間歇日記

世界Aの始末書


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2004年1月下旬

【1月30日(金)】
▼電車の中でぼーっとしてあちこちを見まわしていると、いまの日本を動かしているのは消費者金融英会話学校だけなのではないかというコワイ考えに襲われる。

【1月28日(水)】
▼うーむ、どうも最近の『トリビアの泉』(フジテレビ系)は、ネタが薄くていかん。一般常識としか言いようがないネタが目立つ。今日という今日はさすがにずっこけた。「ウルトラマンが手から水を出す」のどこがトリビアなのだ。何度も何度も再放送され、いまの小さな子供だってビデオかなにかで観ている。日本国民の一般常識であろう。大化の改新がいつのことか知らん日本人がおっても、ウルトラマンが手から水を出すことを知らん日本人がいるとはとても思えん。おれの常識のほうがヘンなのだろうか? いや、そんなことはない。それが証拠に、この日記の読者の百人に九十九人くらいは絶対知っているはずだ。そこのあなた、知ってましたよね? そーら、みたことか。
 本来の「へぇ」以外の小技で笑いを取るのが主になってしまっては長続きせんぞ、『トリビアの泉』。

【1月27日(火)】
「薄く丸められるディスプレイ、いよいよ製品化へ」というニュースに、おお、いよいよ来たかと喜ぶ。「オランダのRoyal Philips Electronicsは、同社が立ち上げたベンチャー企業Polymer Visionによって、柔軟に折り曲げて丸められる極薄ディスプレイの製造販売を開始する体制が整ったことを発表した」とのこと。案の定、業界ではすでに名前はおなじみのE Ink社電子インクを採用しているそうな。まだまだ熱烈に欲しいというほどの仕様ではないが、もっと洗練されてくれば、“ディスプレイで作った服”なんてのが作れるかもしれんなあ。やっぱりこれは、既存のディスプレイに代わろうとするような用途向けではなくて、まさに“着るコンピュータ”にこそふさわしい技術でしょう。前腕にくるりと巻けば、あなたもたちまち宇宙怪人ゴースト――ってそんなものになりたくありませんかそうですか。
 じゃ、マジなアイディアとしては、前腕にくるりと巻けば、ズズズズズ、プシューーと膨らんだり萎んだりして、たちまち腕帯そのものの表面に血圧と脈搏が表示される血圧計なんてのはどうだ? 現在の家庭用簡易血圧計のゴツゴツした部分を極小化できるので、循環器系に疾患があってしょっちゅう血圧や脈搏を気にしていなくてはならない人などは、丸めて鞄に放り込んでおいてもいいし、なんなら腕に巻いたまま生活したってかまわない(蒸れるかな?)だろう。まあ、オムロンさんやらテルモさんやらは、とっくに目をつけてらっしゃるだろうとは思うが、万一見逃しているとしたらもったいないので一応書いておこう。いや、「それいいじゃん。作ろう」ということになっても、べつに権利など主張しませんよ。とくに苦労して捻出したわけでもないこの程度の与太なアイディアでいいのなら、いくらでもさしあげる。なんなら、そこいらへんのSFファンを二、三人捕まえて飲みに連れてゆき、止めても止まらぬバカ話を続けさせれば、玉石混淆のアイディアを湯水のように惜し気もなく垂れ流してくれるだろう。五十や百もバカなアイディアが出るうち、ひとつやふたつは使えそうなヒントが出るやもしれん。
 おお、そうじゃ、“胴体が透明になる腹巻”なんてのも、SFファンならすぐ思いつくにちがいない。つまり、この丸められるディスプレイ(将来のカラー版)でできた腹巻に、“胴体が透明であったとすれば透けて見えるはずの向こうがわの風景”をリアルタイムで表示するのである。カメラは腹巻の縁にでも三百六十度がカバーできるように取り付けておけばよい。カメラの取り付け位置の視差や胴体の曲率による不自然さは、ソフトで補正すればなんとでもなるだろう。忍法微塵隠れ・IT版だ。もっとも、こんなものをなにに使うのかが問題である。人を驚かせる以外の用途があるだろうか? たぶん、じっくり考えればある。いや、人を驚かせられるということは、それすなわちファッションとしての用途があるわけではないか。さらに技術が進歩して“全身版”ができれば、軍事活動やら諜報活動やらに引っぱりだこだろうが、それを着て女子トイレに忍び込み一日中じっと壁に貼りついているバカといったものも必ず出現するのが、人類の技術というものの宿命なのであった。
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

