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王位、王権(Kingship)

 アジアにおける初期の諸文明にあっては、誰を王位に就けるかは女性の選択にまかされていた。男系長子相続の法は存在しておらず、王が自分の息子によって相続されることは稀だった。シュメールやアッシリアの王たちの場合、王の父親が誰なのかわからなかった。エサックルナ王は、「無名の者の息子」と呼ばれた[1]。彼が統治していた領地では、女たちが王位決定者だった[2]

 王位に就くためには、この地上では女神を体現している女王と結婚しなければならなかったのであり、これが「聖婚」hieros gamosの本来の意味だった。アッカドの王たちは、何よりも先ず、自分らが聖婚にふさわしい人物であることを立証するために、軍事的遠征を行った模様である[3]

 アッシュールバニパルは、自分は女神イシュタルの恩寵によって国を統治していると言った。すなわち、彼は「イシュタルの手によってつくられた王」だったのである、バビロニアのシャマシュ・シュム・ウキンも、自分は「神々の王女エルア」の称号を持つ女神イシュタルによって王に選ばれたと言った。アッシリアの王エサルハドンによれば、彼は「万物の女神にして、容赦なき武器の女神である女王イシュタルに愛されている。女王は敵の領土に破滅をもたらしたまう」のだった[4]。紀元前1860年に、イシンの王イシュメ・ダガンは、自らを「天と地の女王イナンナにより、その愛するに選ばれた男」と称した[5]。テッサリアに住んでいたラピテース族の青銅時代の王イクシーオーンIxionは、「神々の母」の前のを殺して彼女と結婚した。その前イクシーオーンの義父と呼ばれたが、それは、王位継承者が自分の打ち負かした相手を「父」と呼ぶことになっていたからである[6]。女王たちは、女神すなわち「神の母」と同一視された。エジプトのファラオ、アメンホテップ三世は、女神として崇拝されていた自分の妻ティーのために神殿を建てた[7]

 女神-女王による王の選出は、主として候補者たちの性的魅力を基準にして行われた。女王は王の性行為に嫌気がさすと、王を退位させたり、あるいは、殺してしまうことができた。なぜなら、領土の肥沃さは、女王が性的な意味で王を受け入れることにかかっていたからである。大昔の社会にあっては、多くの場合、古い王は新しい王によって殺された。新しい王は、先王と血のつながらない場合でも、その「息子」と呼ばれるのが普通だった。このようにして、いわゆるオイディプース的な殺害が連綿と続けられたのであり、「父」・「息子」という語が今とは違う意味で使われていたと判明するまでは、この種の殺害が近代の学者たちの頭を悩ませたのである。あるバビロニアの粘土板には、次のように記されていた。

 「ハハルニは、ダンヌーの王たる権利は自分にあると主張した。『大地』は彼女の顔を上げて、息子であるアマカンドゥの方を向いた。彼女はアマカンドゥに、『こちらに来て、私と交わりなさい』と言った。アマカンドゥは自分の母を(妻に)し、父親ハハルニの命を奪った。二人はハハルニが愛したダンヌーの地にハハルニを埋葬した。アマカンドゥは父の跡を継いで王となり、今度は、自分の姉妹にあたる『冥界の海』を(妻に)した。次にアマカンドゥの息子ラハールはダンヌーの地に父の墓をもうけ、そこにアマカンドゥを葬り、母に当たる『冥界の海』を(妻に)した」[8]

 その後、ラハールの息子がラハールを殺して自分の姉妹の「川」を娶った。このラハールの息子も、今度は自分の息子に殺され、後者は、その姉妹にあたるニンゲシティンナ(「天界の葡萄の木の女王」)と結婚した。ニンゲシティンナという名は、女神ニン・ゲスト・イナンナの短縮形だった。統治権は、「大地」すなわちこの母系の創始者にあたる女神ダンヌーから始まって、母から娘へと伝えられていったのである。女神ダンヌーは、クレータ島のダヌーナ、アナトリアのダヌー、ギリシアのダナエDanae、古代ゴール地方のディアーナDianaと同じ女神だった。王たちは先王(すなわち、仮の父親)を殺害するのが当然ということになっていた。「息子」sonは、「王位継承者」を意味し、「妹(または姉)」sisterは「妻」と同義だった[9]

