第3巻・第1章
第2章[1] じつに、デルキュリダスは、以上の事を為し遂げ、8日のうちに9つの都市を手に入れたうえ、友邦で越冬するさいに、ティブロンとは違って、同盟者たちにとって重荷になることのないように、逆にまた、パルナバゾスが〔おのれの〕騎兵隊〔の優勢さ〕でもって〔自分たちを〕蔑ろにして、ヘラスの諸都市に仇を成すこともないようにと思案した。そうして、彼〔パルナバゾス〕に対して〔使節を〕遣って、和平か戦争か、どちらの継続を望むのかと質した。パルナバゾスの方も、アイオリスは自分の家郷 プリュギア〔小プリュギア〕に対する攻撃要塞と化したと考えて、講和を選んだ。 [2] さて、以上の事が実現すると、デルキュリダスは ビテュニア・トラケに赴き、そこで冬を越したが、これにはパルナバゾスもまったく腹を立てなかった。ビテュニア人たちは何度も彼と戦争をしてきたからである。かくて、他の点ではデルキュリダスは安全にビテュニアを奪略・蹂躙し、必需品をふんだんに確保して時を過ごした。ところが、遠方の セウテス〔王〕のもとから彼のところにオドリュサイ人たちの騎兵約200と軽楯兵約300が同盟者として来着して、この連中はヘラス陣から約20スタディオン離れたところに布陣し、柵囲いをして、軍陣の守備隊としてデルキュリダスに重装歩兵を要請し、戦利品目当てに出動して、多数の奴隷人足や財貨を略取した。 [3] すでに彼らの陣地が多数の戦争捕虜たちでいっぱいとなったとき、ビテュニア人たちは、どれだけの人数が出動し、どれだけのヘラス人たちを守備隊として後に残しているかを調べ上げ、全軽楯兵と騎兵たちとが集結して、夜明けと同時に、約200人の重装歩兵に襲いかかった。〔敵陣〕近くになると、彼ら〔ヘラス勢〕に向けてあるものは飛び道具攻撃し、あるものは投槍で攻撃した。これによって彼ら〔ヘラス勢〕は、一方では負傷し戦死し、他方では深さがひとの背丈ほどもある防御柵の内側に閉じこめられて、何もできないでいたが、やがて自分たちの砦を切り破って相手方に突進した。 [4] しかし、自分たちが躍り出た方角の相手方は後退し、それも、軽楯兵なので重装歩兵からは逃れること容易で、かわって、両側面から投槍で攻撃し、相手の多くを突撃のたびごとに打ち倒した。最終的には、囲いの中に囲い込まれたかのように〔ヘラス勢は〕投槍を浴びせかけられた。それでも、彼らのうちでおよそ15人が、ヘラス陣に逃れて助かったが、この連中でさえ、事態をいち早く察知して、戦闘のさなか、ビテュニア人たちに気づかれないですり抜けたにすぎなかった。 [5] さて、すばやく以上のことを為し遂げると、ビテュニア人たちはオドリュサイ・トラケ人たちの兵舎番たちをも殺し、戦争捕虜たち全員を奪回して引き上げた。そのため、ヘラス人たちが察知して、救援に駆けつけたときには、陣地内に裸の屍体よりほかには何も見つけられなかったのである。しかしながら、オドリュサイ人たちがもどってくると、自分たちの仲間を埋葬し、その上に多くの酒を注ぎかけて、競馬葬礼を挙行した上で、この時以降はヘラス人たちといっしょに陣営し、ビテュニアを略奪し焼き払った。 [6] 春になると同時に〔BC 398〕、デルキュリダスはビテュニアから軍を返して、ラムプサコスに到着した。彼がここにいる間に、家郷の首脳部の命令でアラコス、 ナウバテス、 アンティステネスがやってきた。この連中が来たのは、その他の点でアシア情勢がどうであるかをつぶさに視察するとともに、デルキュリダスに、駐留して次の年も嚮導するよう告げるためであった。さらにまた、監督官たちが彼ら自身に与えた通達にしたがって、将兵たちを呼び集め、以前に為したことでは彼らを非難しているが、しかし今は何ら不正してはいないから、称賛しているということを告げるため。また、今後についても、不正するなら、容認しないが、同盟者たちに対して義しいことを実践するなら、彼らを称賛するであろうということを告げるためであった。 [7] しかし、将兵たちを呼び集めて以上のことを言ったところが、キュロス隊の指導者だった者が答えた。「いや、おお、ラケダイモン人諸君、われわれは今も昨年も同じ人間である。ところが指揮官は、今と過去とでは別々の人物である。ということは、今は過ちを犯していないのに、かつては〔過ちを犯したとするなら〕、そのことの責任はもはやあなたがたご自身が充分、判断することがおできになろう」。 [8] ところで、家郷からの使節団とデルキュリダスとが同宿しているとき、アラコスの取り巻きの一人が、ラケダイモンに来ていたケルソネソス人たちの使節団のことに言及した。