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2001年7月中旬 |
【7月19日(木)】
▼サッカー少年の独白が微笑ましい、公文式のテレビCM――「大きくなったら、外国ですごいサッカー選手になりたい。インタビューにだって英語で答えたい」
そりゃキミ、イタリア語のほうが絶対かっこいいから、そういう動機ならベルリッツへでも行ったほうがいいんじゃないか?
【7月18日(水)】
▼最寄り駅へと歩いてゆく途中、電信柱に「極真カラテ」と、門下生を勧誘するポスターが貼ってある。しばらくゆくと、「月極駐車場」と看板が出ている。おれはいつも、誰かが「極真駐車場」と「月極カラテ」に書き換えてくれないかと、わくわく胸を躍らせている。しかし、弱そうやな、月極カラテ。
【7月17日(火)】
▼選挙戦たけなわ。大衆(?)にアピールしようと、政策と関係ない部分で浅薄なメディア合戦が繰り広げられている。まあ、人々が政治にまったく無関心であるよりも、まだ政治家にミーハーしているほうが健全ではあろうが、それも程度問題だぞ。
いまこそ、徳間書店さんには、『公共考査機構』(かんべむさし、徳間文庫)を徳間デュアル文庫で復刊していただきたいものである。
【7月16日(月)】
▼〈小説すばる〉2001年8月号を買う。ふだんあまり買わないのだが、牧野修、田中啓文、小林泰三という、まるで〈SFマガジン〉のような表紙を見ては、買わざるを得まい。〈SFマガジン〉のようなどころか、田中、小林ご両人の作品は、ちゃんと惹句に“SF”と謳ってある。つまり彼らは、聞いて驚け、「大衆にアピールする芸のない作家もどき」(同号[カーテンコール]「業務連絡」梅原克文)なのである。これは斬新なコピーだ。いまどき“大衆”などというものがいったいどこにいるのか教えてほしいものだが、まあ、そのあたりの不見識に目をつぶれば、なかなかインパクトのあるコピーである。こう言われては、「大衆にアピールする芸のない作家もどき」、すなわち、SF作家の作品をまず読みたくなるのが人情というものだ。梅原克文氏には、もっともっとあちこちで“SF”という文字を頻出させていただきたい。また、〈小説すばる〉に於かれては、「大衆にアピールする芸のない作家もどき特集」と表紙に大書していただきたかったものであるが、なあに、まだまだチャンスはある。次回はぜひそうしてはどうか? なにごとかと買う人が増えること請け合いだ。
おっと、そうそう、梅原氏には、ひとつ教えておいてさしあげたいことがある。そのむかし“大衆”なるものがあった時代、その“大衆”が最も嫌うことはなんだったかをご記憶か? なに、お忘れか? では、教えて進ぜよう。それは、「おまえが大衆だ」と指をさして言われることだ。「いやあ、大衆はね……」と大衆のひとりが言うとき、その大衆に自分はけっして入っていないのである。ゆめゆめ疑うことなく、今後の参考にしていただきたい。
【7月15日(日)】
▼「SFセミナー2001」の『「SF」とのファースト・コンタクト 瀬名秀明、SFに対するアンビバレントな思いを語る』(出演/瀬名秀明)で使われた資料(にさらに加筆し、講演で発表できなかった資料を加えたもの)が、「SFセミナー2001」のサイトで「瀬名秀明氏講演録」として公開されている。SFの売りかたに興味のある方にとって、たいへん面白いデータと考察だろうと思うので、とくに編集者志望、出版社の営業員志望の方にはお薦めしたい。
この資料の「講演後の反響に対して」で、瀬名講演に関するおれの感想文が言及されているので、これについては少しお答えしておかねばならないだろう。
おれは『SFに(他のジャンルよりもひときわ強い)特殊性があるのだとすれば、それは、一般的に(あくまで一般的にだ)同一人物が当然併せ持っているとはあまり考えられていないFORを、読者に平気で要求するところなのではなかろうか?』と述べ、これに対して瀬名さんは、「それではなぜSFだけが(他のジャンルと違って)特徴的に読者に要求するのか、という疑問が残る」とおっしゃっているのだが、これがなぜ“疑問”になるのかが、いまひとつよくわからない。たとえば、「ミステリに特殊性があるとすれば、それは、しばしば人が殺されて謎が生まれ、それが解かれるという過程を楽しむことを読者に要求する点である」と誰かが述べたとしたのだったら、瀬名さんの先の疑問は「それではなぜミステリだけが(それを)特徴的に読者に要求するのか」と問うているかのように、おれには聞こえる。
