間歇日記

世界Aの始末書


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2002年10月上旬

【10月10日(木)】
▼離党した田嶋陽子議員に議員辞職するのが筋などと社民党が言っているが、田嶋陽子のタレントとしての人気にすがりついていたのは社民党のほうではないか。選挙にタレントを利用するだけ利用しておいて、見苦しいにもほどがある。どうも近年の社民党は、過去のしがらみから脱却しようともせず惰性でとりあえず党を形成し続けているかのような姿勢を露呈しすぎる。その点に於いては共産党よりひどいのではないか。もう、ここまで来ちゃダメだろうな。
▼ノーベル賞の田中耕一さん、文字どおり、一夜にして世界が変わってしまったようだ。ひょっとして田中さんの胸中、シンデレラというよりは、正直なところ、杜子春のようなのではなかろうか? 「べつにおれは、一昨日までのおれとちっとも変わったわけじゃないんだけどなー」みたいな感じね。それにこの人、会社の中では、ほとんど仙人みたいな扱いだったんだろうし。

【10月9日(水)】
▼なんと、またもや日本人が――。島津製作所田中耕一氏がノーベル化学賞を受賞(米バージニア・コモンウエルス大・ジョン・B・フェン研究教授、スイス連邦工科大・クルト・ビュートリッヒ教授と同時受賞)。びっくりだ。なにしろ、ごくふつうのサラリーマンであり、ドクターですらない方が受賞するのは、日本では初めてだろう。「田中耕一氏」としか呼びようがないのには、なんとなく困る。いやあ、しかし、この田中さんって、ええキャラクターですなあ。愛してしまいそうだ。奥様もけっこうおれのタイプである――ってそれはまあどうでもいいとして、暗い日本、近来稀に見るシンデレラストーリーである。四十三歳のサラリーマン・ノーベル賞受賞者とは、なんとも痛快だ。さすがは島津製作所、もう二十年ほどむかしに大原まり子をテレビCMに起用した会社だけのことはあるぞ。なんだか言ってることが支離滅裂だが、とにかくサラリーマンにとってはめでたい話だ。おれにもある日会社に電話がかかってきて、「ノーベルなんとか……」とか言わんかなあ。で、おれは、「へ、キャンデー屋さんですか?」と問う。「ええ、そうです」と相手は答える。「わははははははは」とおれも相手も笑い続ける。そんなシーンを想像してしまうくらいめでたい。
 だが、めでたがってばかりもいられんよな。この田中さん、どうも客観的にはいままで“冷飯を食わされていた”としか言いようがないような気がする。きっとこんな人が日本中に山ほど埋もれているのだろう。少なくともおれがそんな人のひとりでないことはたしかだが、そんな人が山ほど埋もれているのだとしたら、わが国はそのポテンシャルだけの力を出せていないことになるわなあ。これを機に、硬直した日本の企業文化が少しずつでもほぐれてゆくことを期待したい。

