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99年11月上旬 |
【11月9日(火)】
▼おれは日本語が好きで、いちばん得意な言語ではあるのだが、自分の言いたいことを表現するのに日本語には適切な言葉がないという状況に、ときおり苛立つことがある。たとえば、既婚女性と話をしているときに、「あなたの配偶者はどうしているか?」といった内容の質問をする場合、はなはだ困る。「ご主人はどうしていらっしゃいますか?」って表現が、おれは内心では反吐が出るほど嫌いなのだ。するとなにか、おれがいま話しているこの女性は、あの男の家来か? 下僕か? 召し使いか? などと考えてしまい不快になる。しかし、ほかに言いようがないのだ。「旦那さんは……」ってのも同じような理由で厭だ。文字でなら、「ダンナは……」と外来語のようにして書く手もあるが、これは相手が相当親しくないと使えない。かといって、「配偶者は……」などと言っては、今度は相手のほうが検事かなにかに訊問を受けているような気になって不快であろう。冗談めかして「夫のヒトは……」と言っても通るようなシチュエーションもあるのだが、そんなにしばしばあるわけではない。だからおれはいつも、いたしかたなく、できるだけ不明瞭にかろうじて相手が意を察することができる程度の小声ですばやく「ご主人は……」と汚い言葉でも口にするように(というか、おれにとってはまさに汚い言葉なのだ)申しわけなさそうに言ってしまう。言わんと社会生活が立ちゆかんのである。精神衛生に悪い世の中だ。影響力のある大作家かなにかが、早くほかの言葉で駆逐してくれないものかと思う。
しかし、ずいぶんと助かる状況もある。たとえば、東京創元社の小浜徹也さん宅にお電話をする必要が生じることがたまにあるが、そのときにはあまり困らないのだ。おれから電話があると小浜さんが予測している状況であれば、小浜さんが出る。小浜さんがまだ帰宅していない場合は、当然三村美衣さんが出る。ここで、ふつうであれば、
冬樹「もしもし、小浜さんのお宅でいらっしゃいますか? 冬樹です。夜分おそれいります。ご主人はいらっしゃいますでしょうか?」
三村「あ、まだ帰ってないんですが……」
といった会話が予想され、おれは厭な言葉を口にせねばならないことになる。が、この場合なら、「小浜さんはいらっしゃいますでしょうか?」と三村さんに言っても、さほどおかしなことはないような気が主観的にはする。小浜−三村夫妻、大森−さいとう夫妻、坂口−めるへん夫妻などは、おれにとっては別姓という意識だからだ。
ところが、実際には、おれが「小浜さんはいらっしゃいますでしょうか?」などと口にせねばならない事態は、まず生じないのが常なのである。
冬樹「もしもし、小浜さんのおた――」
三村「あー、どうもー、おひさしぶりー! 小浜ねー、まだ帰ってないのよー。たぶん、十時くらいには……」
という展開になる。たいへんありがたい。これは、おれが非常に特徴的な声をしていることによるものであろう。おれは肉体的にはどこをとっても人に誇れるような特徴を有していないが、声だけは覚えてもらいやすい声でよかったなとDNAの塩基配列に感謝する。一度でも生身で会話したことがある人には、電話口で「えっと――」などと言っただけで認識されてしまうこともしばしばなのだ。こういうのって便利である。ねえ、東茅子さん?
