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2004年10月中旬 |
【10月17日(日)】
▼二年ほど前に、ふと鉄アレイを衝動買いしてしまって以来、なんだかんだで中年肥り解消・予防運動をずっと続けている。しゃかりきにならずに、テキトーにやっているから続いているのだろう。さすがに二年もやっていると、締まるべきところは締まり、筋肉もついて、なんとか中年肥りに拮抗し得ているようだ。それでも、なかなか手強いのが、やはり下腹部の脂肪である。おれは食事を制限したりするようなことはほとんどせず(板チョコを立て続けに二枚食ってしまっていたところを我慢して一枚にするといったようなことは、ふつうダイエットとは呼ばない)、ひたすら筋肉をつけて脂肪を落とす方針なので、運動しているわりには、下腹部にはじわじわとしか効果が出ないのだ(最初のころに比べれば、ずいぶんと凹んだけれども)。下腹部の筋肉には、ご家庭では効果的に負荷がかけにくいからである。鉄棒かなにかにぶら下がって、荷重をかけた脚を引き上げるといったような大がかりなことは、もちろん家ではできん。だもんだから、仰向けに寝て、両足首に大ぶりの鉄アレイを乗せ、両手に鉄アレイ持って、繰り返し上体を起こすといったやりかたで負荷をかけていたのだが、どうも腰と上腹部ばかりが強くなっているような気がしないでもない。
で、昨夜、ブロードバンド用の映像サイトをうろついていたら、たまたまエクササイズのコンテンツが目に留まったもんで、いくつか観てみた。お腹のエクササイズの『「蹴りたいお腹」と言わせない』というコピーが泣かせる。「お、これ、いいかも」と「クランチヒップレイズ」って運動をやってみると、クるクる、臍から下腹部から横腹から、腹の中にまでずしーんと不快な筋肉疲労感が走る。吐き気がするほどに腹に響く。これは腹に効きそうだ。上記サイトは無料コンテンツでも会員じゃないと観られないので言葉で説明しちゃうと、要するに、この写真の体勢で、尻をちょいと上げるわけだ。インストラクターのねーちゃんは、こともなげに尻を上げてしばしキープするのだが、こいつが見かけ以上にきつい運動なのである。最初はそもそも尻が上がらない。この体勢で尻を上げるときに使う筋肉群は、たぶんおれが日常生活でほとんど使わないような筋肉どもにちがいない。何度かやっているうちに、どの筋肉で尻を上げればよいのか、だんだんコツが呑み込めてきた。脳の中に新しい回路ができつつあるのだろう。おし、こいつをしばらく続けてみることにしよう。おれと同年輩以上の方で、やってみたらそもそも尻が上がらないという人は要注意であろう。そのあたりの筋肉を使わないんだから、脂肪がついてゆくばかりなんてことになっているのではあるまいか。
【10月16日(土)】
▼《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。
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おれがご恵贈を受ける本はたいていSFあるいはその周辺分野なのだが、社会学の本をいただいたのはたぶん初めてではなかろうか。先日、おれの日記を紹介してくださった加藤秀一さんが、近著を送ってくださったのである。もっとも、おれにとっては森羅万象が多かれ少なかれSFなので(というか、そのように見てみる癖がついているので)、ありがたく頂戴した。この日記をかなり長期にわたって読んでくださっている方がいらしたら、おれが非常にフェミニズム的なものの考えかたをする、いや、たぶんフェミニズムと分類されるであろう思想の持ち主であることはお察しであろうかと思う。だものだから、本書はそもそもおれの関心領域のストライクゾーンである。〈恋愛結婚〉という本来個々人の最もプライベートな問題であるはずのものが、この国において、個人と国家とを優生思想を媒介に巧妙に短絡させる装置としていかに機能してきたかを検証してゆくというアプローチは、たいへん興味深い。なんというか、“凶悪なまでにさりげなくそこにあるもの”というやつを、さりげないからこそ、カサブタでも剥がすように相対化し、データを集め、視点をずらして分析する加藤さんの思考を追うのは、おれにとって、えもいわれぬ快感なのだった。優生思想というやつは、カルト宗教の奇天烈な教義のようなものであってくれれば恐るるに足らないのだが、ともすると充分に合理的な思考の持ち主がとり憑かれてしまいそうになるからこそ、非常に不気味であり、怖ろしいのである。おれの中にも、あなたの中にも、意識しない優生思想の種が隠れ潜んでいるにちがいない。見つけ次第、叩き潰さねばならない。多様性の否定の先には、人間社会の、ひいては生命圏の弱体化が待っているだけだ。撓らない棒は、ある日、必ず、ぽきりと折れる。