『ペイチェック』
フィリップ・K・ディック、浅倉久志・他訳、ハヤカワ文庫SF)
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 映画『ペイチェック 消された記憶』(監督:ジョン・ウー/出演:ベン・アフレックアーロン・エッカートユマ・サーマン)が三月に公開されるからであろう、映画原作の表題作を含む十二篇で新たに編んだディック作品集が出た。初訳出作品はひとつもないので、濃ゆいディックファンには目新しいうまみはないのだが、ここ十年ばかりのあいだにディックファンになったという方は、いまとなっては入手困難な新潮文庫の作品集『永久戦争』(浅倉久志訳/一九九三年)所収の「ジョンの世界」「傍観者」や、ちくま文庫の作品集『人間狩り』(仁賀克雄訳/一九九一年)所収の「ナニー」が浅倉久志訳で収録されているから、訳出作品コンプリートを目指すなら買いだ。とくに新潮文庫の『永久戦争』なんて、書店に並んでいた期間がひどく短かったように記憶しているので、若いディックファンじゃなくても、うっかり買い損ねてしまった人がけっこういるんじゃないだろうか。おれは『永久戦争』も『人間狩り』も持ってるもんねーと、中年オヤジらしくいちびっておく。
 映画化された表題作は、古来「報酬」というタイトルでおなじみ。今回改題されたわけである。この新しい作品集に収められた作品のセレクションの思想がいまひとつよく見えないのだけれども、察するに、ディックにしては破綻が少ない、ディック初心者にも読みやすいものが選んであるような感じである。「破綻してないディック作品なんて……」とお嘆きの「サンマの塩焼きはワタこそがメインである」というタイプのディック読者にはいささかもの足りないかもしれないが、今回の映画化で初めてディックを知ったという迷える子羊たちをまんまと深みに引きずり込む意図なのであれば、充分許せるラインナップだと思う。本書の収録作も、ディックならではのぶっ飛んだ設定(“関節の外れた設定”とでも言おうか)や癖になる強引さは、初心者には充分な含有率で備えているだろう。
 おれもひさびさに「報酬」改め「ペイチェック」を読み直したが、なるほど、こうして見るとこりゃたしかに映画にしたくなる話だわ。その表層の構造は、よく考えると、なんに使えるのかよくわからんアイテムどもが頼りの“クエストもの”ファンタジーそのものなんだが、それがもうファンタジーとは似ても似つかぬ類の微妙に壊れた歴としたSFなんである。この微妙な壊れ具合がいい。なんのことはない、ワタを楽しみにサンマを食っているのは手前のことだ。
 しかし、発表から五十一年後(!)に短篇が映画になるようなSF作家ってのは、そうはいないわなあ。浅倉久志氏が巻末解説「すべては《ブレードランナー》からはじまった」で書いてらっしゃるように、「ディック作品のどこがそれほど映画作家たちの心をとらえるのか、また、製作された映画のどこがそれほど観客の心をとらえるのか」、そのうちじっくり考えてみなくちゃなあ。

【1月26日(月)】
『火星ダーク・バラード』(角川春樹事務所/[bk1][amazon])で第四回小松左京賞を受賞した上田早夕里さんの「雑記・近況」(2004年1月26日付)を読んでいたら、なんと上田さんがカエラーだということがわかった。たいへん高尚な趣味であり、じつにけっこうなことだ。日本の未来は明るい。『カエラーには、「可愛らしくデフォルメされたカエルグッズが好きな人」と「あくまでもリアル系のカエルにこだわる自然派志向の人」がいて』と上田さんは書いてらっしゃるが、両者は必ずしも排他的な集合ではないと思う。おれは両刀使いのカエラーである。カエルグッズ系の成分とリアルカエル系の成分の含有量によって、カエラーにもさまざまなヴァリエーションがあるのだ。“リアルなカエルの感触にこだわったグッズにこだわる”というハイブリッド派もいるようだ。
 それはそうと、最近、カエラーとしてどうも不愉快なことがある。かのテロ組織・アーレフオウム真理教だってば)の一部に、ひときわ麻原彰晃原理主義の連中がいて、そいつらが「ケロヨンクラブ」などと名告っているのがなんとも腹立たしい。なーにが「麻原尊師にカエル」だよ。そんなところでカエルを使うな。いやまあ、使うのはたしかに自由だが、少なくともおれは面白くない。それにしても、「ケロヨンクラブ」ってなあ、命名したやつの世代が知れるなあ。要するに、おれとさほど変わらん年齢のやつが名づけたにちがいない。若いやつなら、せめて「けろっぴクラブ」かなんかにすると思うんだが……。

