キリスト教会の神父たちはマリア崇拝に強硬に反対した。マリアがセム族の神-母、天界の女王であるマリアンヌ、シリアのイシュタルの変形アプロディーテー・マリ、祝福された乙女ユーノーと、海の星ステラ・マリスとしてのアセト〔イーシス〕、オリエントの救世主の聖母マーヤーと、モイライすなわち運命の三相一体の女神と、その他太女神の数ある変形を合成したものにすぎないことを十分に知っていたからである[1]。明けの明星の女神ディアーナ・ルシフェラまでもマリアの「母」アンナあるいはデナとして、キリスト教神話に吸収された。教会側の人々は「天界の女神、冥界の女帝、全世界の女王」という添え名が異教の女神たちに対して使われていたのと同じように、マリアにも使われていたことを知っていた[2]。
『祝福された鏡』([13世紀の]聖ボナヴェンチュラによって書かれたとされているマリア賛美の書だが、実際はおそらくそれよりも何世紀も前に書かれた作者不明の作品)では、マリアはユーノー-アルテミス-ヘカテの三相一体に似ているとある。「天界の女王として天使の中央の玉座にあり、地上の女王としてつねに力を示し、冥界の女王としてデーモンに支配力を持つ」。『聖母の務め』に従えば、マリアは「世界の初めから創造された、この世が始まる以前からある」[3]原初の存在だった。
そこでマリアをキリスト教の家父長は人間化し、縮小し、崇拝に値しないことを説明しようとした。エピファニウス〔315頃-403〕は「父と子と精霊を崇拝しよう。だが、マリアを崇拝してはならない」と命じた[4]。アナスタシウス〔 -700頃〕は「マリアを神の母と呼ばせてはならない。マリアはただの女にすぎないし、神が女からお生まれになるはずがない」と言った[5]。アンブロシウス〔339頃-397〕はマリアを神の「神殿」と呼んで、「神殿の中で働いたものだけが崇拝されるべきだ」と言った[6]。5世紀まで、教会はマリアナイトと自称する宗派を異端として迫害した。このマリアナイトは、マリアには真の神の資質があると主張した[7]。マリア崇拝は、その歴史を通してキリスト教の父権制を悩ましてきた。民衆はつねに母性-像を崇拝しなければいられないため、マリア崇拝が生まれたのである。
初期の教父たちの中には、マリアが神聖でもなければ、まことの母でもないことを証明するために、マリアの母性を非難することでジレンマを切り抜けようとした者がある。イエスは普通の方法で生まれたのではなく、突然マリアの前に姿を現したという主張をした者もある[8]。マルキオン派信徒は、イエスが世俗の女の肉体と接触しているはずはないのだから、そもそもイエスは生まれなかったのだと述べた。つまりイエスは完全に成長した大人として、天から降ったのであった[9]。教父の中には、マリアはただの人間であったばかりか、罪深い女でもあったと言って、母であることを否定する者もあった[10]。
キリスト教の時代には、一貫して聖職者の間にはマリア崇拝への反対が存在した。教皇ニコラス3世は「学問と信仰で名高い」修道士ジャン・ドリーブに自らの手で、マリアをたたえた詠唱を焼くように命じた。その詠唱が、加熱したマリア崇拝を表していたからである[11]。たしかに、許されさえすればマリア崇拝は行き過ぎて、東洋的信仰になるように見えたのである。
717年、コンスタンティノープルの司教ゲルマヌスはマリアを「全面的に神聖な女王」とか「最も尊い女王」と呼び、マリアの仲介がなければ救われる者はないし、恩寵という贈り物も受け取れないと主張した。神が「自分の母として徹底的に、全面的にマリアに」従うからであった。エブルーの助祭長アンリ・ブードンは、その町の人々はマリアを「神自身と同じほどか、それ以上に」考えていると語った。イシドルス・グラバス(14世紀のギリシアのマリア崇拝の神学者)は、マリアは地上に生まれてくる前は天国を支配していたと言った。創造女神のように、マリアは万物を存在せしめ、天使はマリアに仕えた。シエナの聖ベルナディーヌ(1380-1444。フランシスコ会の神学者で、改革者。教皇の分裂、つまりローマ・カトリック教会において教皇継承について起こった分裂の結果生まれた道徳の衰退に異議を唱えた)は、マリアが自らの神秘的力で救世主を生んだことは、神が救世主を生んだこと以上に奇跡的であると述べた。「たとえ、マリアが神の母ではなかったとしても、世界の女王であるということには変わりはなかろう」。ルイ・マリ・ド・モンフォーレ(1673-1716。フランスの聖職者で、2つの修道会を創設し、『聖母マリアへのまことの信仰』を書いた。1947年に聖人に加えられた)は、マリアは神に対して絶対の力を持っていたと宣言した[12]。
