シュメール・バビロニアの創造女神リリトの花で、本来は、この女神の生殖魔力を表すリルlilu(「ハス」)だった。ユリは三相一体の女神の処女相を表すことが多く、バラの方はその母親の相を表していた。アスタルテーAstarteにもユリが捧げられたが、それはアスタルテーがリリトと同一視されていたからである。北欧人はアスタルテーのことを、オスタラOstaraあるいはイオストレEostre(「復活祭Easterのユリの女神」)と呼んでいた[1]。
ユリは異教において処女母(virgin mother)と関連づけられていたため、キリスト教においても聖母マリアの受胎のシンボルとして用いられた。一部の文献によると、神の精液は、ガブリエルが手に持っていたユリの中を通って、マリアの耳から彼女の体内へ入っていったという[2]。
マリアの信者たちも、、聖処女ユーノーのユリを継承した。ユーノーは、男性の助けを借りずに、自分自身の「魔力あるユリ」を用いて救世主-息子マルスをみごもった[3]。この神話は、昔はヨーニ(女陰)が単位生殖能力を持つと信じられていたことを反映していた。ヨーニのシンボルがユリであり、ヨーニを擬人化したのが女神ユーノーだった。ユーノーという名は、「 3弁のユリ」fleur-de-lisによって表されたローマ以前の三相一体の女神ウニUniに由来しており、ウニの方は、宇宙Uni-verseの語源であるサンスクリット語のヨーニyoniから派生していた。
西暦656年、トレドの第10回教会会議において、ユーノーが奇跡的にマルスを懐胎した聖なる日が、キリスト教の教会法に正式に採用された。その日は「聖母マリアの祝日」すなわち「聖母の日」と改名され、マリアがユリの助けを借りて奇跡的にイエスを受胎したことを記念する日であると主張された[4]。キリスト教の画家たちは、一茎の3弁のユリを先端に戴いた王笏を、天使ガブリエルが聖母マリアに差し出している場面を描いた。通常は、短い文句がガブリエルの口から出ていて、そこには Ave Maria gratia plena (「恩寵に満てるアヴェマリア」)と記されていた。この文句は、産出カを持った「聖なる言葉」(種子的ロゴス)であり、この言葉の力でマリアは「満ちた」(みごもった)のである。画面には、女陰のもう1つのシンボルである「アプロディーテーのハト」が、空中に舞っていた[5]。
ケルト人やガロ・ロマンス語系の諸部族では、処女母(virgin mother)を「ユリの乙女」と呼んだ。この乙女の女陰のエンブレムは、フランスの3弁のユリだけでなく、アイルランドではシロツメクサの形をとった。ただし、シロツメクサは、本来はアイルランドのものではなく、すでに紀元前6000年頃に、インダス川流域の人々によって崇められていた聖なるシンボルだったのである。フランスがキリスト教化されると、「ユリの乙女」は「聖母マリア」と同一視されたが、しかし、聖母マリアから異教のユノのイメージが完全に払拭されることはなかった。一般の人々は、「聖母の祝日」を「マルスの母の祝日」と受け取っていたのである[6]。
復活祭のユリ†は、中世にあっては、 pas-flower (「紫色のアネモネ」)のことだっ た。 pasはラテン語のpassus (「通り過ぎる」)に由来しており、passusはpascha(「過越の祭り」あるいは「復活祭」)と同族の言葉だった。このユリは、そのほかにもPash-flower、 Paschal flower、 Pasque flower、 Passion flowerなどと呼ばれていた。異教徒たちは、この花が、天界の処女女王と「愛死」の形で一体になることを願った男神(たとえば、ヘーラクレース)の春の受難(供犠の死)を表していることを承知していた。天界の処女女王はヘーラー-へーベー、ユーノー、あるいはウェヌス〔ヴィーナス〕であって、彼女らはみな、このユリが自分のものであると主張した。ヘーラーの乳が彼女の乳房から噴出して「天の川」 Milky Wayになったとき、地上に落ちた乳のしずくはユリになったという[7]。
復活のユリ
復活祭の花は、白いユリではなくて、緋または紫のアネモネの場合があった。このアネモネは、アドーニスの受難(愛死)のエンブレムであり、アドーニスの花嫁だったウェヌス〔ヴィーナス〕と同一視されていた[8]。
Barbara G. Walker : The Woman's Encyclopedia of Myths and Secrets (Harper & Row, 1983)