 王の統治期間は、前もって定められている場合が多かった。なぜかというと、女神は定期的に新しい愛人を補給する必要があると一般に考えられていたからである。1810年になるまで、ジンバブウェの王たちは、4年目ごとにの神殿で、一定の儀式にノットって王妃の手で絞殺された[10]。古代テーバイの王たちの統治期間は7年であり、カナアンの王たちの場合も同様だった。クレータ島の王たちも、それぞれ7年間の治世が与えられていたことが、神話からうかがえる。クレータ島の王たちは年を取ることは許されず、つねに青春の花盛りのときに死んでいった[11]。ナイジェリアの王たちは、つい最近まで、王妃の妊娠が確認されると、その後で絞め殺された。王家の子孫を1人もうけたことにより、王は人生における役割を果たしたからだった[12]

 白人のアフリカ探検家たちの記述では、部族の「王」についての言及はあったが、部族の真の支配者が女王であったと言うことについては、ほとんど何も触れられていなかった。しかし、「最古の時代においては、アフリカには自分で支配権を握っていた君主は存在しなかったのであり、黒人たちはそれぞれの女神によって統治されているいくつかの大きな王国kingdoms(出典原文のまま)を所有していた」のである[13]。ガーナは、母系相続制の王によって統治されていたのであり、王の神権は姉妹の息子たちによって継承された。ロヴェドゥ族は女性の「王」によって統治されていた。彼女は次々に何人かの愛人を持ち、政務の方は常に王女の1人に行わせていた[14]。アンゴラは、ポルトガルに侵略される以前は、女性によって統治されていた。アシャンティは、1895年に英国の保護領になるまで、女王によって支配されていた。アシャンティの王たちは母なる女王の臣下であり、王女たちは、特定のを持たず、一連の愛人を持った。同様の風習は、ロアンゴ、ダウラ、アブロン族の国、他のアフリカ諸国にも見られた。ウベンバの女王は、アムフメル(「王たちの母」)と呼ばれ、すべての政務を司った[15]

 福音書に出てくる「エチオピア人の女王カンダケ」(『使徒行伝』第8章 27節)は、一個人の名前ではなく、ヌビア人の諸国を統治していた母なる女王たちの世襲の称号だった[16]。エチオピアの王たちは、最古の時代から、供犠に服した。上ナイル地方のヌビア系カッシート人の間では、紀元前1世紀になっても、「国王殺し」の風習が残っていた。ディオドロスによると、エチオピアの君主でこの国王殺しの運命を免れたのは1人だけだった。この君主はギリシアで教育を受けており、そのおかげで、部族の掟に反抗する勇気があった。彼は兵士の一団を率いて聖所に攻め入り、聖職者によって殺される前に聖職者たちを皆殺しにした[17]

 ジャワ島のシンガサリ王朝にも、カンダケと同じような母権制の女王が何人もいた。その典型が女王デデスで、彼女の像によると、デデスは美しい知恵の女神シャクティの姿をしている。女王デデスは数人の新王と結婚した。それぞれの新王は、女王の前を殺してから女王と結婚し、7年間にわたって王位に就いていたようである[18]

 数々の伝説の中で、王の身分と供犠とは、終始変わることなく関連づけられている。ラガシュから出土した印章には、女神が新王の片手をとり、新王の方は、女王の足もとにひれ伏している先王を殺そうと、武器を振り上げているところが描かれている[19]。アッシリアの王センナケリブは、ニネヴェの神殿において、「神々の小像で殴り殺された」。この犯行の加害者は彼の「息子たち」で、そのうちの1人が王位を継承し、エサルハドン王になった。エサルハドンは即位に際して、「余は力強く、余は全能であり、余は英雄にして、余は巨大であり、余は並外れて大いなるものなり」と宣言した[20]

 王たちは、ときには、女王たちと同等の権威をもって統治するため、自分らもほかならぬ「女神」の化身であると宣言しなければならなかった。コンマゲネのアンティオコスは、自分は女神であるがゆえに統治できると言った[21]。王の叙位式は、かつては、女性の衣装を身にまとうことだった。王は、そうすることによって、自分が異性装をした女神であることを公に示すことができた。point.gifTransvestism.

