間歇日記

世界Aの始末書


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2002年2月下旬

【2月28日(木)】
▼宇宙船が飛んでいるのはあたりまえのように納得できるのだが、飛行機が飛んでいるのはなにかのまちがいではないかといまだに思うのである。いやまあそりゃ、頭で理屈はわかりますよ。だが、それと感覚的に納得できるかどうかは別ものなのである。もっと言うと、高いところを豆粒のようになって飛行機が飛んでいるのは納得できるが、低いところを飛んでいる飛行機は納得できない。離陸直後、着陸寸前の飛行機など、なにかの魔法で宙に浮いているとしか思えない。
 もうひとつ、以前からどうしても納得できないものがある。頭ではわかるのだが、納得はできない。それは、「ミシンはなぜ布が縫えるのか」である。布の片側から針をぶすぶす突き刺しているだけなのに、なぜ布が縫い合わせられるのであろうか? 不思議だ。テレビ通販などでミシンを見るたび(おれの家にはミシンはない)、おれは「十分に進んだテクノロジーは魔法と見分けがつかない」というアーサー・C・クラークの第三法則に深く頷くのであった。
 あのミシンの針というやつが夢の中で発明されたという話はけっこう有名である。どうも胡散臭い話だとおれは思っているのだが、とにかくそういう話が人口に膾炙しているのは事実である。なんでも、あの針の発明者は、夢の中で土人――じゃない、他所者にとっては多少危険な文化を持ったどこかの原住民に襲われ、危うく槍で突き殺されそうになったときに槍の先を見たらたしかに穴があいていた、とまあ、こういう話なのだった。まあ、なんというか、できすぎな話だと思うわけである。できすぎだから、いまだに信じてはいない。「まあ、そう言われていますね」程度にしか納得していないのである。だいたい、発明秘話などというものは、目撃者がいないかぎり自己申告なので、あまりにドラマチックなものはにわかには信じ難いのだ。厭な性格ではある。
 書いていて気になったので突如話は変わるが(いちいち断らなくても、この日記ではいつものことだ)、“土人”が使いたくてしかたがない文脈ってあるよねえ? 上のような文脈では、やっぱり土人じゃないと雰囲気出ないよなあ。差別的なニュアンスがあるからまずいというのはたしかにわかるが、だったらいっそのこと“土人”を“原住民”“その土地の人”といった意味で逆に定着させてしまってはどうかとも思うのだ。「東京の交通網はよくわからんなあ。ここに行くにはどっちのお茶の水駅が近いねん?」「東京の土人に訊いてみよう」とか、「鮒寿司? ええ、大好きですよ、近江土人ですから」とか言うわけだ。あかんかなあ?

【2月27日(水)】
▼出がけに、すさまじい“書籍流”が発生。そのまま会社へ行く。疲れて帰ってきて本が散乱している部屋を見るほど気の滅入ることはないと思い知る。とりあえず晩飯を食い、夜中までかかって、なんとか本を積みなおす。おれは衣食住にはまったく無頓着な人間だが、それでもときどき思う。ああ、司馬遼太郎記念館みてーな家に住みたいなあ。

【2月26日(火)】
▼会社の近所でカッターシャツを買う。一応サイズはメモしてあるのだが、肥ってるかもしれんし、店が扱ってる商品によって微妙にちがうかもしれんので、念のために服屋のおやじに首まわりと腕の長さを測ってもらった。
 レジで金を払っていると、おやじが面白いことを言う。なんでも、このおやじ、同じ場所で長年服屋をやっているが、日本人の首まわりはここ三十年ばかりのあいだに、あきらかに太くなっているのだそうだ。むかしは、カッターシャツの首まわりは三十八センチのものが最もよく売れ、当然最も多く仕入れていたのが、最近では四十センチが主流(ってのも妙だが)だという。へー、そりゃおもろい。
 だが、ほんとうに日本人サラリーマンは肥ったのであろうか? やっぱり、この三十年のあいだに、食いものがよくなったからかな。あるいは、むかしはきつめの首元を好んだのが、いまは緩めを好むようになっているのかもしれん。いろいろ面白い理由が考えられそうだ。ことによると、他の事象ととてつもなく突飛な関連を持っている現象である可能性もある。まあ、この服屋のおやじの実感だから客観的に正しいデータである保証はないけれども、なんの世界でもじつに面白いことがあるものだ。世界はこういう些細なことから変わってゆくのだろう。このおやじには、末長く服屋を続けてもらって、日本人サラリーマンの体格をウォッチしてもらいたいものである。「いやあ、私、ここでかれこれ五万年ほど商売してますけど、むかしは四十センチのやつがいちばんよう売れたんですよ。それがいまは、八センチのやつと九十三センチのやつが主流ですわ。その次が二百十六センチやね」とか……。どんなふうに進化したっちゅうねん?

