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Marriage(結婚)

 結婚marriageという言葉はラテン語のmaritare(女神アプロディーテー-マリの庇護の下に結合すること)に由来する。結婚のあらゆる面で、女神の庇護がつねに求められていたので、キリスト教の神父たちはその制度に反対した。オリゲネス*は「結婚は不純で、神聖を汚すもので、性的情熱のはけ口である」と宣言した。聖ヒエロニムスは、神を敬う人間の第1の目的は「処女の斧をもって、婚姻の森を切り倒すことである」[註1]と言った。聖アンブロシウスは、結婚は、誕生に際して、神が各男女に与えた純血の状態を変えることだから、神に対する罪であると言った[2]。結婚はキリスト教徒の中では売春婦に喩えられ、「結婚している人は自分たちの暮らしぶりを恥じるべきである」。テルトゥリアヌス**は「結婚はいかなる罰、すなわちよりも恐ろしい」道徳的犯罪であるといった。結婚は「わいせつ」spurcitiaeあるいは「汚れ」であった[3]

オリゲネス*
 キリスト教の教父。185-254? ギリシア語で著作したエジプト人で、初期のギリシア教会に大きな影響を与えた。初めは聖人とされたが、死後3世紀経って、著作の中にグノーシス派の要素が見つかったため、異端と宣せられた。

テルトゥリアヌス**
 影響力の強い初期キリスト教の著作者で、教父。155-220? 異教の両親の間に、カルタゴで生まれた。

 結婚は罪であると聖アウグスティヌスはにべもなく言っている。タティアノス〔2世紀、シリア生まれのキリスト教弁証家〕は結婚は腐敗、「汚染された不潔な生活様式」であると言った。タティアノスに影響されて、シリアの教会は、男性以外いかなる人間もキリスト教徒になれないし、結婚の経験のある男性は洗礼を受けられないと規定していた。サトゥルニノス〔シモン、マゴス、メナンドロス、サトゥルニノスとつづくシリア系グノーシス主義者〕は、神は2種類の人間、善良な男と邪悪な女しか造らなかったと言った。そして結婚は女の極悪非道を不朽にし、女は性の魔力によって男を支配すると述べた[4]。さらに何世紀も経ってから、聖ベルナルドゥスは、男にとって、霊魂を危険にさらさずに女と暮らすことは、死者を生き返らせるよりむずかしいと宣言した[5]

 聖パウロは情の燃え上がるのに比ぺれば結婚の方がましだと呪って(『コリント人への第一の手紙』7:9)、結婚の美点はほとんど認めず、結婚を非難している。だか。後世のパウロ使徒団の人々はイエスの次の言葉に従って、結婚を全面的に否定した。その言葉とは、「だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない」(『ルカによる福音書』14:26)である。イエスは信仰厚い者以外は自分には親戚はないと宣言して、家族を捨てた(『マルコによる福音書』3:31-35)。聖ヒエロニムスは、この言葉を結婚と家族を打ち砕く命令と解釈した。ヒエロニムスは母性にうんざりしていたのである。「膨張する子宮、わめく子どもの世話、最後にはによって断ち切られるこのような愚かな感情」[6]が嫌だったのである。ヒエロニムスは妻を熱烈に愛している男はすべて姦通罪を犯していると言った[7]。聖アウグスティヌスは女の性的・母性的役割に嫌悪感を示した。アウグスティヌスは、どの子どもも「糞尿の間から」出てくるのだから、誕生は呪われているのが明白であるという格言を捏造した[8]

 家族を擁護する女神ペルペテュア(永遠なるもの)の名をつけられたでっちあげの聖人の1人〔203年に殉教したとされるアフリカの殉教者〕から、家族を否定する美徳の手本が作られた。この女性はキリスト教に装いを変えて、聖ペルペテュアとなり、独身の喜びに身を捧げ切って、冷静に殉教に立ち向かったのだが、そればかりでなく、キリスト教徒になるために両親、、乳飲み子の我が子までも捨てたのである。異教徒の親戚は、子どもを乳房にあてがって、心を和らげようとしたが、ペルペテュアは子どもを脇へ押しやり、親戚の人たちに「私から離れてください。神の敵よ。私はあなたがたなど知りません」[9]と言った。

 初期のキリスト教徒が考えた善良な女性とは次のようなものであった。つまり家族より信仰を優先する人であった。教会の慣習はこの見解を反映している。16世紀になるまで、キリスト教には婚姻の秘跡は存在しなかった[10]。カトリックの学者は、婚礼の儀式は、気乗りがしないローマ教会に「課せられた」もので、「婚礼の儀式のための典礼形式の発展ほど遅々としたものはない」と言っている。このような典礼形式は教会によって発展したのではなくて、異教徒の普通法からの借り物であったのがわかるが、これは注目することではないかもしれない[11]

 英国国教会の儀式は、女性の土地を「管理人」()の管理下に移行するために使われたアングロ・サクソンの証書から出発した。本来の言い回しでは、花婿に「この指輪をもって、我、汝と結婚し、この金銀を汝に与え、我が肉体をもって、汝を崇め、現世の財産のすべてをもって、汝に名誉を与える」と言わせた。それに対して、花嫁は「我、汝をとし、晴れたときも、曇ったときも、良いときも、悪いときも、富めるときも、貧しいときも、病気のときも、健康なときも、が我らを分かつまで、離れず、床にあっても、食卓にあっても、快く、快活であるようにせん」[原文通り引用]と答えた。のちに欄外に書かれた聖職者の奇妙な覚書には「快く、快活である」は本当は「おとなしく、柔順である」のことだと説明されていた[12]

