間歇日記

世界Aの始末書


ホームプロフィール間歇日記ブックレヴューエッセイ掌篇小説リンク

← 前の日記へ日記の目次へ次の日記へ →


2002年9月下旬

【9月30日(月)】
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

『グラン・ヴァカンス 廃園の天使I』
(飛浩隆、ハヤカワSFシリーズ Jコレクション)
『諸葛孔明対卑弥呼』
(町井登志夫、ハルキ・ノベルス)
『贖罪のカルネアデス ゾアハンター』
(大迫純一、ハルキ・ノベルス)
「Treva」で撮影

 『グラン・ヴァカンス 廃園の天使I』は、例によって予知すると、〈週刊読書人〉2002年11月8日号に寸評を書くはずなので、ご用とお急ぎでない方はそちらを予知してください。なんかこう、とても懐かしい感じがする話だが、これを懐かしいと感じない世代の人には新鮮なはずなので、言葉が淫らにきらきらするのが好きな方は魅せられることと思う。
 この『グラン・ヴァカンス』を読んで「あ、そか」とやがていまさらのように気がつくことになるのだが、ダイアスパー(アーサー・C・クラーク『都市と星』)って、結局、本質的にはサイバースペースなんだよな。メモリに貯えられた“都市”を住民ごと永遠にシミュレートしているだけだからだ。ダイアスパーがコンピュータ内のいわゆる“電脳空間”とちょこっと異なるのは、原子の一個一個までをも制御し得る超テクノロジーで、情報をいちいち物質で具現化しているところだ。だけど、サイバースペース内の情報というイデアの不完全な“影”が、物質というスクリーンにゆらゆらと写っているだけのものと見ることもできる。きっとおれはそんなことを考えながら読み、「ああ、この主人公、アルヴィンやな。なんかニューウェーブの香りがぷんぷんするけれども、皮肉にも――いや、意図しているのか――クラークへのオマージュと読むこともできる」などとよしなしごとを考えることになると思う。今日届いたばかりなのに、まるで読んでしまったあとであるかのように、まざまざと想像できるのがなんとも不思議である。
 『諸葛孔明対卑弥呼』ってあなた、どわはははははは、すごいタイトルにまずびっくりした。小松左京賞受賞作の『今池電波聖ゴミマリア』はたいへん気に入ったので、この絶望小説の書き手が次になにをぶつけてくるのかわくわくしていたが、こういうネタで来たかー。腰巻に「豊田有恒氏絶賛!」とある。なるほど、いかにも豊田氏がお喜びになりそうな設定である。時代は合ってるんだからこの二人が対決していたとしてもなんの不思議もないが(ないか?)、妙に新鮮な組み合わせだ。なぜか“切り裂きジャック対H・G・ウェルズ”を連想してしまった。ともかく、タイトルだけですでに勝ってますな。面白そうだ。
 『贖罪のカルネアデス ゾアハンター』! おおっ。包みを開けて驚いた。再び新書版ではないか。《ゾアハンター》シリーズもこれで五作めだが、四作めの『カムラッドの証人 ゾアハンター』でいったん文庫の体裁になったものの、この『贖罪のカルネアデス』のあとがきによれば、新書版で出してほしいという要望が多かったため、またハルキ・ノベルスでお目見えすることになったらしい。イラストレーションも小島文美の繊細かつワイルドな大人向けの画に戻っている。文庫版の解説を書いたおれが言うのもなんだが、版形が文庫になることについては、ややフクザツな気持ちがあったのは事実である。《ヌーヴェルSF》シリーズと“SF”の二文字が冠せられることに関しては嬉しかったのであるが、小島文美の黒川丈像はけっこうおれの想像ともフィットしていたからである。また、本質的にこれは“大人のおとぎ話”であり“ヒーローものの時代劇”なのだから、大人向けの体裁のほうが馴染むとは思う。でもやっぱりSF扱いもしてほしいしなあ。難しいところである。
 本書のあとがきでもうひとつ知ったことがある。「ゾアハンター・公認FANホームページ」ってのがいつのまにかできているではないか。なにせ公認であるから、大迫純一さんご本人も掲示板などにしょっちゅう顔を出していらして(というか、常連である)、熱い(あるいはマニアックな)ヒーロー談義などが読める。作者に感想など述べてみたいと思う方は、一度覗いてみては?