 古代中東においては、一般的に言って、王は、統治者というよりはむしろ儀式を担当する者だったのであり、主として、神殿の奉納をはじめとする各種の宗教的責務に関与していた[22]。ときには、王は戦闘を指揮することもあったが、このように国に危険が迫っているときには、王は、敵を打倒できる者は自分しかいないことを人々に納得させ、供犠を遂げる運命にある自分の延命を図ることができた。この場合、身代わりにされたのは、実の息子、養子の息子、予言者、死刑囚、あるいは聖なる動物などだった。

 カルタゴの戦争指揮官は、出陣に際して、バール神の祝福を得るため、「自分の最も優れた最愛の息子に王の衣装を着せ、生贄として十字架にかけた」[23]。また、ピロンの記述によると、神-王イスラエルも、一人息子のイエウドに王の衣装を着せ、「ユダヤのしきたりにしたがって」その子を生贄に捧げたという[24]。生贄に捧げられたこの王が、イエス、すなわちユダヤ人の「王」(『ヨハネによる福音書』第18章 33節)になった。ところで、王は神であったから、王の実の息子や養子の息子は、当然「神の子」に相当した。それに、ユダヤ人の王はヤハウェの体現者だったのである。「ヘブライ人の初期の王制の場合、毎年行われた新年の祭典の中心的要素は、ヤハウェを王に即位させる儀式だった」[25]

 「息子殺し」は、ユダヤ人の神-王のしきたりだっただけでなく、しかるべき時期に他人の血を流すことによって、昔からの自己供犠の風習に変更を加えたその他の数多くの神-王たちのしきたりでもあった。アウンという名のスウェーデンの王は、自分の命の代価として、9人の息子を毎年1人ずつ生贄に供し、自分の在位を9年間延長することができた[26]

 グンナル・ヘルミングというもう1人のスウェーデン王は、ただもう逃げの一手に訴えた。聖書に登場するヤコブが、「神である人」と組み打ちし、その後でイスラエルという名を得たように、このグンナル・ヘルミングも先王の姿で顕現していた男神フレイと格闘して王位に就き、女大祭司(すなわち「女神」)と床をともにした。明らかに、彼女は彼が気に入ってしまった。なぜなら、彼は、この女大祭司の力を借りて、王宮の金銀財宝を残らず集めると、彼女を道連れに逃亡してしまったからである[27]。これと似たような話が、テセウスについても語られていた。テセウスは、の女神の化身である巫女のアリアドネーに恋され、彼女の助けを借りて、ミノア人の聖王になる運命から逃れたのだった[28]

 かつてアレクサンドロス大王の将軍の一人だったアンタキアのセレウコス・ニカトールは、シリアの王になったが、「息子」のアンティオコスのために退位を余儀なくされた。それは、女王がこの若者に恋をして、年をとったのセレウコスを棄てたからだった[29]。アンタキアの王たちは、西暦97年になっても、「優れた価値ゆえに王に選ばれ」、その「価値」が失われると、退位させられたという。この「価値」は、王たちの性的能力と関連があったようである[30]。「価値」を表す語は、vir(「男」)から派生したvirtu(「男性としての生殖能力」)だった。

 王を選出する通常の方法は、毎年魔法の力で女神が処女性を回復するあの水浴の儀式のおりに、王となる男性に女神の裸体を眺めさせ、彼の男としての生殖能力を吟味することだった。アクタイオーン AktaionテイレシアースTeiresias、ゲルマン人の大地女神の愛人たちなどは、裸の女神を眺めるというこの方法で選出された[31]。女神オンパレOmphaleを名乗っていたリュディアの女王は、自分の裸体を見せた上で、ギューゲースを王に選んだ。ギューゲースは、在位の王を殺害して女王と結婚せよと命じられた[32]。バテシバという名は「アラビアの女王たちの娘」という意味だったが、ダビデ王は、水浴中の彼女の裸体を目撃し、彼女の前「ヘテ人のウリヤ」を殺してから、バテシバと結婚した(『サムエル記下』第11章)。女神イシュタルは、愛人になる予定の男たちに、「汝の男らしい力を味わおう。汝の手(すなわち、男根)を現して、我が処女性を奪うべし」と言いながら、彼女の裸身を差し出したという[33]