そして、彼らが次のように言っていたと主張した、――今はケルソネソスは耕作することができない。トラケ人たちに蹂躙され略奪されているからだ。しかし、海から海にかけて遮断壁が築かれれば、自分たちにとっても、また、ラケダイモン人たちのうち、どれほどか望んでいる他の人たちにとっても、多くの善き耕地を耕すことができる。だから驚かないだろう、と彼らは主張した、――ラケダイモン人たちの中の誰かが、国の命令で武力をもってこれを実行するために派遣されたとしても、と。 [9] デルキュリダスはこれを聞いて、彼らに対しては、自分がどんな考えを持っているかは言わず、彼らをヘラスの諸都市を通ってエペソスへと送り届けた。平和裡に繁栄している諸都市を彼らが目にしたがっているというのが気に入ったからである。こうして、一行はさらに先に進んでいった。しかしデルキュリダスの方は、留任できるとわかったので、もう一度パルナバゾスに使いを送って、冬の間と同じ講和を望むのか、それとも戦争をかと問いただした。するとパルナバゾスがこの時も講和を選んだので、その周辺の諸都市にも同様に和平関係をもたらしたうえで、これを後にして、軍隊を率いてヘレスポントスを エウロペへと渡り、トラケの友邦を行軍し、 セウテス〔王〕に客遇されて、ケルソネソスに到着した。 [10] ここが、都市は11ないし12を有し、土地は生育しないものとてないほど最善であるが、言われていたごとく、トラケ人たちに仇を成されてきたことがわかったが、地峡の幅が37スタディオンなのを発見し、逡巡することなく、供犠を執り行ったうえで城壁を築きはじめた、――その地を将兵たちに部分ごとに分割して。彼らに褒賞を約束して、最初に城壁を築き終えた者たちに与えよう、またその他の者たちにも、各人が働き甲斐のあるようにして、春時から始めて取り入れ時の前に城壁を完成させた。そして、城壁内に11の都市、多くの港、多くの善き苗床、多くの果樹園、あらゆる種類の家畜のための十全にして全美な牧草地を作った。 [11] これを作ったうえで、再びアシアへと渡った。 そして、諸都市をつぶさに観察するに、他の点では申し分なく美しいのを目にしたが、しかし、キオス(1)の亡命者たちが強固な領地 アタルネウスを押さえ、しかもここを発進基地にしてイオニアを蹂躙・略奪し、これによって生活しているのを見出した。そのうえ、連中のところにはおびただしい穀物があると聞き知って、包囲陣を布いて攻囲した。そして8ケ月にして連中を屈服させ、そこにペッレネ(2)人 ドラコンを管理者(epimeletes)として任命し、あらゆる必需品をこの地に有り余るほど備え、かくて、いつ到着しても自分の休息所となるようにしたうえで、エペソスへと立ち返った。ここはサルディスから隔たること、3日の道のりである。 [12] この時までは、ティッサペルネスとデルキュリダス、つまり、この地のヘラス人たちも異邦人たちも平和裡にあった。しかるに、ラケダイモンにイオニアの諸都市から使節団がやってきて教えるには、ヘラス諸都市に自治権を認めるのは、ティッサペルネスが望むかどうか、彼の意向次第である。ゆえに、ティッサペルネスの一家の本拠地たるカリアがひどい目に遭えば、そのときは彼はすぐに自分たちに自治権を認めてくれると信ずる、と彼らは主張した。これを聞いた監督官たちは、デルキュリダスに使いを遣って、彼には軍隊を率いてカリアに渡るよう、また、艦隊指揮官の パラクスには、艦隊を率いて廻航するように命じた。そこで彼らはそうした。 [13] 他方、時を同じくして、たまたまパルナバゾスもティッサペルネスのもとに来ていたが、それは、一つにはティッサペルネスが全軍の将軍に任命されたがためであると同時に、ヘラス人たちを大王の領土から撤退させるためにも、共同して戦争し共闘する心組みであることを証言するためでもあった。というのは、彼はティッサペルネスの将軍職を心ひそかに羨んでいたが、とりわけアイオリスを取り上げられたことで嫌悪していたからである。さて、彼〔ティッサペルネス〕は聞いて、「それでは先ず初めに」と彼は言った、「わたしといっしょにカリアに渡ってもらいたい。そのうえで、この件についても評議しよう」。 [14] しかし、そこにある間に、彼らは充分な守備隊を城塞に配置したうえで、再びイオニアに渡ることに決めた。他方、デルキュリダスの方は、彼らがすでに マイアンドロス河を再び越えたと聞いたので、パラクスに向かって、ティッサペルネスとパルナバゾスとが孤立無援の地に襲来して、その地を蹂躙・略奪するのではないかと気にかかると言って、みずからも渡った。