【10月8日(火)】
小柴昌俊・東京大名誉教授ノーベル物理学賞(米ペンシルベニア大・レイモンド・デイヴィス名誉教授、米アソシエイティド・ユニバーシティーズ社・リカルド・ジャコーニ博士と同時受賞)との報。スーパーカミオカンデの光電子倍増管が大量に破損した事件のニュースも記憶に新しいだけに、タイムリーといえばタイムリーな受賞かもね。そういえば、最初にカミオカンデの記事を読んだのは、おれがまだ学生のころ〈科学朝日〉でだったと記憶している。水中に並んだ光電子倍増管とやらが美しかったのと、なんともスケールのでかいことを考えるもんやなあと感銘を受けたのとで、妙に記憶に残っている。科学の実験というと、おれのような素人の目には非常に厳密で精妙な、どちらかというと“細かいもん”であるという印象があって、「これだけの量の水があったら、陽子の一個くらい崩壊しよるやろ」といった“量で勝負”の力業的発想がなんとなく新鮮に思えたのである。結果的には、カミオカンデは陽子崩壊の証拠を捉えるという所期の目的によるよりも、準備していたからこそ掴むことができた僥倖で、ニュートリノ天文学を生み出した装置としてのほうで有名になってしまったわけだから、まるでドラマみたいで痛快である。ともあれ、めでたいめでたい。
 日本人の誰かがノーベル賞を取るたびに、「えーと、いままで取った人は……」と指折り思い出してみるのを習慣にしているが、おれの場合、なぜか福井謙一がなかなか思い出せず、最後になってしまうことが多い。日本の都道府県名を思いつく順に挙げていったら、最後に鳥取県が出てくるような感じだ。福井氏や鳥取県にお住いの方には失礼な話だが、おれの記憶がそのような構造になってしまっていることは事実なのである。
 なぜおれには福井謙一がなかなか思い出せないかというと、その地味なキャラクターもさることながら、その業績が“おれにぱっとわかる形でイメージできない”ことが大きな要因であろうと思う。まあ、そういう意味では朝永振一郎「くりこみ理論」も素人にはわかりにくいことはわかりにくいのだが、こちらは子供のころから名前だけは叩き込まれているし、同時受賞のリチャード・P・ファインマンがたいへん“キャラの立った”有名人だから、思い出しやすい。中間子の存在を予言したとか哺乳類の免疫のメカニズムを遺伝子レベルで解明したとか電気が通るプラスチックを作ったとか鏡像体の片一方だけ合成するうまい方法を確立したとか沖縄返還に尽力してエーちゃんと呼ばれたがって新聞記者を追い出したとかいうのなら、素人にでも少なくともイメージは掴める。ところが、「フロンティア軌道理論」などと言われても、化学の素人にはさっぱりイメージが浮かばない。だものだから、ちょっとは調べてみようと調べてみても、アボガドロで止まっている頭には、いまひとつすっきりとはわからない。化学というよりは、どちらかというと物理に近いような量子化学の世界の話であるらしい。これでは素人にはお手上げである。福井氏が受賞なさった当時、いろいろ一般紙の解説やらを読んではみたが、どの新聞にもなにやら雲を掴むようなことが書いてあるばかりで、書いている記者の自信のなさが滲み出るような記事だったように思う。たぶん、書いているほうもよくわかっていなかったんだろう。
 してみると、ノーベル賞にも損得があって、一般人にわかりやすい業績で受賞した人のほうが、よく記憶に残るのではあるまいか。その点、今回はわかりやすくてよかったよかった。
 ちなみに、理科系の人には常識の範疇に属することだと思うが、アインシュタインは相対性理論でノーベル賞を受賞したと誤解している人はけっこういるようである。「え、そうだと思ってた」という方は、これを機にウェブででも調べてください。特殊相対性理論(「運動する物体の電気力学について」)と同じ一九○五年に発表した「光量子仮説」という“仮説”で受賞したとあちこちに書いてあるはずである。理科年表にもちゃんと書いてある。ややこしいことは専門的なページで調べていただくとして、早い話が、「光て、波やいうことになってるけど粒と考えてもええんちゃうの? “光電効果”ちゅうケッタイな現象はそれであんじょう説明できるで」という業績だ。アインシュタインが、相対性理論じゃなくて、どちらかというと量子論への貢献でノーベル賞をもらっているのは、なんとなく皮肉な気もする。ひょっとすると、いままでの日本人ノーベル賞受賞者も、何十年かあとには、受賞した業績とはまったく別のことでずっと有名になっているかもしれないと考えると、ちょっと愉快かも。利根川進さんあたりなら、まだ若いし、脳の分野かなにかでもうひとつやふたつノーベル賞級の研究をなさる可能性はあるんじゃないかなあ。
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

『蓬莱洞の研究 私立伝奇学園高等学校民俗学研究会 その1』
田中啓文、講談社ノベルス)
『航路(上・下)』
(コニー・ウィリス、大森望訳、ソニー・マガジンズ)
「Treva」で撮影

 『蓬莱洞の研究 私立伝奇学園高等学校民俗学研究会 その1』って、なななんだこれは? 関西人なら豚まんの研究でもするのかと思うところだが、どうやらそうではなく、腰巻によると〈“新”学園伝奇ミステリ〉というものであるらしい。毎度のことながら田中啓文は奇ッ怪なものを繰り出してくる。「私立伝奇学園民俗学研究会を次々に襲う理不尽な事件に古武道の達人女子高生諸星比夏留と民俗学の天才高校生保志野春信が挑む」そうなんである。“諸星”ってあたりですでにああそういうナニなアレであるなとわくわくする読者もいるにちがいない。『水霊 ミズチ』(角川ホラー文庫)系の伝奇でありながら学園ミステリでもあるということなのだろうな――って、それはいったいどういうものだ? 牧野修『呪禁官』のようなものが“あり”なら(言うまでもなく“あり”である)、わしの必殺技はこっち方面じゃとばかりにこういう設定をぶつけてきたのかもしれない。基本的に田中啓文は、『三つ目がとおる』系というか《妖怪ハンター》系というか、そういうものが大好きなんだよな。
 『航路(上・下)』は、9月3日のご恵贈御礼でパイロット版をご紹介したアレであるが、売りものの本になったものを送ってくださった。ありがたやありがたや。ちょうど〈週刊読書人〉2002年10月11日号に書評を書いたばかりなので、ご用とお急ぎでない方は、そちらをご参照ください。『航路(上・下)』が絶対読みたくなる「コニー・ウィリス日本語サイト」もできている。