 以上のような伝説は、裸の女神を見たときの勃起の早さによって王を選ぶ風習があったことを示している。人々は、指導者の性的能力が立証された場合にかぎって、その指導者に従うことになっていたのであり、このことは、次に引用する『詩篇』第110篇の、あの率直な性的比喩からも明らかである。「エホバは汝の勢力(ちから)の杖をシオンより突き出さしめたまわん。汝はもろもろの仇のなかに王となるべし。汝の勢いの日に汝の民は聖なる美わしき衣をつけ、心より喜びておのれを献げん。汝は朝(あした)の胎(はら)より出ずる壮(わか)き者の露を持てり」(関根正雄訳)。露は聖書で精液に相当する言葉であり、杖は男根を意味し、シオンは「聖なる」か、あるいは、処女イスラエルの肉体だった。

 王の若さと露が失われると、王の民からも若さと露がなくなったのであり、不能の王を王位に就けておくのは危険であると考えられていた。出生率が低下したり、ある季節に作物の生育が思わしくないと、王を殺害することができたのである。『箴言』の第14章でも、「王の栄えは民の多きことにあり、君の滅びは民を失うことにある」と述べられている。

 北欧の人々は、王の「男性としての生殖能力」・「聖なる力」(gaefaまたはheill)が失われたとき、王を殺してもよいと信じていた。王の力の消滅は、大地の生産力の衰退によって明らかになるのだった。ドマルディの治世に作物が不作になった。彼の民は、先ず雄牛を、次に人間を生贄に供したが、しかし、何の効果もなかった。そこで最後に、彼らは王に襲いかかり、王を虐殺した。時代が下って9世紀になっても、ノルウェーの王ハルヴダンは、凶作ゆえに殺された[34]。聖パトリックが書いたと誤伝されている文書によると、ケルト人たちは、精力旺盛な王の治世の特徴は、晴天に恵まれ、海も穏やかで、穀物は豊かに実り、木々には果物がたわわに成ることであると確信していた[35]

 王たちにの儀礼(供犠)を課すことは、古代ラティウムの風習だったのであり、その起源は、後世の聖職者たちが記録を破棄してしまったため、今ではほとんど何もわかっていないローマ史のあの薄暗い時代にまでさかのぼることができる[36]。初期ローマの王たちは、通常、聖なる1年(四季)が始まる3に、「暗殺」されてと遭遇した[37]。タティウス王は聖なる短剣によって祭壇で殺されたが、これは供犠だったと思われる。同じようにジュリアス・シーザー(ユリウス・カエサル)も、315日という運命の日に、元老院の聖なる奥の間の祭壇のその段上で、妻の予言を成就するかたちで供犠に遭遇した。

 シーザーの妻が、人間の女性とみなされていたのか、それとも、戦勝を願ってシーザーが崇拝していた女神ウェヌス〔ヴィーナス〕・ゲネトリクスの体現者とみなされていたかについては、定かでないところがある。ただ、ポンペウスを破ったあとで、シーザーはウェヌス〔ヴィーナス〕・ゲネトリクスのために、ローマ市のフォーラム(中央広場)に、大理石と黄金で造った神殿を建て、女神の像の前にそのである自分の像を置かせた。シーザーの生とのドラマは、「女神」のであった他の聖王たちにも共通する要素を含んでいた。

 シーザーは、彼がまだ世間に出たばかりの若いころ、自分の母親と交わる夢を見た。このことから占い師たちは、彼はやがて大地(「母親」)を支配するであろうと予言した。暗殺された日の前の晩、シーザーは宴会(すなわち、「最後の晩餐」)に出席したが、その席で彼は、「どのようなが最高か」と問われた。シーザーは、「予期せざる」と答えた。その翌日、彼は自らが望んだを得た。後刻、ウェヌス〔ヴィーナス〕・ゲネトリクスに敬意を表して葬礼の祭儀が行われたとき、彗星がひとつ現れたが、それは、神々の仲間入りをするために飛んでいくシーザーの霊魂に違いないと受け取られた[38]

 ジュリアス・シーザーの後継者アウグストゥスは、リヴィア・アウグスタと結婚することによってアウグストゥスの称号を得た。リヴィアはローマ市の再建計画を立案し、彼女の女神ユーノー・アウグスタへの信仰を復活させた。アウグストゥス時代のローマの栄光に対するリヴィアの貢献度は、キリスト教関係の歴史家によって過小評価されているが、しかし、彼女が掛け値なしの共同統治者であり、アウグストゥスが行った法律改正や都市計画の真の立案者だったことは疑いの余地がない。ただし、リヴィアが、先のシーザーの妻と同じように、何らかの方法で「を早めた」か否かについては、以前はこのことについての認識がほとんどなく、したがって十分な調査も行われなかった[39]

 母系相続制のローマ法により、アウグストゥスの後継者は、リヴィアが他の男性によってもうけた彼女の初子の息子ティベリウスだった。アウグストゥスという称号は、女系を経由して、コンスタンティヌスの時代になるまで継承された。コンスタンティヌスは、王女ファウスタと結婚することによって帝位に就いたのだった[40]

 カエサル(すなわち、カイゼル、ツァー)というローマ皇帝の称号の方は、中世におけるゲルマン人の皇帝たちに継承された。当時の英雄聖王をあつかった伝説には、通常、供犠が含まれていた。ジークフリートは、妻が予言的な夢を見たために殺されるという、まさに典型的なシーザー流のを遂げた。ジークフリートの妻は、の殺害社に槍で突く個所を教えるために、自分の手で十字のしるしをのローブに縫いつけたのだった[41]

 「王」の意の名前を持っていた聖カエサリウスは、架空の聖人のひとりで、昔からの「国王殺し」の風習にもとづいて作り出された。この聖人は、実は、テラキナの地でアポッローンの体現者として殺された「カイゼル」のことだった。そこでは、王に扮した男が、この架空の聖人がそうしたと伝えられているように、両側に列を作って並んでいる観衆の間を駆け抜け、崖の上から身を投げたと思われる[42]。「聖カエサリウス」の祝日は「諸聖人の祝日」にあたるが、この日は、先祖の霊を祀った異教の祭日だった。point.gifHalloween.

 ゲルマン人の『ニーベルンゲンの歌』に、ジークフリートなどの英雄たちと並んで、アトリ、あるいは、エッツェルの名で登場するフン族の王アッティラは、謎めいた「愛死」Liebestodを遂げたが、この「愛死」の狙いも彼を神または聖人の位に就けることにあったと思われる。アッティラの最後の花嫁は、ゲルマン人のの女神の名称、すなわちグリムヒルトあるいはクリームヒルトを名乗っていた。マルケリヌスによれば、グリムヒルトは婚礼の初夜の新床の中でアッティラを殺した[43]。このことについては他の文献にも婉曲的な記述があり、アッティラは「出血」によって窒息し、花嫁の腕の中で急死したと言われた。このアッティラの殺害は、彼を神に祀りあげるために意図的に仕組まれたものだったのかもしれないのであり、そのことは、彼が聖なるカエサル(皇帝)の美しい礼服を着せられ、太陽・大地を表す三種の金属、すなわち金・銀・鉄で造られた柩に収められて埋葬されたことからもうかがえる。彼の墓を掘った墓掘り人たちは、墓のことを他言しないように、皆殺しにされた[44]。彼の葬儀は、先ずしばらくは、大仰なまでに哀悼の意が捧げられたが、しかしそれに続いて、彼が神になったことを祝う歓喜に満ちた宴会が催された。彼はやがて「再臨」すると思われていたのだった。

 ギリシア・ローマ時代の聖劇で王になって死ぬ役を演じた男たちは、本物の王の身代わりになることをいさぎよく承知するように、神格化(すなわち、列聖)されることが多かった。彼らは、キリスト教の殉教者たちと同じく、ひとたび受難によって「ヴェール」(生との境)を通過しさえすれば、自分たちは、本物の王と同じく最高位の神と同一視され、至福に満ちた永生が得られるものと信じていた。だからこそ、数多くの物語に見られるように、男たちは死ぬ役を進んで引き受けたのだった。ハドリアヌス帝の寵臣アンティノウスは、皇帝の存命を図るための呪術的儀式において、我が身を生贄に捧げた[45]。毎年、冬に行われたローマのサートゥルナーリアの祭(Saturnalia)の主役は、「の王」を演じる男性で、彼は、皇帝ならびにサートゥルヌス神Saturnusの双方と同一視された[46]。サートゥルヌスは、「天界の父神」の冥界における姿、すなわち、その「殺害された」相であり、これは、「屍のシャヴァ」が「父神シヴァ」のの相を表していたのと同様だった。point.gifShiva.

 王をさすラテン語rexあるいはregは、ケルト語のrigと同じく、サンスクリット語のrajに由来していた[47]。単に言葉だけでなく、王位に関する観念も、ユーラシア大陸全体に広まってゆき、どの国の王もその国の大地を体現している女性たちの承認がなければ、統治権を得ることができなかった。この考え方は、今もなおタタール人の風習の中に認められる。すなわち、族長の息子は領土内のすべての村々に連れていかれ、彼がのちに王位を請求できることを確認するしるしとして、そのときに乳呑児を持っている母親たち全員から、乳を飲ませてもらわなければならないのである[48]。王にとって、国土とは永遠の母親であり花嫁なのだった。イングランドのジェームズ1世は、「余はであり、国土全体が余の正妻である」と言ったが、彼はこのとき、太古からの伝統に言及していたのだった[49]。ウェールズ人たちは、英国諸島とローマが合併したのは、ローマ皇帝と英国の女王だった「ユリの乙女」エレンとが聖婚を行ったからであると長い間信じていた。ウェールズの吟唱詩人たちも、ウェールズ人のフレヴェリスがフランス王になったのは、フランスの女王と結婚し、「女王といっしょに王国の冠」をも手に入れたからであると言った[50]

 エジプト、バビロニア、アッシリア、ギリシア、ローマなどの初期の王たちと同じように、キリスト教化される以前の英国の王たちも、女王と聖婚hieros gamosすることによって国の管理者になった。デンマークの歴史家サクソ・グラマティコスは、スコットランドの女王ヘルムトルーデについて、「彼女が自分と床をともにすることがふさわしいと考えた人物はただちに王となり、彼女は自分の身とともに王国をも彼に与えた」と記した[51]。ピクト人の王たちは、王家の女たちの手によって女系の血統の中から選ばれた。初期サクソン人の女王たちは自ら国を統治したのであり、王の方は女王と結婚してからでないと国を治めることができなかった[52]。それゆえ、カヌート王は先王の未亡人と結婚したのであり、西サクソン人の王エセルバルドは、父親が亡くなると自分の義母と結婚した[53]

 英国の中世騎士物語からも、女王を自分のものにしなければ国を支配できなかったことがわかる。この女王の名は多くの場合グィネヴィアGuinevereだったが、ときにはCunneware、Gwenhwyfar、Jennifer、Ginevra、Genevieveなどとも言われた。初期の文献のあるものには、三人のグィネヴィア(すなわち、三相一体の女神)がいたと記されていた。アーサー王は三人のグィネヴィア全員と結婚した[54]。グィネヴィアは、メレアガント、ランスロット、メルウァス、アーサー、モードレッドらによって何度も誘拐されたが、これは、王位を望む多数の騎士が、統治権を自分のものにしようとしていたという意味だった[55]。アーサー王の王国の崩壊は、彼が王妃を失ったことと密接に関連していた。

 異教時代のアイルランドの場合、王の即位の挨拶は、自分が王妃によって体現されているアイルランドと「結婚した」wedded(字義どおりの意味では、「交合した」)ことを告げるものだった。民間伝承では「妖精女王」として有名だった伝説上の女王マブは、自分で王を選んで即位させ、しかも頻繁に愛人を変えた[56]

