間歇日記

世界Aの始末書


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2001年7月下旬

【7月31日(火)】
▼最近作っていなかったからエネルギーが蓄積されていたのか、突如、替え歌ができてしまった。このところ、ハイヤー代水増し詐欺だのなんだの、じつにチンケな悪行を次々と暴かれている外務省に鉄槌を下す歌である。鉄槌を下すのは、ウルトラマンティガだ。さあ、みんなで呼ぼう。ティガーーーっ!

GIVE ME ハイヤー(「TAKE ME HIGHER」のふしで)

静かに朝焼けが 機密をつつんでく
いつもと 変わらぬ仕掛け…
遥かに続いてく 繰り返しの中で
僕らは 刹那(いま)を生きてる
みえない今日の旋風(かぜ)に 立ち向かってゆく
いつまでも守りたい このほくそ笑みを…

★その ticket, baby, give me ハイヤー
 券を抱きしめて いま
 この ticket, give me, give me ハイヤー
 金と取り替えて 高く

 その ticket, baby, give me ハイヤー
 きっと隠しおおせるさ
 この ticket, give me, give me ハイヤー
 ずるいキャリアを信じて…

心配ごとのない 老後を探してる
誰もが 待ち望んでる
僕らが出来ることを 続けてゆくよ
小ずるくなれればいい 漏らさずいたい

 その ticket, baby, give me ハイヤー
 眞紀子動きはじめた
 この ticket, give me, give me ハイヤー
 過去を切り開いてゆく
 その ticket, baby, give me ハイヤー
 立ち止まってられない
 この ticket, give me, give me ハイヤー
 いつもキャリアを信じて…

 その ticket, baby, give me ハイヤー
 この ticket, give me, give me ハイヤー

いつかは届くきっと 誰かの声が
日本も変えてくれる 僕の定年後…

★くりかえし

 ぜひプリントアウトして、カラオケ・パーティーに持っていってください。

【7月30日(月)】
▼さあて、選挙が一段落したら、右を向いても左を見ても、靖国参拝問題で騒いでいる。靖国神社に参拝するっつったのも総裁選のときの公約の一部だから、そうそう簡単に発言を撤回するわけにはいかないのはわかるけれども、融通の利かない人だね、小泉さんも。まあ、融通が利きすぎる政治家よりはましかもしれん。
 いまさら言ってもしかたがないが、靖国神社も靖国神社で、なんでまたA級戦犯を合祀しちゃったんだろうねえ。宗教心のかけらもないおれにはこんなことはどうだっていいこととしか思えないのだけれど、なんでも合祀とやらは不可逆反応らしい。いっぺん一緒くたに神様にしちゃったのだから、“分祀”ってのはそもそも概念として存在しないという。そんなもん、シントーの人が勝手に決めたことであって、おれたちの知ったことか。分けちゃいかんというのなら、残された手段は論理的にひとつしかない。連合国側だろうが枢軸国側だろうが、巻き添え食ったアジアの人たちだろうが、戦争に反対して殺された人たちだろうが、戦時下の厳しい環境で病死した人たちだろうが、とにかくあの戦争関連で死んだ人は全部まとめて合祀(?)しちゃえばいいのではあるまいか。靖国神社が許さんというのなら、ほかに勝手に碑でも作って、靖国神社に祀られている人たちも、二重になろうが三重になろうが、どんどん“合祀”すればいいではないか。そういうアイディアはすでに出ているようだ。小泉首相の言う、人間としての個人的感情とやらを尊重し徹底するなら、これがエレガントな解決法だろう。北条時宗にできて小泉純一郎にできないということがあるか。やったんさい、やったんさい。小泉首相の“個人的感情”の表現は不徹底である。この不徹底こそは責められるべきだ。

【7月29日(日)】
▼参議院選挙の投票にゆく。記名台(とでも言うのか、あれは?)のところに貼ってある比例区の名簿を見て呆れる。こういうありさまになっているのはテレビで観て知っていたが、目の当たりにすると感慨(?)もひとしおだ。まあ、有権者の選択の幅が広がるのはいいが、非拘束名簿式ってのもよしあしだよなあ。
 夜、選挙速報番組がはじまるや否や、自民党の圧勝が明々白々。面白くもなんともなく、大いにしらける。自分の所属政党に対して当てこすりのように恩を売っている小泉首相の愉快なテレビCMにはさんざん笑わせてもらったが、もとよりおれは自民党などという政党は信用していない。だが、小泉首相にはさしあたりはもっと暴れてもらいたい。“痛み”とやらはおれにも降りかかってくるだろうが、放っておいても緩慢に死んでゆくこの国を、いまいったんぶち壊さなかったら、二度と機会はあるまい。おれはもはや、いまはほとんど戦時下であるという意識である。きっと人もたくさん死ぬ。おれも職を失うかもしれん。だが、ぶち壊すところはまでは、小泉首相、あんたに任せた。そこから先は、小泉さん、あなたはやらなくていい。おれとは考えがちがう。
 自民党に入れてやったほうが反小泉勢力が強くなり、衆議院解散が近くなっていいのかもしれないが、勝つに決まっている政党に入れるのはおれの性格が許さずけったくそ悪いので、民主党に入れた。さてさて、巷で噂されるように、いずれは石原慎太郎が出張ってくるのかな。あのおっさんもぶち壊し屋としては評価しているが、根本的に思想が嫌いである。ほんとはもっと小沢一郎にがんばってほしいのだが、いまあそこに入れても完全に死に票になっちゃうしねえ。おれも歳を食ってかなり小ずるくなってきたかな。さあ、戦争だ、戦争だ。おれたち庶民の課題は、この戦争をなんとしても生き延びることである。「それがゲリラの本質だ」(村上龍『五分後の世界』幻冬舎)

