新石器時代には、母系の氏族制度と母権の支配が、ほとんどすべての地で実施されていた。エジプトの古い書物には、自分自身と家庭とを完全に支配し、母から娘へと伝わる財産を持つ女性が描かれている。ギリシアにおいて新しく始められたことでも、最も意味深いのは、母系相続から父系相続へ移行し、その結果として氏族間の忠誠が破壊されたことだった。他の多くの地域では、母系組織がもっと後の時期まで残った。賢者ビードは、9世紀まで英国諸島の一部に存在していた母系継承の通則を述べている[1]。
母系相続が、キリスト教の到来までは英国の種族の間では原則となっていた。ピクト人は、女性の家系から、全財産から王国まで相続した[2]。キリスト教の到来とともに、古い母権の掟は衰退し始めた。6世紀のイングランドには平等相続法がまだあったが、夫から離れようと決めた妻は、財産の半分と子どものすべてを連れて出られた。英語のheir(跡取り)はheresからでたもので、女地主を表すギリシア語hereあるいはHeraと同語源であった。マグナカルタは男も女もhereと言及している。のちに教会法は男性だけをheresとして載せるようになった[3]。
異教徒のケルト人の間では、男は子どもに何も譲らなかった。男たちの財産は、姉妹や姉妹の兄弟たちに相続された。ブルゴーニュとチューリンゲンの古い法律に従うと、財産は女系だけに渡された[4]。カール大帝は娘たちの結婚に反対したが、これは古いフランク族の母系相続法のもとでは、娘の結婚は王国の分割を意味することと思われていたからだった[5]。
ローマ帝国以前のラティウムでは、土地所有はlatifundiaと呼ばれていたが、これは女神ラトLatが生み出した制度だった。国の名前は、この女神にちなんだのであった。このように、本来、土地の区画はそれぞれ母権に属していた[6]。のちにローマ帝国になっても、妻が年に3晩連続して家を離れて過ごすという不注意をおかさないかぎり、夫は妻の土地あるいは財産に対する法的要求権をもっていなかった[7]。これはイスラム教になる前のアラブ人の習慣のような、さらに古い習慣の名残で、それによると妻は夫を3晩続けて家から閉め出して離婚した[8]。
ギリシアでは、土地の1区画は「月つまり女に属する土地」temenosと言われた[9]。これがとくに女神の寺院を囲む土地を意味するようになった[10]。しかし、原始時代には、すべての家母長の炉床は女神の寺院だった。アッティカの人口と土地の単位は、デDe、すなわち女神デ-モゼルDe-Mother、デーメーテールに由来するデモスdemosであった[11]。族長は家つきの家母長との結婚を通じてのみ支配が可能になった。インドにおけるこれと同じ制度をさかのぼってみると、女王の主要な特徴は、高い知性、神聖な知識および土地所有であるとマハーバーラタ†は言っている[12]。
マハーバーラタ
インドの叙事詩。4世紀から10世紀の間に集められた歴史的、伝説的素材から構成され、有名なブハガヴァド・ジータも含まれる。
ほとんどの古代社会においては、若い男性たちは母方の家から出て、よその土地で幸運を求めた。ということは、姉妹たちが家族の持っていた家を継いだからである。家を離れて、遠い国の女相続人との妻方居住婚を求めることは、ギリシアの男性にも、おとぎ話に描かれた異教の英雄たちにも、不変の習慣であった[13]。
「婚姻」matrimonyは「家督」patrimonyの女性形に相当する意味があった。すなわち母方の財産の相続を意味した。そのmatrimonyが、結婚と同義語になったが、その理由は、結婚が男にとって財産の支配権を獲得するひとつの方法であったからである。
リュディアでは、女性が土地を所有し、共同社会を治め、恋愛に関しても主導権を握っていた[14]。エジプトでも同様だった。「相続は父よりもむしろ母を通じて行われた」とゴードン博士も言っている。この制度は「父と子の比較的はっきりしない関係ではなく、母と子の明白な関係だけが認められた先史時代にまでさかのぼる可能性が十分にある」。何世紀もの間、エジプトでは、妻によって治められ、妻の意志によってだけ終わらせられる、旧式の母権制の結びつきと父権制の結婚が並んで存在した[15]。息子たちではなく、娘たちが財産を受け継いだので、老齢の両親の面倒を見るのは(息子ではなく)エジプトの娘たちの義務であった[16]。