【1月25日(日)】
▼先週で終わった『仮面ライダー555』テレビ朝日公式サイト東映公式サイト)に代わって、今日から『仮面ライダー剣(ブレイド)』テレビ朝日公式サイト東映公式サイト)がはじまったので、やっぱり観る。テーマソングは相川七瀬。うん、まあこれはいい。プラス1点。おれはとくに相川七瀬のファンというわけではないが、パンチがあってよい歌手だとは認めている。それに、かなり多くのSFファンは、名前が“七瀬”だというだけでなにかを許してしまうものである(ほんまかいな)。相川七瀬の歌を聴きながら、タイトルバックの映像になんとなく厭な予感がする。なにやら突然ホストクラブに放り込まれたかのようである。「イケメンが出ます! たくさん出ます! そりゃもうイケメンだらけです!」と言いたいわけなんだろうが、ここまでお母さん狙いを露骨に出すかー。マイナス2点
 ドラマがはじまる。おお、なんということだ、さっそく仮面ライダーがバイクに乗っている! 『555』では考えられないことだ。そうか、仮面ライダーというのは、バイクに乗ってやってくるものだったのだ。プラス2点
 おお、さっき配役が出たのでもうわかってはいるが、山口香緒里が出ている。それも、毎回出そうなけっこういい役で出ている。プラス2点二プロのCMの看護婦さんをやってたのが、公式サイトのプロフィールによれば一九九五年ということだから、なんともうあれから足かけ九年か。ま、色っぽくもなりますわな。それでも、ふとわれに返り、山口香緒里はおれとひとまわりちがうという事実に愕然とするのだった。
 山口香緒里はいいとして、肝心の仮面ライダーとその周辺の若者たち、いくらオーディションで活きのいい新人を選ぶようにしているからといっても、揃いも揃ってあまりにも滑舌が悪い。一所懸命演技しようとしているのはわかるのだが、しばしばなにを言っているのかわからない。マイナス2点。香緒里お姉様によく教えてもらいなさい。しかも、男はよく似た系統の顔ばかりで、うっかりすると誰が誰やらわからない。マイナス1点
 仮面ライダーの変身アイテム、げげっ、怖れていたことが。やっぱり、カード式に戻ったか。このほうが玩具が売りやすいんだろうなあ。しかも、なにやら魔法のような変身のしかたである。ファイズドライバーは、一応機械としての色気があってよかったんだが……。「そんなもん、555かて魔法みたいなもんやないけ」と言われればたしかにそうなんだが、このあたりの好みは微妙である。ブレイドの変身アイテムには、機械としてセクシーなところがない。変身時の音声も「ターン、アップ」(そりゃ、トランプなんだってわかるけどね)などと一語一語切って発音しているのが微妙に間抜けである。ファイズドライバーの音声は冷徹だが自然な発音でかっこよかった。お子様向けだからといって、こういうところをこれ見よがしにわかりやすくしようとしている(それはじつはわかりにくくしているのだ。子供の耳はカタカナに冒された大人の耳より柔軟である)のは嫌いである。変身アイテム、マイナス3点
 えーと、いまのところ総合点はいくつだ。マイナス3点か。のっけからマイナスではじまったのは残念だが、まだ初回だしな。おれの独断と偏見を「おおおおお……」と粉砕して度胆を抜く展開を期待したい。

【1月24日(土)】
▼ワープモードで跳ばしているときはほとんどテレビ日記になりがちであるが、性懲りもなくまたもやテレビの話である。
 晩飯を食いながら『クレヨンしんちゃん』(テレビ朝日系)を観ていたら、しんちゃんたちの幼稚園が遠足だか社会見学だかに行く話で、新幹線の中で風間くんはあいかわらず優等生らしく英語の勉強をしている。風間くんが読んでいる教科書の表紙には、「EVENT HORIZON」と書いてあるのだった。
 うーむ、この小ネタはどう解釈すべきであろうか。まず、「(1)臼井儀人の趣味である。(2)原恵一の趣味である。(3)その他の関係者の趣味である」という軸が想定され、さらに「(a)物理ネタのつもりである。(b)音楽ネタのつもりである。(c)映画ネタのつもりである。(d)SFネタのつもりである。(e)全部かぶらせているつもりである」という軸が考えられる。このマトリックスを頭の中に展開し、しばし悩む。おれは(2,d)がけっこう臭いと思うんだがなあ。(3,a)も捨て難い。〈Event Horizon〉の愛読者だったとかいう人がスタッフに紛れ込んでいても、クレしんなら不思議じゃないような気もする。