【11月8日(月)】
▼またもや原稿書き。そろそろ宣伝してもいいか。今度は文庫解説。創元SF文庫では初仕事である。リーディングは何度かやらせてもらっているが、いままで解説のご縁はなかったのだった。ヒューゴー賞、ネビュラ賞、ジョン・W・キャンベル記念賞を一作でかっさらった名作だけに、妙なプレッシャーがかかる。ここまで言えばわかる人にはわかるだろうが、一応、発売予定当月になるまでは作品名は書かないもんね。まあ、逆に考えれば、ヒューゴー賞やネビュラ賞とはなにかを知っているSFファンは、書店で解説をぱらぱらと見て平積み台に戻したりはしないだろうから、安心と言えば安心だ。濃いSFファンに読ませる論文を解説に書く必要はまったくない。英文学の教授でも物理学の助教授でもないおれに期待されているのは、SFファンの自覚を持たない人々に、これは読んでみても損はなさそうだという、提灯持ちでない妥当な根拠を示すことであろう。おれ自身への信用やおれ自身のキャラクターで勝負できるほど、おれは有名でもなく学識も藝もない。
解説ってのは、一応宣伝ではある。ボロクソに書いている解説など見たことがないし、どう好意的に読んでもボロクソに書くしかないようなものであれば、ゲラを読んだ時点で断ればよいのだ。いまのところ幸い断らずにすんでいる。実際問題として、ゲラを読んでから断られたのでは編集者は大あわてだろうと思うけど、あまりにひどい作品の場合、そういうケースもあるのではなかろうか。もっとも、どんなひどい作品にでも「こう読めば少しはましだ」という視点を提供してこそプロだとする考えかたもありましょう。その考えかたにも、ある程度賛成できる。〈SFオンライン〉の坂口プロデューサーが、以前にいいことをおっしゃっていた。「読者は金を払うのだから、どういうやりかたであろうが楽しんでしまえば読者の勝ちなんだ」と。そのとおりである。そういう意味では、「よくもまあ、恥知らずにもこんな本を出すなあ」と思わせるようなものでも、金を払ったぶんだけ笑えれば読者の勝ちである。いわゆるトンデモ本やら、笑うしかないひどい小説を集めている人がいるけれども、彼らは笑って楽しむために金を払っているわけだ。前野(いろもの物理学者)昌弘さんも、似たようなことをおっしゃっていた。前野さんは、「読まないと悪口を言って楽しむことができない」ので、そのためだけに、ひどいと定評のある某架空戦記作家の作品を買って読むのだそうである。作家側からすれば、そんな楽しみかたはされたくないし、そんな売れかたをしてほしくないだろうが、それは読者の知ったことではない。そしておれは、読者の味方をすべきなのである。
それがおれの基本的スタンスではあるけれども、今月出る予定のキャサリン・アサロ作品にしても、来月出る予定のジョー・ホールドマン作品にしても、ヘンな藝を駆使することなく真正面から褒められる作品であるのは、まことにありがたいことだ。いや、どっちも自信を持ってお薦めできる面白さで、こういう解説仕事が連続でできるとは、もうちびりそうに嬉しい。でも、〈SFマガジン〉で選ばれる年間ベストは、例年、十月末までに出たやつが対象なんだよね。来年のベストが楽しみだ。
【11月7日(日)】
▼ひたすら原稿書き。『楽園の泉』(アーサー・C・クラーク、山高昭訳、ハヤカワ文庫SF)をひさびさに再読し、改めて感動。「人間が描けていない」小説が面白くないのは、たいてい、じつは「人間すら描けていない」からである。クラークのすごさは、物体や事象を中心に描いて小説を成立させてしまうところだ。そのついでに人間(というか“人類”)を描いてしまい、それが凡百のせせこましい“人間小説”を凌駕する。やはりSFというもののエッセンスを考えるにあたって、クラークがやってしまっていることは避けて通れない。通常の特殊主流文学(98年2月12日、3月12日、5月27日、99年4月10日)的観点からすると、アーサー・C・クラークという作家は、なんともいまいましい存在だろうと思う。どうしてこんな下手くそ(失礼。少なくともおれ自身は、名文家だと思ってるけど)に、ふつうやってはならないとされているようなやりかたで、こんなすごいことが表現できてしまうのだろうと嫉妬を覚えるかもしれない。どうしてだろうね? おれもまだまだ考えている最中なのである。
