間歇日記

世界Aの始末書


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2004年7月上旬

【7月9日(金)】
▼もともと世界というのはかなり危険な場所であるという認識はあるわけだが、高層ビルに旅客機が突っ込んでくるほどではないにしても、なるほどおれたちの日常は危険に満ちている。おれは近年夏でも熱い茶を飲んでいるのだけれども、急須の蓋に空いている小さな穴から出る蒸気で親指の腹をやけどした今日という今日は、まったくもってこの世界は危険な場所だと実感した。
 ついでだが、いま「やけど」とひらかなで書いたのは、漢字に変換したら「火傷」という文字が出てきて、こういう場合の「やけど」にこの字を当てるのはどうも気色が悪いなあと思ったからである。でも、考えてみれば、「やけど」だってきっと「やける」という動詞から派生しているのだろうし、ひらかなで書いたところで、多少気色の悪さが緩和される程度だ。気色悪さの抜本的解消には至らない。これはいまにはじまった気色の悪さではなく、子供のころから頭の片隅に引っかかっていることなのだ。日本語を使う人々が最初に負った「やけど」は、湯によるものではなく火によるものだったのだろうかなあと、勝手な想像をしている。
 それにしても、高温による体組織の変成を、わが国語では「やけど」としか呼びようがないのは、なんとも不便な気がする。たとえば英語は(って、英語しかろくに外国語を知らないのだが) burnscald を、まったく別種の「やけど」のしかたとして使い分けているではないか。これはなんともくやしい。二十一世紀を生きる日本人としては、ここらで日本語にも、蒸気や湯などによる「やけど」を指す新しい言葉を創ってやってもよいのではないか。そうだな、「ゆけど」なんてのはどうだろう? 「湯傷」という漢字を当てよう。もっとも、赤熱した溶岩流とか溶鉱炉とかに落ちた場合、これは「やけど」であろうか「ゆけど」であろうかと悩まねばならぬ可能性はあるが、まあ、さほど長く悩まなくてもよいだろうから、ややこしいことは考えないようにしよう。

【7月8日(木)】
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

『人面町四丁目』
北野勇作、角川ホラー文庫)
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 北野勇作、角川ホラー文庫に二度めの登場である。例によって、タイトルはいわずもがな、アオリ文を読んでも、どんな話だかとんと見当がつかない。お手上げである――ではあんまり不親切なので、アオリ文を書き写しちゃおう。「大災害に被災し、行き場を失った男が遺体安置所で出会った不思議な女――。 いっしょに来る? その言葉に導かれ、女の故郷人面町で、いつしかともに暮らし始めた男が出会うこの世のものとは思えぬ異形のものたち。そして、曖昧な記憶の糸をたぐりよせ、男がたどりついた、哀しくも酷いあの日の事実とは!?」 うーむ。面白そうだということがわかるだけで、どんな話なのか、やっぱり見当がつかない。ただ、このアオリの行間から、なーんとなく、かーんとなく、そこはかとなーく、つげ義春諸星大二郎を足して二で割ったような“懐かし怖い”ベースに独特の北野ワールドが展開するのだろうかなあ……という予感がするのみである。おれの予感なんてのはてんでアテにならないので、なにはともあれ、こりゃ、とくに蒸し暑い夜を選んで読むのが正解なんだろう。

【7月6日(火)】
▼あちゃー、やっぱり出たか。今度は新潟県三条市で、小六男児が同級生に柳刃包丁で切りつけるという事件。被害児童はさいわい怪我だけですんだそうだ。だからよかったって気持ちに全然ならん、なんとも厭な味の事件である。柳刃包丁は、加害児童がランドセルに入れて自宅から持ってきたってんだから、なんともはやだ。小学生の男の子が、定規でも縦笛でもなく、柳刃包丁を“ランドセル”に仕込んでいる姿を想像すると、絵としてむちゃくちゃ不気味である。楳図かずおの絵柄で想像しちゃったよ。ランドセルに柳刃包丁とは、セーラー服に機関銃くらい似合わない。
 こればっかりは、「もし」などと仮定しても詮ないことだとはわかっていても、先日の小六女子の同級生殺害事件がなかったら、今回の事件は発生しただろうか――などと考えてしまう。やっぱり、“気づいちゃった”のかなあ。縁起でもないと叱られるかもしれないが、これで終わるような気がまるでしない。もっと短いインターバルで、似たような事件が次々と続くような気がしてならない。そのあとは、もうそういうことがあたりまえになってしまって、おれたちのほうの感覚が麻痺してくるにちがいない。四十年以上も人間をやっていると、自分が慣れてしまうであろうことが、嘆かわしいことなれど、ほぼ予測できる。「おや、また小学生が殺人未遂か。さ、屁ぇこいて寝よ」てな感じになるよ、たぶん。いままでのショッキングな事件も、みんなそうだったんだから。不気味に感じているうちが華なのかもな。