【1月22日(木)】
上戸彩娘みたいでなかなかかわいいので(実際、娘であったとしても不思議はない年齢だ)、いろいろな意味で話題の多い『エースをねらえ!』(テレビ朝日系)を観てみたのだが、うーむ、この今風アレンジのテーマソングは好かん。なんだこの、間延びしたメリハリのない舌足らずな唄いかたは! 「くちびるぅ〜に〜ばらのはなびらぁ〜わたしはとぼ〜しろいぼーるになぁってぇ〜さーぶ〜すまっしゅ〜ぼれ〜」って、なにやら水中でテニスをしているかのようである。「唇に――薔薇の花びら――私は飛ぼう――白いボールになぁってぇ〜〜〜――サーブ!――スマッシュ!――ボレー!」だ。「――」のところで、あまりのドラマチックさに驚いて絵のほうが止まるくらいのメリハリが欲しい。まあ、そういうアレンジじゃ、そう唄えと指導されたというのなら、歌手を責めるのは酷じゃが。
 おれは、『エースをねらえ!』のテーマソングはアニメ史上に残る名曲だと思っているので、今回の実写ドラマにオリジナルと同じテーマソングを使ったところは大いに評価する。だが、アレンジが好かん。イントロからしてもうダメだ。どうしてオリジナルのあの“これ見よがしにドラマチック”な雰囲気を削ぎ落としてしまったのだろう? あれは“これ見よがしにドラマチック”だからいいのだ。名曲『美しきチャレンジャー』のノリである。絶対「私もそうだ」という人が多いだろうと思うので言ってみるのだが、おれの頭の中のジュークボックスでは、『エースをねらえ!』のテーマソングは『美しきチャレンジャー』のテーマソングのすぐ隣に入っている。だって、“曲のストーリー進行”とでも言うべきものが、ほとんどおんなじパターンやん。そう思いませんか? そういえば、本体(?)の話もなんとなく似ているような気がせんでもない(両方ともあんまりはっきり憶えとらんが)。「コーチっ!」「岡っ、おれは……M78星雲からやってきた、ウルトラセブンなんだっ!」 ♪チャラリ〜、鼻から牛乳〜ってちょっと記憶が混乱しているな。
 『エースをねらえ!』が『美しきチャレンジャー』に影響を受けているのか、そもそもあのころの少女マンガにはこういうのが多かったのか、おれにはよくわからん。上戸彩がいずれ新藤恵美のようになるのかどうかとなると、なおさらわからないおれなのだった。