男性学者たちは古代の母系相続制度について書くことを渋ってきた。古代バビロニアの原典を翻訳した後で、W. ボスカウエンは「バビロニアで女性に許された自由とは、女が自分の財産を持ち、それを活用することを許可されることだった。……この地の母はつねに『家の女神』を意味するしるしによって表されている」と書いている[17]。この意味は、男たちが寛大だったからこそ、女が財産を所持したということだが、事実はそうではなかった。女性は母権の強固な掟によって財産を所持したのであって、バビロニアの妻はインドの家母長と同じ「家-女神」grhadevataという添え名を持っていた。
家母長制度の反対者の先頭に立つマホメッドでさえ、「最初の妻カディヤから得た富のおかげでやっと使命を遂行できた。その妻は金になる商売に従事し、土地財産を所有していた」[18]。
土地財産は、初めに土地を耕した者が女性であったために、女性の手に所有権が確立された。原始人の中には、本来女性に具わっている生命-魔法だけが植物を生長させることができるのだといまだに信じている者がある。「女性は生み出す方法と、種に生み出させる方法を知っている。男性はそういうことを知らない」[19]という。南北アメリカの原住民たちはどこでも、農業を発案したのは、耕された畑の唯一の持ち主である女性であると述べている。妻方居住婚および家という場所を母系所有することが、アルゴンキアン族、セミノゥル族、カイオワ族とクリー族の間で習慣となっていた。古代ギリシアにおけるように、父親は部族の中では、「よそ者」であった。女性は「土の主人」[20]であった。他のどこと比べても劣らぬほど、女性は部族の中で、大いなる勢力を持っていた。本来酋長たちを任命するのはいつも女たちであった[21]。イロコイ族がアメリカ政府に土地を譲渡したとき、書類には女たちのしるしが必要とされた。男たちのしるしでは、部族の中で有効性が全くなかったからである[22]。
ある宣教師が発見して驚いているのだが、パユガの女性はあらゆるものを所有していた。「もし夫が妻の気に障る原因をつくれば、たとえその原因が本物であろうと想像上のことであろうと、妻はテントと家具をしまい込み、カヌーまで自分のものとして、すべてを持って出てゆく。子どもたちは妻についてゆき、夫である父は着ている服と武器だけを唯一の持ち物として、置いていかれる」[23]。宣教師の故郷の法律では、この反対のことが唱えられていた。妻には自分の衣服にいたるまで、何の法的権利も与えられていなかった。宣教師はインディアンのこの習慣に驚き、男性の敵意を期待した。だが、インディアンの男性は母親の特典に反感を持たなかった。男たちは、キリスト教が父の権威を当然と考えたように、母の権威を当然と思っていた。インディアンの夫は妊娠中の妻が欲しがる何か特別の食物を得るために、40から50マイルも探し歩いたという[24]。
アフリカでは、女は家のある場所とつながる土地およびその他の財産を所有していて、これは娘あるいは兄弟の娘に譲られた。アフリカ駐在のヨーロッパの政府の代表団や伝道者は、原住民の間の母系習慣に反対する宣伝をくり返した。ほとんどのアフリカの国では、ヨーロッパ式土地改革が、女たちから土地を取り上げ、夫にそれを割り振った[25]。これは女性を貧しくし、自尊心を破壊する傾向があった。自分の子どもたちを養えない女を、部族の人たちが見下したからである。
父権制の宗教の権威者たちは、財産を男の手に置くために、いたるところで古代の母系相続制度を変えていった。忠誠のキリスト教の王たちは一般に「その女と女の領地を受けよ」という言葉とともに封建領主に領地を授けた[26]。キリスト教がヨーロッパを征服した初期の何世紀かは、主として異教の女から土地を獲得することで占められていた。チュートン騎士修道団は、恋人を修道団の団長にするという条件で、島の持ち主の「マイナウのうるわしき乙女」からマイナウの島を獲得した[27]。