【10月7日(月)】
▼サブジェクトに「非承諾広告」と入ったスパムが来る。“非”承諾広告ですぞ。すごいね。承諾してもらおうという意志が、最初から微塵もないわけだ。もちろん、「未承諾広告」という文字列でプロバイダやケータイキャリアにフィルタリングされないようにと、意図的にヘンな日本語にしているのである。「末承諾広告」ってのも受け取ったことがある。「そのうち最終的には承諾してもらうつもりの広告」という意味なのだろうか。
 だが、なあに、少なくともケータイに関するかぎり、「TELMETHOD」ユーザには、その手は二度と使えんぞ。じつは、「未承諾広告」は言わずもがな、「否承諾広告」「未承認広告」「末承諾広告」等々を、すでにブロックするよう登録してあるのだ。「非承諾広告」にはさすがに面食らったが、もう大丈夫である。こんなもんをケータイに転送して金取られてたまるものか。しかし、そのうち康煕字典かなにかを調べまくって、誰も見たこともないようなそっくり文字で攻めてくるスパム業者が出現するやもしれぬ。まあ、こういう涙ぐましいトリックを考え出すやつの悪知恵には、ちょっと感動を覚えたりもしないではないのだが。

【10月5日(土)】
▼忙しいというのに、先日注文しておいた『ちょびっツ』CLAMP、講談社・デラックスKC)を、一巻から七巻まで一気にまとめ読みしてしまう。おれは小説でもマンガのネームでもいちいち頭の中で音にしないと読んだ気がしないため、読むスピードは非常に遅いほうだが、けっこう早く読めた。原作に意外と忠実にアニメ化していたのだな。どうやら八巻で終わりらしい。はたしてこれはSF的に満足のゆく終わりかたをするのかどうか。

【10月4日(金)】
▼ひさびさに淀屋橋の「蛸ぷち」でたこ焼きを食おうとカウンターに座ったら、前回来たときまではなかったものが置いてある。小袋に入ったマヨネーズだ。ご自由にお取りくださいというわけだろう。マヨネーズの侵略はここまで進んでいるのかと戦慄する。お好み焼きにはマヨつけて食ったりするが、たこ焼きにつけたことはないなあ。試しにやってみると、これがなかなかうまい。だけど、やっぱり邪道だよなあ、これは。
 おれが思うに、マヨネーズがなんにでも合うというのはウソで、極端な話、マヨネーズはなんにつけてもひたすらマヨネーズの味になってしまうだけのことではなかろうか。マヨネーズが出しゃばってきて、食材の味のほうが背後からマヨネーズを支えるような形になる。それがうまく行ったときに、「○○にマヨネーズは合う」などというわけだが、じつのところ、マヨネーズのほうに○○が合っているだけのことではあるまいか。ケチャップやらソースやらをそのまま舐めたりはせんが、マヨネーズはそのまま食ってもたしかにうまい。マヨネーズというやつは調味料ではなく、たぶんそれ自体が自立した食いものなのである。マヨネーズのチューブを口にくわえて「十秒チャージ!」とやってみてもいいくらいだ。たちまち肥ること請け合いだけどな。

【10月3日(木)】
『贖罪のカルネアデス ゾアハンター』(大迫純一、ハルキ・ノベルス)読了。いつもの熱いゾアハンターだが、SFとしての展開はちょっと中休みといったところ。じつは、昨日『イカ星人』北野勇作、徳間デュアル文庫)を読み終えたばかりで、その余韻のせいか、超生物〈ゾーン〉が出てくるたびにイカ星人の姿を思い描いてしまう。ま、系統は同じような気もせんではない。

【10月2日(水)】
▼北朝鮮から帰った調査団の報告が発表される。なんじゃ、あれは。北朝鮮ってのは、あの程度の作り話しかできないのだろうか。よっぽど人材が不足しているとみえる。もっとすごい作り話ができる人が、日本にはいっぱいおるぞ。あんな話なら、弘法大師に拉致されたあと呪術学校で猫をふりまわしながら日本語を教えていたが突如教え子の牛がしゃべり出したためウルトラマンに変身して退治したところアメリカの裁判にかけられ死刑になったくらいの話のほうがよっぽど説得力があるわい。あ、最後のは日本のじゃないな。
 ともかく、北朝鮮を見ていると、最悪の阿呆は人もみな阿呆だと思っているということが痛感される。阿呆の自覚を持った阿呆は、すでに阿呆から巨大な一歩を踏み出していると言えよう。


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