【7月28日(土)】
▼ひさびさに“ケーシー冬樹の医学講義”である。今日の講義は、催淫剤についてだ。
 人類の歴史は催淫剤の歴史である。人類が色欲のために費やしてきたエネルギーはそれはそれはたいへんなものだ。
 神代のむかしからさまざまな催淫剤が開発されてきたが、まず課題となったのは、その持続時間である。いかに薬の効果をうんと長時間持続させるか――これについてはハイデガーの名著『催淫うんとツァイト』に詳しいから、各自目を通しておくように。
 持続時間の次に課題となったのは、その全身的効果である。セックスの快感は、けっして性器のみに依存するものではない。性器に捕われるばかりに、豊かな全身的な性感がないがしろにされがちであったのは、むかしもいまも同じである。しかし、先人の血の滲むような努力も空しく、全身的な快感をもたらす催淫剤の開発はことごとく失敗に終わり、結局、催淫剤研究は局所的な快感の追求に向かうこととなった。「催淫は部位」と故事にもあるとおりである。
 なにしろ薬の研究であるから、中国の残した業績は偉大なものである。とくに唐代の鍼師・滋恩鈿馬は、人間の肩に性感を高めるツボが三箇所あることを発見した。博識であった滋恩は、このツボを見いだしたとき、「三催淫オン・マイ・ショルダーズ!」と英語交じりに叫んだと伝えられている。また、漢方にも通じていた滋恩は催淫剤の調合に優れており、彼の調合した催淫剤を飲めば、鉄砲のごとくに精が迸ると大評判であった。この現象を中国医学では「漢方射撃」と呼んでいる。
 それでも滋恩はそれまでの催淫剤に飽き足らず、晩年ついに夢の催淫剤と後世に称えられる“丹全湯”を完成させた。丹全湯とは、臍下丹田が全きものとなる薬、の意である。滋恩は、それまで液体ばかりであった催淫剤の世界に、粉末剤の概念を持ち込んだ。初の粉末催淫剤“粉催淫”は携行に便利で、飛ぶように売れた。彼はその収入をすべて晩年の研究に注いだのである。ある日滋恩は、液体の催淫剤と粉末の催淫剤を混ぜ合わせることを思いついた。しかし、ただ混ぜ合わせただけでは加算的効果しか生まれなかった。次に、彼は、粉催淫に、液体の催淫剤を、少しずつ加えて、みた。だが、これも、うまくゆかない。彼は、諦めなかった(このあたりから中島みゆきの「地上の星」を唄いながら読むこと)。驚くべきことに、彼は、液体の催淫剤を、粉末の催淫剤で、割ってみたのである。液体を粉体で“割る”というのは少々妙な言葉遣いだが、しかし彼は割ってみたのだ。なぜ割ってみたのか? 鋭い人はもうそろそろオチが見えたと思うが、こうしてできたのが、かの丹全湯である。催淫を粉催淫で割ると、丹全湯になったのだ。なに、よくわからない? だから、催淫を粉催淫で割ると丹全湯になったのだ。なに、まだわからない? 恥ずかしいから何度も言わせるな、サイインをコサイインで割るとタンゼントウになったのだってば! ばんざーい、ばんざーい、ばんざーい。グラッチェ。