【9月29日(日)】
▼またもや『ちょびっツ』(TBS系)である。ちぃを誘拐した男のハンドルが“ドラゴンフライ”だというのにのけぞった。ううーむ。まさか……。いやいや、そんなはずは……。しかし、ネットは広いようで狭いというのは何度も経験していることではある。おれの名前が、よくも悪くも、ある種の人々が訪れそうなサイトではそこそこ知られているのは事実だ。CLAMPのどなたにも面識も電識もないけどなあ……。思い過ごしであろう。なんでもかんでも手前に関連づけてしまうのは、“「おれに関する噂」症候群”と呼ばれる(いま呼ばれた)怖ろしい病気である。そのうち、株価情報やらを見ながら、「こっ、これは――!! おれの誕生日を37で割った余りに自然対数の底を掛け256で割った数字の13桁めから18桁めに314を足せば、こ、この部分と完全に一致するっ! おれはCIAとJASRACにマークされているのだ」などと言い出すようになりかねない。気をつけねば。トンボ眼鏡をかけているキャラだからドラゴンフライなのだ、たぶんそうなのだそうにちがいない。ああ、ゲシュタルトが私を呼んでいる。

【9月28日(土)】
▼会社から最寄りの駅まで帰ってきたら、今日になっていた。またもや例の店でサンマの塩焼きを食いながら、『イカ星人』北野勇作、徳間デュアル文庫)を読む。サンマに熱燗でイカ星人とは、なかなかオツである。八代亜紀の唄声が頭の中に聞こえてくる――「♪お酒は温めの燗がいい〜、肴はあぶったイカ星人〜」
〈ユリイカ〉2002年10月号「特集:ニール・スティーヴンスン 暗号化するフィクション」が届く。「細部にのみ神を宿す異才、ニール・スティーヴンスン」などという、褒めているのか貶しているのかさっぱりわからない小文を書かせてもらったので、一冊見本が送られてきたわけだ。
 〈ユリイカ〉に書くのは初めてである。依頼を頂戴したときには、われとわが耳を疑った。〈ユリイカ〉と言うから、あの青土社の〈ユリイカ〉なのであろう。格調高い「詩と批評」の雑誌である。どう考えても、おれのガラではない。編集者の方は、はたしておれの日記を読んだことがあるのであろうか。池上冬樹小隅黎のまちがいではなかろうか――と、一瞬頭が混乱したが、どうやらほんとに依頼が来たらしい。えらいこっちゃ。婆さんが生きていたらひっくり返って驚く――ようなことはなかろう。五親等以内の親類縁者を生死を問わず頭の中で見わたしてみても、〈ユリイカ〉を読んだことがありそうな人物はひとりとして思い浮かばん。まあ、よろしい。おれひとりで驚いていればいいのだ。さてさて、初めてのご依頼であるからして、これはなんとしても書かせていただかずばなるまい。なに、ニール・スティーヴンスン? こここれはまた、なんとも厄介な作家を……。
 いやしかし、〈ユリイカ〉というのは、偉い大学の先生とか高名な作家や詩人や評論家とかの名前が並んでいる雑誌という印象が若いころから抜きがたくあるため、非常にアガる媒体である。学生のころなど、〈ユリイカ〉を読んでいるだけでなにやら頭がよくなったような気がしたものだ。おれのような一介のサラリーマン日記書きがお目汚しをしてもよいのであろうか。ともあれ、よいと言ってくださっているのだから、書かせていただきましょう。といっても、おれに格調高い批評などが書けるはずがなく、あいかわらずのおれの文章である。読者のFORFrame of Reference)を高めに見積もった程度だ。それでも、やっぱり格調低いよなあ。おれにはおれの文章しか書けないのだからいたしかたない。
 〈ユリイカ〉さんには申しわけないけれども、じつは、ひとつ告白をせねばならない。ある映画を観て以来、〈ユリイカ〉という誌名を見ると、おれの頭の中に怪獣ユリイカなるものが現われるのだ。否応なしに連想してしまう。悪いのは、『ゴジラVSビオランテ』である。ビオランテは、ゴジラの細胞に薔薇と人間の遺伝子を融合させた怪獣だ。つまり、「ああ、〈ユリイカ〉というのは、ビオランテみたいな怪獣なんだな」という連想回路がおれの脳内にできあがってしまっているのであった。〈ユリイカ〉と聞くと、円錐状の身体に吸盤の付いた脚をいっぱい生やし、エンペラのあたりに百合の花を咲かせている大怪獣が、ことに長大な二本の腕を振りまわしてゴジラに対峙している姿が、どうしても浮かんでしまうのだ。あろうことか、〈ユリイカ〉という誌名は、おれの頭の中で“ウナギイヌ”と同じ抽出しに入っているのである。こういう想像をしているのは、少なくともおれひとりじゃあるまいと疑っているのだが、どうなんだろう。
 あ、今日は奇しくもお題がイカで揃ってしまったな――って、どう揃ったというのだ。

