間歇日記

世界Aの始末書


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2003年9月下旬

【9月30日(火)】
カリフォルニア州知事選挙を報じるメールニュースやなんかの短い見出しを見ると吹き出しそうになることがある。「シュワちゃん」などと書いてあったりするのは、まだいいのだ。それなりに馴染みがある。「シュワ氏」ってのはなんとかならんか。軽いノリのニュースなのか真面目な報道なのか、見出しから中身の見当がつかん。
 そういえば、アーノルド・シュワルツェネッガーを最初に“シュワちゃん”と呼んだのは誰だろう? いつのまにか、シュワちゃんになっちゃってたよなあ。調べたわけではないが、どうもおれは小森のおばちゃまが犯人のような気がする。淀川長治もたしかに「シュワちゃん」と呼んでた記憶があるんだが、最初に言い出したとは思えないなあ。どうだったっけ?

【9月29日(月)】
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

『リスクテイカー』
(川端裕人、文春文庫)

 一九九九年に出たハードカバーの文庫化。おれはこの作品は読んでいなかったので、まことにありがたい。さっそく読みはじめると、三人の若者(というにはちょっとフケてるが)が経済物理学なるものを駆使してヘッジファンドを立ち上げるという話のようだ。おれは実際の金融というものにはさっぱり興味がない人種であるが、エンジニアリングとしての“金融工学”はけっこうSF的に面白いと感じているので、冒頭からぐいぐい惹きこまれる。以前、『金融工学の挑戦――テクノコマース化するビジネス』(今野浩、中公新書)ってのを読んで、「へぇー、ゼニカネの世界も工学だと思えばなかなか興味深いものなのであるなあ」と感心したことがあり、川端裕人のゼニカネの扱いかたにも最初から工学や哲学の手つきが見えるので、ますます惹きこまれる。そうだよな、でないと、川端裕人が書く意味がないもんね。
 おれは解説を先に読んじゃうタイプで、恩田陸が解説に書いている『川端裕人の場合は、世界を変えていく当事者に常に「僕たち」が含まれている』ってのには、なーるほど、こういう表現もあるかと膝を打った。恩田陸の意図からは少しずれるかもしれないが、テクノロジーというものは、好むと好まざるとにかかわらず世界を変えてしまうものであって、テクノロジーに関わる人間(川端裕人ワールドであれば、あるテクノロジーに“憑かれた”人間)は、“うっかり世界を変えちゃう”こともあるわけなのだ。世界が変わっちゃうことそれ自体は、川端裕人の小説では、テクノロジーを扱うからには“よくあること”にすぎず、川端裕人が描きたいのは、世界をうっかり変えちゃう“ありふれた特殊な人たち”のほうなのだろう。