おっと、今日届いたばかりなのに、もうすでに読んでしまったかのような口ぶりだが、むろん、ご存じのように、おれは日記を書いているとしばしば予知能力を発現するから、すでに読んでしまった近未来のおれの心中を予知して、いまここに書いているという次第なのである。
【10月15日(金)】
▼きっとおれが書くんじゃないか、書くだろう、書くにちがいないと期待している人がいそうな気もするので、今日書くことにする。近ごろ、木村カエラという人をいろんな媒体で見かけるのだが、この人はやっぱりカエラーなんだろうか? どうやら本名みたいなんだけど、もしかすると、親がカエラーなのかな。名は体を表わすというか、たしかにカエル系の顔をしている。それにしても、カエラってねー。一度耳にしたら忘れられない不思議な響きのある名前ですな。なんかこう、古きよきSFに出てくる未来人っぽい名前だと思いませんか。
【10月13日(水)】
▼晩飯食ってウェブを泳いでいたら、矢野徹氏の訃報に触れる。おれたちの世代のSF読みにとっては、まさに雲の上の人である。考えてもみよ、矢野氏は一九二三年生まれ、広瀬正(一九二四年生まれ)と一年ちがうだけだぜ。とっくに伝説扱いされていても不思議のないお歳なのに、亡くなる直前まで現役でバリバリ仕事をしていらしたわけだ。畏れ多いにもほどがある。一度くらいは生身でお目にかかって、爪の垢でも分けていただきたかったものだ。
矢野さん、長いあいだ、ほんとうに長いあいだ、お疲れさまでした。そして、ありがとうございました。
【10月11日(月)】
▼今日からはじまるというので録画しておいた『ブラック・ジャック』(よみうりテレビサイト/手塚プロサイト)を、会社から帰って飯食いながら観る。去年の暮れに放映されたスペシャル版の評判がよかったらしく、ついに毎週放映のシリーズ化とあいなったそうな。19時から三十分ということは、あとに『名探偵コナン』が続くわけで、当然、コナンのストライクゾーンにいる視聴者層を意識して作ってくるだろう。いままでのOVAや映画の『ブラック・ジャック』は、原作のBJで育ったような年齢層のファンを狙ったものだったから、今回のアニメ化は、本来の意味での“少年マンガ”がアピールすべき層向けに発信されるという点で、ありそうでなかった企画なのである。手塚治虫が生きていたら大いに喜んだろうと思うのだ。監督は、先のスペシャル版と同じく、手塚眞である。昨年のスペシャル版の出来栄えを知っているから、こちらも手塚ファンとして安心していられる。
今日の初回は一時間の特別枠で、二話連続放映。「オペの順番」と「消えた針」(原題「針」)というセレクション。まずまず、予想どおりのトーンである。手術野を一切絵にしないという方針だそうで、たしかに『ブラック・ジャック』はそれでも充分に成り立つ作品ですからなあ。原作で育ったおれたちには、あの手術野のインパクトが魅力のひとつであったことは否定しないが(だからこそ、当時「ヒューマンコミックス」なんてカテゴリのなかったチャンピオンコミックスは、最初『ブラック・ジャック』を強引に「恐怖コミックス」に分類していたのだろう)、まあ、晩飯時の放映という制約を、創作上のひとつの挑戦としてどう捌いてくれるかは、大いに楽しみでもある。
おお、そうだそうだ、地上波で毎週放映されるという形式を得て、おれは非常に期待していることがある。むかし、劇場版アニメ『BLACK JACK』を観たとき、やはりピノコをもてあましているのに触れて、「ピノコは、読み切り短篇連作の連載という形式の中でのみ、初めて活きてくるキャラだからだ」と分析したことがあるが、だとすると、今度の地上波アニメ化では、ちゃんとピノコがピノコらしく活きてくることが予想される。小さなお友だちのアイドルになるだろう。いや、大きなお友だちにもピノコファンが増えるであろう。グッズなんかもどんどん出そうだ。自分の娘にピノコのヘアスタイルをさせて喜ぶ親御さんも続々出現しそうである。子供もいい迷惑だ。まあ、そう奇天烈な髪型というわけでもなく、可愛いからいいけどね。それと、今回のアニメ化でちょっと気になったんだけど、ピノコのしゃべりかたが、原作よりも明瞭になってますな。本来の正しいピノコ語ではないよのさ。正調ピノコ語では、テレビではわかりにくいからだろうな。こういうところにも、視聴者層をコナン層に合わせているところが見て取れるのである。
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