間歇日記

世界Aの始末書


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2003年12月下旬

【12月31日(水)】
▼あれよあれよというまに大晦日になってしまった。なんだかんだとこまごまとしたことで忙しい。母が関節リウマチで手を動かせず洗いものやらなにやらがほとんどできないため、例年にも増してせわしない大晦日である。
 先日、近所のデパートで二千五百円で安売りされていたものだから、小型のハロゲンヒーターというやつを初めて買ってみたのだが、これがなかなか冬の台所仕事には便利なものだ。ストーブをつけるまでもないが、ちょと寒いなんてときに、手軽に使える。このハロゲンヒーターというやつ、なにやら近年急に見かけることが多くなったんだが、いったいいつごろからあるものなんだろうな? いつのまにか普及している。もちろんおれも、初めて見たときには「なんでこんな時期に扇風機を売っている?」と思ったよ。この歳にもなると、“初めて買う家電製品”というものがかなり減ってしまい、子供のころのわくわく感から遠ざかってしまうものだが、しょーもないものでもなんだかひさびさにちょっと嬉しい。こいつがわが家に来た日、これはよい買いものをしたとハロゲンヒーターを提げて帰宅したおれは、箱から出してコンセントにプラグを差し込みながら、無意識に伊福部マーチを口ずさんでいた。そして、スイッチを入れると同時に言った――「メーザー砲発射っ! うぃぃぃぃぃ〜〜〜ん」
 ひょっとしておれは、これがやりたかったために衝動買いをしたのではないかとおのれを正気を疑わないでもなかったが、ま、ハロゲンヒーターを買ったおれと同年輩のSFファンは、五人に四人がやるでしょうな。基本であろう。
 あっというまに夜になり、ようやく落ちついて、バカなテレビ番組を観ながら、@niftySFファンタジー・フォーラムに行って恒例の大晦日チャットをする。おれにとっては恒例なんである。もうかれこれ十年以上、大晦日はニフティでチャットをしている。しかも、十年以上あんまりメンバーは変わらないのだから怖ろしいというか、ほっとするというか。
 テレビではビートたけしの番組が、「じつは人類は月に行っていなかった」ネタやらを性懲りもなくやっている。ラムズフェルドをはじめとするアメリカの高官やらキューブリック夫人やらオルドリンやらが出てきて、あれはスタンリー・キューブリックの撮った映画だったという史実(?)を裏づけるかのようなことを、そう思わせるような編集でいろいろ言うのだが、最初からネタは割れているので面白くもなんともない。「まだこんなネタをやっとるかー」と思うだけである。この大暴露フィルムは、じつはエイプリルフールにフランスで放映された冗談番組だったというオチだった。二年半前のある報道記事には、アメリカ人の五人にひとりが「アポロの月着陸はなかった」と信じているなどと怖ろしいことが書いてあったものだが、その後やっぱり、ビリーバーは増えているのだろうなあ。そういうアメリカ人には、『神は沈黙せず』山本弘/角川書店/[bk1][amazon])を読め、と言ってやりたいところだが、そっちスジの人たちは、どのみちあの小説のネタ自体をまともに“宗教”として信じてしまいそうな気が激しくして、ちょっと怖い。
 まったりゆったりチャットをしているうち、テレビの時報とぴったり同時に電波時計の G-SHOCK がピピッと新しい年を告げる。