【7月4日(日)】
▼眼鏡にガタが来ていて、少し度もずれてきているので、新しい眼鏡を作りにゆく。おれくらいの度だと眼鏡が重くてかなわんから、今度は少し小さめのレンズにしよう。どうも眼鏡の枠が狭いと世界が狭くなるような気がして、おれはいままで比較的大きなレンズを用いてきたのだが、さすがにちょっと重さが煩わしい。肩凝りなどにも影響があるだろう。現に世の中には、目より少し大きいくらいの極端に細長く小さい眼鏡をかけて生活している人だってたくさんおるのだから、多少小さい眼鏡でも慣れの問題なのであろう。
 眼鏡屋でフレームを物色する。フムン(神林長平風)、小さい眼鏡もなかなかいいではないか。むかしに比べれば、いろいろと特殊な素材や特殊な加工を施したフレームも、ずいぶん安くなったものである。とはいえ、眼鏡はおれにとってファッション・アイテムではなく、それなしでは生活できない身体の一部であるから、あーんまり安いフレームでは心配だ。結局、少し無理をして、そこそこの値段のものにする。例によって、お洒落なデザインなどはどうでもよく、機能性重視だ。であれ腕時計であれケータイであれ、おれの持ちものはすべてそうである。よって、見る人が見ればそこに一貫した思想と美学が感じられるはずであり、そういう意味では、おれは自分をきわめてお洒落な人間であると思っている。これ、そこ、笑うな。
 視力を検査しているとき、おれはふと眼鏡屋の兄ちゃんに言ってみた――「アレって、“ランドルト環”ちゅうんやてね。『トリビアの泉』でやってましたな」
 ご存じない方のためにご説明すると、視力検査に使う、あの一部が欠けた黒い環っかを、考案者の眼科医の名を取って“ランドルト環”と呼ぶのだそうである。すると、眼鏡屋の兄ちゃんもやっぱり『トリビアの泉』を観ているらしく、「この仕事してたらあたりまえのことなんですけどねえ。あれは、誰か同業者が出しよったんかなあ」
 あたりまえのことではあるが、どんなトリビアだって、ある種の人々にとっては「あたりまえのこと」なのである。してみると、『「ウルトラマンが手から水を出す」のどこがトリビアなのだ』などと嘆いてはいかんのかもしれん。
 あの番組への投稿が難しいのは(投稿したことないけど)、“みんなが知っていることに関する、めったに誰も知らないこと”を狙わなくてはならない点である。「ルーディ・ラッカーはヘーゲルのひひひ孫」なんてのを出しても、この日記の読者の五人に三人くらいにとっては一般常識だが、大部分の『トリビアの泉』視聴者にとっては「へぇ」以前の「はぁ」の領域だろう。でも、ランゲルハンス島とかエウスタキオ管とかは“一般常識”で、ランドルト環は“トリビア”だというのも、考えてみれば、ビミョーだ。日本の視聴者に、ある種の共通認識、共通した経験などが想定できるからこそ、“トリビア”らしきものの領域をわれわれはぼんやりと感じ取れるのである。つまり、“トリビア”のなんたるかを問うことは、“常識”のなんたるかを問うことになろう。“トリビア”が“トリビア”として成立する構造を突き詰めてゆくと、けっこう深い問題が見えてくるような気もする。
 てなこと言っても、「ウルトラマンが手から水を出す」のは、やっぱり一般常識だよな。