 ギリシアとバルカン諸国の婚礼の儀式について、あるギリシアの宗教的権威が書いている。「他のヨーロッパ諸国の人々の場合と同じように、現代のギリシア人にとっては、教会が行う祝福は、本来の異教の結婚の儀式に教会側がかぶせた飾りにすぎず、結婚式の本当の一部ではなく、儀式というか、あるいは残りかすに相当する」[13]

 キリスト教の聖職者は、男性が結婚によって、女神や巫女と結ばれて初めて、霊的な権威を取得できたことを思い出させるような古代の習慣と戦ってきた。古代の習慣とは、土地の支配者が女神との聖婚によって権力を得ることか、あるいは妻のない聖職者には神との接触が許されないので、聖職者は必ず結婚するということのどちらかであった。アジアにおいては、神々自身にも結婚が要求された。ヴィシュヌやブラフマーのような父権制の神でさえも、彼らの力を具体化させてくれるシャクティのような妻が必要だった。妻がいないと何1つ用が足せなくなるのであった」[14]。ブラフマンの聖職者は妻がいないと、ある種の儀式を行えなかったのである[15]。東洋の神秘主義者は、男というものは「の立場」bhavananを経験しないうちは精神的に未完成であると説いた。になるということはバヴァー二Bhavaniすなわち「存在」としての女神と結ぶことであった[16]。つまり未婚の男性は本当の意味でこの世に存在していないこととされた。タントラの賛美歌には、女はすべて女神の霊的性質を体現しているから女神であると歌われていた。それ故に「女は生命そのものである」[17]

 昔のイスラエル人も、未婚の男を聖職から遠ざけた。妻を持たない聖職者の呪力と祈りには効力がないと考えたのである[18]。ユダヤ人の聖典には「妻子のない男はこの世で面目を失い、葉と実のない木のように嫌われる」[19]とある。同じく、ローマの高僧の精神的権威である祭司フラメン・ディアリスはユーノーの位の高い巫女であるフラミニカとの結婚のおかげをこうむっていた。もし巫女が死ぬとか、出て行くとかすると、男の方はただちに聖職を失った[20]

 最古の時代には、男にとって結婚状態を保ち続けることがいろいろな面で重要だったので、男が考え出した結婚の第1の規則は、永遠の一夫一婦制結婚の確保を可能にすることであったようだ。こうして、は女を束縛することで、女の財産と子どもを保持できるようになった。母権制の社会では、性的嫉妬が許されることはめったになかった。女は愛人やを自由に変えられ、一妻多夫とか、集団結婚も自由だった。女神の好んだ緩やかで融通性のある結婚の取り決めから、男神好みの厳格な一夫一婦制結婚への移行が神話に記録されている。

 古代ギリシア時代以前の神々の母レアーは、一夫一婦制を罪であると責め、古い集団結婚の法則を主張した。レアの息子ゼウスは、母の土地を狙う父権制の侵略者たちを代表して母に挑んだ。ゼウスレアーの「娘」のヘーラーに一夫一婦制結婚を強制した。実は、ヘーラーレアー自身が変身したものであった。ゼウスの方はこの契約には全く固執しなかった。ゼウスはつねに姦通に耽り、ヘーラーを嫌った。あるとき『ヘーラーは他の神々を煽動してゼウスに反逆させた。これに対しゼウスは、ヘーラーの両方の踵をかなとこに固定して空から吊す罰を与えた。おそらく、この神の先例は、拷問によって妻を服従させる許可を男に与える口実になった[21]

 あらゆる有利な状況を利用して、妻が服従し、(とくに)貞節であるように強いる機会を男は掴むべきであると、古代ギリシア人は信じていた。アリストテレースは、花嫁を意のままに操れるように、は花嫁の2倍の年齢であるべきである、つまりが37歳なら、妻は18歳であるべきだと説いた。「年が上で十分成熟している者は、若くて未熟な者に勝る」[22]。こうしてギリシアの父権制は父権制宗教の前兆になった。「ユダヤ教、キリスト教、マホメット教から見ると、ギリシアの父権制は神々が命令した通りに従っているふりをしながら、男たちが自分たちのやりたいようにしたということであった。すなわち、この宗教は、父親が妻と女の子どもたちを好むように支配し、男の子たちを力ずくでも性的活動から排除することを形式化したにほかならない」[23]

 ギリシア人の妻に対する侮りは、やがて同性愛崇拝にいたり、家族を無視して若い少年たちを愛人関係に引き込んだ。学者たちの中には、このような結婚軽視は女性恐怖にもとづいていたと言う者もある。