【9月26日(木)】
▼雲梯(ってこんな字だったのか)にランドセルが引っかかって宙吊りになり窒息死した小学生の事故は、なんとも運が悪いとしか言いようがないよなあ。たしかにバーの間隔には配慮が必要だったかもしれんが、広ければ広いで、今度は「バーの間隔が狭かったらこんなことには……」といった事故が起こらないともかぎらない。それはどんな事故か想像もつかないが、常識ではとても想定できないから事故なんである。
 よくよく思い返してみると、あまり無茶をしないおとなしい子(臆病な子とも言う)であったおれですら、いま思えばぞっとするようなことを平然とやっていたものである。子供ってのは、たぶん何度も死にかけながら遊ぶものなのだろう。それくらい危なっかしいことを、しょっちゅうしている。中には稀にほんとうに死んでしまう子供もいて、そういうのはほんとに不運だよなあ。かといって、な〜んの冒険もない絶対安全なことばかりしている子供というのも、知的発達のうえでいささか問題ありだと思うしなあ。「そんなことしちゃいけません」と言われて、むらむらと“そんなこと”がしたくならない子供なんて、なんか気色悪いぞ。

【9月25日(水)】
▼会社から帰って晩飯を食い、ひたすら〈週刊読書人〉の原稿を書く。日記もろくろく書かずに仕事をするのは人としてどうかと思うが、それにしてもおれは働き者だなあ。

【9月24日(火)】
▼お徳用おしゃぶり昆布を、かっぱえびせんのように貪り食っていたら(もちろん、マヨネーズをつけてだ)、腹がいっぱいになってゲップばかりが出てくる。まあ、身体に悪い食いものではないだろう。でも、小皿に盛ったマヨネーズが見るみる減ってゆくのはまずいかもなあ。罪ほろぼしのように、一昨日買ってきた鉄アレイを振りまわす。

【9月23日(月)】
▼一日遅れで、ロバート・L・フォワード博士の死去を知る。以前書いたように、危篤状態だという報には触れていたが、やっぱりだめだったか。長く苦しまれずによかったと思うべきなのだろう。例によって敬虔な無宗教者であるおれは、その場しのぎのあからさまな社交辞令を除いては、死者の“冥福”とやらを“祈っ”たりはしないので、おれが惜しむ死者に対していつも使う言葉を捧げておこう。ありがとう。お疲れさまでした。