つまりおれは、FORという観点から眺めた場合のSFの特殊性として、「一般的に同一人物が当然併せ持っているとはあまり考えられていないFORを、読者に平気で要求する」点を挙げているのであって、むろん、ほかの観点から見れば、ミステリだけが特殊になる場合もあろうし、ホラーだけが、ファンタジーだけが、官能小説だけが特殊になる場合もあるだろう。瀬名さんはSFの特殊性をなんとか定義しようという方向で論を進めているのだが、おれは、「瀬名さんがSFの特殊性だと分析している感動の共有のしにくさは、“センス・オヴ・ワンダー”といったそれこそ特殊な感動を持ち出すまでもなく、もっとわかりやすい捉えかたでも成り立ち得る“一般的な特殊性”にすぎないのではないか」と言っているわけである。人が殺され謎が発生し、その謎が論理的なプロセスを踏んで解かれ、意外な真相が現出する――といった過程を、仮に“ミステリのセンス・オヴ・ワンダー”とでも定義すれば(もちろん、人が殺されないミステリだってあることは百も承知だが)、その“ミステリのセンス・オヴ・ワンダー”がさっぱりわからない、感じられない人だって、当然たくさんいるにちがいない。アホな例だが、うちの母なんぞ、二時間ドラマのミステリをしょっちゅう観ているけれども、論理の糸がほぐれてゆく過程を楽しんでいるわけではなく、どちらかというとドラマが展開してゆく過程を楽しんでいる。犯人は配役とカメラワーク(とスポンサー?)で当てている。ややこしい時刻表トリックなど、そもそも時刻を覚えないので、わかっているとも思えない。要するに、『火曜サスペンス劇場』も『渡る世間は鬼ばかり』も、基本的に同じような楽しみかたをしている。まあ、こういう人はけっこうたくさんいるでしょう。それはともかく、瀬名論は、“センス・オヴ・ワンダー”の分析から入っていってSFの特殊性を定義し、そこから“売れない”理由を導き出し、対策としてのマーケティング論に至っているため、順次、直線的に展開を聞いていると論理的なストーリーになっていて、その視点のかぎりに於いては納得できるものになっているが、一歩退いて構造だけを見ると、SFの特殊性に性急に跳びつきすぎている。瀬名論は端的に言えば、「同じものを読んでも、感動・感覚が共有しにくいという現象がある」と述べているにすぎず、それはべつにSFの話でなくてもよいのではないか。俳句の話だっていいのである。
この“瀬名文書”に違和感を覚えるのは、SFが売れていないというマーケットでの現象の要因を、SFという文藝が持つ固有の(intrinsic な)特徴にも求めている点だ。「俳句が売れないのは、短すぎるからだ」と言われても、それは事実を含むかもしれないが、マーケティング論ではないのである。よって、この瀬名文書を混乱せずに読むには、SFの定義の部分とマーケティング論の部分とを、無関係な別文書として読むとよいと思う。おれの母にいかに推理の楽しさを教えるかという議論と、いかにミステリドラマをもっと観せるようにするかという議論とは、全然別の話であろう。
あとひとつ、瀬名さんは上述のおれの意見に対して、『ここでもやはり、SFを理解する特殊な「能力」の存在が論の背後に見え隠れしてしまう』とおっしゃっているのだが、見え隠れするどころではない、おれはまさにそう言っているのである。しかし、その能力は、純文学を理解する能力、ミステリを理解する能力、俳句を理解する能力と、特殊であるということに於いては同じである。おれはファンタジーが理解できないし、ファンタジーを理解するには、なんらかの特殊な能力あるいは素質がなくてはならないのだろうと納得して諦めているが、だからといって、おれにファンタジーがわからないのはけしからんとか、ファンタジーは閉鎖的であるとか思ったりはしない。純文学として読んで面白ければそれでいいし、SFとして読んで面白ければそれでいい。なぜ、なにもかもわからなくてはならないのだろう? で、読んで面白ければ、おれは人に言うであろう――「このファンタジー、面白かったよ」と。なぜなら、そう言ったほうが多くの人にわかりやすいだろうからである。
【7月14日(土)】
▼大阪がもののみごとに二○○八年のオリンピックを逃した。まず大方の予想どおりであり、なんの驚きもないのだった。だから映画作戦を展開すればよかったのに。USJジャパンもいいけれども、あんなものどうせ外国の風景ばっかりだ。大阪そのものが映画に出演できるようにしなくちゃあ。『ブラック・レイン』くらいで珍しがられているようではまだまだである。得体の知れないものがいっぱいあるのだから、いくらでも売り込めると思うのだが……。おれは京都には寝に帰っているだけで、大阪のほうが好きだよ。なんたって汚らしくて、生活感というものがあるわな。東京よりも大阪のほうがずっとサイバーパンク風だと思いませんか?