中世の人々は、しばしば神を迫害者、マリアを擁護者と見た。16世紀の木版画では、神が疫病、戦争、インフレの矢を世界に向けて放っている図が示され、その題はマリアに神を抑えてほしいと懇願している[13]。「マリアは慈愛を表し、天国が手の届くところにあるのは、神の愛や善意のおかげではなく、裁きにおいてマリアの影響があるおかげである」[14]と言われた。14世紀のあるフランシスコ会の修道士は次のように書いている。
「キリスト様を怒らせてしまったら、まず天の女王のもとへ行って、女王に祈り、断食、徹夜の行、寄付を……捧げるべきである。すると、マリア様は母のように、おまえとわたしたちを打とうとするキリスト様の間に入って、罰の鞭とわたしたちの間に慈悲の外套を投げて、わたしたちに対する王の怒りを鎮めてくださるだろう」[15]
「キリスト教の聖典と教義は、全面的にマリアをキリストより上に置くことに対して妨害をしている。それでもキリストに終わる運命にあり、血を流している犠牲者の死体の中で、血にまみれて死ぬ運命にあると思われたとき、マリアを発見した。コンスタンティヌスのおかげで忘れられた状態にあったマリアが、教会の厳しい命令をかいくぐって掘り出され、太女神と同一視されるようになったとき、初めてキリスト教は人々に許容されるようになった。……キリスト教の中で、唯一の実在性をそなえているはマリア、すなわち女性原理であり、再生した古代の女神である」[17]
東方の帝国では、キリスト教の信仰のしるしは「神聖な、永遠の乙女マリア、まことの正当な神の母が、眼に見えるものも、見えないものも含めたあらゆる創造神の中で、一番高い位置にあると告白すること」であった。シリアのエフラエムは、異教の女神とその息子-夫の流儀にならって、マリアをイエスの母であると同時に花婿とも、あるいは夫とも呼んだ。またマリアは天国の門、方舟、楽園の庭でもあった。マリアは自らアダムの顔に生命を与える雨を降り注いだが、そのため創造神話で「共同贖罪者」となった。エフラエムの見解を異端と呼ぶ者があるが、1600年が経過した1920年には教皇の命令で統一教会の博士と宣せられた[18]。
キリスト教徒のマリア像は、キリスト教時代の最初の4世紀の間に、古代世界のすべての神殿において「神の息子たち」と救世主たちを懐妊した太女神を少しずつ寄せ集めて、作られていった。プロトエヴァンジェリウム(Protoevangelium、ジェームズの黙示録とも言われる、2世紀に書かれた福音書。初期の教父たちには真性であると評価されたが、次第に教令集から除去された)には、マリアは神殿で奴隷として仕え、血のように赤い糸を紡ぎ始めたときに、神の種を受けたと書いてある。この紡ぐ仕事は運命-乙女モイライ(マリアたち)の始祖の仕事だった。この女たちは運命の糸を紡いだ[19]。この神秘的で重要な瞬間に、天使ガブリエルが、聖書的表現を借りて言えば「マリアのところに来た」(『ルカによる福音書』1:28)のだが、これは性交したことを意味する。
他の資料でも、マリアは運命の紡ぎ手と同一視された。ギリシア人はこの紡ぎ手をモイラたちの三相一体の女神の最年少のクロートーと呼んだ。エルサレムのキュロスの著とされるコプト語の『マリア論考』は、イエスの十字架の足下に立っていた3人のマリアに体現された、三相一体の運命の女神としてマリアを描いたものだった[20]。北欧神話の3人の運命の女神も、同じようにオーディンの生贄の足下に立った。この女神の乙女の面はときに「女王」フレイアとなることもあった。スウェーデン人はオリオン星座を聖母マリアの糸巻き棒と呼んだ。この星座は、もとは人の運命の糸を紡ぐフレイアによって使われた糸巻き棒だったからである[21]。
