正しい文献を繙くと、古くは『元祖天才バカボン』の主題歌にも唄われるとおりであるが、おれの子供のころはほんとうにトンボとカエルはセットだったのである。カエルのいるところには必ずトンボがいた。トンボのいるところには必ずカエルがいた。水田にカエルを捕まえにゆくと、その縁にはまるでタマネギ部隊のような口を突き出してずらりとカエルが並んでいた。そろそろとカエルに歩み寄ると、横合いから“つーっ”とトンボが飛んできては、そこいらの竿竹の先に“るっ”と止まったものであるが、やっぱりそれはトンボであった。そんな永遠に続くかに思われた少年の日の午後がけっして永遠には続かないことを知っていた少年がふと空を見上げると、必ず視界の中に青い空と白い雲を背景に数匹のトンボが、古生代の巨大な先祖たちとさほど変わらぬ姿で音もなく滑っては停まり滑っては停まりしていた。それはそれは、胸が苦しくなるほどに時間の停まった、もの哀しく明るい昼下がりだった――って、なーにをセンチになってるんだよ。でも、そういうひとときが、たしかにおれにもあったのだ。
 トンボとカエルのなにがいいといって、水の中からまったくちがう環境の中に進出してゆくところがいいよね。身体も軽く厳しい乾燥とも無縁の水の中から、空に飛び立ち、陸に這い上がる。呼吸のしかたや身体の仕組みまでをも変え、重力に逆らってまったく異なる環境に挑んでゆく。なにが哀しゅうてそんなことをせにゃならんのか。それでも、彼らはやる。こんなケッタイなことをするのは、トンボとカエルと、そして人間くらいのものだろう。そりゃまあ、トンボやカエル以外にもそういうことをする生きものはいるが、やっぱり最も身近で象徴的なのはトンボとカエルなのである。そんな彼らに、同類としてなんとなく親近感を覚えないだろうか? 覚えない? あー、まあ、覚えん人はよろしいです、ハイ。

【1月5日(水)】
二日の日記でプラズマのせいにしたカレーの“同心円盛り”だが、同種・亜種が意外とあちこちにあるらしい。加藤秀一さん(カレー右派)は、『吉祥寺の喫茶店&カレー屋さん『まめ蔵』の、今は無き「でかい皿に平たく盛ったご飯の中心部分に、日の丸上に乗せられたカレー」という盛り方が好きでした』とおっしゃる。こういう店はわりとあるのかもしれない。
 この盛りかたに近いことを自宅でやっているのが林譲治さんだ。「私はカレーとご飯の位置はどちらが右でも左でもなく、ご飯を円盤状に盛ってから、中心部に穴をあけ、ご飯の堤防を構築してから中心部にカレーを入れるようにしております」と、土木工事みたいな食べかたをなさるそうである。人工降着円盤開発計画は、こうして生まれたのかもしれない。林さんの理論武装もハードSF的だ。「カレーというのはご飯の部分を食べるために存在する。ご飯こそが目的であって、カレーは手段に過ぎない。だからカレーはご飯を食べるのに必要な量以上は皿の上に存在してはいけない。ご飯を食べ終わった段階で、皿にはカレーも残っていない状態こそが私の理想とするところです」 おや、この前提は、ちょっとおれとちがう。おれは、米がある場合には左に来ないと気色が悪いが、カレーだけ食うのもまったく意に介さない。ときおり、カレーシチューと称して、レトルトカレーにスプーンを突っ込んで食ったりするくらいである。米だけ残るのは厭だが、カレーだけ残るのは平気だ。このあたりの嗜好のちがいも、右派と左派を分けるところなのかもしれないぞ。「そして最小限のカレーで最大限のご飯を食べようとする場合、カレーを右や左に偏在させると、カレー:ご飯の比率が常に変動してしまう。カレーを食べているはずなのに、最後の方ではご飯だけというのも嫌だし、その逆にカレーだけが残るという状態はどうしても勿体ないという気がしてしまう。それを防ぐには中心部にカレーというのが一番です」 スプーンを突き刺して食ってゆくときのカレーと米との比率を一定に制御しようとしているわけで、なんとなく発想が工学的だ。なぜ米の山の外側にカレーの海を作らないかというと、「そんなことをすれば皿からカレーがこぼれる」からだそうだ。た、たしかに。だとすると、米の平原なり山なりに、中央から渦巻状、あるいは螺旋状にカレーをかけてゆくのも捨て難いと思うが、これはあまりにも面倒だろう。
 新たに登場したのが奥村真さんの“カレー手前派”である。“左手前派”は出ていたが、奥村さんのおっしゃるのは完全な手前派。つまり、右利きの人が右手で食ってゆく場合、スプーンの先端がカレーとも米とも常に等距離を保てるようにするのが合理的であり、必然的にカレーが手前が奥かのいずれかになる。そして、その二択を迫られたとき、カレーを手前にせざるを得なくなるようにする決定打は、福神漬けの位置なのだそうだ。カレーを手前にすれば、福神漬けは左に来る。よって、最初は邪魔にならず、食べおえる間際のちょうどよいときにカレーまみれになっていない福神漬けが食えるという寸法なのだ。うーむ。これもわからんでもない。ただし、この理論を適用するには皿が真円をしていなくてはならず、楕円形の“あの”カレー皿ではだめなのである。大衆食堂ではテーブルのスペースをできるだけ有効に使わなければならないので、この理論は当初問題にした大衆食堂カレーには適さない。なるほど、考えてみれば、右派や左派が登場したのは、楕円形のカレー皿が前提にあってのことだろう。狭いテーブルやカウンタの上では、あれが便利なのである。やがて、日本人の食卓が広くなってくるにつれて、真円の皿が家庭でも使われはじめた。そのほうが高級っぽいというイメージが流布した。それによって、右派左派に留まらぬさまざまな流派が生じたのであろう。おそらく、真円の皿で出てきた場合、カレーと米の位置をダイナミックに変えながら、つまり、皿を回しながら食う人も少なくないのではあるまいか。
 ここへ来て、カレーライスのカレーの右左には、日本人の食生活の変化までもが影響しているらしいことがほのかに見えてきた。おお、すごいぞ、カレーライス。なんにでもこだわってみるもんだ。