▼高瀬美恵氏のサイトに、「あなたのクズ度チェック」というのがあったのでやってみた。「あなたはどれくらい人間のクズか?」などと挑戦的なキャプションを付けられては、クズであることにかけては人後に落ちるものではないと自負しているおれとしては、黙って引き下がるわけにもいかない。
『あなたは100.75%人間のクズです――あなたは、誰の目にも明らかなクズ・レベルに達しています。もはや更生は難しいと思われます。好きな言葉は「刹那」ではありませんか? 素敵な人生です。このまま突っ走って、さらなる低みをめざしてください。くれぐれも、犯罪だけは犯さないように。』
やっぱりねえ。ところで“刹那”で思い出したのだが、『電脳祈祷師 邪雷幻悩』(東野司、学研 歴史群像新書)にあった「刹那の一瞬」って表現は、いくらなんでも妙だと思うぞ。小説総体としてはたいへん面白くて、今年出たSFの収穫のひとつだとは思うけれども、前作『電脳祈祷師美帆 邪雷顕現』に比べていささか文章が荒れている。ところどころで「刹那の一瞬」みたいな感じの小石をガリッ、ガリッと噛み当ててしまい、そこが残念だった。とはいえ、二段組五百ページ以上をぐいぐい読ませてしまう語りのパワーは高く評価したい。厭味にならない社会風刺もキャラ立てに正しく寄与していてよい。こういうきちんとしたいかがわしさがあると、誰も「科学的におかしい」などと野暮なことは言わないのよ。嘘のつきどころ、羽目の外しどころを心得ていて、それが読者にも伝わるように書いてるからだよね。
【11月6日(土)】
▼やたら忙しくて、良質のネタを繰っている時間がないので(はて、いままでそんなものがあっただろうか?)、小ネタが続く。「カレーはどっちだ?」特集には、たくさんのご意見、ご観察をいただいている。ありがとうございます。ひと息つけたら特集しますので、しばしお待ちください。
昨日ちょこっと書いた「雪に変わりはないじゃなし」は、もちろん「お座敷小唄」の歌詞である(カラオケやら歌本やらで見るぶんには、作詞者は不詳らしい)。「富士の高嶺に降る雪も/京都先斗町に降る雪も……」とまで書けば、お若い方にも思い当たるのではないかと思う。え、“せんとちょう”ってどこやて? “ぽんとちょう”や“ぽんとちょう”。ちなみに、“烏丸”は“からすま”ですので、よろしく。それから、“舞妓さん”を“舞子さん”と書いている人をしばしば見かけるのでご注意を。それと、だいぶ前から、いとうまい子とひらかなになっているのでご注意を。また、舞妓さんに触っただけでその人の過去がわかってしまうという変わった人がおって、京都では“マイコメトラー”と呼ばれているという、いまできたばかりの噂は嘘なのでご注意を。
なんの話だっけ? あー、「雪に変わりはないじゃなし」であった。三瀬敬治さんからご意見とご報告。『これは、歌の舞台が京都先斗町であることから考えても歌詞そのものが京都弁で「雪に変わりがないじゃなーし」と女性が語っているものと想像されます』とおっしゃるのだが、うーむ、これはどうなんでしょうね。由緒正しい京都弁をしゃべる知り合いはほとんどいないのでよくわからないが、人が「なーし」などという語尾で話しているのは、少なくとも京都のここいらへんでは聞いたことがないなあ。菅浩江さんも「なーし」などとは言わないような気がする。どうなんだろう? 芸者言葉なのであろうか。
『ところが、昨今のNHKなどでこの歌が歌われるのを見ますとなんと勝手に「雪に変わりがあるじゃなし」などと歌詞を変えて歌っているのです』と三瀬さん。あ、あるある。カラオケでそう唄っている人が、かなりの年配者にもよくあるのはたしかだ。いくらNHKでも「文法的におかしい」などと改竄しているとは思えないのだが、むかし、松本伊代の「センチメンタル・ジャーニー」は臨時改変してたしなあ。あれは歌詞の中の“伊代”が商標と判断されたからということであったか。そういえば、都はるみのことをミソラなどと改変したこともあった。しかし、商標が唄えないということになると、小林旭の「自動車ショー歌」などはどうなるのか、あれが流行った当時はNHKで唄えなかったのか、なんだか気になる。「ニッサンするのはパッカード」てあなた、パッカードてどういう意味や?