【12月30日(火)】
▼SF忘年会の続き。朝飯を食ったあと、部屋に戻ると、堺三保さんが、食ったもののカロリーをパソコンに打ち込んでいる。さすがは理科系というか、おおざっぱに鉄アレイを振りまわしているだけのおれとはちがい、ダイエットも科学的である。いくら大病で死にかけたとはいえ、なまなかな意志力では、このような面倒くさいことをまめに続けることはかなうまい。たとえば、目の前に回転する丸ノコギリが迫ってくるといった、命に対するわかりやすい脅威があるのなら、たいていの人間は逃げる。しかし、生命に対する脅威がちびちびと迫ってくる場合、ふつうの人間は「ま、いいや」と思ってしまうものではなかろうか。でなけりゃ、誰も煙草など吸わんし、酒など飲まんし、添加物だらけの食いものなど食わんし、都会になど住まんし、産廃をそこいらの山や海になど捨てんし、原発など作らん。そのようにちびちびと迫ってくる脅威に、堺さんのように立ち向かえる意志力の持ち主はそうはおらんと思う。やはり、この男はただものではない。まあ、パソコンにパチパチとデータを打ち込み、体重やら体脂肪率やらのグラフを眺めている姿からは、どことなく隠微な悦楽のようなものが薫ってこないでもないのだが……。♪Just a spoonful of sugar helps the medicine go down...
 要するに、堺さんは、わが身に迫る脅威をITの力で可視化する、“見える化”することで、自身の肉体に不断のカイゼンを加えているのである。つまり、歩くトヨタみたいなものだ。なにしろ、身体というやつは、ある日やってきたフランス人の医者の言うとおりに、「ここの骨は削りましょう」「ここの肉は切り取ってこっちにくっつけましょう」などと、バッサバッサと切ったり貼ったりして短期間に改革できるものではない。不断のカイゼンしかないのだ。
 それにしても、まったく堺さんの痩せかたときたら、以前を知る者にとってはにわかに信じ難い。雪だるまのようなおおざっぱな輪郭の以前の堺三保に運慶が無雑作に鑿をふるうと中から現在の堺三保が出てきた夢を見ているかのようである。おれもうかうかしていると、体脂肪率ではひたひたと堺さんに間を詰められているような気がする。堺さんはガタイがでかいから、さすがに体重でおれを下まわることはあるまいが、体脂肪率はわからん。油断していると(というか、アブラを摂りすぎると)、堺さんに下まわられてしまうやもしれん。まあ、おれもこの一年くらいでかなり絞って筋肉もつけたから、来年二月の人間ドックが楽しみだ。おれは体脂肪率計を持っていないので、体脂肪率が測れる機会は、年に一回会社で受ける人間ドックだけなのである。めざせ、キアヌ・リーブスの二倍。まだまだ、堺さんには負けられんぞ。
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