【7月27日(金)】
▼またまたコンビニで食玩を見つけて買ってしまう。まったく懲りないやつである。そろそろネタが切れてきたのか、とうとうマイナー路線の『大映特撮シリーズ』トミー)なるものが出た。なぜかガメラはないというラインナップが泣かせる。昭和四十年代初期に一世を風靡した、あのソフビ怪獣人形の老舗マルサンが企画・生産しているのがウリのようだ。いやあ、おれもいくつか持っていたなあ。どこへ行ってしまったのだろう。むかしの子供はマルサンのソフビ人形の首や手足をもいで遊んでいたからまともに育ったのであって、近年バラバラ殺人などが多いのはマルサンの人形で遊ばなくなったからである。残念なことだ。それにしても、いまウェブサイトを見てびっくらこいたが、サンダ(マルサン風のデフォルメだと、大仁田厚参議院議員に似ている)やガイラ(こちらは田嶋陽子参議院議員に似ている)、バイラスなんかは、まだ買えるんだな。ナゾーが二千四百円ってあなた、そんなもの、いまの子供が知ってるわきゃなかろうが。
 それはともかく、『大映特撮シリーズ』は、やっぱり基本の大魔神だけ買う。顔が変わったあとの大魔神のはずだが、マルサン風だと全然迫力がなく、非常に間の抜けた大魔神である。このあたりがまあ、レトロ調と言えば言えるであろう。マジックでサングラスを描いて、“大魔神子”にしてやろうか。

【7月26日(木)】
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

『ネコノメノヨウニ…』
田中啓文、集英社スーパーダッシュ文庫)
「Treva」で撮影

 田中啓文、スーパーダッシュ文庫に初登場である。少女小説誌〈Cobalt〉に連載された作品をまとめた短篇集であるが、「できるだけ、Cobalt にふさわしくない、ひどい、暗い、忌まわしい、読んだら目が腐るような、気持ち悪く、嫌な気分を引き起こす短編を書くよう努力した」というから、じつに教育的だ。日本の明日を担う少女たちに努力の大切さを教えようとする田中啓文の親心がひしひしと感じられる。「鬱陶しいときは、より鬱陶しいものを読んで、嫌ーな気分のときは、より嫌ーなものを読んで、ストレスを吹き飛ばそう!」ということである。そういえば、むかし読んだ通俗心理学の本に、そのようなことが書いてあったような気がする。
 というわけで、読んだら目が腐るそうなので、清純な少女は読んではいかん。あっ、なんてことだ、冒頭五ページめだというのに、いきなりセックスシーンがあるではないか。いかんぞ、読んではいかん。女子校で回し読みなどするのはもってのほかである。不良になるぞ。ああっ、七ページめだというのに、もう人が死ぬではないか。なに、もう人に貸した? いまから、あとがきの唆しに従って、田中啓文の本を買いにゆく? 悪いことは言わない、清純な少女は田中啓文など読んではいかん。不良になるくらいならまだいい。森奈津子になってもいいのか。岩井志麻子になってもいいのかっ……ううむ、最近の清純な少女はこの程度の脅しでは動ぜぬか、よおし、こここんなものを読んでいるとしまいには、ま、牧野修になってしまうぞっ! どうだ、怖いだろう。

【7月25日(水)】
『八月の俗物図鑑』というネタを考えたのだが、通じる相手が少なそうなので、「今月の言葉」用としてはボツにする。パロディーを書くのなら、ご自由に使ってください。あんまり心和む話にはなりそうにないなあ。

【7月24日(火)】
『ゲゲゲのしげる妖怪絵巻』カバヤ)なる食玩をコンビニで発見、またまた懲りずに買ってしまう。一反木綿は基本として、一応鬼太郎目玉親父を選ぶ。目玉親父がよくできていて、たいへん可愛らしい。お部屋のワンポイントに持ってこいだ。これはお薦め。もう一個買っとこうかしら。
 しかし、ねずみ男博士号を持っていたとは知らなんだ。人間、生きてさえいれば、なにかしら新しいことを知るものである。三百年くらい生きれば妖怪になるという水木しげる説も、まんざらでたらめでもなさそうだ。

【7月23日(月)】
6月19日に引き続き、またもや、野尻抱介さんを筆頭とする全国十四万八千人の眼鏡っ娘ファンに朗報!――って、他人事のように言うか。「株主さん優待編」のみならず、おけいはん眼鏡っ娘シリーズ(そう呼ぶことにしよう)に「おけいはんボンド編」が登場した。おおお、袖が、袖が……。