【9月23日(火)】
テッド・チャン『あなたの人生の物語』(浅倉久志・他訳、ハヤカワ文庫SF)を読んでいて、ふと思い当たったトリビア――

「テッド・チャンは岡田有希子と同い年である」

 いやまあ、原田知世でもいいんだけどさ。

【9月22日(月)】
ちょうど一年前の今日、ちょっとした気まぐれで1kg×二個が五百円の鉄アレイを買い、毎日少しずつ運動をはじめたのであった。それがいまはどうだ。10kgのを両手に一個ずつ持って振りまわしている。痩せるのが目的であったはずなのだが、最初けっこう重いもんだなと感じていた鉄アレイがだんだん軽く感じられるようになってきて、もの足りないもんだからさらに重いのを買うということを繰り返しているうちに、とうとう鉄アレイというよりは、小型のバーベルのようなものになってしまったのである。鉄の輪っかを着脱して重さの調節ができるやつだ。1kgのは姪にやったが、いま、家の中に2kg・3kg・5kgのがふたつずつ転がっている。なんであれ、いったんはじめてしまうと面白くなってしまうこの性癖はなんとかならんものだろうか。一日は二十四時間しかないのである。
 とはいえ、高瀬彼方さんのように筋トレの深みにずぶずぶとハマっていっているわけでもなくて、もはや痩せるという当初の目的は果たしたので、かなりテキトーにやってはいるのだ。それでも、一年もやれば、すっかり体型が変わってしまったのがわかり、やっぱり多少は欲が出てくる。一年前に七○キロあった体重は、2002年11月22日の日記では六八キロ2003年4月5日の日記では六五キロ5月3日の日記では六三キロにまで落ちた。そして、6月13日の日記では、六三キロで底を打って跳ね返り、ほぼ六四キロに落ちついている。それ以来今日まで、食いものも運動もさして変わらないのに、六四キロと六五キロのあいだを揺れ動いている。やっぱりこのあたりが適正体重なのだなあ。というわけで最近は、体重は変わらないのに徐々に筋肉が増えて身が締まってゆくという現象が続いているのである。うちには体脂肪率の測定器がないので厳密にはわからんのだが、観察されるかぎりのデータでは、体脂肪率が減っていっているのであろう。よいことだ。
 結局のところ、健康的に痩せるには、適度に筋肉をつけるようにするのが確実で合理的であるという、ごくあたりまえのことを一年かけて確認したのであった。しかし、日常生活でさほど使いもしない筋肉がつきすぎて、それを維持するのに余計な金や時間がかかるようでは本末転倒であるからして、テキトーなところで負荷を増やすのをやめにしたほうがいいだろう。とはいえ、どこまで筋肉を増やせるかやってみたいという好奇心もかなりある。輪っかの外れる10kgのダンベルが二個あれば、片腕ずつ鍛えるなら20kgまでは負荷をかけることができるから、そのへんまではやってみるか。

