ミルラは「没薬」と訳される。ギリシア語ではsmuvrna, muvrra。ラテン語ではmurra, myrrhaと表記される。Balsamodendron Myrrhaと呼ばれる矮性の木の樹脂で香油、薬剤としてはなはだ古くから愛用された。その性質、用途についてはプリーニウスの博物誌の諸処に豊富な記事があるが、その樹性、香油採取法、品質、価格等については同書XII_15、66章以下に詳しい。
アラビアを主産地としたが、アフリカ側のソマリ海岸にもこれを産し、Strabo XVI_773もこの地帯に「没薬産地」を記している。(村川堅太郎『エリュトゥラー海案内記』p.140)
ミルラはアッカド語のmurruを語源とする。ギリシア神話ではミュラー(Muvrra)ないしスミュルナー(Smuvrna)の名前で登場し、キュプロス王〔アプロディーテー・アスタルテーの神官の祖〕の娘。父王との不倫の子がアドーニスとされる。
キリスト教神話の2つの決定的瞬間であるイエスの誕生(『マタイによる福音書』2:11)と死(『マルコによる福音書』15:23)の場面に没薬として現れるミルラは、また「母なる死」でもある神秘的な処女母(virgin mother)を表した。処女母(virgin mother)は、マリア、ミリアム、マリ、ミュラー、あるいは(キリスト教徒が「聖母マリア」をそう呼ぶように)「海のミルラ」と呼ばれた[1]。マリアは異教では、神殿娼婦のミュラーにあたる。ミュラーはキリスト教徒がイエスの生誕の地として主張しているベツレヘムの洞穴でアドーニス(「主」)を生んだ[2]。
没薬のミルラはアドーニスの儀式では、催淫的な香料として用いられた。聖なる王を嘲弄してかぶせた冠は、おそらくミルラノキ属の植物の棘の多い小枝を用いて作られたと思われ、今日でもこの冠は「荊の冠」と呼ばれている。ミルラは、東洋では死の聖霊の共通の名であるマーラのエンブレムであった[3]。
学者の中には、十字架上のイエスに、苦痛を鎮めるために没薬が与えられた、という説を唱える者もいる。「エルサレムの心やさしい婦人たち」が、「刑場に引かれて行く者たち」に没薬を与える習慣があった、というユダヤの伝承がその理由である[4]。没薬には鎮静作用がなく、この説は支持しがたい。エルサレムの女性たちが受刑者にミルラを与えたのは、苦痛を和らげるというやさしい心からではなかった。なぜならば、初期のキリスト教時代には、キリスト教徒でさえミルラは神の死と再生を意味し、神の聖なる母と同一のものであることをまだ記憶にとどめていたからである。
呪術の民間伝承では、ミルラは月経を起こす力があると信じられた。これはおそらく「生命の血」を流す去勢された王の古代伝説の名残と思われる[5]。
Barbara G. Walker : The Woman's Encyclopedia of Myths and Secrets (Harper & Row, 1983)