で、このようにいろいろ考察してみた結果(どこかだ?)、結局「雪にかわりはないじゃなし」の謎は残るのであった。
【11月5日(金)】
▼いわゆる“語尾上げしゃべり”に先日触れた。あれほど嫌悪感を催させるわけでもないが、日ごろから「ヘンだなあ」と思っている言葉がいくつかある。最近とくに気になるのが、“なにげに”というやつである。使っている人は“なにげなしに”と同じ意味のつもりらしい。“なし”がなくなっても、なぜか同じ意味になるみたいだ。論理的に不思議としか言いようがない。“なにげに”などと言われると、“なにげなし”の否定だからと反射的に考えてしまい、“なにか明確な意図があって”という意味かと思うのがふつうじゃなかろうか――とミスター・スポックなら思うだろうが、なんとなく意味がわかってしまうから癪に障る。「雪に変わりはないじゃなし」みたいなものだろうか。
たとえば、「なにげにすべての林檎や柿を食べたわけではない」なんて文章があったとする。はて、いったい全体、林檎と柿はどちらかが、あるいは両方が少し残っているのかいないのか、どちらかがあるいは両方が残っていたとしてもいなかったとしても、残したあるいは残さなかったのにはなにか明確な意図があったのかなかったのか、その意図はどちらかを残すことにあったのか両方を残すことにあったのかあるいは残さなかったことにあったのか、また、柿は最初から一個しかなかったのかそうでないのか、はたまた、林檎や柿に対してほんとうは“食べる”という動作をするつもりはそれほどなかったのだがなにか事情があってあえて“食べた”のかそうでなかったのかまたその行為には明確な意図があったのかなかったのか、なにがなにやらさっぱりわからない。ほとんどなにも言っていないに等しい文章である。でも、これに類する文章をなにげなしに、あるいは、なにげに書いてしまうことってあるよね。明確な意図があって書くのならいいのだが、自分では意味が明瞭だと思ったまま気がつかないのはかっこわるい。でも、よくやるんだよ。やるんだけど、文法的・形式論理的に曖昧な文章でも、十人が十人とも筆者の意図したように解釈してしまうような文脈に嵌め込まれていれば問題ないわけで、問題ないどころか、文章に不思議な幅が出たりする。自然言語ってのは、じつに味わいのあるものだ。こういう文章をうっかり書かされてしまうところが言語の不完全さだし、こういう文章がわざと書けてしまうところが言語のすばらしさだよね。
おやおや、今日の日記は、なんだか“超メタ言語的”((C)梅原克文)になってしまった? と、こういうときは語尾を上げてもよいのである。
【11月4日(木)】
▼おっと、「大学の学生生協で買ったのだが蛙の好きなあの方も同じ場所でこの本を買ったのではありますまいか」という田中哲弥さんの疑問にお答えしておかねば(「仕事に明け暮れる日々について」99年10月28日)。
蛙の好きなあの方は、残念ながら『抱擁』(日野啓三)を集英社文庫でしか持っていない。文庫本の初版第一刷だ。カバー画は落田洋子。ちょっとポール・デルヴォーっぽい(田中さんは、いかにもデルヴォーが好きそうである。うひひひ)。昭和六十二年に文庫になっているので、田中さんと同じ大学生協で買ったはずはないということになる。そのころには大学を出ているからだ。
田中さんは『抱擁』が最初に読んだ日野啓三作品だとおっしゃっているが、おれの場合は『夢の島』(講談社/講談社文芸文庫)だった。なんと言おうか、「あっ、ここにいた」という感じであった。なにが“いた”んだかさっぱりわからないが、強いて言えば、地球とやらいう辺境の惑星に流刑にされていたところが同じ星系出身の人間に偶然めぐりあったかのような感覚である。こんなことを言うと日野氏に畏れ多いけれども、テレパスが自分のそれにきわめて近い周波数とパターンを持つ精神波を思わぬ場所でキャッチしたような、ひとつの事件であった。むかーし、吉行淳之介を“発見”したとき、この世界に「自分の居場所があった」と思ったのと似た体験だ(97年5月30日の日記)。
というわけで、おれは『夢の島』から過去に這い上がって読んでいったので、日野啓三に関しては田中さんより晩稲なのである。それにしても、田中哲弥さんも日野啓三ファンであったとはなあ。田中さんが『抱擁』を好むのは、最初に読んだ日野作品ということもあろうが、やっぱり少女が重要な位置を占める作品だからなのであろう、と勝手に納得しておくことにする。
それにしても、田中さんもおれも、どう見たって“お笑い系”の人種であって、失礼ながら日野啓三って柄じゃないと思うのだが、はて、屈折のしかたが似ているのであろうか。お笑い系はいやらしいですぞ。三百六十度以上に屈折してる人が多いからねえ。四百五十一度くらい屈折したところで止まると、SFファンになるらしい。ほんまかいな。
【11月3日(水)】