【2月25日(月)】
“肛門が辛い”という現象がある。“つらい”のではない、“からい”のだ。ケツの穴がからい。といっても、誰かの尻の穴を舐めたわけではなく、おれの尻の穴が“からい”と感じているのである。まあ、手っ取り早く具体的に言うと、昨晩キムチ鍋を食ったわけだ。で、今日、トイレに行ったら、肛門がからい。どうやら、尻の穴には“からい”という味覚はあるらしい。よく考えたら、ときどき尻の穴が“酸っぱい”こともあるよな。言われてみれば、尻の穴はなにやらいつも酸っぱそうにしている。しかし、なぜか尻の穴が“甘い”ということはない。尻の穴が甘かったら、たいへん面倒なことになりそうだ。一応、“からい”とか“酸っぱい”とかはわかるわけだから、尻の穴に舌と同じくらいの鋭敏な味覚があってもいいのではないか――などと、ふとトイレで考えているおれは今年四十になる。それはともかく、そういう生物がいてもいいのではないか。なにが便利といって、自分の健康状態がよくわかるうえに、出すときにも食事(?)が楽しめる。ひと粒で二度おいしいとはこのことだ。文字どおりの“便利”である。そういう生物であれば、健康なときの便を“おいしい”と感じるように肛門の味覚を発達させているはずで、「今日も元気だ、ウンコがうまい!」とか言いながら、トイレから出てくるにちがいない。それにしても、格調が高いことにかけては定評があるこの日記で、いったいおれはなにを書いているのだろう?
〈SFオンライン〉の最終号が公開された。感慨無量である。さらば、〈SFオンライン〉。関係者のみなさま、お疲れさまでした。

【2月24日(日)】
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

『SFバカ本 電撃ボンバー篇』
岬兄悟大原まり子編/佐藤哲也藤田雅矢・中村うさぎ・岩井志麻子・岬兄悟・大原まり子・瀬名秀明
「Treva」で撮影

 おなじみ、《SFバカ本》シリーズ、今回はなにしろ「電撃ボンバー」というくらいで、岩井志麻子、瀬名秀明、中村うさぎが初登場。いずれも一癖も二癖も三癖も四癖も……n癖もある、作品ばかりでなく本人のキャラも立った人気作家である。バカ本にどういうものを寄せてくれたのか、まことに楽しみ。「淫らな指輪と貞淑な指」(岩井志麻子)、「SOW狂想曲」(瀬名秀明)、「宇宙尼僧ジャクチョー」(中村うさぎ)と、タイトルだけでも十二分に怪しい。なかでも巷ですでに話題なのが(例によって、ずいぶんと狭い巷ではある)、SFファンと“センス・オブ・ワンダー”の滑稽と悲惨(ってのはずいぶんと便利な言葉で、なんにでも使えてしまい、しかもいつもぴったりなのだ。ありがとう、トマス・マン)を赤裸々に描いた「SOW狂想曲」である。どういうものか噂には聞いていたので、なにはともあれ、真っ先に読んだ。いきなり本書を読む人、SF周辺の事情に疎い人には、なにが面白いのかわからないかもしれないのだが、前述の“狭い巷”に自分は属しているらしいと思う方は必読である。いまひとつピンと来ない人は、瀬名さんのサイトにあるページ「SFとのセカンドコンタクト」に揃っている資料に目を通してからお読みになれば、瀬名さんがなにを書こうとしたのかおわかりになることと思う。で、これがバカSFとして面白いかというとあんまり面白くなくて、わかる人にはわかるユーモアSFといったところ。「どうしてSFってこんなに論争ばっかりなんです?」には爆笑した。いや、おれもむかしからそう思っていたのだ。よう飽きんなあ、と。逆に言うと、論争も起こらないようなジャンルはすでに死んでいるとしか思えず(マニュアルどおりに一定の要件を満たした小説を書けばいいんなら、いまの機械にでも書けるのでは?)、論争し続けていることでSFはSFであり続けてこられたような気さえしているのである。