 「ギリシア人男性の女に対する軽蔑は、女への強烈な恐怖、およびその底に流れる、男性が劣っているのではないか懸念する気持と矛盾しないどころか、しっかり結びついていた。そうでなければ、なぜあのような極端な手段が必要とされようか。女がより年上であったり、社会的に地位が高かったり、教育があったり、同じ仕事をして同賃金を支払われたり、権威ある地位についたりすることを禁じる規則のような慣習は、平等な基盤に立っては、男は女とは競えないという仮定を暴露している。つまり、女にはハンディキャップがつき、まず札の切り方に不正が必要とされたのである」[24]

 ギリシア人は隣国の一妻多夫や一夫多妻の形をとる結婚を観察して、そのような習慣は野蛮で異常であると考えた。ギリシア人が父権制一夫一婦制社会構造を持つほとんど唯一の民族であった時代において、あるギリシア人が、レオニダスの妻に次のように述べた。「あなたたちラケダイモンの人だけが、男を支配する世界で唯一の女性です」。「私たちは男を生む唯一の女性です」[25]とスパルタ人の妻はやり返した。

 ヘロドトスのようなギリシアの著作者は、自分たちの制度が唯一の正常なものであるふりはしても、アラブ人が一夫多妻であること、スキタイ人は共同社会をつくって配偶者と子どもたちを共有していること、リュキア人は母系相続しか認めていないこと、アガテュルソス人は「すべての人が血縁となり、家族関係のおかげでお互いに恨みや敵意から身を守れるようにと、女を共有して一緒に暮らしている」[26]ことを知っていた。

 英国では、一妻多夫制結婚が慣例であるとシーザーが述べている。ケルト人の間の一妻多夫制結婚という仕組みは、神話の中の英雄たちの多くが複数の父をもっていることに示されている。コンノートの女王クロトルは1度に3人兄弟と結婚した。トダ人とかシンハリー人のような東方の民族に実行されていたのと同じ兄弟間における一妻多夫であった[27]。ナヤール族は19世紀まで一妻多夫結婚を実施していた。ヒンズーの文献は1度に5人兄弟と結婚し、女神クンティーによって祝福され、多くの子を約束された王女について語っている[28]。マハーバーラタの中で、同じ女神クンティーに向けた言葉が「道徳のあらゆる規則に十分通じている有名なリシ(霊感を受けた賢者)たちによって示された昔の習慣」について語っている。

 「昔は、女は家の中に閉じ込められていることもなかったし、や親戚にも依存していなかった。女たちは好きなように楽しんで、自由に歩き回っていた。……女たちはに貞節にしていたわけでもなかった。そうして、それでも……罪を犯しているとはみなされなかった。というのは、それが多くの時代を経て公認されたしきたりであったからだ。……まことに、女に寛大なしきたりは太古から認められていた。しかし、女が生涯1人のだけに限られる現在の習慣は、ごく最近に確立されたに過ぎなかった」[29]

 ブラフマー主義がインドの一部の地域で一夫一婦制を確立してからは、結婚の規則が大きく変わった。「若い少女や女性は、たとえ自分の家であっても、いかなる行為も自らの意志で行ってはいけない。女は、少女時代は父の意志に従い、若いときはに従い、の死後は息子の意志に従わなければいけない。女は絶対に自分の意志を通してはならない。善良な妻はが悪い行為をしようが、身を持ち崩そうが、つねにを神のように崇めていなければいけない」[30]

 ブラフマンの規則に類似した規則が、西欧において、キリスト教の教会筋によって可能なかぎり確立されていった。結婚式のとき、屈辱的な服従のしるしに、花嫁はひざまずいて頭の上に花婿の足を載せなければいけないと主張する者も教会の中にはあった[31]。キリスト教は、配偶者同士が、奴隷と主人の関係を形成することを条件に結婚を受け入れた。これは、姿を変えるとか、さまざまな化身となって、婚姻とか母性に関してはあらゆる面で、既婚女性を守ってきた女神を追い払うためであった。

 ローマの天界の女王ユーノーは、女性聖職者たちを通して、結婚を全面的にとりしきっていた。ユノ・プロヌバが結婚を取り決めた。ユノ・ドミドゥカは花嫁を導いて、新しい家の敷居をまたがせた。ユノ・ヌクシアが門柱に香りを振り撤いた。ユノ・チンクシアが花嫁の処女帯を解いた。ユノ・ルキナが妊娠した女性を見守った。ユノ・オシパゴは幼児の骨を強くした。ユノ・ルミナは母乳を供給した。ユノ・ソスピタは産褥の女性の面倒をみた[32]。それ故に結婚と家族の問題に関しては、女性は男神を無視して、自分たちと同性の女神に訴えた。男性聖職者だけで婚礼の儀式を司会するなど考えられないことだった。それがキリスト教徒が婚礼の儀式を考えなかった理由の1つでもあった。何世紀もの間、結婚は教会法の中には居場所がなかったために、執行する神もなく忘れ去られた。そのようなわけで、大変長期間、結婚は債習法の管轄下に置かれ続けたのだ。

 結婚状態が、独身よりも祝福される可能性があるとほのめかしただけでも破門を宣告することがトレントの公会議で決められた。つまり呪われて、破門されるのである[33]。キリスト教制度において最も古い結婚の形は、新婚の2人が神の家を好色の汚染から守るために、閉められた教会の戸の外(in facie ecclesiae)で、簡単な祝福を受けるものだった。この祝福は厳密に言えば慣習法を侵害したのであるが、人気を得て次第に地位を確立していった[34]。1215年に、第4回ラテラノ会議において結婚は法的地位を与えられた。それでも教会は、聖書の中のキリストの発言(『マルコによる福音書』12:25、『ルカによる福音書』20:35)に従って、天国には結婚は存在しないと主張した。聖トマス・アクイナスは『善行の値』を得点に換算して、未亡人生活は60、生涯処女を通せば1OOというのに対照させて、結婚生活には30を当てた[35]