ギリシア神話は、運命の糸を紡ぐマリアの像とほとんど同じような乙女ペルセポネーの像を示している。ペルセポネーは神聖な洞穴あるいは神殿に座って、広大な宇宙の絵を示す綱を作り始めた。太母が現実に作成した宇宙を魔法で写した絵である。その瞬間に、天の父は男根-ヘビの姿で現れ、太母によって救世主ディオニューソスをもうけた[22]。
キリスト教の禁欲主義は、できるかぎりマリアの妊娠を性と結びつけないように苦心して、大変独特な仕組みを考案した。神の口から出た精液が長い管を通ってマリアのスカートの下に入ってゆくところを宗教美術が示している。神学者の中には、神の種が聖なるハトのくちばしを通じてマリアに運ばれたと主張する人もいた。神の種はガブリエルの口から出て、耳を通してマリアの身体に入ったが、その前に神聖なユリで濾されたと言う者もあった[23]。
キリスト教の神は、三相一体の女神の、古代の三位一体的性格をニケアの宗教会議で受け継いだが、初期のキリスト教徒がマリアを三相一体とみなしていたことにはいくつかの証拠がある。仏教徒のマーラのように、マリアはときに死の霊であることもあった[24]。『マリアの福音書』(初期グノーシス派の福音書のひとつで、一度は『新訳聖書』の巻の中に含まれたが、後に教令集から除去された。1940年代に、ナグ・ハマディで一部が再発見された)は、異教の救世主の死に付き添っていた三相一体の女神と、イエスの磔のときにいた3人のマリアは同一のものと認めた[25]。
何世紀かの間、東方の教会は父-母-息子の三相一体を崇拝したが、これはウシル〔オシーリス〕-アセト〔イーシス〕-ヘル〔ホルス〕、ゼウス−レアー−ザグレウスのような異教の3人組を模倣したものだった。この考えは大変にありふれていたので、コーランの作者まで神とマリアとイエスの神聖な三相一体を否定しなければならないと感じた[26]。モスレムの資料にも、ペルシアの救世主マニの母、マール・マリアムあるいはサンクタ・マリアとして、処女女神の別の変形が残されていた[27]。「海」(マリア)として、三相一体の女神は自分が生んだ神を呑みこんだ。アレクサンドリアの女性たちは、これにならってキリストの受難劇の後、ウシル〔オシーリス〕の像を恭しく海に投げこんだ[28]。パレスティナの主要な都市エルサレムはアセト〔イーシス〕が殺して海に投げこんだ子どもを慰霊して建設された、というプルータルコスの報告があるが、この儀式をヘブライ風に模倣したものだという説明でいいだろう[29]。
マリアはまたエフェソスの太女神とも密接に関連していた。太女神の神殿をマリアが受け継いだのである。5世紀にはプロクロスという名のエフェソスの聖職者が、いくつもの様相をもつマリアの本質に関連した説教をしたが、マリアを「生きた灌木」と呼んで、「聖母マリアの木は神の生誕によって焼けなかった。……処女であり、天であり、神と人間の唯一の架け橋、畏れ多い機(はた)……この機で融合の衣服が織られた」[30]と言った。
マリアを表すラテン語のアヴェAveを逆にしたもの(eva)イヴEve (Eva)という名前から多くのことが考えられた。神秘主義者は、イエスがアダムの再生であるように、マリアはイヴを純化・再生したものであると言った[31]。どういうわけか、神学者は、新しい化身は明らかに親子関係を逆転させたものだということを認めそこなった。また、アダムとイヴが夫婦だったように、マリアとイエスの関係も、ときに性的なもの、すなわち結婚に似ているとされた。聖ヨハネの伝説とされている話の中で、イエスは「来たれ、わたしの選んだひと、わたしの座にあなたを据えましょう。わたしはあなたの美しさを欲していました」32[32]という言葉で、マリアを天国に迎えている。
マリアの被昇天の教義はさまざまに説明されてきた。初期の教会の人々は、イエスがマリアの墓を訪れたと宣言した。マリアの墓はエフェソス、ベツレヘム、ゲスセメインあるいはヨシャパテなどいろいろな場所であると言われている。イエスはマリアの死体を抱き上げ、生き返らせ、それから生きている女性としてマリアに付き添って天国に連れて行った[33]。マリアは霊魂とか聖霊ではなく、本来の自分自身の肉体を備えた不滅の人だった。被昇天の教義が1950年に信仰の1箇条と宣言されたとき、これが現代の公式の見解となった。このとき、教皇ピウス12世は「純粋な神の母、永遠の聖母マリアは、地上の生命の終わりに達したとき、肉体と霊魂ともに天国の栄光に迎え入れられた」[34]と宣言した。しかし、この点はすでに1000年以上も論じられてきた問題であった。