『数学をつくった人びとI・II・III』
(E・T・ベル、田中勇・銀林浩訳、ハヤカワ文庫NF〈数理を愉しむ〉シリーズ)
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 なんでも数学筋ではとても有名な本の文庫化らしいのだが、不幸にもおれは存在すら知らなかった。おれもSFファンだからして、文科系のわりには科学書を平均以上には読んでいるほうだと思うので、おそらく一度はどこかでこの本が言及されているのを見ているのにはちがいない。が、記憶にないし、探し出して読んでみようと思ったこともなかったのである。
 この日記で何度か書いているように(1997年4月24日98年11月9日99年9月19日など)、おれは数学が苦手なくせに、かなり興味はある。自分はひょろひょろで猪木にビンタでも食らおうものなら気絶しそうな若者が、格闘技を観るのは大好きだったりするといった感じに近いかもしれん。
 どうも不思議なのは、ヘーゲルやらフッサールやらハイデガーやらサルトルやらを語る人は“文科系”というイメージがあるのに、オイラーやらフーリエやらリーマンやらカントールやらを語る人は“理科系”というイメージがあるのである。まあ、あくまでイメージだけど、そう思いませんか? ここいらに、なんか日本の教育の歪みみたいなものを感じるなあ。そんでもって、(あくまで日本でのイメージとしての)文科系とも理科系ともつかぬあたりに、デカルトやらライプニッツやらヴィトゲンシュタインやらゲーデルやらがたゆたっているような気がする。いやまあ、異論はありましょうが、あくまでおれの主観ね。哲学者も数学者も、やってることは似たようなもんなんだから、いっそのこと“モノとリンクするとはかぎらない論理を追っかける人々”として、学校では同列に扱って教育してはどうかと思うんだけどね。
 で、この『数学をつくった人びとI・II・III』だが、いやあ、どうしてこんなのがおれの子供のころに文庫本になってなかったのよ。まだ目次と序論を読んだだけだが、こりゃアレだ、ベタベタの文科系の人でも、たとえば『世界ふしぎ発見!』(TBS系)とか好きな人であれば、食指が動くであろうような本である。数式やらグラフやらなにやらがけっこう出てくるけれども、べつにそれらにきっちりついてゆかなくても日本語が読めれば楽しめそうだ。野々村真にでもなったつもりで読めばいいのだろう。いや、むろん、数式が楽しめる人には、もっと楽しめるのでしょうがね。もっとも、ざっと眺めたところでは、むちゃくちゃに専門的な数式はなくて、せいぜい高校出てれば(ほんとうの意味まではわからずとも)読みかたはわかる程度のものである。数式をひとつ入れるごとに本の売り上げは幾何級数的に減ってゆくてなことを言うが、それがほんとうなら、この本なんぞ、とっくに消滅していなければならない。だが、一九三七年に原著が出てから、いまだに読み継がれている古典なのだそうだ。日本で翻訳が出たのは、一九六二年(東京図書・刊)だというから、おれが生まれた年である。
 そういう事情もあってか、少々訳が硬いんだけども、こういう本はあんまり軟らかく訳されても困る。読みやすさよりも、文章の論理構造にこだわってくれたほうがいいのかもしれない。こいつぁ、文科系のおれが数学史を勉強し直すのにちょうどよい。ちびちび楽しませていただくことにしよう。解説は、森毅(I巻)、吉田武(II巻)、秋山仁(III巻)と、広く俗世間に知られたおなじみの数学者で固めている。さすがに早川書房は、元プロ野球選手には依頼しなかったようだ。
 あ、そうだ。これは書いておいたほうがいいな。この数学者列伝は、カントールで終わっている。二十世紀を代表する“知の巨人”として文科系の方にもおなじみのスター(?)、クルト・ゲーデルは入っていないわけである。ゲーデルがいわゆる「不完全性定理」の証明を発表したのは一九三一年だから、入っていても不思議はないが、入っていなくても無理もないといったところだろう。科学の世界では、いくら重要な業績でも、わずか数年でその意味を余すところなく評価するなんてことは充分に慎重であればできないのがふつうだろうし、なにしろ、むちゃくちゃに非社交的であったゲーデルの人となりを描くことなど、一九三一年時点では不可能であったろう。ま、ゲーデルについては、一般向けの本がいっぱい出てますしね。
 おれは「訳者あとがき」を見て初めて知ったのだが、著者のE・T・ベルは、SFも発表しているとのこと。しかも、「鉄の星」という作品が『世界SF全集 第四巻』(早川書房)に収録されているのだそうである。あっ、ガーンズバックと一緒に入ってたジョン・テインってのがこの人なのか。恥ずかしながら、さっぱり記憶にない。
 近年、ルーディ・ラッカーの功績が大きいのか、ぶっ飛んだ“数学SF”がSFとして市民権を得た感が強い。昨今の海外SFシーンで高い評価を受けているふたつの巨星、グレッグ・イーガンテッド・チャンが、それぞれ「ルミナス」(山岸真編『90年代SF傑作選(下)』ハヤカワ文庫SF・所収/[bk1][amazon])、「ゼロで割る」(『あなたの人生の物語』浅倉久志・他訳/ハヤカワ文庫SF・所収/[bk1][amazon])という傑作数学SFをものしているのも興味深い。「ルミナス」と「ゼロで割る」のどっちが好きかと問われても、おれは選べないねー。この二作、数学の不完全性をネタにしている点では兄弟のように似ているのだが、だからこそ、この二人の作家の指向性のちがいを、じつによく映しているのだ。イーガンはイーガンのように面白いし、チャンはチャンのように面白い。イーガンは数学という抽象的なものを“モノ”に引きつけ可視化してとんでもない話に仕立て上げる一方、チャンはこの抽象的なものにさらに恋愛感情という抽象的なものを掛け合わせて、虚数同士を乗ずるかのごとくに、しっとりとしたたしかなせつなさを紡ぎ出す。うーん、すごいね。甲乙つけがたい。イーガンが松井ゴジラだとしたら、チャンは職人イチローといったところだ。あるいは、イーガンが explosion だとしたら、チャンは implosion という感じかな。なにはともあれ、この二人と同じ時代に生まれ合わせているSFファンはしあわせである。
 「ルミナス」や「ゼロで割る」みたいな話は、本来、純文学(と、呼び慣わされているもの)に分類してもいいくらいだとおれは思うのだが、どうもまだこのあたりは、SFと分類しないとまずいような空気がある。以前に述べた、FOR( Frame of Reference )を共有しているかどうかという些細な問題が主因ではないかと思う。イーガンやチャンは、ほんとうなら、いわゆる純文学読者が嬉々として跳びつくような作家ではあるまいかとマジで思っているんだよ、おれは。「ここにあなたがたがとても喜びそうなものがあるというのに、ああ、どうして顔を背けてしまうのよ、もったいない。ああ、行〜かないで行かないで〜、お願〜い、ピンカートン〜」と、わたしゃ、純文学を好む活字読みの方々の袖を引きたい気持ちでいっぱいである。「数学というものを、文学のFORはふつう要求しない」という固定観念から逃れていただければいいだけである。なにも数学者じゃないとわからんものを読めと言うておるのではない。なにもおれたちゃ、高等数学を知る必要はない。だが、数学に“ついて”ほんのちょっと知識を得るだけで、ここにこんなに楽しめるすごいものがあるのだ。物理に“ついて”ほんのちょっと興味を持つだけで、純文学的感動を手にすることができるのだ。生物に“ついて”ほんのちょっと……もうええか。「そんな“お勉強”せんとわからんようなややこしいもんは要らん。そやからSFは嫌いやー」て? そんなもん、純文学かて歴史小説かてミステリかてホラーかてファンタジーかて、お勉強せんならんのは一緒やないかー! 楽しんだもんが勝ちじゃー!
 いかん、興奮してしまった。いやまあ、そういうわけで、おれのような文科系の人間のFORを、ほんのちょっと、一般的にはあまり期待されない方向へ広げてくれるであろうこういう本は、たいへんありがたいというわけなのだ。