 中世の民話は、キリスト教の神は結婚に反対しているという明確な印象を伝えている。ある話に、純潔な若者と乙女が、「神の愛」のために絶対に結婚しないと決めたとあった。だが、異教徒の親たちは2人を無理に結婚させた。すると、神のお恵みによって2人の足下の地面が口を開いて、純潔が汚されないうちに2人を呑み込んでしまった。あえて結婚式の司会を強行した聖職者は次の日、死体で見つかった。神に挑むように強いられたもう1組の若者たちは駆け落ちをした。神が「地上での結婚を是認しなかった」からである。ケルンの大司教ケプハルトは結婚した夫婦を教会の法に反して祝福し続けたうえ、自分も妻をめとったと言われた。この司教は破門され、カトリックの軍勢にゴーデズベルク城を包囲され、捕えられ殺された。その城の廃墟は今も観光客に公開されている[36]

 慣習法による結婚は非公式のことが多かった。単なる同棲でも、その結婚が有効とされることもあった[37]。暫定的試験結婚は17世紀初めまで合法的とされていた。百姓の「婚約」は試験的結婚であることが多く、「滞在」とか夜の訪問とか、床の中の求婚のような習債が含まれていた。妊娠が結びつきを永久的なものにすることもあったが、必ずそうとも言えなかった。私生児は中世社会においては全階層にわたって当り前と見られていた[38]

 教会は、結婚問題の処理については全面的に著しく渋ってみせた。中世全般にわたって、有効な結婚とか、結婚を正当化する契約とかに関する教会の定義は全く存在しなかった。教会筋の人々はその問題に関しては何の考えも持っていないようだった[39]。教会は結婚を無視し、ほとんどの場合慣習法の領域に留めておいた。

 ローマ法でも、野蛮人の法のもとでも、結婚は「どちらの側からも、いかなるときにも、形式抜きで始め、終わらせる自由が与えられていた」[40]。この制度は1563年まで民衆の間で続いた。最後には教会は合法的結婚には聖職者の祝福が欠かせないと宣言し、もはや慣習法による結婚を承認することはできないと拒んだ。だがそれ以後さらに数百年間は、多くの地域で、教会の規則は効力を発揮しなかった[41]

 1753年にハーウィック卿条例で、聖職者の祝福がイングランドの法的結婚には要求されるようになったが、その条例はスコットランドには適用されなかった。だから、スコットランドは駆け落ちのメッカになった。ここでは法的結婚が、古い異教の習慣である「婚約」、すなわち聖職者の立ち合いなしで、2人の手を証人の面前で握りあわせる儀式だけで成立したのである[42]。1939年まで、イングランドの恋人たちは即席の結婚をするためにはグレトナ・グリンの「結婚の町」へと、スコットランドとの境を越えて行けばよかった。

 キリスト教会筋の人々が異教の婚姻法を改めたとき、主たる関心は妻の財産をの支配下に置き、その状態を継続させることにあった。異教の制度のもとでは、女が土地を所有していたから、婚姻が介在しなければはその土地の利益を我がものにできなかった。この制度がに有利なようにひっくり返された。慣習法と貴賎相婚*は、妻の所有権と相続権に多くの制限が課せられてから、やっとキリスト教会に条件つきで受け入れられた。キリスト教の結婚に関する道徳は、女性から独立の手段を奪い、それを男性に引き渡したのである。

貴賎相婚*
Morganatic marriage。合法的な内縁関係の形。高い位の貴族や大公に、低い身分の女性や庶民の女との『結婚』を許すためにドイツで初めて制度化された。その結婚でできた妻も子どもたちも、の財産を合法的に請求はできないという条件がついていた。

 新しい法律で男性が直接に子どもたちに自分の財産(妻の財産も含む)を譲れるようになったとき、聖職者は厳しく独身生活を強制された。聖職者の結婚が禁じられていた場合には、世継ぎはもてないはずであった。こうして聖職者所有の財産、獲得した財産すべては、死後教会に戻された[43]。反対に聖職者の結婚は教会の収入の損失を意味した。

 5、6世紀になると聖職者は、初期の教会の定めた独身生活の規則を捨てて、妻を持ち始めた。この状態は11世紀まで続いたが、当時のローマ教皇は教令によって既婚の聖職者に、妻を家から追い払い、子どもは奴隷として売るように命令した[44]。この新しい法は教会の富を著しく増やした。追い 出された妻の中には、昔ののもとに妾の名前で残る者もあったが、この者たちは教会のために相続権を奪われた。
point.gifMatrilineal Inheritance.

