ホーム | プロフィール | 間歇日記 | ブックレヴュー | エッセイ | 掌篇小説 | リンク |
← 前の日記へ | 日記の目次へ | 次の日記へ → |
2002年3月上旬 |
【3月9日(土)】
▼『ウルトラマンダイナ』『ウルトラマンガイア』と続けて、“ダイナ突っ込みアワー”“ガイア突っ込みアワー”をやっていたが、『ウルトラマンコスモス』(TBS系)についてはあんまり書いていない。でも、観ていることは観ているのである。最初のころ、怪獣が爆散しないのでカタルシスがないといったことを書いたが、ここいらへんの問題には、欲求不満の回避策とでもいうべきものが用意されていた。地球産の怪獣には、暴れるにしても怪獣なりのわかりやすい事情があるか、あるいは、怪獣が“カオスヘッダー”なる宇宙からの侵略者(であるらしい)に“とり憑かれ”たりしているかであり、基本的に怪獣そのものは保護すべきであるというスタンスをウルトラマンも主人公格の人間たちも取っている。だから、地球産の怪獣をやたらと殺すわけにはいかない。が、カオスヘッダーが実体化した怪獣やロボットなどの無生物は、いくら爆散させたっていいのである。よって、欲求不満の回もあるにしても、適当にスカッとするシーンは折に触れて用意されている。
しかし、ちょっと待て。おれが思うに、この“やさしいウルトラマン”シリーズ『ウルトラマンコスモス』が子供たちに伝えたいメッセージは、怪獣には怪獣なりの事情があるにちがいない、相手の身にもなって考えてみましょう、争いだけが問題解決の手段ではない、というものだろう。だとしたら、当然のことながら、今後の展開は、カオスヘッダーにはカオスヘッダーの事情があるという方向に進まねばウソだ。いまのところ、カオスヘッダーがなにをしようとしているのかは明確にされていないが、それはこのような展開にするための伏線とも考えられる。ということは、最後は『マクロス7』みたいになる可能性もあるわけだよなあ。ないかなあ。
まあ、どう転ぶにせよ、邪悪なカオスヘッダーを滅ぼしました、めでたしめでたしだったら、どつき倒して(誰を?)やらんといかん。いくらなんでも首尾一貫していないことは、子供にだってわかるはずだからだ。「アメリカの身になって考えましょう」っつってるのと同じである。
【3月8日(金)】
▼からりと天気がよいのでぞっとする。花粉症がひどくなるに決まっているのだ。鼻炎カプセルを飲むと、鼻水が止まるのはいいのだが、唾液まで止まって、口の中がねとねとしてきて不快である。おまけに頭もぼーっとする。ぼーっとしているのが常態かもしれないにしても、いっそうぼーっとする。
会社の帰りにコンビニで鼻洗浄スプレーなるものを試しに買ってみる。なにやらジェット噴射のように洗浄液が飛び出してくるタイプのものだ。帰宅して試してみた。洗浄液のあまりの勢いに恐怖すら覚えた。なんだか、風呂釜を洗っているかのようである。このノズルを片方の鼻の穴に突っ込み、もう片方の穴を指で押さえ口を閉めて思いきり噴射したら目玉が飛び出すのではないか。
洗浄スプレーが効いたのかびっくりしたせいなのか鼻は通ったが、それにしても、完全に鼻が詰まっている場合は、これでどうやって洗うのだろう? 多少は鼻が通っているからこそ薬液が奥のほうまで行くわけで、ぴったり塞がっていたら、薬液は鼻の入口あたりを空しく洗うだけで、ほとんど流れ落ちてしまうのではなかろうか?