【12月29日(月)】
▼今年も恒例のSF忘年会に参加。
 宴会の前にみなが集まっている部屋でくつろいでいると、大野万紀さんが「この英語どう思う?」となにやら怪しげな本をおれに見せる。菊池誠菊池鈴々夫妻が持ってらしたそうだ。『萌える英単語もえたん』(渡辺益好・鈴木政浩/三才ブックス/[bk1][amazon]/ちゃんと公式サイトまである)という、タイトルからすぐ中身が想像できる本である。というか、タイトルからすぐ中身が想像できるような読者向けの英単語集であって、そういう読者でなくては全然楽しめまい。基本的には大学受験生向けらしく、一応まともな――いや、まともじゃないな、なんというか、内容はちゃんとした受験参考書ではあるようだ。ざっと眺めたところ、例文の日本語は(特殊な意味で)かなり面白いのに、英文のほうは取ってつけたように行儀がよいだけで、ちっとも面白くない。一応受験参考書として使わにゃならんのであろう単語を使うために、大阪弁で言うと“無理から”作文しているようなところもある(まあ、受験参考書だからそうなるのはいたしかたないが)。これならまだ、先日買った『空想英語読本』(空想科学研究所客員研究員 Matthew Fargo/メディアファクトリー/[bk1][amazon])のほうが面白いな。もっとも、『空想英語読本』はある程度英語がわかる人が読まないと面白くないし、ネタも三十代以上向け(どころか四十代以上向け)のものがけっこう多い。
 ま、『もえたん』は企画の勝利でしょうな。「こんなバカな本があるんだよ」と洒落で買って、受験勉強の息抜きにみんなでわいわい楽しむような本でありましょう。たしかに、そういうときのバカな会話が案外頭に残ったりするものではある。むかし、女学生が電車の中で古文の教科書と『桃尻語訳 枕草子』(清少納言/橋本治訳/[bk1][amazon])を膝の上に広げて黙々と比べ読みしている姿を目撃したことがあるが、『もえたん』を読む高校生を近いうちに電車の中で目撃することになるのであろうか。それにしても、『桃尻語訳 枕草子』も、もう“むかし”なんだよなあ。歴史は繰り返す? 『もえたん』を見た水鏡子さんは、「最終回で、なんだか抽象的な演出でごまかされた」という例文がいたくお気に入りであった。肝心の英文がどんなのだったかは、どうも記憶にない。
 これは高校生の方へのマジなアドバイスであるが、『もえたん』とかそのほかとかでひととおり“お受験”用の単語や熟語を勉強してとにもかくにも大学生になれたら、騙されたと思って『ネイティブチェックが自分でできる 英語正誤用例事典』(ジェームズ・T・キーティング/ジャパンタイムズ/[bk1][amazon])ってのを読んでみることをお勧めする。「よりよい言い回し Avoidables」という章から、用例を省略して主文だけいくつか紹介すると、たとえばこんな具合だ――

beneficial helpful, useful に置き換えたほうがよい。
concerning about, for, of, on, regarding を使うほうがよい。
feasible fit, likely, possible, suitable を使うほうがよい。
fundamental basic のほうが短くて、分かりやすい言葉なので好まれる。
hence 知識をひけらかしている印象を与える語。consequently, so, therefore, thus などに置き換えたほうがよい。
means way を使うほうがよい。
notwithstanding despite を使うほうがよい。
numerous many を使うほうがよい。
objective aim, end, goal, purpose を使うほうがよい。
obtain get を使うほうがよい。
previous to, prior to 大げさであまり意味がない語。before にするか、削除したほうがよい。
subsequently もったいぶった感じを与えるので、使用を避けるか later や then に置き換えほうがよい。

 明瞭で簡潔な英文を書くためというコンセプトの本なので、長年英文の編集や校正に携わった著者の苛立ちがちょっと入ったショック療法みたいなところもあるが、日本語を書く際の戒めにもなるいい事典である。「えぇー? じゃあ、いま一所懸命覚えてるアレやらナニやらはいったいなんなのヨ」と受験生の方々はお思いになるでありましょうが、それはそれでもちろん多少は意味のあることだ。これからの長い人生で英語を読み書きしてゆくうちに、「こんな言葉、読んでわかる必要はあっても、使う必要はあんまりないじゃん」ということをあとで実感するためにこそ、いま一応知っておく必要があるわけである。冗談みたいだが、本気で言っている。知っていることをフルパワーでひけらかす品のなさよりも、いろいろ知ってても使わずにすませる余裕のほうが好ましい。そもそも知らなければ、それを使わないかっこよさを発揮することができないではないか。無駄なことをいろいろ知ってたほうがあとで楽しい。教養ってのは、そういうものだと思う。
 さて、『もえたん』でずいぶん脱線した。忘年会へ戻ろう。例年のごとく鍋を食ってビンゴゲーム。今年は絶対景品に入っているだろうと予想していた「へぇボタン」は案の定入っていたが、くじ運の悪いおれが取れるはずもなく、あえなく岡田靖史さんに取られてしまった。
 部屋に戻って、堺三保さんのダイエット談義やらなにやらを聴いているうちに、しばし眠ってしまった。このところ疲れているのであろう。目を覚ましたら日付が変わりかけていて、これもまた例年のごとく、あとでおいしく長浜ラーメンを食うためにカラオケに繰り出す。「日本ブレイク工業 社歌」は、先日CDが発売になったが、もうカラオケにも入っているだろうか? そうだ、去年はいつものラーメン屋が休みで非常に残念な思いをしたのだった。今年は月曜から火曜にかけての忘年会だから、きっと大丈夫だろう。

【12月28日(日)】
▼どうもバタバタして、くだらないことをじっくりと考察する時間がない。人間はこうやって堕落してゆく。ああ、アホなことを一日中考えていたいよぉ。
 というわけで、こんなこともあろうかと密かに開発した「今月の言葉」用のボツネタの蔵出しをしてお茶を濁してみる。以前にもやった「今月の言葉」できそこない博物館である。

「RocketPC」(ちょっと欲しいかも)
「オサマと私」(「ウサマ」でもよい)
「タートルリコール」(誰でも思いつくわな。なんとなく“ディックつながり”なのだ。タートルってなにって? トータスは知ってる?)
「二酸化マシンガン」(小学生のころからボツにし続けているネタ)
「西成ウイルス」(わかりにくいよなあ、やっぱり)
「ようぐるとそうそふ」(長生きしそう。ひいお爺さんはヨーグルトで、ひいお婆さんは豆乳だった。イェイ。わっかるかなー、わかんねーだろなー)
「酔歩しちゃうぞ」(小林泰三ネタが続くような気がする)
「スカラー哲学」(たぶん足の早いネタ。今年限定かも)
「ショタコン半島」(そのスジの人が絶対どこかで使ってるにちがいない)
「法律のできる行列相談所」(くだらねー。要するに、野党が牛歩をしている最中の国会のことである)
「女子中に学帽」(採用できそうだが、なんかとってつけたようで気に食わん。「女子十二ハタ坊」というのもあるんだじょー)
「トリビア発生」(「オリビア→トリビア」ってのはすぐ出てくるので、安易すぎる。「トリビアを聴きながら」なんて、Google で検索するとうようよ出てくるにちがいないから、あえて検索すらしない)