【1月4日(火)】
ついにわが家にも西暦二○○○問題が持ち上がった。といっても、おれの家のベランダに装備してある対空防衛用スカッドミサイルが勝手に飛んでいったりしたのではなく、おれがHP200LXでテキストファイルを読むのに使っている「LogExpress」というソフトが、今年に入ってから作ったファイルを読み込めなかっただけである。かなり前に古いヴァージョンをインストールしたきりそのまま使っていたためで、最新のものをダウンロードして試したら、なんの問題もなく動作した。もののついでなので、HP200LXのアポイントメント・データに日本語の暦データをマージ。毎年の恒例行事である。驚いたことにおれは多少英語が読めるが、やっぱりカレンダーは日本語のほうが読みやすい。どうして英語も月を数字にしないのかなあ。そのほうが合理的だ。文化としては、睦月、如月……などのように残すべきだとは思うけどもね。あ、そうか。ああいう月の名前にしておかないと、連中はいつ牡蠣を食ったらいいかわからないのかもしれないな。おれもわからないけどね。
▼会社の帰りにコンビニに入ると、ぽてちの「PRINGLES」にピザ味が出ていたので買ってみる。あの筒状の容器に、扇形に切ったピザの絵が描いてある。その絵があまり上手でない。というか、かなりデフォルメしたピザになっている。最近妙な小説を読んだためか、その絵がどう見ても“吐瀉物”に見える。いや、医者ではあるまいし、おれは日常生活で“吐瀉物”などというスカした言いかたはしない。おれが入ったカラオケ・ボックスのトイレが汚れていたとしよう。おれは店員を捕まえて「店員さん、お手洗いが吐瀉物で汚れていますよ」などと言うであろうか? 言わん言わん。「ニイちゃん、トイレ、ゲロ吐いたあるで」と言うのが雅やかな庶民の言葉遣いである。で、はっきり言おう。この「PRINGLES Pizza」の容器に描いてあるビザの絵は、どう見てもゲロにしか見えん。“ゲロ”を“ゼロ”“ガロ”などと同じイントネーションで発音してはならない。それは東京弁である。関西弁では、標準語の“泥”と同じイントネーションを用いる。そう発音してこそ、吐瀉物、いや、ゲロのゲロらしさが出ようというものだ。
 というわけで、「PRINGLES Pizza」を召し上がる際には、まず「嘔吐した宇宙飛行士」田中啓文/〈SFマガジン〉2000年2月号)をお読みになってからにすれば、いっそう味が引き立つこと請け合いである。まあ、ゲロの話は別として、このピザ味はけっこうイケますよ。

