間歇日記

世界Aの始末書


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2004年1月中旬

【1月20日(火)】
「アーサー王」なら大丈夫だ。むろん、「アーサー・C・クラーク」でも大丈夫である。だが、「黒田アーサー」という名前を見ると、おれの意志とはまったく無関係に「谷岡ヤスジ」という文字列とあの独特の絵の数々がおれの脳裡にまざまざと浮かぶのだった。いつもである。やっぱり漢字のあとに「アーサー」が来て、しかも「アーサー」で終わるという、あまり頻繁には遭遇しない字面が、おれの脳のパターン認識に関わるニューロンどもを妙な具合に発火させるのだろうと思う。字面だけでこのように人間の心を動かすことができるのだから、文字の力というのはじつに不思議なものだ。まあ、少なくともこの場合は、あんまりたいした力じゃないような気もするけどな。

【1月19日(月)】
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

『姫百合たちの放課後』
森奈津子、フィールドワイ)
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 どひゃひゃひゃ、おれがこのような本を頂戴してしまってもいいのだろうか。もう、どんな本だかタイトルでおおまかな想像がつくように、女性では少数派かもしれぬインキュバス言語の使い手(牧野修家元のそれとは、妄想の源がちとちがうけど)、森奈津子必殺の“百合コメディ”作品集である。いったいいつから“百合コメディ”などというジャンルがあったのかと、野暮なことを問うてはならない。そう呼べば、健全な大人にはどんなもんかわかるでしょうが。もっとも、格調高いこの日記の読者の中には、「百合コメディってなに?」と虚心坦懐に(?)疑問を抱かれる無垢な方があるやもしれないので手短かに説明はしておきたいが、なあに、この本の腰巻コピーを読めば、どんなに鈍い方にも百合コメディのなんたるかは伝わるだろう――「ああ、静香お姉様! お美しく気高く清らかな、わたくしの白百合!」
 さっそくげらげら笑いながら二篇読む。あのさ、おれ、前からずっと不思議に思っているんだが、「レイさん、わたくし、到底あなたのことは理解できなくってよ。美しい乙女の身でありながら、わざと野蛮な男性のまねをなさったりして! だいたい、あなた、どうして世の殿方が乱暴で品がないのか、その理由をご存じ?」(表題作「姫百合たちの放課後」)みたいな言葉を使っている人って、実在するんだろうか? おれは金輪際会ったことがない。こういう言葉遣いは、おれにとって、最初に知ったときからすでにして“ギャグ”以外のなにものでもなかったのだ。この本には、“女学生言葉”って書いてあるんだが、どこにこんな言葉をしゃべっている“女学生”がいるのだろう? おれの知っている女学生なるものが、世間一般の常識からズレているのかもしれん。おれの育ちが悪いせいかもしれん。世の中には、ひょっとしてもしかして、ほんとうに日常生活でこのようなしゃべりかたをする人々が、田園調布だか芦屋だかニューギニアの奥地だかに棲息しているのかもしれん。だけど、おれは一回も遭遇したことないんだよなあ。幽霊みたいなもんで、もし実在したら、ぜひ一度見てみたいものである。こんなお蝶夫人みたいなしゃべりかたする人が目の前におったら、失礼ながら、おれは笑いが止まらないことであろう。まあっ、なんて失礼な方なの。わたくしの話しかたのなにがおかしいとおっしゃるの。身のほどを知ったがよくってよ。伊集院、勅使河原、西園寺、黒岩、パーカー、ここな大たわけを畳んでおしまいっ!
 「姫百合たちの放課後」「姫百合日記」「放課後の生活指導」「花と指」「2001年宇宙の足袋」「お面の告白」「一九九一年の生体実験」「お姉様は飛行機恐怖症」の八篇を収録。それにしても、妖しいタイトルを並べたものだ。おれも、タイトルだけなら、『下の森の満開の桜』みたいなのはいっぱい考えてるんだがなあ。