 以上、ひさびさのできそこない博物館でした。

【12月25日(木)】
▼介護用のパラマウントベッドがやってきた。もちろんレンタルである。こんな高いベッド買えやしない。関節リウマチを発病した母がようやくレベル2の要介護認定を受けたので、さっそく介護保険でレンタルしたのだ。いままで使っていたソファーベッドでは高さの調節ができないため、膝が思うようにならない母は立ったり座ったりがたいへんなのである。「ぱらま、うんと元気になってね」などという寒いCMでよく知っているベッドであるけれども、思ったより早く世話になることになった。ソファーベッドを持っていってくれる業者とパラマウントベッドを搬入する業者が昼間やってくるというのだが、幸い妹と姪が手伝いに来てくれたので、おれは会社を休まずにすんだ。
 帰宅して、パラマウントベッドをいじってみる。なるほど、これくらい簡単な操作であれば、母にでも使えるであろう。なんというか、これって、べつに要介護者でなくとも気持ちよさそうだ。手ごろな書見台と照明があれば、寝たまま本を読むのによさそうである。もっとも、おれがこんなものを必要とするようになったらいったい誰が介護してくれるのかという大きな問題はあるが、まあ、そのときはそのときだ。せいぜい四肢や腰を鍛え、死ぬときにはポックリ死ぬように心がけておこう。
 おれはといえば、以前に『テレコンワールド』で買った例の「エアロスペースベッド」なるものをまだ使っているのである。ウェブ上であれこれ読むかぎりでは、使っているうちに空気が抜けてしまったとか、上でセックスしたらすぐ壊れたとか(するなー)という人もいるのだが、うちのは一年半以上問題なく使えている。まあ、こういうのは消耗品だろうから一年保てば上等くらいに考えていたが、思ったより丈夫だ。テレビを真に受けて、五十トンのクレーン車で轢いてみたりしないからだろう。子供のころ、「象が踏んでも壊れない」アーム筆入れをわざわざ踏んで壊しているやつがけっこういたものだ。
 べつに宣伝するわけではないが、この風船ベッドに関するかぎり、テレビで言っている仕様は嘘ではなかった。なにしろおれは、毎晩このベッドの上で飯を食っているのだ。おれは会社から帰ると、まずエアロスペースベッドを膨らませソファーベッドの上に乗せ、その上に布団を敷く。そして、飯と茶と酒の用意をするとそれらを二枚の盆に乗せ自室に運び、横着にもエアロスペースベッドの上に敷いた布団の上に置く。掛け布団の上にである。それから、そっとベッドの上に乗り、胡坐をかいてテレビを見ながら飯を食う。じつに横着だなあとは思うものの、おれの部屋には、飯を食えるようなスペースはベッドの上以外にはないのだから、しかたがない。坂口安吾がものすごい散らかりかたをした部屋に漂流する救命ボートのような風情の書きもの机にかじりついてこちらを睨んでいる写真があるが、あれを見るたび、「おれの部屋はずいぶんと広くて、かたづいているなあ」と少しだけ優越感(?)を覚える。ま、相対論的思考というやつだ(どこが)。そんでもって、こんな横着な飯の食いかたをしても、このベッドはおれが乗っているところだけがわずかに沈むだけで、盆はほとんど傾かないのである。茶も酒もこぼれない。鍋を食ったことすらある(さすがにコンロは乗せないが)。テレビでやっているように、ワイングラスをエアロスペースベッドに乗っけて、すぐそばを手で押し沈めてみるなんてことはやったことないが、なるほど、うまくやればあんな具合に撮影できるだろうなと思わせる程度には、たしかに重量をかけたところ付近だけが沈む。少なくとも、上で座って飯が食えるのは事実なのである。よい子のみんなは、真似しないほうがいいと思う。真似せざるを得ない人は、とっくに同じことをしているのだろう。
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

『デス・タイガー・ライジング3 再会の彼方』
荻野目悠樹、ハヤカワ文庫JA)
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 あっ、なんてことだ。「3」がこんなに早く出るなんて。いや、出て悪いことはない、ちっともないけれども、「1」「2」のあいだが四か月開いていたので、なあにそのうち読めるわいと悠長に構えておったら、「3」が出てしまったではないか。たいへん申しわけないことに、まだ「1」も読めていない。あれ、たしか三巻で完結では……と思っていたら、延長が決まって「4」まで出るそうである。けっして敬遠しているわけではなく、なにしろ女性医学生が活躍するようなので読みたいのはやまやまなのだが(この日記の古くからの読者諸氏は、おれに女医フェチの気があることをご記憶であろう、って誰も覚えてねーよ、そんなもん)、えいやっと一気読みする機会を掴み損ねているのだ。すみません。

【12月24日(水)】
▼どうも気になっていることがある。この日記の品格を落とすのではないかと書くのをためらっていたのだけれども、もう七年以上も好き勝手を書き散らかしてきて、いまさら品格もくそもないだろうと思うので、あっさり書く。いや、またCMの話なのだ。au のムービーケータイのCMで、OL姿の仲間由紀恵ちゃんが同僚たちをケータイで撮影しながら「動いて」と命じるのである。これはもちろん、静止画しか撮れない旧世代(?)のケータイを使っている想定の松下由樹「動かないで」と同僚に命じて撮影するのを受け、商品の訴求ポイントを一目瞭然にする絶妙のコピーなのであるが、はっきり言って、仲間由紀恵が唐突に「動いて」などと言うと、ちょっとどきっとする。人がふつうに生活していて、「動かないで」と言われることはいろんな状況でままあると思うが、「動いて」と命じられる、というか請われる、というか懇願される、というか哀願される、というか、まあその、そんなふうなような感じのシチュエーションはきわめて、きわめて限定されているのではあるまいかと愚考する中年男はおれだけではないはずである。ほんとに愚考だが、男というのはたしかにそういう愚考をしてしまう動物だ。このCMを作ったやつは、きっとそこまで計算しているのにちがいないと思うのだけれども、そこの中年男、どうよ?