【3月7日(木)】
▼会社から帰りの電車で隣に座った六十はまわっているだろうスーツ姿の老紳士が鞄からなにか取り出した。見ると、ザウルス MI-E21 である。現時点での最新機種だ(もうじき、デジカメ内蔵の新機種が出るようだが)。以前にも林譲治さんから面白い話を聞いたので、横目で観察する。老紳士はスカッとキーボードのカバーをスライドさせると、プチプチと相当なスピードであのキーボードを打ちはじめた。むろん、あれは両手の親指で打つのだ。打ちかたが堂に入っている。女子高生がケータイを打つように――とまでは行かないが、まあ、躓くこともなく、軽快に打っている。ほおお、お歳のわりに、と言っては失礼かもしれないが、このような機器を自然に使いこなすとはなかなかやるわい。おれは感心して、やっぱり横目で見ていた。すると老紳士、鞄をごそごそやってなにかを取り出すと、ザウルスに装着した。ぴ、P-in COMP@CT だ。カード型PHSでザウルスからメールを送ろうとしているらしい。そりゃまあ、MI-E21 使ってるんなら、カード型PHSも使わにゃもったいないだろうけど、いやはや、畏れ入りました。老人はあの手の機械に弱いという思い込みを強く自戒した。使う人は平気で使うものですなあ。どう見ても、おれの母くらいの年齢の人であったため、余計に偏見が助長されたのかもしれん。二十一世紀だなあ、と思ったことであった。
【3月6日(水)】
▼あっ。以前から石原都知事は誰かに似ていると思っていたのだが、突如、はっきりとわかった。パタリロだ! にかっと笑った顔なんかそっくりである。そういえば、なんとなく言動も似ているような気がする。
【3月5日(火)】
▼連日、会社の帰りにキオスクの夕刊紙の見出しを横目で見て吹き出しそうになる。「宗男○○」「○○宗男」みたいなのばっかり。いったい日本のマスコミは、いつから政治家を姓ではなく名で呼ぶようになったのだろう? なんだか、聖子や明菜と同じような感じに見えてしまい、妙におかしい。眞紀子もそうだしなあ。あっ、そうか、角栄からか!
【3月4日(月)】
▼ありゃりゃりゃ、おととい、FBI超能力捜査官とやらが透視していた武富士放火殺人事件の犯人、ほんとに捕まっちゃったよ。あれを担当していたのは、たしかナンシー・マイヤーとかいう女性だったな。たしかに、似顔絵はマイヤー氏の指示で描いたとかいうやつのほうが、犯人に似てるような……。
でも、こりゃタイミングがよすぎる。つまるところ、あのようないかにも視聴率の高そうなセンセーショナルな番組で、多くの人がいま一度犯人の似顔絵を見たため、にわかに警察に情報が入りはじめ、急速な展開があったというのが妥当な推論というものではなかろうか。あるいは、超能力者ごときに聞いたふうなことを言われたため、バカにするなと俄然警察が張りきったのか? まあ、もしかしてひょっとすると、こっそり警察も参考にしたのかもしれんが、仮にそのようなことがあったとしても、口が裂けても警察はそうは言わんでしょうなあ。
▼半村良氏の訃報。おれはいまひとつ半村良作品にはピンと来なかったので、さほど思い入れはないのだが、広瀬正と大伴昌司以外のSF作家は自殺しないと死なないと思い続けて育った世代であるから、ビッグネームの訃報に触れると、しばし現実感を喪失する。おれも歳を取ったのだなあと痛感するのである。
おれが死んでみると、三途の川へ向かう途上、やっぱり死にごろの一九六二年あたりに生まれた人々が道端に座り込んでSF雑誌を読んでいる。
「おや、喜多さんやおまへんか。あっ、啓文さんに哲弥さん」
「おや、ようやく来はりましたか。牧野さんやら野尻さんは、ちょっと先を歩いたはります」
「はあ、とうとう来ました」
「いやあ、こっちのSF雑誌読んだら、娑婆のなんかアホらしぃて読まれしまへんで。名人はみなこっちに来てるんやさかいな」
「ま、理屈やな」
「ちょっと見てみなはれ。鈴木いづみが連載してまっせ」
「うわあ、手塚治虫の『真・SFファンシーフリー』、星新一・一人特集、アシモフのエッセイまで載ってる。黒丸尚の翻訳ですか……ヨダレ出てきますなあ。あれ? 小林泰三ちゅうのはまだ生きとるんとちがいますか?」
「あんじょう見てみ、肩のところに〈次号予告〉と書いたある」
って、お約束のネタやなあ。
【3月3日(日)】
▼「♪お内裏さまとおひなさま〜、ふ〜たり並んでスガシカオ〜」という秀逸なフレーズを思いついてしまったため、一日中唄っていた。アホや。
【3月2日(土)】
▼晩飯を食ったあと、うだうだとテレビのチャンネルを切り替えていたら(むかしはこういう場合「チャンネルを回していたら」と言えたものなのだが)、『スーパースペシャル2002 透視・予知・超霊力 FBI超能力捜査軍団緊急来日…未解決事件に今夜迫る』(日本テレビ系)ってのをやってたので、腹ごなしに観てみる。透視や予知はわかるが、“超霊力”ってのはなんだそれは? 通常の“霊力”というものがあることが前提になっていて、さらにそれに“超”がつくわけだから、なんだかさっぱりわからないがそれはそれはものすごい力にちがいない。FBIも、せっかく超能力者を雇ってるんなら、わざわざありふれた人探しなどをさせないで、それこそ『X−ファイル』の事件を担当させればよいと思うのだが、超能力でたちまち解決されたのでは密約を交わしている宇宙人が困るのだろう。
とまあ、揶揄はするが、おれはこうした能力の持ち主がいるらしいことは、あまり疑っていない。問題は、この手の未だ解明されていない能力に勝手に見てきたような理屈をつけ、わけのわからないことをほざき、あわよくば金にしようとする手合いが多いことで、そのような手合いは徹底的にバカにすることにしている。こうした能力にこそ、ちゃんとした科学者がちゃんとしたアプローチをしてほしいものであるが、まあ、そんな奇特な科学者は食えんでしょうな。誰か一生食うに困らん大金持ちの優れた科学者がやってくれんものだろうか?