【2月23日(土)】
▼このところ、女優やら歌手やらの話ばっかりで恐縮だが、やたら忙しいので、テレビに触発されたネタが多くなるのである。ご寛恕いただきたい。で、『ウルトラマンコスモス』(TBS系)に、堀江奈々がひさびさに登場。ドイガキ隊員といい仲の考古学者の役で、眼鏡っ娘愛好者にはコタエられない味を出している。最近のお気に入りである。とはいえ、おれはこの人が何者なのか、じつはよく知らない。『ウルトラマンコスモス』でしか観たことがないのだ。まあ、キャラ的には、ちょっと菅野美穂とかぶってるような気もするが、こちらは目が大きいし、菅野ほど不気味でない。もう少し人気が出てもよさそうな気がするのだが、やはりおれの好みはマニアックなのかなあ。あっ、そういえば、最近、石橋けいはどうしたのだ? 『ウルトラマンコスモス』には出てこないではないか。おれが見逃した回に出たのかな?
 いいおっさんが《ウルトラマン》シリーズに出てくるアイドル女優もないもんだが、なあに、いいおばさんだって、子供と一緒に観るふりをしてアイドル男優に萌えているのである。ムサシ隊員フブキ隊員やおい小説かなにかを書いては、幼稚園で手渡し回覧しているにちがいないのだ。ウェブサイトも作っていることだろう。ガイアのときは、とくにすごかった。
 ウルトラマンとバカにするなかれ。今後何十年と活躍する人が出ているかもしれんのだ。とても若い人は知らんかもしれんが、篠田三郎ウルトラマンタロウだったんだぞ。

【2月22日(金)】
▼今日が「にゃんにゃんにゃん」で「猫の日」だというのは、さすがに最近みんな知っているのだが、この伝でなんとか「カエルの日」が作れないものかと考えている。しかし、「ゲコゲコ」やら「ケロケロ」やらで語呂合わせができそうな日がないのである。「ピョコピョコ」も難しそうだなあ。おお、そうじゃ、四月六日というのはどうだろう?

【2月21日(木)】
▼最近、宇多田ヒカルをテレビで見かけると、「おや、綺麗になったなあ」と思う。いやまあそりゃもう、歌はすばらしいと前から思っていたが、それほど美人だとは思わなかったのである。よく見りゃ美人じゃん。というか、近ごろ急速に女性としての魅力が出てきたのか? 母親に似てきたのであろうか。藤圭子タイプの美人は、あんまり最近の新人タレントには見かけないなあ。美人だが流行らない顔なんだろうな。マスコミでもてはやされる美人なんてのは、しょせんそんなもんで、“流行”があきらかにあるのだ。それが証拠に、誰かひとり人気が出ると、その人気者と同系列の顔というか、キャラのかぶった新人が雨後の筍のように出る。あれは新人さん本人も厭だろうね。大阪弁で言うと、“バッタもん”として売り出されているかのようである。まあ、小説だってアニメだって、そういうことはあるけどね。そうしたバッタもんが、必ずしも志が低いとは断じられない面はある。柳の下の鰌のバッタもんでとりあえず浮動票のミーハーどもから金を巻き上げて、ほんとうにやりたいことをやる資金にするという類の大いなる志もプロの世界にはあるからだ。ま、このへんの考えについては以前も書いたので、ご用とお急ぎでない方は、そちらもご参照ください。
 藤圭子といえば、おれの中でキャラがかぶってるのは、梶芽衣子である。厳密に言えば、藤圭子はひたすら耐えて恨みごとをつぶやくというイメージ(あくまでイメージでっせ)だが、梶芽衣子は怨みごとを言いながら対象に牙を向くというイメージである。むろん、若いころの《女囚さそり》シリーズを代表とする、奔放で強かで不気味な女を多く演じたことによるものだろう。ヒット曲、当たり役というのは怖いもので、いまだに『圭子の夢は夜ひらく』と《女囚さそり》に、おれの印象は縛られているわけである。
 いやしかし、梶芽衣子の《さそり》はカッコいいよなあ。なんでも《さそり》は代替わりして、Vシネマも含めてもう六代め(多岐川裕美、夏木陽子、岡本夏生、斎藤陽子、小松千春)になっているらしいが、このラインナップ見るかぎりでは、あんまりビデオ屋で探してまで観る気は起こってこない(岡本夏生のは、女優はともかく作品として傑作だという話はよく聞くんだけど)。水戸黄門みたいなものかも。おれが思うに、女囚さそりの条件は、以下のとおり――(1)丸顔であってはならない。(2)眼だけで演技ができなくてはならない。眼は大きいことが望ましい。(3)ぽっちゃり系はだめ。女豹のような肢体でなくてはならない。運動神経は特撮でなんとでもなる。(4)ストレートの黒髪が似合わなくてはならない。(5)黒づくめが似合わなくてはならない。
 もう五、六年くらいしたら、葉月里緒菜に《さそり》が演れるのではないかと密かに期待している。丸顔なのはハンディキャップだが、眼の点は高いぞ。ビデオが出たらきっと買う。もう二回くらい結婚して離婚したほうがいいな。


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