聖書には昔の母系相続と妻方居住婚の痕跡が見られる。すなわち、男は「その父と母から離れて、妻と結び合わ」(『創世記』第2章 24節)なければならない。ナオミは嫁たちに「それぞれ自分の母の家に帰っていくように」(『ルツ記』第1章 18節)言った。母方の家から女を離すことを認める結婚協定は昔の法律に違反するのであった。だからこそ、アブラハムは息子の嫁を探したとき、家から連れ出す償いとして、花嫁、花嫁の母親、兄(父ではない)にたくさんの贈り物をしなければならなかった(『創世記』第24章 53節)。
父系の部族の手に財産を保持するのが、神によって命じられた、いわゆるレビラト婚の目的だった(『申命記』第25章 5節)。男が死ぬと、その妻が財産を持って家を出るのを認めるのではなく、夫の兄弟に未亡人との結婚を強制した。この規則は遊牧の民である明日ら得る人が土地財産をカナアン、モアブ、フェニキアなどの異教の女と結婚することで手に入れるようになった古い時代に始まっている。現在の法律も女性に対して同じ効果をあげている。夫と妻がいっしょに事故で死んだ場合、男の家族が相続できるように、妻が先に死んだということにされる[28]。
アメリカ・インディアンのように妻方居住婚の伝統を保持した人々は、結婚の哀歌や擬似戦闘や偽誘拐やわざとはにかんだふりをする儀式などを発達させることはなかった[29]。しかし父方居住婚の場合には、花嫁の親戚が普通抵抗のしぐさをしてみせるのである。妻方居住婚はラグなる・ロズブローク(革の半ズボン)という北欧神話に現れている。ロズブロークは異国の戦士-姫と結婚したが、妻に自分の国を離れる気を起こさせられなかった。故郷にもどりたくなったときロズブロークは妻を置いて帰るより仕方がなかった[30]。
旅回りをするジプシーの間にも母系結婚の習慣があった。ジプシーの伝承では、女主人公は絶対に母の家を離れることがなかった。死ぬと家の門口の土の下に埋葬された。これはジプシーの先祖である昔のヒンズー人の習慣だった[31]。
ヨーロッパのキリスト教の目的は財産の獲得で、異教の母系相続の制度を打倒することにあった。強制的押収と戦争によって、教会は中世初めまでに大陸の土地財産の3分の1余りを手に入れた[32]。残りは手に入れるのが困難なものだった。西暦1200年まで、ヨーロッパの一部では、まだ女性が土地所有者として名前を記録されていて、男は母の部族の名前で身元証明をした。10世紀までは、聖職者たちは妻なしでは「飢えと裸」に屈服することになると主張して、財産を獲得するために結婚した。教会法がその制度を改めた。それで1031年から1051年の間に一連の教皇の教令が聖職者に妻を捨て、子どもを奴隷に売るように命じた[33]。当然、このようにして聖職者によって取得された財産や金銭は、本人の死後教会に没収されることになった。その男の法的な相続人はもはやいなくなったからである。
女性の財産所有権をめぐる、法律と教会の争いは何世紀も続き、女性は神と人間の法によってひどく妨害されて、ついには自分のものと呼べるものはひとつも残されなくなってしまった。19世紀の終わりまでには、英国の妻はたとえ財産があっても、自分で管理することもできず、夫の承諾なしには、財産分配の遺言も作れなかった[34]。1930年になってもフランスでは、夫の許可なしでの銀行での取引は少額の預金でさえも、女性はいっさい禁じられていた[35]。現在まで、金銭と財産の管理を欠くことが、女性が、虐待したり暴力を振るう夫の家から子どもを連れて出る最大の障害になっている。この点では、何世紀にもおよぶ父権制の努力が目的を達したのであった。
Barbara G. Walker : The Woman's Encyclopedia of Myths and Secrets (Harper & Row, 1983)