【1月18日(日)】
▼なんか半月くらいワープしたような気がしないでもないが、この日記は「間歇日記」であるからして、ときおりこのようなことがあってもよいのである。いくらなんでもファイルを一個跳ばしてはまずいから、この日記の仕様は、最大十九日の幅でワープすることができるようになっていることになる。1日から20日まで跳ぶようなこともあり得るわけだ。
 それはともかく、『仮面ライダー555』テレビ朝日公式サイト東映公式サイト)は、ついに最終回を迎えた。なにやら十六日くらいむかしに、ウルトラマンがどうした仮面ライダーがどうした冷麺がどうしたという話ばかりしている同い年の人物を揶揄したような気がしないでもないが、いつまでも過去にかかずらわっていてはいけない。
 で、『仮面ライダー555』であるが、ああ、やっぱり風呂敷が畳み切れなかったようである。まあ、子供番組としては、おれはもう乾巧がオルフェノク化したあたりで充分上等だと思っているので、途中で伏線が消えたり、伏線のない設定が突如思いつきのように現われたりするハチャハチャさ加減は、そこそこ許せる。つまるところ、『仮面ライダー555』には、“ポスト9・11”に仮面ライダーが可能かという点を強く意識しながら原点回帰を図ろうとした努力作といった評価をしておこう。もはや原点には還れないことが痛いほどわかってしまったこの時代に、それでも原点のあったところにぽっかりと空いている穴を確認しながら、新たにまだ見ぬ原点に回帰しようとする切実な試みとでも言おうか。それはすなわち、当初から失敗ないしは尻切れトンボを覚悟せざるを得ないほどの巨大なテーマの追求であって、実社会でもおれたちが結論を出せていない課題なのだから、子供番組であっと驚く思想的ブレークスルーが提示されたりしようもないのだ。提示されたりしたら、大天才の仕事として激賞せねばならない。むろん天才の仕事ではなかったが、少なくとも、仮面ライダーの力を、それを用いる者の人格と完全に切り離し、あくまで狂言回しとして使った設定は画期的であった。ファイズカイザデルタのベルトが、装着者の天性の属性(これは“人格”とはまたちがう)への依存度においてグラデーションになっていた点(すなわち、オルフェノクにしか使えないファイズの力、最も汎用性の高いデルタの力、その中間に位置するカイザの力)も、設定としては評価できる(残念ながら、充分に活かせていたとは言い難いが……)。言うまでもないことだが、この作品の主役はオルフェノクであり、“オルフェノクの力”なのである。小さなお友だちにも、そこは充分伝わっているのではなかろうか。
 『仮面ライダー555』に手に汗握っていた小さなお友だちたちが、長じてのち、どうやらこの世界にはファイズやカイザやデルタの力に似たものや、“オルフェノクの力”に似たものがあって、人類はまだまだそれらを手なずけ得るほどには成熟していないらしい――といったことにぼんやりと想いをめぐらせてくれたら、この努力作は、少なくとも失敗はしていなかったということになるのだろう。うん、おれはやっぱり、555、好きだよ。眼高手低でとっちらかっちまったところが、子供番組としてソツのない手高眼低よりは好感が持てる。Standing by. 変身っ! Complete.
『アストロボーイ・鉄腕アトム』(フジテレビ系)は、エプシロンがひさびさに登場。あんまり感心しない今回のテレビアニメ化シリーズだが、エプシロンを女性にしたのは、数少ない功績だな。あのかっこいいプルートウを、なにやらゴテゴテしたデザインに改悪したのは許さんが。
▼今日はテレビネタばっかりでゆく。『特命リサーチ200X II』(日本テレビ系)を漫然と観ていたら、戸田恵子演じる調査員・吉田真弓のケータイに着信。二秒ほど鳴った着メロは、「アンパンマンのマーチ」であった。う、ううむ、なるほど日テレだしな。藝が細かいというか、商売上手というか。小さなお子様と一緒に観ていた全国のお父さん・お母さんは、「パパ(ママ)もあれにして!」とか言われて、しぶしぶ『アンパンマン』公式サイトに行ってみる羽目になってたりしてな。もっとも、もしかするとあれは個人持ちのケータイで、戸田恵子はほんとうにあの着メロを使っているのかもしれないが……。


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