しかしこの一行は、行軍中、敵国人たちはすでにエペソスの地に先行したものと思って、隊伍を組むことをしなかったが、突然、向かい側の記念碑のところに部隊を目にした。 [15] そこで、自分たちの近くの記念物や櫓状のものの方へと〔部隊を〕引きもどし、自分たちの行く手で戦闘配置についている者たちを眺望すると、それは白楯のカリア人たち、有り合わせのペルシアの軍隊、彼ら〔ティッサペルネスとパルナバゾス〕のそれぞれが保有するヘラスの〔傭兵〕部隊、おびただしい数の騎兵隊で、ティッサペルネスの部隊は右翼に、パルナバゾスの部隊は左翼に陣取っていた。 [16] これを認知するやデルキュリダスは、歩兵指揮官たちと旅団長たちとには、できるかぎり速やかに8層の戦闘配置を採るよう、軽楯兵たちには、その周辺を固め、もちろん、保有していただけの数と種類の騎兵たちもそうするよう言いつけた。そして自分は供犠を捧げた。 [17] ところが、 ペロポンネソスからきた軍隊は平静にして、戦闘準備についていた。が、 プリエネや アキレイオン出身の連中や、島嶼やイオニア諸都市の出身者たちは、ある者たちは穀草の中に武器を残して脱走した。というのも、マイアンドロス河畔の平野の穀草は深かったからである。また留まっている連中も、留まり続けるつもりのないことは明白であった。 [18] 他方、パルナバゾスの方は、戦闘を命じたとの通報が〔デルキュリダスのもとに〕入った。ところがティッサペルネスの方は、キュロスの部隊が自分たちと戦った様をあれこれ思量し、ヘラス人たちはみなあの部隊と同じだと信じていたので、戦闘を望まず、デルキュリダスに使いをやって、彼と会談に入りたいと言いやった。そこでデルキュリダスは、麾下の騎兵隊や陸戦隊の中から、見てくれの最も優れた者たちを引き連れて、使者たちの前に進み出て、言った。 「いや、わたしとしてはすでに戦闘の用意があることは、見てのとおりである。しかし、あの御仁が会談に入りたいとお望みなら、わたしとしても反対はしない。しかし、そうしたいと要求するなら、保証と人質を取り交わすべきである」。 [19] そこで、それらのことが取り決められ施行され、両部隊は退却した、――異邦人の部隊はカリアの トラッレイスへ、ヘラス隊は レウコプリュスへ――ここには、アルテミスのきわめて神聖な神殿があり、また、1スタディオン以上もある塩水湖で、砂まじりながら、飲用できる温水の涸れることのない湖もあった。この時に行われたのは、以上のことだけであった。しかし、次の日には、双方合意の場所に赴き、いかなる条件なら和平をなすことができるのか、お互いに聴聞することが彼らによって決められた。 [20] そこでデルキュリダスが、大王がヘラス諸都市に自治権を認めるなら、と申し立て、ティッサペルネスとパルナバゾスとが、ヘラスの軍隊が領地から、また、ラケダイモン人たちの総督たちも諸都市から撤退するなら、と申し立てた。これをお互いに申し立てあったうえで休戦条約を結んだ、――デルキュリダスによって申し立てられたことはラケダイモンへ、ティッサペルネスによって〔申し立てられたことは〕大王へ報告されるまでの期間。 [21] こういったことがアシアでデルキュリダスによって実行されている間に、時を同じくしてラケダイモン人たちは、以前からずっとエレア人たちには怒っていた。一つには、彼らがアテナイ人たち、アルゴス人たち、そしてマンティネイア人たちと 同盟を結んだこと、一つには、自分たち〔ラケダイモン人〕に対する有罪判決が下ったと称して、〔オリュムピア祭の〕競馬競技からも体育競技からも閉め出したこと、しかも、それだけでは足りずに、 リカスまでも、――彼はテバイ人たちに自分の馬車を売り渡したのであるが――、連中が優勝宣告をされた後で、リカスがその御者に花冠をかぶせようとして入っていったところ、〔リカスは〕老齢であったにもかかわらず、その彼を連中は鞭打って追い出したということ。 [22] さらに、その後、アギスも、ある託宣にしたがって ゼウスに供犠するために派遣されたとき、エリス人たちは、敵に対する勝利祈願をしてはならぬといって妨害した。ヘラス人たるものがヘラス人相手の戦争のために託宣を求むべからずとは、往古からのしきたりであると言い立てて。そのため、彼は供犠せぬまま立ち去ったのである。 [23] こういったすべてのことが原因で、監督官たちと民会とよって、連中を正気にもどすべしと決定された。そこで、 エリスに使節団を派遣して、周辺諸都市に自治権を認めるのが義しいとの決定が、ラケダイモン人たちの首脳部によって下されたと言い渡した。これに対してエリス人たちは、そんなことを実行するつもりはない、なