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マイラ(Mai:ra)

 へカテーのトーテム獣で、黒い雌イヌ。トロイにおいてへカテーを体現していた女王へカベーは、オデュッセウスに捕えられると、黒い雌イヌに変身した。オデュッセウスの長期にわたる異国放浪の旅は、ヘカベー-マイラが彼にかけた呪いによるものだったようである。マイラは、一説によると、殺されて「雌イヌの墓」に埋められたという。しかし、他の説によると、彼女は呪文や呪いの言葉を発して敵をおびえさせて退却させ、易々と逃れたという。

 マイラは、をもたらす運命老婆-女神モイラに相当する動物で、そのシンボルは小犬座の主星であり、この星が高く昇ることは、アッティカでは、人間の生贄を捧げるお告げと受け取られていた。アッテイカで捧げられた生贄の中には、娘をオデュッセウスに嫁がせた王も含まれており、「したがって、原初の神話では、オデュッセウスもその王と同じ運命をたどったものと思われる」[1]。11世紀になっても、の女神でオオカミの姿をした母神マエリンに対しては、トロンヘイムの彼女の神殿で、人間の生贄が捧げられていた[2]


[1]Graves, G.M. 2, 341-44.
[2]Turville-Petre, 91.

Barbara G. Walker : The Woman's Encyclopedia of Myths and Secrets (Harper & Row, 1983)



 ラテン語でMaera。
 なお、Mairaは、グノーシス派が用いた名称で、「イーシスの星」、「金星」、あるいは、聖母マリアMaryの称号であるステラ・マリス(「海の星」)を指した。この星は「世界霊」を表した。
 Maeraについては、オウィディウス『変身物語』7, 362; 13, 406。ヒュギアヌス『神話』131を参照せよ。

 オデュッセウスはヘカベーを戦利品として手にいれ、彼女をトラーキアのケルソネーソスへつれていった。ところが彼女は、彼らが野蛮で背信行為をするといってオデュッセウスやそのほかのギリシア人たちにひどい悪罵をあびせかけた。そのために、彼らは彼女を殺してしまうよりほかはなかった。彼女の霊魂は、ヘカテーに従うあのおそろしい黒い雌犬のうちの一匹になり、海にとびこんで、へレースポントスの方へ泳ぎ去った。彼女が埋葬された場所は、「雌犬の墓」と呼ばれている〔Apollodorus:Epitome V. 23; Hyginus: Fabula 111; Dictys Cretensis: v. 16; Tzetzes: On Lycophron 1176〕。別伝によると、ポリュクセネーがいけにえにされたのち、ヘカベーはポリュドーロスの死体が岸辺に漂着しているのを見つけた。婿のポリュメーストールが、プリアモスが教育費として支払っていた黄金のことで彼を殺害したのだった。彼女は、トロイアの廃櫨にかくしてある財宝の秘密を教えるからと約束して、ポリュメーストールをよびだした。彼が二人の息子をつれて近づいていくと、懐から短剣をとりだして子どもたちを刺し殺し、ポリュメーストールの両眼をえぐりとった。彼女の怒りっぽい性格の結果だったが、アガメムノーンは老齢と不幸のせいだからと言って、これをゆるした。トラーキアの貴族たちは、槍や石を投げつけてヘカベーに復讐しようとしたが、彼女はマイラという雌犬に姿をかえて、陰気くさいうなり声をだしながら走りまわったので、彼らはあわてふためいて退却した〔Eurioides: Hecabe; Ovid: Metamorphoses xiii. 536 ff.〕。

 一説には、古いトロイア市の廃墟の上に、アンテーノールが新しいトロイア王国を創建したという。異説では、アステュアナクスが生き残って、ギリシア軍がたち去ったあとのトロイア王となった。そして、彼がアンテーノールとその同盟軍の手で追放されたとき、アイネイアースが彼を王座にひきもどした。しかし最後には、かねて予言されていたように、アイネイアースの息子のアスカニオスが王座についたという。そうかもしれないが、それ以後のトロイアはむかしのトロイアの影のような存在でしかなかった〔Dictys Cretensis: v. 17; Abas, quoted by Servius on Virgil's Aneid ix.264; Livy: i. 1〕。

1 アンテーノールやカルカースのような裏切者にたいするオデュッセウスの思いやりのある取扱いは、彼の誠実な戦友だったパラメーデース、大アイアース、小アイアース、それにディオメーデースなどに彼が示した裏切り、あるいはアステュアナクス、ポリュドーロス、ポリュクセネーなどにたいする残忍な取扱いとは対照的である。しかし、ユーリウス・カエサルやアウグストゥスがアイネイアース — デュッセウスに命をたすけられたもう一人の裏切者で、ローマでは忠誠の模範だとされた — の後裔だと称したために、現代の読者にはこのことの皮肉な意味は失われてしまった。ヘカベーがオデュッセウスやその戦友たちを侮辱して口ぎたなくののしったその正確なせりふは、ホメーロスのほんとうの気持をあらわしているにちがいないが、それが残っていないのはまことに残念である。しかし、彼女がクレータのへカテーであるマイラ、または海の雌犬スキュラに姿をかえたということは、ホメーロスがこのののしりことばを正当なものとみとめていた — 非道と背信の上にきずかれた王国は絶対に繁栄することはできない — ことを示唆するものである。マイラとは、スキュラの天における象徴、小犬座のことであり、小犬座が昇ると、アッティカのマラトーンでは人身御供がささげられた。そのいけにえとなったいちばん有名な者はイーカリオス王であったが、オデュッセウスは王の娘と結婚していたから、もとの神話ではイーカリオス王と運命をわかちあうことになっていたのであろう。(グレイヴズ、p.966-968)