【7月22日(日)】
▼明石市の花火大会で将棋倒し事故。死傷者多数。状況を見るに、人災であることはあきらかである。亡くなった方々は、まことに気の毒なことだ。貧すれば鈍すとはよく言ったもので、日本人はここ二十年ばかりのあいだにどんどんバカになってきているような気がする。たぶん、もっと貧すれば、逆に賢くなってくるだろうから、行くとこまで行ったほうが日本のためなのかもしれない。なんとも殺伐とした考えかただが、最近、そんなふうに思うほどに呆れた事件が多い。
 “将棋倒し”という言葉をニュースで聞いたとき不謹慎にも思ったのだが、はて、最近の若い人たちには“将棋倒し”という言葉は通じるのだろうか? あなた、将棋倒しなんかして遊んだことあります? 若い人にも通じさせるには、“ドミノ倒し”とでも言ったほうがよいのではないかと一瞬思ったけれども、ちがうちがう、“将棋倒し”と“ドミノ倒し”とでは意味が全然ちがうではないか。「え? 同じじゃん?」って、おいおい、しっかりしてくれよ、やっぱり“将棋倒し”って言葉は廃れているのかい? “将棋倒し”は、折り重なって倒れる(倒れた)様態に意味の重点があるが、“ドミノ倒し”は、連鎖的に倒れる過程に重点がある。だから、人が折り重なってすでに倒れているのを見て、「あ、人が将棋倒しになっている」と、現在の状態として“将棋倒し”を使うことはできるが、「あ、人がドミノ倒しになっている」などとは言えないのだ。いや、どんな場合でも絶対に言えないというわけではない。「あ、人がドミノ倒しになっている」を、現在進行形として言うのであればかまわない。あなたの目の前で、並んだ人々がバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタといままさに倒れていっている過程を描写するのであればよろしい。そんな特異な状況に遭遇するとはとても思えないが……。もし遭遇したとしたら、あなた自身もドミノのひとつになっている可能性がかなり高く、「あ、人がドミノ倒しになっている」などと客観的に描写している場合ではないのである。
 だけど、厭な予感がするぞ。すでに“ドミノ倒し”は“将棋倒し”の意で誤用がはじまっているのではあるまいか。とすれば、そのうち幅を利かせた誤用が両者の意味をないまぜにしはじめ、やがては“ドミノ倒し”が“将棋倒し”を駆逐してしまうにちがいない。こんなことを確信したくはないが、激しくそういう気がする。それが言葉の進化(?)というものでもありましょう。でも、目の当たりにはしたくない進化だなあ。

【7月21日(土)】
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

『ロボット21世紀』
瀬名秀明、文春新書)
「Treva」で撮影

 『シンポジウム「バイオ世紀の生命観」遺伝子組み替え食品からクローンまで』(コーディネーター:高橋真理子、パネリスト:ルース・フロマーリンガー、リサ・ワトソン、安田節子、ダリル・メイサー、中村祐輔、リー・シルバー、玉井真理子、瀬名秀明/1999年9月3日/東京・有楽町朝日ホール/主催:朝日新聞社フォーラム21)や、「『パラサイト・イヴ』の作者、ロボット開発最前線をゆく 鉄腕アトムをつくれ!」(〈文藝春秋〉平成十二年二月特別号)あたりから、瀬名秀明がロボットを追いかけていることはよく知られていたが、その後の取材や知見、雑誌掲載の記事などを基に、全面的な加筆・改稿を加えたのが本書である。著者もあとがきに書いているようにほとんど書き下ろしみたいなものだから、雑誌記事をまめに追いかけていた人も、日本のロボティクス最前線の網羅的な紹介本として手元に置いておいて損はない。
 SFファンには改めて言うまでもないだろうが、ロボットというものは、ただ人間の動作を真似させているだけの機械にすぎず、そいつに教えてやることはあっても、そいつから学ぶことなどないと捉えている人は存外に多いような気がする。べつにおれは専門家ではないが、おれの浅学に照らしてすら、現代のロボット工学はそんなものではない。ロボットが金属や樹脂でできた機械にすぎないと言うなら、おれたちだって有機物でできた機械にすぎないのである。現代のロボット工学は、おれたちの心や認知の仕組みが、おれたちの想像以上に“人間の形をした肉の器”に依存してできあがってきたものなのではないかというところにまで斬り込みつつある。もし、おれが生まれてすぐ宇宙人にさらわれて脳を摘出され、宇宙人の超医学でもって、腕が二十本、脚はキャタピラ、赤外線や紫外線が見え超音波が聞こえ、圧覚はあるが痛覚はなく、β線が当たると痒く感じるといったロボットの筐体に移植されて育ったとしたら、もしかしたら、おれは人間が“知性”と呼んでいるものとはまったく異種の“知性”を持つことになっていたかもしれない。
 また、こんな想像をして楽しむSF好きはおれだけではないと確信するのだが、クローン培養した人間の“ブランク脳”(つまり、フォーマットしていない“空白ディスク”の脳版だ)を、人体の持つセンサーをすべて備えたヒューマノイド・ロボットに移植して“生活”させれば、“人間の知性”を持つのではあるまいか? むろん、倫理的に許されるとはとても思えぬことだし、膨大な情報を扱う各種センサーと生体脳とのインタフェースをどう取るかは想像もつかないが、いつの日か、技術的には可能になることだろう。人間の脳でなくとも、チンパンジーあたりの脳だったら、器さえ人間にしてやれば、言葉くらいしゃべるようになるような気がする。案外、犬でも猫でも、そこそこの人間(?)に仕上がるかもしれない。おれがマッド・サイエンティストだったら、ぜひやってみたい実験のひとつだ。


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