【9月21日(日)】
『仮面ライダー555(ファイズ)』テレビ朝日公式サイト東映公式サイト)は、やっぱり当初の予想どおりの展開で、乾巧オルフェノク化してしまった。巧は啓太郎が差し出したファイズのベルトを受け取らず、その場で咆哮してオルフェノクに変身したわけだから、当然、自分がオルフェノクであることを知っていたはずである。
 面白いのは、巧は自分がオルフェノクだと知っていたということが、過去の重要なシーンの意味をことごとく塗り替えてしまうことだ。「オルフェノクにも人間の心を持った者がいるのではないか」と悩んでいたのは、「こいつら十把一絡にやっつけてしまっていいのか」と悩んでいたばかりではなく、「こんな自分も人間の心を持っている、あるいは、持てるのではないか」と悩んでいたとも取れる。その迷いをふっ切って闘う運命を受け容れた「おれが背負ってやる」という台詞も、己がオルフェノクであるという運命も含めて「背負ってやる」と決意したようにも聞こえてくる。「オルフェノクにも人間の心を持った者がいると思いますか?」とみなで多数決を取っていたコミカルなシーンで、そうだと思うと挙手したオルフェノクの長田結花に、巧は「そりゃあ、おまえはそうだろうさ」と突っ込んでいたが、この台詞は、「そう言うからには、巧はオルフェノクではない」という、論理的に成立しない予断を視聴者に与えるためのミスリードであるとも解釈できる。いまこの台詞を思い出してみると、巧がオルフェノクであり、そのことを自分で知っていても、別段不自然ではない台詞なのである。木場勇治に対して、巧が「オルフェノクであるおまえを信じた自分が許せない」といったことを言っていたのも、同様に、「自分にも人間の心が持てると希望を持ったおれがバカだった」という意味を包含していたとも解釈できよう。この作品がよく作ってあれば、ほかにもいろいろ似たような例に思い当たるかもしれない。なんだか、ハロルド・ピンターみたいな作劇だな。
 こうした解釈に立つとするなら、乾巧は、自分が愛することができない自分と自己破壊的に闘ってきたわけであり、人の心を持つオルフェノクが存在するかもしれないという希望は、自分にも人間としての居場所があるのかもしれないという希望にほかならなかったということになる。これはすなわち、人間という種に深く深く絶望しながら、最後の蜘蛛の糸としてのヒューマニズム(それが容易に切れると知りながら)を掴まずにはおられなかった手塚治虫の自家撞着的な真実に通じるところがある。
 ちょいと深読みがすぎるような気もしないではないが、ここまでやってくれただけで、子供番組としては上等すぎるほどに上等である。いまだかつて、“敵方”であったはずの“怪人”に変身した仮面ライダーなどというものがあったであろうか? いや、ありはしない――と言いたいところだが、それはすなわち、元祖・仮面ライダーへの回帰にほかならない。悪の秘密結社の手で造られた“怪人バッタ男”こそが、仮面ライダー1号なのだから。
 さあ、ここからどう風呂敷を畳んでくれるか、たいへん楽しみだ。おれとしては、人間もオルフェノクも、「おれたちは、自分を愛する資格があるほどの存在なのか?」という問いの前に立ちすくむ卑小な存在にすぎないが、少なくとも、その問いと闘うことができる存在であるというところに、一縷の望みを残して終わってほしいと思っている。この問いの果てに、もしかしたら勝ち取ることができるものこそが、草加雅人の言う“還る場所”なのだろう。
▼今日は『アストロボーイ・鉄腕アトム』(フジテレビ系)も、ひさびさによくできていた。
 天馬博士に造られたロボット工学者ロボット“シャドウ”が、人間の心を深く知ることが“アトムを進化させる”という天馬博士の命令に叶うことだと考え、プルートウが最期に問うた「友だちとはなにか?」を知るため、可愛いテディベア型ロボット“ベアちゃん”を大量にシティに放つ。ベアちゃんは、人間の潜在意識を読み取り(ハードSF的には突っ込まない突っ込まない)、その人の耳に心地よいことしか言わず、いかにも親身になって愚痴を聞いてくれる(ように見える)機能を持つ。やがてシティに異変が生じる。ベアちゃんに取り入られた人間たちは、心地よく自分の世界に引きこもり、仕事をほったらかして一日ベアちゃんと“対話”しているのである。アトムの友だちのケンイチも、ちょっとしたことでアトムとケンカをして以来、タイミングよく現れたベアちゃんと部屋に引きこもっている。ケンイチと仲直りしようとケンイチの家を訪れたアトムの前に、巨大なベアちゃんが飛来、小ベアちゃんを大量に吐き出してアトムを包囲し、特殊な電波でアトムをも心地よく自閉させようとするのだが、「心地よいことばかりを言ってくれるのが友だちではない」と気づいたケンイチに救われる。シャドウの操る巨大ベアちゃんは、アトムとケンイチの姿に人間のいう“友だち”というものを教えられ、所期の目的を達したため、アトムと闘わずして帰ってゆく。シティには、ただのクマ人形と化したベアちゃんが無数に転がっているのだった。
 ――という話だ。人間を操る“電波”を出すベアちゃんがロボットのアトムも同じ仕組みで操れるのかどうかはさておくとして、細かい突っ込みどころに目をつぶれば、話としてはなかなか苦くていい。インターネットをベアちゃんだと思っている“イタい”人をしばしば見かけるよね。いまひとつ薄っぺらい話が多い『アストロボーイ・鉄腕アトム』だが、ふつうの人間の暗黒面に子供番組的に斬り込み、ちょっとしたホラーテイストを醸し出していた。本来、『鉄腕アトム』ってのは、もっとずっと暗ぁい作品だと思うし、これくらいのことは毎回やってもいいくらいである。
 どうもおれの頭には、アトムというと、颯爽と空を飛んでいるところよりも、人間とロボットとのあいだに立ちはだかっては両腕を広げて懇願するようになにやら説得している姿とか、哀しげに空を見上げている姿とか、淋しそうなうしろ姿とか、そんな姿ばかりが思い浮かぶ。まあ、爺いの固定観念かもしれんけどね。そういう暗いアトム像から脱却しようというのもひとつの試みではあるだろうが、“ただの正義の味方”になっちまったんじゃあ、そんなものは、ちっともアトムじゃない。平成ウルトラマンの脚本家たちが、そんな“ただの正義の味方”を描いて喜ぶとはとても思えないので、脚本家の方々には、さまざまな大人の事情と闘って、それこそ子供たちの“ほんとうの友だち”としてのアトムを描いて欲しいな。つまり、観て哀しくなる、不快になるような話もじゃんじゃん書いてください。原作じゃ、人死にだって出るぞ。


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