〔象徴・純粋性〕 ユリは白さの同義語であり、したがって純潔、無垢、処女性の同義語である。それはベーメあるいはシレジ ウスにあっては天上の純粋性のシンボルとみなされている。「お前の魂の婚約者は入りたがっている。花開くがよい。ユリの花が咲かぬうちは、彼はやって来ない」。
〔ギリシア・神話〕 しかしユリはまったく別の解釈をもたらす。それはアポッローンに愛された美少年ヒュアキントスの変身した姿で、それゆえ禁じられた恋を想起させる。 もっともこの場合のユリはマルタゴン・リリー(赤いユリ)であるが。ペルセポネーが、彼女に惚れたハーデースによって、突然開いた大地の口から冥界に連れ去られたのは、彼女がユリ(またはスイセン)を摘んでいた ときである。それゆえユリは誘惑または《冥府》の門を象徴することもある。
〔フランス・文学〕 『植物の神話学』の中でアンジェロ・ド・グベルナティスは「ユリがウェヌスとサテュロスのものとされるのは、おそらく恥部の雌蕊のためであり、したがってユリは生殖のシンボルなのだ」と考えている。この作家によれば、そのことのゆえにフランス王たちはユリを一族の繁栄のシンボルとして選んだのであろうという。こうした男根を想わせる外観に加えて、ユイスマンスは『大聖堂』の中でユリのめくるめくような匂いを告発している。「その芳香は清らかな香気とはまったく正反対のものである。ユリはハチ蜜と胡椒の混じり合ったような、刺激的で甘ったるい、ほのかにして強烈な何物かである。そこにはレヴァント地方の催淫性の糖剤と、インドの催淫作用のあるゼリーに通じるものがある」。ここであの「精神と感覚との熱狂を奏でる」もろもろの匂いの、ボードレール的照応を想起することもできよう。この象徴的意味がむしろ月と女性にかかわるものであることは、マラルメの明確に感じていたところである。
「またあなた(母なる大地)は百合の花の嫋々たる白さを作って、その真白さが溜息の海をかすめて輾転しながら灰かにかすむ水平線の青い香煙を横切って泣いている月に向かって夢みるように昇ってゆく」(鈴木信太郎訳『群芳譜』による)
この象徴的意味は別の詩篇〈エロデイヤード〉では内面化されて一層明確になる。
「……噴泉の水 快くわれを迎ふる水盤のほとりさながら、心の苑に蒼ざめし百合の花弁 われはむしりて……」
(同書『エロデイヤード』による)
ここでは水の象徴体系が月と夢の象徴体系に付け加わって、ユリが愛の花、しかも烈しい愛(だがその両義性のゆえに叶えられなかった、抑圧ないし昇華された愛)の花となっている。ユリは昇華されると、栄光の花となる。
〔ローマ・文学〕 こうした概念はユリと、非定形の泥水の上に咲くハスとの間に認められる等値関係とも無縁ではない。そこで問題とされているのは、存在の持つ正反対の可能性の実現のシンボルである。アンキセスがアエネアスに対してその一族の並外れた運命を予言した次の言葉も、そうした意味に解釈しなければなるまい。「汝はマルケルスと立てられよう。手一杯に百合をくれ。輝く花を散華したい」(ウェルギリウス『アエネイス』6、884、泉井久之助訳による)。若いマルケルスの霊に捧げられたこのユリの花の奉納は、アエネアスが《冥府》に降りたとき、その花の両義性の一切を明らかにする。すなわちレテ川のほとりにその花を認めたとき(6、706)、アエネアスは死の神秘を前にして「神聖な戦慄に」身を貫かれる。他方で、アウグストゥスの養子に捧げられたこの輝く花々は、アエネアスの心の内に「その未来の栄光への愛」を取り戻させるのに寄与する。このシンボルは死者を悼み弔う価値であると同時に、人を奮い立たせる価値なのである。
〔紋章学〕 紋章に見られる6弁のユリの花は、円周の描かれていない車輪の6本の輻、すなわち太陽の放つ「6本の光の矢」とも同一視されて(GUEC、GUES)、栄光の花で豊餞の泉を表す。
〔聖書〕 聖書の伝承では、ユリは神の選択、愛される者の選定のシンボルである。
「おとめたちの中にいるわたしの恋人は茨の中に咲きいでたユリの花」
(『雅歌』2、2)
それは諸々の民族に対するイスラエルの特権、イスラエルの女たちに対する聖マリアの特権を指した。ユリはまた神の意志への委託、すなわち神に選ばれた者たちの欲 求を満たしてくれる摂理への委託をも象徴 する。
「野の花(ユリ)がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない」
(『マタイ』6、28)
このようにユリは神の手に身をゆだねているが、それでも栄華を極めたソロモンよりも美しく着飾っている。ユリは神の恩寵への神秘的委託を象徴するといえよう。
(『世界シンボル大事典』)