【9月22日(日)】
『ちょびっツ』(TBS系)、「チロル」の植田店長が過去にパソコンと結婚していたエピソードがじつにいい。こりゃあ、原作も読んでみるべきかなあ。
「カップヌードル・チーズカレー」を初めて食ってみる。う、うまい。カレーはまろやかになりチーズは奥深くなり、じつにすばらしい。「カップヌードルはカレーでなければならない」が持論の我孫子武丸さんも、これは激賞するにちがいない。あるいは、すでに虜になって毎日食べているかも。
▼近所の「コーナン」に、書類入れやらなにやらの収納ケース類を買いにゆく。書庫を作る計画は、まだ完了していないのである。おれはけっこうコーナンが好きなのだ。なんでもかんでも売っているから、ついつい余計なものに目移りして、いつも予定以上の買いものをしてしまう。今日なんか、「ああ、そういえば運動不足もはなはだしいなあ」と、鉄アレイなんぞを買ってしまった。1kgのが二個セットで五百円だったのだ。1kgってのはちょっと軽いが、ないよりはましだろう。少しは負荷をかけた運動をせんとな。昨今、本を読んだりものを書いたりするにはかなり体力が要るということを、ますます痛感するようになってきた。ケイン・コスギみたいになろうとは思わんが、せめて読み書きができる程度の体力は維持しておかねばならない。
 ついついケース類を買いすぎて、よくドラマに出てくるブランド品買い漁りおばさんみたいなありさまで、なんとかかんとか家にたどり着く。汗だくである。おっかしいなあ、カラーボックスってこんなに重いのかなあと重量の見積りを誤ったことを後悔しながら買って帰ったものを並べていると、鉄アレイが出てきた。最も体積が小さいにもかかわらず、たぶん最も効率的に重い。あたりまえだ。重いことがこの商品の価値なのである。しかし、考えてみれば、鉄アレイなどというものを買ったのは生まれて初めてだ。そもそも、そういうものを売っている場所に寄りつかない。スポーツ用品店ほど、おれと縁遠い場所があろうか。この手のホームセンターだからこそ、おれと鉄アレイの出会いがあったのである。ただただ“重い”という商品価値に金を払ったのは、おれにとってはじつに異様かつ新鮮な体験であった。衝動買いしておいて言うのもなんだが、なんとなくもったいない気がする。《ハイペリオン》三部作(ダン・シモンズ、酒井昭伸訳、早川書房)なら、重いうえに中身も楽しめるのにってそういう問題か。

【9月21日(土)】
▼以前、「ポカリスエット」(それにしても奇ッ怪なネーミングだ)の“宇宙CM”ってのがあったが、あれ以降、ほかに宇宙CMが登場したという話は聞かない。金がかかりすぎるからだろう。まあ、そのうち、「CMなんてものは、たいてい宇宙で撮るもの。いちいち地球に降りると高くつく」などという時代がやってくるやもしれないが。
 じつは、宇宙CM第二弾ってやつを思いついたのだ。ある惑星が舞台なんだが、実在の惑星ではないので特撮でもよい(だったら宇宙CMじゃないじゃないか)。なにやらコンテナのようなものの屋根の上で、宇宙服を着た大勢の人たちが「やっぱりイナバ。百人乗ってもだいじょ〜ぶ!」と唱和する。コンテナの傍らでは、ムカデ型の知的生物が嬉しそうに手でVサインを作って(ハサミだからそうするしかないのだが)振っている――というCMである。もっとも、いくら古典とはいえ、SFファンにしかわからんという些細な欠点はあるな。むろんこのCMは、『重力の使命』(ハル・クレメント、浅倉久志訳、ハヤカワ文庫SF)の“シェアードワールドもの”なのである。極地付近の重力が七百Gもある惑星メスクリンで撮影している(という想定だ)。すごい物置であることはたしかだが、屋根に乗っている人たちも人たちで、命知らずの連中である(なんでもあれは、稲葉製作所の社長さんと、イナバ物置の販売代理店の人たちだそうだ)。
 実際にメスクリンで撮影できるわけはないにしても、未来のイナバ物置の宇宙CMがこういうものになる可能性はある。高重力で知られた人類圏のどこかの惑星で撮影されるのだ。もちろん、屋根に乗るのはロボットである。狭い物置の屋根に百体もの人型ロボットが乗るのだから、うまく乗れるまでNGの連続だ。端っこのほうのロボットが押し出されて落下するたび、撮影クルーのロボットがのたのたと重そうにやってきては、落ちたロボットたちを地面から“引き剥がし”“一枚一枚”回収する。
 ――なーんてCMを撮影するのはたいへんだから、バカな監督が手近な月面上ですませたところ、たちまちイナバ物置の売り上げが落ちたりするわけである。落ちるかどうか、ちょっと心配ではあるけれども。


↑ ページの先頭へ ↑

← 前の日記へ日記の目次へ次の日記へ →

ホームプロフィール間歇日記ブックレヴューエッセイ掌篇小説リンク



冬樹 蛉にメールを出す