【1月3日(月)】
▼テレビを点けると『21世紀プロジェクト“筑紫哲也・立花隆、ヒトの旅ヒトへの旅II 〜 人類最先端・2000年スペシャル”』(TBS系)ってやたら長いタイトルの番組をやってる途中で、パソコンを叩きながら背中で聴く。
 ちょっと前に話題になった、例の“クラゲの遺伝子を組み込んだ発光するカエル”が出てきた。おお、目が光る。可愛いな。さすがカエルだ。一匹だと可愛いが、ああいうのがそこいらを群れで跳ねていたら、ちょっと不気味かも。
 マイクロマシンのデモは、テレビの本領発揮である。こういうものがあると文章や静止画像では知っていても、やはり動いているところが見たいのが人情というものだ。寒天の中を磁場の作用で自力回転しながら進んでゆくネジなんてのは、どういう機構になっていて、どう磁場をかけているのか、もう少し突っ込んで説明してほしかった。最高に可愛いのが、磁界の中を羽ばたいて飛ぶ“マグネティック・モスキート”。あれ欲しいよー。おもちゃとして売らないか? 値をつけるとさぞや高いんだろうが、大量生産はできないのかな。
 広末涼子を単なる“壁の花”に使うのはもったいないだろう。現役早大生なのであるから、もっと自分の意見を述べる時間をたっぷり与えればいい。立花隆が詳しいのは本職なのだからあたりまえで(もっとも、単純に二分類すれば、彼はいわゆる“文科系”なのだが)、彼ばかりしゃべっても講義みたいでつまらないのである。筑紫哲也はあいかわらず月並みなコメントばかりしている。ああいう番組にこそ、SF作家を引っ張り出してもらいたいものだ。ビートたけしもいいんだが、それだと別の番組みたいなので、せめて伊集院光あたりはどうか。以前、『脳ミソの迷宮 第2夜 地球外生命進化論』(NHK)で、なかなか発想が柔軟で頭もよい(同じことか)ところを発揮していた。科学番組は、もっと彼を使うべきだと思うぞ。

【1月2日(日)】
おれの娘の広末涼子がテレビで高校ラグビー大会のPRをしている。「みんな負けるな!」って、広末君、早稲田大学の学生ともあろうものが、そんな非論理的なことを言ってはいけない。
▼さてさて、おせちもいいけどカレーもねってことで、たいへん長らくお待たせいたしました。1999年10月20日の日記に端を発した「カレーはどっちだ?」問題1999年10月24日28日)の特集である。メールをくださった方々、ありがとうございました。
 まずは、カレー左派(なんか政治的なセクトみたいだが)のねこたびさんのご意見は、「右からごはんを引きずってくると、自動的に舐めるようにきれいにルーを食べ尽くせる」ので、意図的にカレーを左に持ってくるとのこと。同じくカレー左派の松村靖さんの文化人類学的分析によると、『カレーライスは日本の米食の「丼モノ」の1形態である』と考えられ、『右利きの僕がスプーンを使用してその「丼モノ」の相似形をスプーン上に形成する、すなわち、スプーンの上にライス、そのライスの上にカレー、を乗せるには、ライスが右側、カレーが左側にあるのが最適だと思うのです』ということになる。ううむ。日本人は、スプーンの上にいちいち“丼もの”を作りながら食っているのか。なかなか説得力のある説である。junneさんもほぼ同じ理由を挙げてらっしゃるが、「こうしていくと最後のほうは皿のカレーをライスで拭い取るような形になるので後が綺麗だという利点が考えられます」と、後処理の利点まで考慮なさっているのであった。これらの意見をさらに学際的に補強するのが、以前に“携帯電話右派”の出現についてご意見をお寄せくださった宮崎泰仁さんである。今回もまたやたら面白く、要点を抜粋するのが惜しいので、原文をそのままご紹介しよう――

幼少期の私の交際範囲を見渡す限り、私自身を含め同年代のガキ共は、カレーとご飯、左右に隔てた上で出されているにもかかわらず、押し並べて、先ず中身をスプーンで引っ掻き回し、カレー皿内部のエントロピーを極限にまで高めておいてから食事に取り掛かっていたように記憶しております。
程なくそのような作法を窘められるか、自らその醜悪さに気付くかし、こね回すのをやめ、ご飯、カレーを、皿に残った両者の比率を勘案しながらスプーンの上に各々を量りとるようになると、思いがけずスプーンの上に出現したプチカレー皿にメタ構造の原点を見るようなときめきを覚えたりするわけでした。
ここに第1の美学を唱えるならば
「スプーンの上にあってなお、ご飯とカレーはそのコントラストを保つべし」
となります。

第2の前提となるのが箸にせよスプーンにせよフォークにせよナイフにせよ食事を採り終わった後、ソース、醤油等の粘性を持った残滓はそれぞれの先端部分にのみ、しかもできるだけ狭い範囲での付着にとどめておきたいとする美学であります。
この美学を極限にまで肥大化させると、その延長線上にブルジョアジーの楚々とした食事風景のイメージ(発想が貧困です、ご容赦を)を垣間見てしまっていやらしいので、むしろその対極にある状況から距離を置こうとする心理を動機付けにする方が良いかもしれません。
ラーメンを食べようとするとき、内容物が減るに連れ、節操なくドンブリの底にずり落ちていくレンゲの、柄に相当する部分が本来的な機能(スープによる手の汚れからフリーのままスープを掬う)をスープに侵食されているのを見る時に味わう落胆というものがございます。これから逃れるべく対処を突き詰めると、究極的にはスープの付着はレンゲの先端部一点に収束しよう、というロジックに根差したものだとお考え下さい。

ここに来て初めて皿の左右どのようにカレー及びご飯を配置しておくかということが問題になります。
スプーンを右手にとってカレー皿に相対した場合、皿の右側から差し入れられたスプーンの先端は向かって左側に位置しており、これはとりもなおさずスプーンの進行方向を指し示すものでもあります。

右にご飯、左にカレーを配した場合、正しく皿の右によそわれたご飯にざっくりと突き立てられたスプーンにはその先端から懐にかけてご飯が貯えられ、先端はなお、そのご飯量に見合ったカレーを求めて、皿左側のカレーの海原へ出帆することになります。このとき、ご飯が多孔性であり液体に対しそれ自身が一定の保持能力を持つという性質には、スプーンとカレーの間に層を築くことによって両者の接触を最小限に抑える機能を発揮することが期待できます。
これは二つの美学を同時に満足することを許す、いまのところ唯一の位置関係および運動法則といえるでしょう。

一方、皿の右側にカレーが配置された場合、先の比率に気を配りつつ真っ先に量りとられたカレーは、次に先端部から供給されるご飯によってあまりにも無造作に柄の付け根部分にまで押しやられてしまい、第2の美学は最初のひと匙で脆くも瓦解してしまうことになります。

カレーには失礼ですが、ソリッドであるご飯を「浄」、リキッドであるカレーを「不浄」とすると、右にご飯、左にカレーの配置において、スプーンの上には「柄側」=「右」=「浄」、「先端」=「左」=「不浄」の関係が構築され、あたかもヒンドゥー教義に通底した美学に昇華するように私の目には映るのです。

かなり昔、どこかのカレーのCMで、カレーライスと併せて、コップに注がれた水の中にスプーンを差し込んだものを出す、というシーンが挿入されていたように思うのですが、これもスプーンにとって、第一次の接触対象が、乾いたスプーンに貼りつきやすいご飯であることを想定しての配慮だったのではないかと思われますがいかがでしょうか。