 教会側の人々は聖ヒラリウス〔ポアティエのヒラリウス、315-67頃、教会博士〕を尊敬した。この聖人は結婚していて、娘があった。しかしこの娘が結婚を望んだとき、聖ヒラリウスはそれを禁じた。娘の貞節観が弱くなって処女を失うといけないと恐れて、聖人は神に娘を殺してくれるように頼んだ。神は頼みに応じた。ただし、聖人の側でも少しばかり手助けをした。娘を埋めてから、「お祈りの力」でヒラリウスは妻も天国へ送った。伝説によれば、「ヒラリウスが娘のために獲得してやった恩寵を、自分にも欲しい」と妻の方が自発的に願ったことになっていた[45]

 教会は、自分の家族を殺した聖人の特異な道徳観を人気あるものにしたばかりでなく、「すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男である」(『コリント人への第一の手紙』11:3)という聖パウロの教えを引用して、による妻の「懲罰」を促した。実際に規律を口実に、男は妻を拷問しても罪を免れて、法律機関も宗教機関も妻を守ろうとしなかった。13世紀のボーべ一の法律と憤習に、あまりにも多くの女性が夫婦間の懲罰で死んでいるから、妻を打つのは「理性の範囲内」に留めるようにというへの忠告が記されている[46]

 当時の神学的見解は「女は男より罪を犯している」のだから、不幸で当然とみたのだった。女の苦しみは、地上にあっては、たとえ子宮内においても2倍にされなければならなかった。そのため女の胎児は男の胎児よりも遅れて神から霊魂を受け取るのであった[47]。男たちが女を苦しめるのは、神の意志を代行しているのにすぎなかったのだ。

 キリスト教徒を野蛮人と考えていたオリエントの異教徒たちは、別種の規則を説いている。すなわち「家長は妻を罰してはならない。それどころか、妻は母のように大事にされなければならない。……富に関しても、衣服に関しても、愛に関しても、尊敬という点でも、快い言葉という点でも、妻は満足を与えられなければならない。は妻にとって不快となることを絶対にしてはならない」[48]。「家-女神(Grhadevata)」としてが妻を性的に崇拝することが神秘的意味をもつと書かれているブリバッド・ウパニシャッドの個所を、西欧人は卑猥であると避けるばかりであった[49]

 肉体的虐待と性的強制が、キリスト教徒の妻の巡り合わせになることが多かったため、を愛する女は存在しないという説が一般に認められるようになった。「愛する人」は結婚とは無関係な男を意味した。フランスの「愛の宮廷」の著名な支配者ナルポンヌ伯爵夫人は、と妻の関係と「恋人同士のまことの愛には共通点が全く見られない、絶対的に異質なものである。……結婚している人々の間には愛は存在し得ないと、はっきりと、しかも控え目に言い切れる」[50]と述べている。夫婦間の主人-奴隷の関係がその立派な理由の1つである。「男は、妻を打つように聖職者から勧告され、妻は自分を打つ鞭に口づけするように勧められていた」[51]

 中世の社会は、妻はことごとくに打擲されるものという考え方に馴染んでいたので、教会側の人々は女に、修道院の生活を好んで、結婚を断念させる論拠としてこれを利用した。教会側の人々は若い女性に「妻はに従うもので、打たれたり蹴られたりすることもよくあり、不具の子を生んだりすることも多い。……しかも男は婚約したときにはやさしさに満ちているように見えるが、結婚後は残酷な主人として力を振るう」[52]と言った。

 「ほとんどの教会の歴史文書からは除外されてはいるが、キリスト教会には女性に肉体的虐待を実施したり、推奨したりした記録があった」ことが最近明らかにされた。1140年の教令には「女によって非行に導かれた男が、2度と女の軽率のために失敗しないように、女を支配下に置くことが正しい」と述べられていた。15世紀のチェルビー修道士の『結婚の規則』はを妻のただ1人の審判者にしている。「妻を厳しく叱れ。痛めつけ脅せ。そして、これでもうまくいかなければ、……棒を取ってしっかり叩け。肉体を罰して霊魂を正すほうが、霊魂を損って肉体に楽をさせるよりよい。……だから腹だちまぎれからではなく、慈悲の心をもって、霊魂を気遣って叩け。打つことがあなたの得になって戻るように」[53]

 ロシア生まれのある教皇は木や鉄の棒ではなく、鞭を使用するように勧めた。棒では不具にしたり殺してしまう可能性も大いにあったからであった。「鞭に限定し、打つ場所を注意して選べ。鞭は痛いし、効果がある」[54]とその教皇は言った。

 マルティン・ルターは、自分ほど珍しいくらい親切なはいないと考えていた。妻は「生意気になれば、耳に1打を受けるだけのこと」[55]と言っている。

 英国の法律は、ブラックストーン*によって明らかにされた有名な「親の法則」を結婚の「不和」に適用した。つまりは「家庭内の規律に役立つ制止を実施するために」妻を親より太くない鞭か棒で叩いてもいいのだった。19世紀後半まで、英国の法律は他人に対して行われた場合には暴行になる行為も、が妻に対して行ったときには法的に無罪と定めていた[56]。妻には法の保護がほとんど及ぱなかった。法的には妻は未成年者や白痴と同じに分類され、夫たちの保護監督に託されていた[57]

ブラックストーン*
Sir William Blackstone(1723-80)。イギリスの有名な法律家で『英法講義』Commentarier om the Laws of Englandの著者。19世紀においてはこの著作が英国、アメリカ両国の法律の基本的参考書の権威とされた。