【12月23日(火)】
昨日の日記オープニングテーマ曲(?)は、「おもちゃのシンフォニー」じゃなくて「おもちゃの兵隊のマーチ」だと、菅浩江さんが来年の1月31日ころに指摘してくださることを予知したので、いまのうちにお詫びして、該当箇所を訂正しておいたのだった。余談だが、『キューピー3分クッキング』マルティカToy Soldiers ではじまったら、それはそれでとても不気味でちょっといい感じかもしれないと思ったり。おれは、あの曲、とても好きである。
▼帰宅して晩飯の支度をしているうちに今日になってしまった。晩飯を食いながら、数時間前に留守録しておいた『ブラック・ジャックスペシャル――命をめぐる4つの奇跡――』(よみうりテレビ開局45年記念/日本テレビ系)をゆっくり楽しむ。なにしろ、ほかならぬ手塚眞が監督だからな。期待しているのだ。よく考えてみると、最初から地上波テレビで放映するために『ブラック・ジャック』がアニメ化されたのは、これが初めてなのである。ほかの手塚(原作)作品にBJがゲスト出演したことはむろん何度かあるし、OVAや劇場版アニメがテレビ放映されることもあったが、タカラヅカの舞台やウェブ用のFlashアニメにすらなっていることを思うと、『ブラック・ジャック』のテレビアニメ化というのが、おいそれとは手がけられないものとして、ある意味、大事にされてきたのだろうと想像がつく。そりゃあ、もしおれがプロデューサーや監督だったら、まず“怖い”とか“畏れ多い”とか思うわな。
 今回アニメ化されたエピソードは、「医者はどこだ」(原作の「!」が取れている)「勘当息子」「U−18は知っていた」「ときには真珠のように」の四本。これはどういう選択かなあといろいろ考えていたのだが、先日、今回のアニメ化を知ってこれらを読み直してみたときにわかった。「勘当息子」を除くと、他の三話はすべて秋田文庫版の第一巻に収録されている(「勘当息子」は第三巻)。文庫版として再編成する際に第一巻に持ってきたくらいだから、出来のいいエピソードだし、秋田文庫版の第一巻は発行部数も多いだろうし、畢竟、ちょっと読んでみたという若い読者の目にも触れている確率が高い。BJ初心者(?)のためにはシリーズ最初のエピソード「医者はどこだ」と、BJの重要な過去に触れた「ときには真珠のように」を入れておくのが親切ではありましょう。じつは、これら四話に加えて、特番としての連続性を持たせるためのアウトラインを担うエピソードとして、BJの恩師・本間丈太郎の娘が登場する「満月病」をアレンジして使っている。手塚眞が手塚治虫の声をアテているサービスもある。いやあ、おじさんは『バンパイヤ』とか思い出しちゃって、涙がちょちょ切れましたわ。
 絵がシンプルで原作の手塚タッチにこだわっているあたりは、さすが手塚眞、自分の期待される役割がわかってるねー。出崎統調のBJも嫌いではないが、“ハーモニー処理”というのか“止め絵”というのか、アレをあんまり連発されると、目を見開きテニスラケットを振り上げるピノコの横に燃え尽きて真っ白になったブラック・ジャックが座っていそうで、なんというか、あまりにも大仰なのである。あの出崎演出を観るたび、『愛と青春のサンバイマン』藤井青銅、徳間ノベルス・ミオ/徳間文庫)がおれの頭をよぎるのは内緒だ。
 声優は、出崎OVAですっかり定着した大塚明夫(ブラック・ジャック)と水谷優子(ピノコ)のコンビである。エピソード区切りのCM入りと明けに、いわゆる“提供読み”まで大塚明夫にやらせたところは賛否両論あるだろう。最近そう珍しいことではないみたいだが、主人公のキャラがキャラだからなあ。あくまで気分の問題だが、CMで各エピソードの雰囲気が分断される効果を多少は減じていて悪くなかったとおれは思う。「お話は四本ありますが、あくまで番組としては一本ですよ」ってところに、こういう小技でも気を遣ったわけだ。まあ、“提供読み”は《ER》のベントン先生には(いまのところ)けっしてできないことであるからして、ブラック・ジャックがやったって新鮮でいいと思うんだよ。
 ラストで、「ときには真珠のように」に“描かれざる結末”をつけたのはみごとだ。これはやっぱり、手塚眞だからこそ自信を持ってできたことであろう。ドクター・キリコ琵琶丸との対決などを通じて手塚治虫がきちんと描いていたブラック・ジャックの生きざまに、手塚眞はあえてなにも足しもせず引きもせず、父親がやり残した仕事を父親がやったであろうように形にした。この“描かれざる結末”には、多くの『ブラック・ジャック』ファンが納得したはずだ。手塚治虫が生きていれば、「よくぞそこに気づいた」と、息子の肩を叩いて労ったことだろう。