 王妃をめぐる王たち(すなわち、在位の支配者とその後継者、父親と息子、現王のトーテムである「ドラゴン」とドラゴン退治者など)の間の抗争は、女性に受け入れられれば男性は権力を獲得し、女性に拒否されれば男性は権力を失うといった太古の性的確執が、神話の中に反映して今に残ったものである。フィンとディアムイドにまつわる神話は、通常の場合とは逆に、族長たちの方が、恋敵に対して嫉妬をいだきながら、グィネヴィアの異形にあたる女王グリアンヌ(イグライン)を自分のものにしようとしたことを明瞭に示している。フィンが、重傷を負ったディアムイドのところに、その傷を癒してくれる水を掬って3度運んだという物語は、(名剣エクスカリバーにまつわる)アーサー王のの場面を予示するものだった。3回運んだとはいえ、フィンは3度ともその水を指の間からわざとこぼしてしまい、その結果ディアムイドは死んでしまった。フィンは自分よりも若く自分よりも美男子だった恋敵に向かって、「ディアムイドよ、おまえがこのように苦しんでいる姿を見ると、私は嬉しい。ただ残念なのは、エリンの女たち全員におまえのこの姿を見せてやれないことだ。おまえの比類なき美しさは今は醜さに変わっており、みごとに均整のとれた身体も今は奇形になり果てたというのに」と満足そうに言ったのだった[57]

 復活祭の季節に王を「高く持ち上げる」というイングランドの古来からの風習は、王の選出・承認・愛死・神格化といった王の生涯のすべての場面において、昔は女性が重要視されていたことを暗示している。王は、毎年、宮廷の女官たちの一団によって宙高く持ち上げられた。この風習は、「我らが救世主の復活のまねび」という信心深い名称で呼ばれていたが、それがキリスト教よりも古くからの風習であったことは明らかだった。神は王とは一体不可分であり、両者とも女性の魔力に従属すると考えたのは、キリスト教の神学ではなく、異教の神学だったからである[58]



[1]Assyr. & Bab. Lit., 198.
[2]Bachofen, 215.
[3]Hook, S. P., 49.
[4]Assyr. & Bab. Lit., 91, 114, 130.
[5]Gray, 59.
[6]Campbell, C. M., 422.
[7]Budge, D. N., 83.
[8]Albright, 94.
[9]Albright, 94, 128.
[10]Lederer, 132.
[11]Campbell, Oc. M., 59.
[12]Stone, 132.
[13]Briffault 3, 26-32.
[14]Hays, 296, 312.
[15]Hartley, 161.
[16]Briffault 3, 41.
[17]Campbell, P. M., 200.
[18]Campbell M. I., 216-17.
[19]Campbell, Or. M., 42.
[20]de Camp, A. E., 64.
[21]Cumont, M. M., 95.
[22]Hooke, S. P., 49.
[23]de Lys, 450.
[24]Frazer, G. B., 341.
[25]Hooke, S. P., 110.
[26]Frazer, G. B., 337.
[27]Oxenstierna, 219.
[28]Graves, G. M. 1, 345.
[29]Gifford, 180.
[30]Thomson, 312.
[31]Tacitus, 729.
[32]Herodotus, 5-6.
[33]Assyr. & Bab. Lit., 338-39.
[34]Turville-Petre, 191-92.
[35]Joyce 1, 57.
[36]Pepper & Wilcock, 84.
[37]Graves, W. G., 399.
[38]Dumezil, 545-48.
[39]Beard, 302.
[40]J. H. Smith, C. G., 71.
[41]Goodrich, 148-49.
[42]Brewster, 471.
[43]Gibbon 2, 294.
[44]Encyc. Brit., "Attila."
[45]King, 55.
[46]Frazer, G. B., 679.
[47]Dumezil, 17.
[48]Hazlitt, 112.
[49]Daly, 99.
[50]Mabinogion, 85, 90.
[51]Frazer, G. B., 180.
[52]Briffault 1, 416.
[53]Hartley, 127.
[54]Malory 1, xxiv.
[55]Encyc. Brit. "Guinevere."
[56]Briffault 3, 379.
[57]Campbell, C. M., 302.
[58]Hazlitt, 363.

Barbara G. Walker : The Woman's Encyclopedia of Myths and Secrets (Harper & Row, 1983)