【7月2日(金)】
▼いや、たしかにね、おれは野球にあんまり興味ないけどさ、なにやら最近マスコミが盛んに報じている、ライブドア大阪近鉄バファローズを買収したがっている件だけどね、オリックス・ブルーウェーブとの合併なんて、ファンにとっても選手にとっても当惑するしかないであろう事態を回避できるのなら、ライブドアに売ってやればいいじゃんと思うのは、おれが野球に思い入れがないからだろうか? おれはべつに野球ファンじゃないから、一サラリーマンとして好き勝手をほざくが、巨人の渡辺恒雄オーナーの言種は、はっきり言って、“プロ”スポーツというものの本分を見失った瘋癲老人のたわごとにしか聞こえん。「おれが知らない人は入るわけにはいかない」ってあのなー、あんたが知らないのはビジネスマンとして単に勉強不足なだけだよ。ふつーに日本経済新聞なりビジネス雑誌なり読んでるビジネスマンなら、とくにIT業界の人間じゃなくても、ライブドアの堀江貴文社長の名を聞いたことがないなんてことがあるわけがない。経営者向けの雑誌にだって、しばしばよくも悪くも社名や社長の名前が出ていると思うが? 「プロ野球というのは伝統がそれぞれある。金さえあればいいというもんじゃない」ってあのなー、「おまえにだけはそれを言われたくない」と思っている野球ファンは多いと思うぞ。渡辺恒雄という人こそが「金さえあればいい」という哲学でプロ野球に関わっているのだとばかり、おれなんぞは思っていたんだがな。門外漢の勘ちがいというやつは怖ろしい。そういうことなら、だーれも観てない球場で、伝統とやらを守って、選手だけが黙々と修行僧のように試合を続けれておればよろしい。だけど、そうなったらそれはもはや“プロ”スポーツではなく、伝統芸能だよな。スポーツにさほど関心のないおれでも、野球よりはサッカーのほうがずっと面白そうだという印象を持っているから、まあ、野球がプロスポーツであろうが伝統芸能であろうが、知ったことではないけどな。
 ライブドアの売名行為にすぎないという見かたもあろうし、それはたしかにそのとおりだろうと思うが、まさにそれだよ、こういうことを売名行為に用いるくらいの才覚がいまのプロ野球の経営に決定的に欠けているのではないか。売名行為大いにけっこう。プロ野球を伝統芸能にしようとしている発想の枯渇した爺いどもを尻目に、その才覚で球場に人を呼び込んでもらいたいものである。近鉄の社長までが、不快感もあらわに堀江社長をけんもほろろに扱うのはいかがなものか。おまえらが、もうよう経営しません、わしらも商売ですなどと、一個人の藤田まことにすらバカにされるような不甲斐ないことを言いながら経営者面を提げているので、有能な人が親切にも買うてやろうと申し出ているのではないか。老舗ぶってエラそうなことを言うなら、会社も球団もちゃんと経営してみせい。選手らがカネのことなど気にせず、観客を楽しませるプレーを思う存分できるようにしてやるのが、球団を持っている会社の経営者の仕事である。それができんのなら、手放せ。プロ野球の球団のファンというものは、どこの会社が球団を持っているかなんてことにこだわって野球を楽しむものなのか? そこいらへんは、正直、おれにはわからん。ただ、門外漢として想像するに、おれがもしバファローズのファンであったら、バファローズという球団のアイデンティティーが維持されるのなら、誰の持ちものであっても、そんなことはどうでもいいと思うんだが……。
 そもそも、プロ野球の“顧客”は誰だ? ファンだろう。伝統がどうのこうのと“サービス提供側の都合”ばかりほざいて、顧客視点がすっぽり欠如しているというのは、現代の企業経営としてはダメダメだと思うのだがどうか。そういう顧客視点の欠如こそが、近鉄一社のみならず、プロ野球というもの全体の経営不振を招いているのとちゃうのか? ちゃうかもしれんが、ちごたらすまん。門外漢の言うことじゃて、聞き流してくれ。


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