 ジョン・アダムズ(1767-1848)が1777年に合衆国の憲法の作成を手伝っていたとき、妻のアビゲイルが「の手にそのような無限の力を持たせないでください。男の人はできればみな暴君になりたがるものだということを忘れないでください」とのアダムズに手紙を書いた[58]。アビゲイルの嘆願は取り上げられなかった。アメリカのも、暴君という点では英国の祖先に劣らなかった。とくに清教徒の間では、は妻に対し「神の権威を振るった」と言われた[59]

 1848年に、女権拡張論者のエミリー・コリンズは虐待されたアメリカの妻の典型的例を書き出している。すなわち、7人の子を生み育て、炊事、掃除、洗濯、糸紡ぎ、機織、家族の衣服の裁縫、牛の乳搾りにと、を含めて9人の人間の幸福のために多種多様な責任を背負った女の話であるが、このは女がときに「がみがみ言った」、つまり文句、不平を言ったからという理由で妻を叩いた。文旬を言うことは、勤勉な婁に対して暴行を振るう十分な理由と認められていたのである[60]

 アメリカの法律は20世紀半ばまでいわゆる免除論を支持していた。これはの暴行を止めるために、「家族の神聖」が侵されてはならないという論だった。妻にとってはたとえ地獄であろうと、家庭は男にとっては城であった。訴えが「家庭の平和を壊す可能性を含むから」、女がの暴行を訴える権利を法が否定した。1962年になってやっと、妻を叩くによって家庭の平和はすでに破壊されているのだから、免除論は法律的に不健全なものであると、ある判事が判決を下した[61]。今でも法が家庭内におりる女性の保護の権利を認めることを拒む場合がありうる。

 妻虐待は、女を男の財産とみなすキリスト教の見解の副産物であった。ナポレオンは「女は子どもを生むために授けられたものである。女は財産である。……女は男の持ち物で、庭師にとっての果物の木に等しい」[62]と述べた。聖トマス・アクイナスは、女は奴隷以下であると言った。奴隷は解放される可能性があるからだ。「女は自然の法則に照らして服従するものであるが、奴隷はそうではない」[63]

 「聖書を教えることによって確立され、永続してきた、妻を所有物とみなす考えのせいで、キリスト教国ではいたるところで家庭の無秩序と妻殺しの狂乱が行われてきた。キリストが生まれてから1897年も経ったのに、合衆国だけでも、まだ生まれていない子どもを体内にみごもっている者もたくさん含む、3482人の妻がによって無情にも殺された。……教会史も横道に入ると、女性に対する犯罪の記録でたまらない悪臭を放っている。それでも『半数は話題にもなっていない』」[64]とジョゼフィーヌ・へンリー(19世紀のケンタッキーの婦選論孝で、小冊子を書いた人。女性の権利拡張運動に活躍した)は報告している。

 封建時代以来キリスト教の奴隷制度は、奴隷の所有者との手に同じような力を与え、2つの機能を結びつけることもよくあった。マディソン大統領の妹は「私たち南部の女性は妻という名前で敬意を表されています。でも私たちは高級な情婦なのてす」と書いている。南部の大農園主の妻は自分のことを「ハレムの第一奴隷」と描写した。南軍の将軍の妻は「神よ、お許しくださいませ。でも私たちの国の制度は恐ろしいものです。……昔の家父長のように、男は1つの屋根の下に妻も妾もおいて暮らしています。……女なら誰でも、自分の家庭以外のすべての家の白黒混血の子どもの父は誰かすぐ言えます。でも、自分の家で生まれた混血の子どもたちは雲から降ってわいたと思っているようです」[65]

 南部の女性が、自分たちの役割について2つの矛盾した考えを受け入れた態度は、予期された、選択の余地さえない社会的な反応だった。エミリー・ポウストの『エチケット」の初版には、「女性の本能、つまり不幸な妻として、にいかに公然とないがしろにされたり、乱暴を働かれても、女の威厳がへの非難を示さないように要求すること」[66]と書かれている。

 この規則は明らかに女の威厳よりも男の威厳に役立つものだったが、不幸な妻は従おうとした。父権制の社会は、結婚を「幸福なもの」にしそこなったら、女として、人間として失敗したことになると納得させるのに成功したのであった。このため、ぶたれた妻たちは自分たちが被害者なのに、しぱしば罪を受け入れてしまった。最近の調査で、打たれた妻が当惑と恥ずかしさのために、の犯罪を長期間にわたって隠すことがよくあったという報告がなされている[67]

 教会がこのようなひそかな当惑を助長する手助けをした。聖職者が花嫁に与える忠告で慣例になっているものの1つは次の通りである。「あなたの義務は服従である。……神と人間の掟により、はあなたよりも勝っている。がそのことをあなたに思い出させなければならないような原因を与えてはいけない」[68]。打たれた妻の助けとなるという点から言えば、聖職者はどの職業の集団と比べても最も無能であった。また助ける気もなかったということも証明されている。