 いかがでしょうかって、なんだかカレーを右に持ってきていたおれがとてつもなく愚かなことをしていたように思われてくるほどの理論武装である。おれの日記なんぞより、よっぽど面白い。
 このように左派に圧されているのであるが、左派にもいろいろあるようで、「厳密にいうと、左手前です」とおっしゃるのが、ひかるさん「右斜め上から手前の海へ陸地を崩し、カレーと混ぜて、左下から右斜め上にスプーンを移動しつつご飯の陸地にあて、しっかりとカレーとご飯の混合物をスプーンに確保して、口に運びます」というのだからややこしい。スプーンが往復運動をしているわけだ。なんだか卓球でもしているかのようである。
 おれの洗脳(?)の甲斐あってか、左派でもかなり揺れているのが冴西理央さん。「私は習慣としては、冬樹さんとは逆でカレーの海が左なんですよね。でも、今うちの『熟カレー』パッケージみたらカレーが右だー」おお、食ったことないが、えらいぞ「熟カレー」! 『よく考えたら(そんなに考えたか自分)和食の配膳って、ご飯が左、汁物が右に来ますよね。これでいったら日本の「カレーライス」に関しては、カレーが左に来そうな気がしてきたぞ』そうじゃろう、そうじゃろう、そう考えるのが正しい日本人じゃろう。この殊勝な意見の全文は、冴西さんのサイトの近況(1999年10月30日付)に述べられている。
 さらに、冴西さんから追って寄せられた奇妙な発見があるのだ。「熟カレー」のパッケージがカレー右派であるにもかかわらず、同じグリコから出ている「カレー職人」のパッケージでは、ひかるさんの流派と同じく、カレーが左手前になっているのだそうである。なんということだ。はっきりせんか、グリコ! あるいは、“職人”程度ではまだふらふらしているが、“熟”し切ると人はカレーを右に持ってくるものだという思想の表明なのかもしれない。たぶん、そうであろう。
 リサーチで実証しようという方々もいる。Mayさん(カレー左派)がスーパーで調査したところによれば、「カレーが左がほとんど。ただし、ほとんどがハウスの製品、および、グリコの製品が数点。ごはんが左は、永谷園のポケモンカレーとあと商品名を忘れたけどお子さま用一点、および、S&Bのハヤシライスのルウ二点、ダイエー製品が一点のみ」だったそうである。どうやら子供用のカレーは米が左のようだ。これはおそらく、子供にはまず本道を示そうという教育的配慮であろう。そうにちがいないっ!
 ご自分の掲示板でアンケートを取ってみたとおっしゃるのはケダちゃん(カレー右派)だ。複数回答ありで調査した結果、カレーが上(5名。「むかしは上だった」を含むと7名)、右(5名)、左(1名)、手前(1名)、中央(1名)、下(横浜の某幼稚園の給食)となったとのこと。“カレーが上”ってのは、左右に分けずにどばーっと米の上にカレーをかけてしまう流派を指す。じつは、おれが子供のころ、わが家はそうであった。テレビや本などで見る“米とカレーが左右に分かれているカレーライス”がなにやらハイカラなものに見え、おれは憧れたものだ。ケダちゃんもそうおっしゃっている。それにしても“カレーが下”ってのがあるとは、世界は驚異に満ちているな。古のギャグに言う“ライスカレー”というやつか?
 職場でリサーチなさったのが takatoさんで、「会社の同僚数人に聞いた所、私も含めて皆、左だそうです。同僚曰く、その理由は服の袖がカレーにかからないようにするためだそうです。そうすると、左利きの人は困るじゃんと言われそうですが・・・ちなみに友人の一人は、カレーが上でご飯が下、がベストと言っていました」なーるほど、服の袖か。これは鋭い着眼かもしれない。とくに背広を着てカレーを食う場合には、たしかに袖が気になる。カレーを左に配置する文化はサラリーマンが作り出したという推測もできるのではなかろうか。
 どうも左派が優勢なようで、おれとしては哀しいのだが、普及しているからといってそれが美しいとはかぎらない。VHSなんぞよりベータのほうが質は高いのだ(って、そういう問題か)。嬉しいことにスミタさんは、「今までカレーが左というのは考えたことも見たこともない、全く未知のお話なので、実体験に基づく話も何もないというかんじです。周り人間もすべて右派で、あんたなんでそんなわかりきったこと聞くねんといった風なので、左派が多数というのは驚愕の事実というか、正直、にわかには信じがたいほどで」とおっしゃっている。しかし、周囲がすべてカレー右派だというのも逆に奇妙な話ではある。局地的に集中するのか、こういうものは? そもそもこんなことをいちいち意識しないため、まわりの人間に無意識に影響を受けてしまうのであろうか。そういちさんによれば、『「POT&POT」というカレー屋に行ったのですが、カレー右、飯左でした。普通そうですよ』ってことになる。やっぱり、自分の流派が「普通そう」だと誰もが思っているらしい。こんなことを問題にさえしなければ、自分がどうやって歩いているかを(おそらく)意識していないムカデのように、人々は平穏な日々を送れていたにちがいないのだ。おれはなんということをしてしまったのだろうか。だが、もうあとには退けない。人間なるものは、ふと「カレーライスのカレーは、どちらに配置するべきだろう」と考えてしまうような存在なのである。この呪われた力が、やがてわれわれを星ぼしの彼方へと運ぶことだろう。
 ほかにも、向井淳さん(カレー左派)、コジョウ優子さん(カレー右派)、FUYUさん(カレー右派)、清水剛志さん(カレー右派)がご意見・ご報告をお寄せくださった。ありがとうございました。
 おっと、とても通常のファイルに登録できそうにない奇ッ怪なる例を忘れていた。清水剛志さんからのご報告――「私の勤務先(横浜)の近くにあるラーメン屋のカレーには海がありません。ライスの山の上に直接かけられているのです。これは何かの間違いであろうと次の日も注文したのですが、やはり真上から同心円上にかけられていました」
 ううむ。そういえば、先日の京都SFフェスティバルのとき、カップヌードルは必ずカレー(値段が同じだから)を買うという我孫子武丸さんも、同様の目撃例を挙げてらしたな。なんなんだろうね、これは? とりあえず、プラズマのせいだということにしておこう。