民衆のマリア人気を利用しながら、同時にマリアが文字どおりに神格化されるのを妨げることが教会の抱える問題であった。13世紀の神学者の中には、マリアが死ぬ運命にあればもっと多くの女性を教会に従わせられるはずだと主張した。その理由は、天国の王は「ただの男ではないが、その女王はただの女である。天使たちなどからなる天の宮廷にあるものすべての上に置かれているのはただの男ではないが、女王はただの女である。また天にあってはただの男は誰一人ただの女ほどの力がない」[35]。
神学者はあまり大きな栄光と力をマリアに負わせることをつねに恐れた。教皇ヨハネス23世はマリアの内なる思いを知っているふりをして発表した。「マドンナは息子より上位に置かれてもお喜びにならない」。ただし実際に喜ばないのは教会だった。カトリックの教義自体が、神の基本的特徴のうち2、3はマリアに属するとした。そして「無原罪の御宿り」Immaculate Conceptionalのために無罪であった。神であるための3番目の資格の無限の知識は、すでに民間信仰によって認められていた。13世紀の『マリアーレ』のなかで、マリアは神の神秘について完全な知識を持ち、すべての聖典を理解し、未来を見通し、数学、地理、天文学、錬金術について知りつくし、教会法に精通していたとされている。マリアが生きていた頃には、聖書正典は存在しなかったし、それゆえ教会法なかったのにである[36]。フランスの写本の挿絵に、マリアが最後の審判の日に神の脇に座り、3000年も昔のマリアの原型といえる女神マートのように秤で霊魂を計っている絵があった[37]。Alchemy.
ウェールズ人はマリアを三題詩の白い女神White Goddessと混同し、神の祝福を求めるときは必ずといっていいほど「白いマリア様」の恩寵を願った[38]。本当の列聖の手触りとはマリアが触れることだと聖人の物語がほのめかしていた。聖ベルナルドゥスは聖母が自分の乳房から絞ってくれた3滴の乳によって高貴な身になれた[39]。シエナの聖カタリナもマリアの乳で育てられたと主張した[40]。
マリアは、人間の優しさを象徴するミルクのただ1つの、まことの源泉であると多くの伝説に描かれていた。マインツの大聖堂では、マリアは餓死しかかっていた乞食に自分の像が履いていた金の靴の片方を与えた。乞食は靴を持っているところを捕らえられ、死刑の判決を受けた。死刑台に向かう途中で、立ち止まって聖母に祈ると、マリアは人々の前でもう一方の靴を与えて乞食の無実の罪を晴らしてやった。乞食は釈放されたが、聖職者たちは金の靴を取りあげ、マリアが「助けを求めて祈った文無しの乞食にまた靴をやろうという気になるといけないので」金庫に入れて錠を掛けてしまった[41]。
マリアの慈愛が、神やイエスの慈愛にまさることは、しばしば証明された。罪人の数少ない善行を計る秤に自分の身体をもたせて、善行が悪行より重くなるようにして、地獄落ちから救ってやるマリアが描かれていることが時折ある。聖職者はユダヤ人を嫌っていたのに、マリアの慈愛はユダヤ人にも及んだ。ブルジェで復活祭の日にユダヤ人の子どもがキリスト教徒の友だちと一緒に聖体拝領を受けた。このような罪を犯したために、子どもの父親は子どもを炉に投げこんだが、火傷を負うことはなかった。キリスト教徒の祭壇に座っていた貴婦人が守ってくれたとその子は言った。そこでキリスト教徒は聖母マリア像のことを言っているのだとわかって、老ユダヤ人を捕まえ、炉に投げこんだ。するとユダヤ人は燃えてなくなってしまった[42]。〔残された子どもは、どないなるんや!?〕
エチオピアのキリスト教徒のLafafa Sedek『正義の小さな環』は、マリアが頼んだからこそ、神は人間に救いの秘密を与えたのであり、マリアは自分の親戚が地獄の「火の川」でもがいているのが悲しくなり始めたのであると述べている。この「キリスト教」の本当の源泉は、エジプトの異教で、ラーのかわりに神、トートのかわりにキリスト、万物の慈悲深いアセト〔イーシス〕のかわりにマリアの名前を使って、『死者の書』から写したのだった[43]。
神学者の中には、最悪の罪人もマリアに特別の拝礼をすれば、確実な救いを得られるという者もあった。2人の筆記者が『聖母マリアの奇跡の書』の写本を作ってマリアを喜ばせた。のちに2人が多くの罪を犯して、死んだとき、悪魔が2人の霊魂を取りにやって来た。しかし聖母は2人を悪魔から引き離し、自分への信仰に免じて救ってやった[44]。
悪の軍勢に本当に立ち向かったのは神ではなく、マリアのようであったこともあった。シュペングラーによれば、これは「ゴシック文化の極致のひとつで、計り知れないゴシックが作りだしたものの一つであり、現代が忘れている、しかも故意に忘れているものの一つである。……この力強く、強烈な絵の壮大さも、それを信じている者の誠実の深さも誇張することはできない。マリア神話と悪魔神話は並んで形成されたので、どちらが欠けても駄目であった。どちらを信じなくても致命的罪となった。祈りを用いるマリア祭儀と、呪文と悪魔祓いを用いる悪魔祭儀とがあった」[45]。歴史家ヘンリー・アダムズは「マリアがいなかったら人は、無神論にしか希望を見出せなくなったろう。そして無神論を受け入れられるほど、世界は未だ熟していなかった。……13世紀には人間はまだ疑いを認める余裕がなかったのである。社会は聖母マリアが実在して力を持っていることに、現世においても、来世においても存在を賭けた」と記した[46]。
ハイステルバッハのカエサリウスは、マリアが神以上に敬われていたことを示す話をした。リェージュのある騎士は金の必要があってサタンと契約を結んだ。神を呪い、非難するように求められると進んで言われたとおりにした。しかしデーモンが聖母マリアを非難するように要求したとき、騎士は恐れて拒んだ。だから聖母が間に入って、この騎士が地獄に堕ちないように救ってやった[47]。
マリアはキリストよりも思いやり(ヒンズー語のカルナ)を効果的に施した。というのは、思いやりという特質そのものが初めから女性のイメージに結びついていたからである。思いやりは聖娼の慈悲charisで、これはマリアが一貫して売春婦を保護してきたことに大いに関連があった。「売春婦」、マグダラのマリアは本来のマリアの三相一体の一面であった[48]。アウグスティンは、マリア崇拝が発達したのは「イスラエル人がエレミヤの時代に女王を必要としたように、人々は天の女王が必要だったためだ」という。「つまり人々にはケーキを焼いて捧げる対象となる女王、偉大な母で、豊穣の売春婦が必要だった。だが、マリアの半面だけしか人々には示されず、あとの半分は知らされていなかった。フロイトはキリスト教は母神を再生したといっているが、この説には半分だけ真実がある」[49]と言っている。実際には、人々は自分たちの異教の伝承から、母神を再生したのである。
教会側の人々は、女はすべて三重の呪いを受けていると主張した。女は不妊だと呪われていた。妊娠しても呪われていた。妊娠には原罪の特質が含まれていたからである。イヴに対する神の呪いが実現されて、陣痛の苦しみによっても女は呪われていた。しかしマリアは3つの呪いすべてを免れていた。「マリアだけが全女性の中で祝福されている。マリアは処女であって実り豊かであり、神聖にして懐妊し、苦痛なく子を生むからである」[50]。もちろんマリアに対するこの見方が一般の女の運命を改善することにはならない。全くありえない理想をもって女を表しながら、女は罪深さのゆえに理想を達成できないという含みを持たせている[51]。古代人が、処女でありながら母である(恋人でありながら鬼婆である)女神に矛盾を感じなかったのは、女神が生のあらゆる局面で全女性を代表していたからであった。しかし、キリスト教徒は女神の微妙な寓話を見失ってしまい、文字どおり「奇跡」を受け取るように主張した。
教会がマリアを受け入れた隠れた理由は、キリスト教以前にあった性的特徴を排除するのに成功したからであった。古代の女神からマリアが受け継いだあらゆる属性のなかで、マリアの処女性が何よりも強調された。マリアは「母」ではなく「処女」の称号がつけられた。教父たちはマリアは生涯性交の経験がないと主張したが、聖書にははっきりとイエスの兄弟、姉妹のことが言及されている[52]。聖アンブロシウスは「人間の種で天の部屋を汚すような女、つまり乙女の純潔を傷つけないまま保てないような者を、イエスは母に選ばれただろうか」と尋ねた[53]。マリアは驚くほど美しかったが、男は誰もマリアを見て欲望を感じることはできなかったとマリア伝説は主張していた[54]。