ともあれ、能力の正体がわからなくとも、現実に透視やら予知やらを行なってしまう人がいるのであれば、純プラグマティックに利用して損はなかろうと考えるのがアメリカ人というもので、超能力捜査官なるものが実績を上げているのなら、それはそれで面白いことだろう。
三十代以上の人はご記憶かもしれない。むかし、オランダにG・K・クロワゼットという有名な透視能力者がいた(つい二、三年前だったかに亡くなった)。彼がやっぱり日本の同じようなテレビ番組のために来日したとき、行方不明の少女をみごと見つけ出したことがあった。クロワゼットが指し示した場所にテレビ局のクルーが向かってみると、あれはたしかダムかなにか人工の貯水池だったかと記憶しているが、水の中をぷかぷか漂っている少女の遺体があったのである。むろん、そのシーンはもろにテレビで放映された。ほぼ直立の姿勢で水面近くを漂う少女の髪の毛が、ゆらゆらとクラゲのように広がっていた衝撃的な映像を憶えている。この事件は、テレビ番組で超能力者の指示でテレビ局のクルーが行方不明の少女を発見した事件として、別途新聞の社会面でも報じられていたものである。
むろん、“ヤラセ”を疑って当然なのであるが、ヤラセだとしたら当然犯罪だろう。日本の警察がテレビ局を疑って調べていないとは思われないし、事前に発見しておいた遺体を撮影日までに見つからないように隠匿しておくなどというリスクを、テレビ局のクルーが負うともとても思われない(よっぽど巨額の金が動き、よっぽどプライドのないプロデューサーがおれば別だが……)。あれはやっぱり、クロワゼットがなんらかの未解明の能力を発揮して見つけ出した可能性が高かろう。クロワゼットは母国オランダでもしばしば警察に協力し、いくつも事件を解決しているという。今回の超能力捜査官のハシリみたいなもんだ。
FBIがこうした超能力者を雇っているプラグマティックな姿勢は面白いが、日本でやるとしたら、どういうことになるだろうね? おれが思うに、超能力として扱わなければいいのではないかと思う。俗に“透視”や“予知”と呼ばれる未知の能力を有意な高確率で発揮した実績を持つアドバイザとでもして、あくまで“協力”を要請したとすればいいのではなかろうか。その場合でも、「透視して発見した」などと文書に残すことはできないかもしれない。超能力というものを公的機関が“信じて”利用したということになると、憲法の“信教の自由”に抵触するおそれがあるからである。だって、そうでしょう? キリストの復活と透視能力の存在を法的に分かつものはなにもない。どちらも法的には宗教ということになってしまうはずだ。また、同じ理由で、超能力者への報酬をどうするかが難しいよなあ。税金からは出せないだろう。だからこそ、こうした未知の能力を犯罪捜査などに利用するには、科学的な裏づけがある程度必要である。なにも完全解明する必要はない。人類はまだ重力だって完全解明しているわけではないが、その存在は誰もが認め、またプラグマティックに利用しているではないか。
超能力の話になるたび、あまりに優れたあまりにあたりまえの考えなのでしばしば引用するのだが、『〔質問24〕超能力や超自然現象はあると思いますか? 〔回 答〕ないない。もしあればそれはただの能力、ただの自然現象だ』(「筒井康隆に25の質問」/『言語姦覚』中央公論社・所収)という筒井康隆の定義が適用できる状況に持ってゆけば、日本でも超能力捜査官を用いることは可能なのではないだろうか。
【3月1日(金)】
▼「人生楽ありゃ真野あずさ」ってのを以前作ったのだが、「人生楽ありゃ久保亜紗香」ってのも思いついた。真野あずさに比べるとちょっとマイナーすぎるのが珠に瑕(どこが珠だ)ではある。「人生楽ありゃ観月ありさ」も悪くはないが字余りだ。ともかく、人生というのは奥が深いものである。
↑ ページの先頭へ ↑ |
← 前の日記へ | 日記の目次へ | 次の日記へ → |
ホーム | プロフィール | 間歇日記 | ブックレヴュー | エッセイ | 掌篇小説 | リンク |