カルデア人にはマラトゥ、ユダヤ人にはマーラー、ペルシア人にはマリハム、キリスト教徒にはマリアとして知られている女神の基本となる名前†。そのほかにもマリアン、ミリアム、マリアンヌ、ミュライン、ミュルティア、ミュラー、マライア、マリーナなどの名も派生している。マリの青い服とネックレスは、真珠の泡で縁取られた海の古典的シンボルであった[1]。
女神の基本となる名前
多くの土地の名前がマリの神殿から派 生した。その中にはキュプロス島のアプロディーテー・マリーナの本拠であるアマリあるいはアイマリ、シパの女王の座である月の都マリプ、西エジプトのマーレア、イスマリス湖の近くにあるマロニア、メデスの母-都市であるマル、名前が文字通り「マリアの聖なる地」に由来している地方サマリアなどがある[2]。マリアの冥界-子宮へのただ1つの入口、海からだけ近づける神聖な洞穴はマルマリ「母なる海」と言う[3]。
女神にちなんだアモリ人のマリという都市は、古代世界の不思議の1つであった。その6エーカーの神殿-宮殿は1930年代に発掘した考古学者を驚かした。紀元前1700年にハムラビ軍によって陥落するまで、マリは聖地といわれた地域を支配していた[4]。
セム族はマリ-エル(マリア神)と呼ばれる女神と神の両性具有の結合体を崇拝していたが、これは女性的な水の原理と、男性的な太陽の原理を結びつけたエジプトのメリラーMeri-Ra†に相当した[5]。
メリラーMeri-Ra
この神は単にメルと名づけられることもあった。メルMerは「水」と「母の愛」を表すエジプト語であった[6]。メルはまたエジプトの第1王朝の女王の名前の一部を構成した。エジプトの一番古い名前の1つはタメラ「水の国」で、これはまた太母の国とも解釈できた[7]。
マリ、あるいはメリがシリアにいくと、ヒンズーの死神ヤマに由来するヘビ-夫のヤムと結びついて崇拝された。ヤムは女神のお気に入りで、天と深淵の君主としての神パールと交代した。インドのヤマは南部におけるカーリーの呼び名であるケル-マリの夫の1人だった[8]。タントラの仏教徒は今も「死神殺し」のヤマ-マリのことを話すが、この神はダライ・ラマと同等と見られた[9]。ユダヤ人と初期のキリスト教徒は、イエスの母に対しても同じように結合した名前マリ-ヤムとかマリアムを用いた[10]。
古代のマリの名前が離れた土地まで飛んで行った†結果、 mare baruti(海-母)と言われるバビロニアの予言者の呼び方にもその名残りが見られる。この予言者は子宮-部屋bit mummuの中で仕事をした。この部屋の中で神々の彫像が「生まれる」(生命を吹き込まれる)と言われた[11]。同じような子宮-部屋においてヒンズーの女神がカウ・マリすなわちケル・マリとして崇められた[12]。この女神は今もマリーチ・タラ、蓮華-玉座のダイヤモンドの雌プタ、「栄光ある者、幸福の太陽」と呼ばれている。この女神は福音書の先駆者、「太陽を着た女」であった(『ヨハネの黙示録』 12 : 1)。マリは聖母マリアと同一視された††[13]。
離れた土地まで飛んでいった
北ヨーロッパでは、この女神をトロンドハイムの神殿でトールと結婚したメーリンと呼んでいた[14]。サクソン人にはウドゥ・メルと言われた。文字通りに森のマリアあるいは森の女神という意味である。ケルト人には乙女マリアンと呼ばれ、角をはやした魔女たちの神ロビンに愛された。14世紀には、ケル卜人の緑の森祭拝が教会筋の人々にとってはかなり面倒な問題を引き起こしていた[15]。
マリは聖母マリアと同一視された
マリはペルシアではペリス(妖精)の女王として崇拝されているメリアンあるいはメリヤンであった[16]。イランには大変古い時代から、マリアーナという母神がいた[17]。この母神をたどると、アッカドの国へ行き着くとも考えられる。母神は世界の母マリの女王と呼ばれる女神に創られた[18]。紀元前2500年にマリの王は女神と結ばれて、ラムキ・マリという王名をつけた[19]。
女神はまた神々を生んだ大魚でもあって、のちには人魚Mermaid、 Mare-rnynd、rnarerninde、 rnarraminde、 maraeman、 mere-minneと言われた[20]。
簡単に言えば、マリはつねに母なる海だった。マリのラテン名は「海」を表すマリアMariaである。聖ペテロ・クリソログス†はキリスト教におけるマリの化身である聖母マリアを「水の集まったもの」と呼んだ[21]。だがマリは地でもあり、天でもあった。最初の形が三位一体であったためである。ローマ帝国以前のラティウムでは、マリは第1代の王ラティヌスの母マリカとして崇拝されていた。ラティヌスはマリカの男根のヤギ-足の夫ファウヌスでもあった。マリはマルザンナ(マリアンナ)という名でスラヴ人に崇拝されていた女神とおそらく同じ女神だった。この女神は「果実の成長を促進した」[22]。
ペテロ・クリソログス
黄金-言葉のペテロ」の意。 5世紀のラベンナの司教で、教皇レオの友人。死後3世紀経って、176の説教集が作成されて、この人の作とされた。だが大体は偽物であった。 1729年に教会からdoctorの称号を与えられた。
矛盾してはいるが、マリと異教の夫は、キリスト教の1対の聖者アダイとマリ(アドーニスとアプロディーテー・マリ)として聖人の列に加えられた。伝説では、この2人をエデッサのアプロディーテー信仰の中心に派遣された「司教たち」と呼んでいた。おそらくそこに2人の姿が現れたので、破壊するよりキリスト教徒にする方が簡単だったのだろう。
この信仰は、 2人を「聖なる使徒アダイとマリ」と呼んだネストリゥス派のキリスト教徒から始まった[23]。もう1つのキリスト教化された例は、運命の女神としての名前モイラ、すなわち時よりも年取った者に由来する聖マウロMauraであった[24]。人間の運命を掌握している運命の紡ぎ手として、この女神は1つのタブーを作り出した。すなわち聖マウロの日には女たちは紡いたり、縫ったりしてはいけないというタブーだった[25]。
中世のスペインでは、魔法の洞穴に住人で、火の玉となって夜の空を飛ぶ「女王」あるいは「奥方」と、女神マリを呼んでいた[26]。火の玉とは赤い収穫の月を指し、多分欠け始めるときの月を意味した。欠けるということは、いかなる場合も不吉なこととされた。女神マリは金や宝石からなる妖精の贈り物を与えると言われたが、これらの品物は昼の光が当たると何の価値もない石炭の塊になることがあった[27]。もっと後の世紀になると、同じようなつまらない贈り物が、クリスマスに聖ニコラスによって「悪い子」に与えられた。
イニス・マレエの島には、「聖ムーリー」とかいう霊人を祀った。廃墟となった神殿があったが、この聖人は島の名前のもとになっている女神マリにほかならなかった。1678年に、ディングウォールの長老会は、 1500年以上にもわたって、アプロディーテー-マリに捧げられた日である8月25日に、ロッホ・マレの神に雄ウシを生贄にした人々を「罰した」[28]。
Barbara G. Walker : The Woman's Encyclopedia of Myths and Secrets (Harper & Row, 1983)