ところがマリアに対する欲望を制度として利用した修道院があった。キリストが修道女と「結婚した」ように、マリアが修道士と「結婚した」。騎士がマリアの像の指に指輪をはめると、マリアは抜けないようにしっかり握るのだった。これで、騎士は自分が聖母の花婿になったと考えて、修道院に入った。同じ話が異教のウェヌス〔ヴィーナス〕の彫像についても語られている。その像は大理石の指に指輪をはめた男となら誰とでも「結婚した」[55]。1470年にブルターニュのドミニコ会の修道士アラン・ド・ラ・ロッシュは、聖母マリアが自分の髪で編んだ指輪を彼の指にはめて、多くの聖者や天使の前で彼と結婚したと主張した[56]。
シトー派は異教の五月祭の女王と自分たちの聖母を結びつけ、「聖母マリア騎士団」と名乗った。13世紀のアイギドゥスの騎士団の歴史を見ると、アルベロ司教の時代にはリエージュの聖職者が「自分たちの妾の中から」過越の祭りとペンテコステ(五旬節)の女王を選ぶのが習慣だった。その女王は紫の衣服を着て、王冠をかぶって玉座につき、太鼓や音楽入りで崇められ、「まるで偶像になったように、偶像崇拝の対象にされた」[57]。女王はまた、修道士の神聖な花嫁として、ラーチの近くの修道院を見守った妖精の女王としても登場した。真夜中に各個人用の席にユリを置いて、その人の死を3日前に宣告した[58]。
ゴシックの大聖堂は神やイエスにではなく、聖母マリアNorte Dameに捧げられた。このような大聖堂は一括して聖母さまOur Ladiesとか「天の女王の宮殿」とか呼ばれた[59]。その多くは異教の太女神の神殿の上に建てられた。ローマのサンタ・マリア・マジョーレ大聖堂は太母マグナ・マテルの神聖な洞穴の上に建てられた。カピトリアヌスの丘のアラコエリのサンタ・マリアは、昔はタントの神殿であった。イタリア中のマリア教会はユーノー、アセト〔イーシス〕、ミネルウァ、ディアーナ、ヘカテーの神殿の上に建てられた。ある教会は無造作にサンタ・マリア・ソプラ・ミネルウァ、すなわちミネルウァ(の神殿)の上の聖マリアと名づけられた[60]。
ファイリー島のアセト〔イーシス〕神殿は、6世紀にはマリアに捧げられるようになった[61]。キュプロス島のアプロディーテーの至聖所もマリアの教会になった。そのマリアをキュプロス島の人はアプロディーテーの名前で呼び続けた[62]。シャルトルには、異教の処女の生む人virgo parituraの偶像が大聖堂の下のいわゆるドルイドの洞穴に保存されていた。それは黒いマリア像であると言われた[63]。
エクレシアすなわち「教会」はマリアの添え名のひとつであった。マリアは神の花嫁であり母である聖母教会の建物と組織の両方と同一視された。ところが、この模擬教会はいつまでたっても男に独占されてきた。1977年2月になっても、教皇パウルス6世は、教会は「女性に聖職拝命を認める権限を与えられているとは考えない」と言って、女性の聖職を禁じた。教皇は、聖職者というものはキリストに「生まれながら似ている」必要があって、女の聖職者では「神父にキリストの面影を認めるのがむずかしくなるだろう」と述べた[64]。教会自体を象徴しているマリアに、女性の聖職者が似る可能性には触れていない。現代の教会は、昔のマリアの教会が男の聖職者ではなく、女の聖職者を置いていたことを忘れたがっている[65]。
とりわけ、キリスト教会当局は、マリアが女神崇拝復活の路線になりはしないかと心配した。ゲーテの「世界の最高で、至高な女王……ああ、完全な意味で純潔な乙女よ、ああ、わたしたちすべてが崇拝するにふさわしい母よ、選ばれた女王よ、神々に等しいものよ」[66]というような言葉は、マリアから霊感を与えられたからこそ生まれた。それは古代の太母が与えた霊感を思わせる。ひそかで、しかも根絶できないマリア崇拝の異端性は、有名な「開く聖母マリア」Vierge Ouvranteにおいて図像化された(右図)。つまり、神、イエス、天使たち、聖者たちがマリアの中に含まれていることを示すために、開く彫像となったマリアが現れた。