▼《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。
「Treva」で撮影 |
昨年も一昨年も送ってくださったのだが、またまた今年も頂戴してしまった。例によって、いつ読めるものやら見当もつかないのでまことに心苦しいのだが、これもまた例によって、すぐに“字面鑑賞”を楽しませていただいた。「なんじゃ、それは?」とおっしゃる方は、一昨年、1999年7月14日にいただいたときの日記をご参照ください。
レベルが上がっているのか、眺めているかぎりでは、きれいな字面の作品が多かった。一瞥するや「わー、素人くさー」という字面のものがほとんどない。でも、ちょっと数行読んでみると、ワープロ病に冒されている人がかなりいるようだ。とにかく漢字で書けるところは全部漢字で書いてやろうというほどの重症患者はいないようだが、ぱらぱらと見ただけでも「ワープロに操られているのかな?」と思える部分は容易に見つかった。これは自戒でもあるのだけれど、ワープロは怖い。神林長平ではないが、書き手がその作品に於ける文字遣いの方針をしっかりと持っていないと、ワープロは書き手の隙に乗じて、たちまち書き手を操ろうとする。ワープロに操られてしまうと、字面が汚くなる。
日本語のかなカナ漢字ローマ字交じりの表記はじつにユニークで、文字の種類が変わる部分の視覚的効果で、漢字やカタカナに読点のような働きをさせることができてしまうのだ(カタカナの“読点効果”は漢字に比べるとかなり弱い)。自分の字面が汚いなという自己批評眼が多少なりともあれば、思いきり自由に一節書き下ろしてみてから、いったん読点をすべて削除して読んでみるといいと思う。読みにくければ、それはワープロ病(や論理の曖昧さ)を読点の力に頼ってごまかしているのである。ほんとうに読みやすい日本語は、読点がなくても読みやすい。嘘だと思ったら、筒井康隆の「邪眼鳥」(『邪眼鳥』新潮社・所収)を読んでみるといい。
とかなんとか、エラそうなことを言ってはいるが、この日記だって、数年のあいだに徐々に文字遣いが変わってきているのである。たとえば、おれはむかし“喋る”と書いていたが、最近ではどうも漢字がうるさく感じられてきて、“しゃべる”と書くようになっている。ほかにもそういう言葉がいくつかあったように思う。とくにウェブページの場合、横書きであることもあって、画数の多い漢字が――とくに動詞が――その意味に比してなんとなく“重たく”感じられると、どんどんかなに開いてしまう傾向があるのは自分ではっきりと意識している。これもある意味で、媒体に操られていると言えるのかもしれない。
【7月13日(金)】
▼The Arthur C. Clarke Internet Fan Club のメーリングリストのポストで知った One giant leap for lunar skeptics という記事を読んで、おれは思わずつぶやいた――「月をなめるな」
おなじみの「アポロの月着陸はなかった」という妄説を信じているのは、じつにアメリカ人の五人にひとりだというのだが、ほんとかよ〜!? しかも、ここへきて、そのような説にだまくらかされる人はにわかに増えつつあるらしい。まさに、アメリカ版「月をなめるな」である。アメリカってのは貧富の差が激しい国だから教育の差も激しく、これくらいは驚くにあたらないという考えかたもあろう。だけど、そりゃちょっとヘンだぜ。教育の差と知性の差は、まったくの別ものである。貧困層にだって知性豊かなやつは生まれるし、富裕層にだってボンクラは生まれる。教育のあるボンクラというのがいちばんタチが悪く、こういう妄説に引っかかるのは、案外、そういうやつなのだ。オウム真理教(アレフなどと誰が呼んでやるものか)を見よ。