【1月1日(土)】
あけましておめでとうございます。旧年中は、当ウェブサイトの益体もないコンテンツにおつきあいくださり、まことにありがとうございました。今年もご用とお急ぎのない方は暇潰しに来てやってくださいますよう、よろしくお願い申し上げます。
 また、年賀状をくださった方々、ありがとうございます。新年のご挨拶をくださった方々に当方怠慢のためご挨拶を差し上げて損ねております失礼も多々ございますが、なにとぞご寛恕くださいますようお願い申し上げます。
▼さてさて、連続して動いている制御系のコンピュータにはさしあたりなにごともないようで、じつにめでたいことである。あとはこれから動きはじめる業務系・事務処理系だが、これはもう、なにもないほうがおかしいので諦めましょう。命に別状あるじゃなし。
 それよりも、だ。人間の西暦二○○○問題のほうが気になる。〈SFオンライン〉32号の「執筆者近況」で書いたように、しばらくは修正液の需要が跳ね上がるとおれは予測するのである。むろん、修正テープ修正ペンも含むぞ。コクヨの株を買うべきだろうか。いや、おれとしてはトンボ鉛筆を贔屓にするべきかもしれん。こういうのを風説の流布と言うのだろうな。
 個人的な二○○○年問題としては、この日記のファイル名をどうするかがある。二○○○年から西暦を四桁にする手もあるが、HP200LXを愛用するおれにとってDOSはまだまだ現役だ。ファイル名は半角八文字以内、拡張子は半角三文字以内でなくては気色が悪い。DOS環境にはまず持っていかないとわかっているファイルであれば、おれも長いファイル名を平気で使うのだが、このウェブサイトのファイルはそうではない。また、ここを読んでらっしゃる方々のほうにも、DOSの制限を守ったほうがなんらかの理由で都合がよい方もあるだろう。結局、ファイル名の西暦部は“00”とすることにした。ソートが乱れるのはいささか気色が悪いけれども、直接プログラムで処理をするファイルでもあるまいし、実害はないと思う。もっとも、こうすることでなにか差し障りの出る環境で読んでらっしゃる方もないとは言えないので、もしそんな方がいらしたら、あしからずご了承ください。
▼たぶん二○○○年問題ではないと思うけど、パソコンで“本上まなみ”と打とうとしたら“本所馬並み”と変換され、大爆笑してしまった。“中心にある重要なところが馬並み”という意味なのであろう。いかにも森奈津子さんにウケそうなネタではあるが、新年早々下品な男だと思われても縁起が悪いので(すでに思われているという説もある)、メールを書こうとしたのを踏みとどまった。
 で、なにが本所馬並み、じゃない、本上まなみなのかというと、本上まなみはええなあと言いたかっただけなのである。眠そうなところがよい。鳩が豆鉄砲を食らっているような葉月里緒菜を好むおれが、なぜ本上まなみなどに浮気するのか理解に苦しむ方もあろうが、葉月里緒菜だって眠そうな顔といったら、豆鉄砲とのコントラストがはっきりしているだけにそれはそれはもう色っぽいのであって、そういえば田中哲弥さんが99年12月17日の日記で葉月里緒菜のヌードカレンダーをもらったと書いていたので、おや新作だったら買おうかと「カレンダーのミカワ」で調べてみたらなんのことはない販促用のやつで写真集『RIONA』からのカットばっかりだった。それなら写真集があるからべつに要らんわい、どうだ思い知ったか……って、このまま二十枚くらい書いてしまいそうなのでそろそろやめておこう。
 それはともかく、おれは基本的に眠そうな女性には弱い。そういう人が最近増えているらしい。はっきり“眠そうな人”と言えばいいものを、“癒し系”などとわざわざわかりにくく表現するのがウケるようだ。でしょ? 癒し系と言われている人に、眠そうでない人がいるだろうか? 森本レオなんてあなた、声を聴いているだけでこっちまで眠くなってくる。しかし、眠そうだからといって、戸川純が癒し系であるかどうかは意見の分かれるところであり、そうするとやはり“癒し系”はただの“眠そうな人”ではないのかもしれない。
 春からなにに頭を使ってるんだ、おれは。今年も、こういうことばかり書き散らすにちがいない。


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