「生んで育て、保護的であって、しかも形を変える女性の無意識の力には知恵が働いている。この知恵は男性の持つ意識に目覚めている知恵より、かぎりなく優れている。それは求められても、求められなくても、空想と創造、儀式と法、死と幻想の根源として、男を救い、男の人生に指示を与えるために現れる。
この女性-母性の知恵は抽象的で公平無私の知恵ではなく、愛情のこもった分かち与える知恵である。……男性的で、一神教的で、抽象を好む傾向がある父権制が西欧で発達するなかで、知恵の女性像としての女神は退位させられ、隅に押しやられた。女神がひっそりと生き残ったのは、ほとんど異端で革新を好む脇道だけであった。……
外から見ると、『開く聖母マリア』は馴染み深い控え目な子連れの母である。しかし、開かれると、マリアは内側に異端的秘密を顕す。つつましく、大地に密着した母を、まったくの好意から、一緒に暮らそうと引き上げる天の王たちとして、普通は示されている父なる神も、子なる神も、マリアの中に包含されていることが示された。神はすべてを保護するマリアの身体の『中身』であったと証明される」。[67]
ホルナイ(1885-1952。精神病学者)によれば、マリアは男が女の恐怖を克服するために用いた2つの方策のうちの第2番目のものを表していた。その2つの方策とは、非難と理想化であった[68]。しかしマリアはあまりにも理想化されたために、イエスと同じくらいに、間違いなく神として眺められなければならなくなった。そこで、マリアは肉体を備えたまま地上から上がって、栄光の座に昇った。不運にも、この考え方を明確にした者たちは、宇宙がどれだけ広いかを知らなかった。彼らの言う過度に単純な「昇天」は、このような現象に関する情報が簡単に手に入る時代になると、もはや役に立たない。まず不可能な考えではあるが、マリアの身体が光の速度で旅できると仮定しても、現在で2000光年しか地上から離れていないことになろう。銀河と銀河との間の考えられないほどの無限の距離に突っこむことはさておき、これでマリアは太陽系銀河を越えるための距離のやっと50分の1ほど進んだことになる。それでも、教育を受けた者にとっては、こんな考えが馬鹿げていると完全にはっきりしている時代に、正確に言えば1968年の6月30日に、教皇パウルス6世の「信条」は「神聖な聖母マリアの被昇天」の教義を再確認した。その達成方法については、はっきりと教皇に告げる労を、神がとらなかったにもかかわらずである[69]。
しかし、現代に存在する精神のすべてが現代的精神というわけではない。物質的宇宙に関して、発見されたことに無知のままでいる者も多い。自分自身の宗教が公言している理論や教義を知らない人も多い。彼らは自分たちの内なる存在が母の原型を要求するという理由だけから、マリアを崇拝する。そして、このような人たちにはマリアは与えられた唯一の人なのだ。この人たちは、キリスト教以前にどのくらい多くのマリアが存在したか知らないのである。しかし、教育のある教会側の人々は知っている。「マリア崇拝の一番深い根はキリスト教の伝統のなかには全く見出せないのではないかという強い疑いを、福音主義者は持っている。人類の宗教の歴史には母-女神を崇拝する傾向がくりかえし現れることが示されている。……今、わたしたちがここに持っているものは、現実にはもっと古い宗教、すなわち、あまりにも軽率にキリスト教化されてしまったが、その古代の顔つきをキリスト教の薄いヴェールの下で保っている、異教主義ではないだろうかと福音主義者は疑っている」[70]と司教座聖堂参事会員ジョン・ド・サットゲは書いている。
しかしマリアは反対され、攻撃され、多くの神学的疑念と制限を伴ってやっと受け入れられたのである。マリアの神聖を語った初期の福音書は、カトリック教会に「有毒」のレッテルを貼られた[71]。女の役割を羨み「マリアになって胎内から神を生むこと」について語るキリスト教神秘主義者は、昔の教会の布告に挑んでいたのだった。布告は、神が人間の女から生まれるはずはないのだから、マリアは「神の母」Theotokosという添え名を主張できないと告げた[72]。つねに人間の女から生まれた救世主-神々を持つ異教をキリスト教徒が手本にしたばかりに、数世紀経つとその布告は捨てられた。Virgin Birth.