 ある「快適な郊外地域」に住む虐待された妻が、その地域担当の聖職者に訴えの手軽を書いたが、この妻がもらったのは叱責だった。牧師は、の暴力を引き起こすようなどんな悪いことを妻がしたのか知りたいと要求し、妻に自らの霊魂を探って、緊張緩和にはどのように行動を改めたらよいか見つけるように忠告してきた。この妻はがあまりにもひどい暴力を振るうので生命の危険を感じていたのである。それでも、女の霊魂の導き手であり、慰め手であると自負している人が与えたのは、慰めにもならない忠告であった。それどころか、もっともらしい罪の重荷を与えて、女の苦しみを増やそうとさえしたのであった[69]

 1977年に合同メソジスト教会の世界聖職者部局のエレン・カービーは次のように書いている。「制度化された教会は、女の服従をありがたいものとしてきた、厚かましい男女差別の神学によってか、あるいは沈黙や無知や勇気の欠如によって、自らがいつまでも続く虐待の悲劇の主役の1人を演じてきたことを認めてきた」[70]。このような状況のもとでは、教皇パウルス六世が1966年に「生命を伝えることに関連する神の法と、真正な結婚の愛の促進に関連する神の法の間には、まことの矛盾は存在し得ない」と主張したことが非現実的に思えた[71]。神学専門用語から翻訳された「神の法」とは産児制限に関する教会の立場を意味しているにすぎず、「真正な結婚の愛」はが妻を支配するという意味なのである。

 父権制の宗教は結婚における男の優勢を維持するために、多くの規則を発展させてきたが、その構造自体は本来不安定だった。

 「理論社会学で、父権制にもとづくと認める『家族』は、従属する扶養者を伴う独立している男を表す腕曲語法にすぎない。社会の単位としての家族は、男の最も攻撃的な独立本能によって活性化された(男性)個人を意味する。それは社会の基礎となるのではなく、社会を否定するものである。……人間社会は、諸利害が調整されて生じた組織ではない。超合理的感情から生まれてきた組織である。だから、どうなってもそのような感情を縛る力を経験することなく存在したことはなかった」[72]

 父権制の家族は、根底においては不自然で、扶養家族に対して女が持つ生物学的権威を裏返したものであった。「実利的男性は完全な利己心において行動する。ところが女は、家族内の関係の基盤を、お返しの原則quid pro quoに置くことはできない。女は与える。男性優位主義者の見方では、女は男以上に原始的といってもよいように思える。だからといって女の知性が低いという明白な証拠があるわけではなくて、女が愛情深く、与える性質を持っているためなのである。ルソーの『高貴なる野蛮人』は、彼が理想とする女性と同様に、同情心が強く、慈しみが深かった」[73]

 経済的に見ると、概して未婚の状態を一層無力なものにする社会的圧力によって、女たちは結婚に駆り立てられた。父権制の法律が女の手から財産を奪って男の手に渡したとき、未婚の女性も妻たちも、同様に無力になってしまった。17世紀においては、「スピンスター(未婚女性)」とは金もなければ男の保護もなく「スピン(糸を紡ぐ家)」に閉じ込められた女を指した言葉であった。ジョン・イーヴリン(1620-1706。イギリスの文人で有名な日記も含めて、約30冊の本の著者)は、「糸を紡ぐ家」を「矯正のしようがない、みだらな女が規律と労働を課せられて収容される」[74]ところと書いている。男を喜ばすこと以外は、何の技術も学ばせてもらえなかった社会で、生活費を稼ぐ努力をしているうちに、未婚の女性が「矯正のしようもなくみだら」になってしまったことに考えが及ぶことは滅多になかった。

 父権制社会における結婚は、典型的に男に役立つように存在したが、男の手に自立と主導権があるふりがなされるのが普通だった。ジェシー・バーナード(現代アメリカのフェミニスト作家で、社会問題研究家)によれば、その白立と主導権が架空の資質だと発見されると、妻にとっての「基本的傷害」が引き起こされた。

に依存されていることに妻が気づくとすると、これ以上の……衝撃はほとんどない。それはつまり、夫婦関係の中で隠れている多くのすき間において自分の方がより根性があると妻が気づくこと、多くの状況下での判断が妻の判断を凌ぐわけでもないと悟ること、が妻より物知りではないと知ること、男は事実に関しても、それに関連する議論においても、冷静で理性的でかつ理知的な処理者ではない、簡単に言えば、は、並みな男が自ら思い描いているような人間ではどう見てもないと、気づくことであって、以上のようなことほど大きな衝撃はない。さらに夫婦関係にあっては、女は弱い方の器ではなく、強い方の器になるように求められることもしぱしぱあるという認識も、勝るとまでは言えなくても、同じくらいに深刻なものである」[75]

 男性とは堅実で、客観性に富むものであるという神話に、間違って拘束されると、妻の側に幻滅が生じるとマルク・フェイゲン・ファスタゥも指摘した。

「男は自分の惨めな感情をはっきり表現したり、処理するとき、すねたり、鈍感だったりしながら、ときに文字通り全面的に妻に頼る。そのくせに、妻が自分の惨めな感情に対処するのを助けるとなると、鈍感だったり、びくびくしたり、消極的だったりする。これほど、男というものは自信に満ち、論理的で抑制力があるというイメージと鋭く対立するものはない。これは、何よりも、女に男に対する幻滅を持たせる。『男はただの大きくなりすぎた少年である』というような決まり文句は、傷つけない表現法でこの現象を描くと同時に、幻滅の苦痛を和らげようとする試みでもあるのだ。この場合の幻滅とは、自分が払った犠牲を正当化してくれるほど特別でもなければ、たいていの面で、自分たちに比べて大して気が利いているわけでもなくて、何か大変重要な点では、自分たちより洞察力においてはるかに劣り、依頼心が強く、子どもっぼい人に、自分が今まで従ってきたと、女が気づいたことを指している」[76]