もっとも、アメリカ人ばかりを笑うわけにもいかない。先日、びっくり仰天の現状として報道されていたが、広島市教育センターが昨年実施した「子どもの平和に関する意識調査」の集計結果によれば、広島市の小学生の半数以上、中学生の約三割が、「広島に原爆が投下されたのが何年かを知らない」のだそうである(こういう調査結果はとっととウェブに載せておいてほしいものだが、広島市教育センターのサイトには残念ながらないのだ)。なに、あなたは大学生で知りませんか? あは、あはははは、はは。まあこれは、子供がボンクラなせいもあるだろうが(ふつう小学生にもなりゃ、テレビやマンガでだって見聞きしていそうなものだ)、多分に大人の責任でもあるだろうな。きっと広島ですら、戦争の話なんて飯時にしたりはしないのだ。そもそも飯を一緒に食わんか、最近は。学校でだって、おれたちのころから、現代史は「春休みに読んでおくように」だったもんな。
話を月に戻そう。前述の記事を読んだサー・アーサー・C・クラーク、メーリングリストに人を通じてコメントを寄せていた。もちろん、かの妄説など、あまりのくだらなさに一蹴している――“how do these nitwits account for the fact that, for the last thirty years, the laser reflectors and radio sensors on the Moon have been transmitting terabytes of data back to Earth? Who do they think put them there - E.T.s?”
なんでもクラーク翁は、ジョージ・ワシントンは存在しなかったということを証明するのに忙しく、狂人ども(lunatics)の相手をしている暇はないそうだ。
【7月12日(木)】
▼遺伝子組み替えジャガイモが混入していたとのことで、このところいろんなポテトスナック菓子が自主回収されている。アメリカでは日々平気で食っている品種なのだそうだが、日本じゃまだ認めていないのだから回収は当然である。その当然のことをやった菓子メーカはなかなかえらいと思う(まあ、いろいろ思惑はあるんだろうけれども)。サリドマイド禍によく学んでいる。
もっとも、おれがアメリカへ行き、「遺伝子組み替えジャガイモを使ったポテトスナック菓子だよ」と薦められたら、「ま、いっか」と食うだろうけどね。おれの遺伝子組み替え食品に関する考えは以前述べたので、ご用とお急ぎでない方はそちらもご参照ください。つまり、気色悪いけど、選択の余地のあるうちは、おのれのリスクで食うしかないだろう。もちろん、安全性の研究はちゃんとやってくださいよ。そのうえで、食ったおれが十年後か三十年後か五十年後か百年後にとんでもない奇病になったとしても、それはおれが悪いのだ。おれはものぐさだから、遺伝子組み替え食品を避けるために努力が必要であるような状況になってきたら、気にせず食うにちがいない。食ったほうが便利だが、不便をかこっても食いたくないという人がいれば、その意志は尊重せねばならない。
おもしろいシナリオを考えた。いまから百年後に宇宙人がやってくる。こいつらはものすごい科学力を持ったとても親切なやつで、現存の地球人を全員不老不死にしてくれるというのだ。地球人たちは欣喜雀躍する。だが、よくよく話を聴いてみると、彼らの不老不死装置は、遺伝子組み替え食品を一度でも食ったことのある生物には効力を発揮しないのだという。どういうわけでそうなるのか、宇宙人は丁寧に説明してくれるが、地球の科学ではさっぱり理解できない。「残念ながら、次がありますんで……」と言い残し、宇宙人たちは去ってゆく。あまりに落胆した地球人たちは、「毒食らわば皿まで」とばかりに共食いをはじめる。そのころの地球人は、みな遺伝子組み替え人間なのであった。救いのない話やなあ。
【7月11日(水)】
▼仮面ライダー・マニアの方々のあいだではごくごく基本的な用語らしいのだが、世に“桜島一号”というものがある。なんでも、桜島ロケ以降の後期一号ライダーはそれまでとは造型がちがうため、そのように呼んで区別するのだそうである。まあ、言われてみりゃそうで、おれはどちらかというと“桜島一号”のほうが好きだ。
でも、この専門用語(?)は誤解を招くよなあ。電車の中などで仮面ライダーファンが「桜島一号は……」などと話していたら、まずたいていの人には、新種の大根かダッチワイフの話に聞こえるにちがいないのだ。
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