【12月22日(月)】
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

『メシアの処方箋』
(機本伸司、角川春樹事務所)
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 ♪ピリピッピッピッピッピ、ピリピッピッピッピッピ、ピリピッピッピッピッピピピピ、ピッピッピロピ。ピリピッピッピ、ピリピッピッピ、ピリピッピッピッピッ、ピロリロリ……(「おもちゃの兵隊のマーチ」のフシで読むこと)。
 さて、“宇宙の創りかた”を真正面から描いたヘンテコな青春ハードSF『神様のパズル』で飄々と登場した機本伸司、今度は“救世主の造りかた”を書いた。今日届いたばかりなのに、あたかもまるでさながらすっかりもう読んでしまったような未来の記憶によれば、今回もヘンテコで面白かった。ヒマラヤで発見された“方舟”から、なぜか蓮華模様が刻まれた大量の木簡が出てくる。はてさて、この模様は絵なのか文字なのかそのほかなのか。まあ、これが解読されないと話が進まないことは明白なのでバラさざるを得ないのでバラすのだが、当然、ご想像どおり解読される。では、なにが書いてあったかというと……。
 『神様のパズル』でもそうだったけど、客観的に見ると、相当とんでもない、笑いごとではない事態が展開してゆくのに、あくまで日常的雰囲気がのほほんと漂い続けているのである。主人公格の人物はバカかと思うほど人のいいやつで、そのためじつにとんでもない目にばかり会うのだが、人がいいのと同じくらいタフであって、なにが起ころうとも“強靭な日常性”に立脚したものの見かた、感じかたを崩さない。そういう意味では、北野勇作の味に似ていなくもないのだ。甲南大学の校風というわけでもありますまいが、ほのぼの感は似ている。北野勇作の作品はほのぼのしていながらよく考えるとやたら悲惨なのに対し、機本伸司の作品からは(起こっている事件のわりには)悲惨さはあまり感じられない。気恥ずかしい希望のようなものをしゃあしゃあと投げ出す。その照れ隠しのようにして、計算された青臭さを演出してみせる。登場人物たちは、「こんなやつぁ、おらんやろう」と突っ込まれそうなくらいに類型をエンハンスされたキャラクターなのだが、それは欠点ではなく、むしろ、そうでなくてはならない“ウソの魅力”がリアルなのだ。SFというジャンルは、そうしたキャラクターの類型化を必然として要請することが少なくない。その要請を感じ取り損ねて“音をハズし”てしまうと、ただただ“ほんとうに嘘臭い”だけのキャラになってしまうので、そこいらへんの“音感”が才能というものである。
 気恥ずかしいことを真面目にカッコよく言うのはとても嘘臭いもので、気恥ずかしいことは気恥ずかし“そうに”カッコ悪く提示してこそリアルだなと思えてくる作品である。『神様のパズル』評でも書いたように、やっぱりそういうところが庄司薫テイストだよなあ。この『メシアの処方箋』も、前作と同じく“ライ麦畑の赤頭巾ちゃん風・本格青春ハードSF”とでも呼びたい不思議なものになっている。あるいは、今回のは“白鳥の歌なんか聞こえない風・本格青春ハードSF”かもしれないが……。ひょっとしたら、赤・白・黒・青四部作の庄司薫にハードSFで対抗すべく(?)、「神」「救世主」に続くテーマがもう用意されているのやもしれない。神、救世主と来たら、次は「人間」か? 「聖霊」ってことはないだろうしなあ。ま、楽しみにしておこう。


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