【1月21日(水)】
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

『塵クジラの海』
(ブルース・スターリング、小川隆訳、ハヤカワ文庫FT)
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『針』
浅暮三文、ハヤカワSFシリーズ Jコレクション)
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 『塵クジラの海』は、あのブルース・スターリングのデビュー作である。スターリングのデビュー作 Involution Ocean が、サイバーパンク運動のイデオローグらしからぬロマンチックな冒険小説であるということは何度か読んだり聞いたりして知ってはいたが、それがついに訳されたわけだ。訳者の小川隆氏は「サイエンス・ファンタシイ」と分類してらっしゃる。そう、スターリングなのに「ハヤカワ文庫FT」なんである。おれだってブルース・スターリングという名を知ったのはサイバーパンク発動期くらいだ。「Schismatrix という“過激”で“ハード”なアイディアをぎゅうぎゅう詰めにしたようなすごい小説がある」と海外のSFファンや日本の海外SF読みが話題にしていたのを読んで知ったのだったと思う。だものだから、おれもたいていのSFファンと同じく、スターリングの「サイエンス・ファンタシイ」なんてものは全然イメージが湧かない。それだけに楽しみだ。
 それにしても、『スキズマトリックス』(小川隆訳/ハヤカワ文庫SF/[bk1][amazon])が翻訳されてから、もう十七年も経つんだねえ、婆さんや。あら、厭ですよ、お爺さん、『スキズマトリックス』が翻訳されてから、もう十七年も経つんですよ。ほぇーっ、わしゃまたてっきり『スキズマトリックス』が翻訳されてから、もう十七年も……一応お約束だが、もういいですかそうですか。サイバーパンクの誕生から二十年以上経ってみて、やっぱりウィリアム・ギブスンとブルース・スターリングは正反対の作家だったんだよなあと、最近いよいよしみじみ思う。『ニューロマンサー』(ウィリアム・ギブスン/黒丸尚訳/ハヤカワ文庫SF/[bk1][amazon])なんて、技術的ディテールはともかくとして、あくまで“感触”としては、いま現在のSFでもなんでもないおれたちの日常そのものだもんな。おれたち中年SFファンは、『ニューロマンサー』の翻訳が出た年(つい昨日のようだが)、小川一水十一歳で、冲方丁九歳であったということを、たまに念頭に置いて現代のSFを読んでゆかなくちゃならんよなあと反省したりする。
 それはともかく、“処女作にはその作家のすべてが詰まっている”という(かなり正しい)俗説に依るとするなら、おれはこの本を読んで「うんうん、うーん、うんうん」と頷きまくらなくちゃならないことになるはずである。あるいは、おれのスターリング観は大きく修正を迫られることになるのかな? ま、どっちにしても、スターリングのファンには必読の書であるにちがいない。なんでも、「〈著者序文〉日本版によせて」によれば、「今度、大半の国ではとうに絶版になっているこの本が日本で手に入ることになった。これはぼくの本ではもっとも珍しく、入手困難な作品だ。日本は、この長篇をかんたんに買って読むことのできる、世界で唯一の国になる」ということで、こんなふうに言われると、日本に住んでいて日本語が読めることがなんだかえらくお得なことに思えてくる(買うだけなら日本語が読めなくても世界中で買えますわな)のだから、おれはつくづくお気楽なやつである。
 『針』は、おれのおなじみの予知能力ですでに読んでしまった未来を予知するに、Jコレクションの中でもひときわ異彩を放つSFである。腰巻には「異常感覚SF!」と書いてあるが、うーむ、たしかにそうとでも呼ぶしかあるまい。浅暮三文がライフワークと呼ぶ、いわゆる《五感シリーズ》“触覚”の巻にあたるのが本書だ。
 じつのところ、一般的なSFらしさを増すためであろう物語の“外枠”の部分には、あまり大きな驚きはない。作家本人だって、そこのところで驚かそうとはしていないはずである。人間の主人公(“触覚”そのものが主役だけれども)の皮膚感覚がある原因でぐんぐん亢進してゆき、かなり反社会的な行為(というか、もろに犯罪なんだが)に手を染めてゆく過程は圧巻だ。もしもここがなまぬるかったら、この作品はSFになっていなかったところである。キオスクやらコンビニやらで売っている願望充足型官能小説とこの小説が一線を画すのは、まさに“触る”という行為の追究と描写がハンパではないところなのだ。SFになるほどにハンパではない。書店でパラパラと眺めてみた人の中には、単なるエロ小説ではないかと勘ちがいなさる方もあるやもしれないので念を押しておこう。ここにエロ写真があるとする。ふつうに眺めていると、この写真本来の用途・目的にかなった劣情を催すやもしれん。もっとよく見ようと目に近づけてみる。もっと興奮するかもしれん。さらによく見ようと、もっともっともっともっと近づけてみる。するとそれはもうエロ写真ではない。その写真はあなたに別種の関心を呼び覚まさせ、別種の世界を見せる。そこにSFが立ち現われる。そういうことである。いつだったか、トム・クランシーThe Sum of All Fears(邦訳『恐怖の総和(上・下)』井坂清訳/文春文庫/[bk1][amazon])を読んでいて、核爆弾が起爆する過程の数十ナノ秒だかの出来事を数ページにわたって描写しているのに妙な感心のしかたをした憶えがあるのだが(『中二階』[bk1][amazon]ニコルソン・ベイカーにも、この記録は破れんだろう)、まあ要するに、なにごとにも常軌を逸して突っ込めば別のものが見えてくるということである。もっとも、その“常軌を逸して突っ込む”のが、誰にでもできるわけではない難しいことなんだけども。
 というわけで、“常軌を逸して突っ込んだ小説”と評しておけば、お読みになった方には、いろいろな意味で納得していただけるにちがいない。この作品における求道者のごとき描写への執念に人は学ぶべきであるが、表面に書かれていることだけを、よい子のみんなは真似しちゃだめだよ。


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