▼先日、胃の検査で飲んだバリウムのせいで、胃腸の調子がはなはだ悪い。あれを飲んだあと、しばらくは大便のありさまがたいへん面白いという話は、以前(98年12月3日)書いた。文字どおり“重白い”大便が水洗便所の水圧に負けて厭々流れてゆくさまを見ると、『岸辺のアルバム』という言葉が脳裡をよぎるって話だったんだが、あれは和式の場合である。洋式だったらどんな言葉が浮かぶだろうと、用を足したあとに白茶けた流動物の溜まった便器をじっと見つめて、才能のひらめきを待った。待った。待った……。やがて天啓の如くやってきたその言葉を、われとわが才能と大便の臭いに陶酔しながらおれはつぶやいた――「ベンザ・ブロック……」 満足気に水を流していたら、小松左京ファン向けにもうひとつでけた――「白い……重い……大便……」
わからない人は『さよならジュピター(上・下)』(小松左京、ハルキ文庫)を読もう。
【11月2日(火)】
▼厚底サンダルを履いて自動車を運転していた阿呆が死亡事故を起こしたそうだ。こういう話を聞くと、おれは思わずそこいらに鋸がないかと……もういいですかそうですか。
昨日今日とおやじ節炸裂だが、おれはあんなもん、ぜんぜんかっこいいと思えん。おまえは花魁か。いや、それどころか、どう見ても竹馬としか思えぬものを履いているやつまでいたりする。そもそも二本足で歩くというのは、じつに精妙な行為であって、ようやく最近になってロボットにもできるようになったくらいの奇跡の技である。まあ、詳しくは「迷子から二番目の真実[14]〜歩行〜」をお読みいただくとして、ともかくあんなものを履いていたのでは、歩きにくくてしかたがないにちがいない。日常生活には走ることを余儀なくされる場面も多々あろう。あれで走れるのか、あれで。じつはあの靴底にはジェットエンジンが仕込まれていて、いざとなると彼女らは空を飛ぶのかもしれん。宇宙空間に出ると自動的にロケットに切り替わるのだ。目はサーチライトになり、六十か国語を操り、人の心の善悪を感じ取り、お尻にはマシンガン、そして力は十万馬力――なわけはない。森奈津子さんのお知り合いの編集者の方が、いみじくも「馬鹿っぽい」とおっしゃっていたそうであるが(「浮き世の間 東京異端者日記」99年10月某日)、おれもあれを読んで快哉を叫んだ。まあ、おれにはバカっぽく見えるけれども、ああいうものを履くのは個人の自由である。だけど、人死にまで出てるんだから、くれぐれもあれを履いて車を運転するのだけはやめてくれ。おちおち表も歩けん。
【11月1日(月)】
▼〈通販生活〉(No.196 冬の特大号)が送られてくる。巻頭特集は「どうしたら一掃できるか、語尾上げしゃべり方。」と題する座談会。ああ、おれも嫌い。べつに一掃しなくともよいと思うが、おれは嫌い。そりゃ、おれだって必要と思えば使うよ。でも、耳につくほど、というか、数文節ごとにほとんど毎回語尾を上げているようなしゃべりかたを聴くと、思わずそこいらに鋸がないか捜してしまう。「おーまーえーはーあーほーかー」と言うためだ――って、このネタこないだ使いましたな。
座談会の面子は、安部譲二(作家)、須賀原洋行(マンガ家)、デーブ・スペクター(放送プロデューサー)、大宅映子(ジャーナリスト)、井上史雄(言語学者)。もう少し若い人も入れてほしいところだけど、おれも概ね彼らと嫌悪感を共有していることがわかった。アレのなにが厭といって、いちいちこっちが強制的に相槌を打たねばならないような気にさせられることだ。呆れたことに、自分のことを話しているにもかかわらず語尾上げを連発しているやつまでいる。「えっと、私が? 昨日テレビ見てたら? 弟が帰ってきて? iMac? 買ってきたらしいのよ」などと言われたって、おまえの家で昨日なにがあったかなどおれが知ってるわけなかろうがー、といらいらする。もっとも、語尾が上がったからといって、「あ、おれは問いかけられているのだ」と反射的に思う人間のほうがおかしい? ということになってきている? のかもしれない?
▼我孫子武丸さんの日記で「e-NOVELS」の開設を知る。ひとことで言うと「プロの小説家による産直ネット」なのだそうで、こういう動きが作家側から出てくることには大歓迎である。e-NOVELS設立委員会(我孫子武丸・井上夢人・笠井潔)のお考えにも大いに賛同できる。
おれも紙の本はなくならないと思うし、なくなってほしくはない。しかし、いまの書籍の流通形態はあまりにも時代遅れである。まあ、電子出版や書籍のネット通販などに絡むこのあたりのおれの意見については、96年12月2日、97年4月9日、98年5月1日、10月23日、12月2日、12月12日、99年5月17日、7月13日、8月17日、10月18日の日記などを時系列で読んでくだされば、一貫しているところ、技術の進歩に伴って関心が移ってきているところなどがわかって面白いと思う。
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