最初の5世紀の間に生まれたキリスト教美術は、マリアがイエスより、さらにマギMagiよりも低い位置にあったことを示していた。マギには後光がさしていたが、マリアにはなかった。6世紀にはマリアは後光を獲得し、後光のない使徒たちの集団のなかで、中心の場所まで上がってきた。9世紀になると、2つの大聖堂で、マリは後陣の真ん中で天の女王として治めるようになっていた[73]。
14世紀になると、ウィクリフは書いている。「マリアの助けなく恩寵を得ることは不可能に思える。いかなる性、年齢、階級、地位の者でも、全人類の中で、聖母マリアの助けを求める必要がない者は存在しない」。『古いラテン語の神の讃歌』には「地上のものすべてが、永遠の父の妻であるあなたを崇拝している」[74]と宣言されている。
従属する立場になって現れたマリアは、「神の祖母」である老いたるアンナ(マリアの母と呼ばれる聖アンナ)によって代表された、年長の女神の膝に座った乙女コレーを思わせる娘の役を務めた。絵画や彫刻に表された配置では、2人の女神と幼い男の子が、神を完全に抜いた三位一体を形成するようだ[75]。見る人は、2人の母の膝にのったエジプトの神-王を思い出すかもしれない。母たちは神-王に永遠に授乳し、こうして永遠の生命を与えるのだった。聖アンナがマリアよりさらに直接的に、あの豊穣の創造女神、母なる大地のイメージから出ていることが明らかにされる[76]。
超自然的なものについてははっきりと疑いの心をもつ「科学的な」現代においても、マリアの伝説とイメージは異常な魅力を発揮した。1945年に、ジョゼフ・ビトロという名前の少年が『ベルナデットの歌』という映画に大いに感激した。その結果、少年は、聖母マリアの幻影を呼び出してしまった。少年はブロンクスのある岩のところで、16晩続けてマリアと言葉を交わした。マリアはその場所に教会を建ててもらうように少年に言って、近いうちに病気をなおす泉が出現すると約束した。
その場所はブロンクス・ルルドという通俗的名前がつけられた。信心深い民衆が驚くほど数多く、奇跡的な治癒を求めて祈りに、その場所に急いだが、泉は出現しなかった。やがて、若いジョゼフは自分が引き起こした大騒ぎに困ってきた。そこで、ジョゼフはその場所に2度と現れないつもりであるというマリアのお告げを伝えた。このように失望させられても、信心深い人たちは何年間も聖なる泉を求めて集まり、泥を掘り続けた[77]。
しかしマリアの助けを求めたのは、頭の単純な人たちばかりではなかった。どんなに力が弱くても、キリスト教の神の母は、疎外された技術社会において唯一の精神的慰めの希望を提供すると、歴史家ヘンリー・アダムズは考えた。「かつては自分でやっていた行動の非常に多くを、機械と自動装置に移行した現代社会の男性は、人類を救うだけの生命-感覚を持たなかった。自分たちの科学的施設に盲目的な誇りをもって、男は自分たちが作り出した感覚のない機械にしがみついて、ブレーキをかけられずに、どんどんその速度を増していった。……自分の生涯の終わる頃、ヘンリー・アダムズはもうひとつの対抗するエネルギーの形、つまり生命のエネルギー、性愛、再生産、創造のエネルギーに眼を向けた。アダムズは、女性自身の想像力を信じるように喚起して、混沌を償わせようとした。つまり、あらゆる方面に枝を伸ばす造形的な生命の行程、とくに性、愛、母性の行程を強調した」。聖母マリアへの詩的な呼びかけ「わたしは信仰エネルギーを感じる。未来の科学にではなく、あなたへの信仰に」[78]を用いて、ヘンリー・アダムズは語っている。
たとえそれが最高権力を母に譲り渡すことになっても、神(すなわち男)は自分が作り出した混乱を収拾するために、もう一度太母(すなわち女)に頼ったようだ。ある18世紀の科学者は、「マリアの命令には、神にいたるまですべての者が従う」と書いている。今日、「共通の源を持つ2つの川、マリアとマーヤー、聖母マリアとシャクティがまたひとつに流れこんだ。そして、女神はもう一度宇宙の創造者、不可解な神の自己顕示のエネルギーとなる。昔はつねにそうだった」[79]ということが広く世俗の人にまで認められている。
Barbara G. Walker : The Woman's Encyclopedia of Myths and Secrets (Harper & Row, 1983)