 妻はなくてはならない支援体制を提供してくれる。この支援がないと、ほとんどの男は生産的職業を営めなくなるだろう。それなのに妻の「仕事」には全く報酬がないという点には、奴隷制度の最後の名残りが見られる。たとえ自分と子どもたちが経済的困難に陥る場合でも、妻という無給の仕事を失ったからといって、女は失業保険は貰えない。女はの財産づくりに対して貢献したとは考えられないので、未亡人になっても最高利率で税を課せられる。それでも、妻の奉仕の市場価値は控え目に評価しても1OO万ドルを上回る。保健・人事部局で集めた資料によれぱ、働いている女性よりも家庭の主婦の方がストレスの兆候に苦しんでいるのがわかる[77]

 マーリーン・ディクソン(現代のフェミニスト。作家。カナダの大学で社会学を教えている)は、結婚は「絶えることのない圧迫の主たる媒体である。女の隷属が保持されているのは妻という役割のせいである」[78]と述べた。西欧世界においてこの状態をもたらしたのは、かなりの程度までキリスト教の結婚観であったと言える。女性は牡会的にも、政治的にも、知的にも劣っていると教会が宣言し、女をの動産にしたためである[79]。妻へのせっかんはキリスト量ヨーロッパでは日常的なことだったので、アルザスの新年の飾りの「結婚」のシンポル男の人形が人形の妻を殴っているものだった[80]

 1824年のある法廷の記録で「嫌がらせの訴追」と呼ばれたような妨害を受けずに、が妻子を虐待したり、「あらゆる不品行に対して、有益な禁止」を実行する権利を、19世紀のヨーロッパおよびアメリカの聖職者は一貫して支持してきた。言い換えれば、せっかんされた妻が矯正を求めることは腹立たしいことであったが、まずもってが妻をせっかんすることは腹立たしくなかったのである。多くの聖職者は今でもこの態度を続けている。最近のことだが、せっかんされた妻が述べている。「妻の責任は何かということについて、私のはくり返し聖書を引用しました。……妻は従うべきだったのです。は1字1句パウロを引用しました。思い起こすと、私には戦うための武器があまりないように感じました。……訪ねて行った牧師は誰ひとり、結婚を続けたくない、虐待が続いてほしくないという私の気持を支持してくれませんでした。訪ねた牧師は1人ではなかったのですが、どの聖職者からも支持してもらえませんでした」[81]

 ごく最近になってから、不承不承ではあるが、いくつかの宗派の聖職者が、婚礼のときの花嫁の返答から「服従」という言葉を取り除いた。多くの聖職者はいまだに、が妻の望みを承服するよりは、妻がの望みに従うべきであると信じている。これは、結婚に関して、助言者として行動する資格があると自ら考えている人としては、最善の態度とは言えない。


[1]Fielding, 82, 114.
[2]Briffault 3, 373.
[3]Lederer, 162-63.
[4]Bullough, 103, 112.
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[10]Fielding, 233.
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[20]Briffault 3, 20.
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[22]Bullough, 64.
[23]Legman, 416.
[24]Bullough, 309.
[25]Hartley, 219.
[26]Bachofen, 140, 154.
[27]Briffault 3, 378 ;Hauswirth, 88.
[28]Briffault 1, 712, 683.
[29]Briffault 1, 346.
[30]Briffault 1, 345.
[31]Hazlitt, 453.
[32]Larousse, 203.
[33]Briffault 3, 375.
[34]Encyc. Brit., "Marriage."
[35]Murstein, 115.
[36]Guerber, L.R., 77, 110, 121.
[37]Briffault 3, 249.
[38]Fielding, 233-34.
[39]Pearsall, W.B., 166-67.
[40]Encyc. Brit., "Marriage."
[41]Briffault 3, 249.
[42]Encyc. Brit., "Marriage."
[43]M. Harrison, 197.
[44]H. Smith, 263.
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[46]de Riencourt, 228.
[47]de Voragine, 150.
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[51]T. Davidson, 98-99.
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[53]T. Davidson, 99.
[54]Murstein, 445.
[55]T. Davidson, 100.
[56]Langley & Levy, 34-36.
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[58]Rugoff, 169-70.
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[64]Stanton, 196-98.
[65]Bullough, 300 ;Rugoff, 169-70.
[66]Wolff, 346.
[67]Langley & Levy, 117.
[68]Ehrenreich & English, 7.
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[70]T. Davidson, 211.
[71]Wickler, xxx.
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[74]Funk, 260.
[75]Gornick & Moran, 154-55.
[76]Feigen Fastau, 82.
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[78]Roszak, 193.
[79]H. Smith, 228.
[80]Miles, 270.
[81]Hirsch, 173,354.

Barbara G. Walker : The Woman's Encyclopedia of Myths and Secrets (Harper & Row, 1983)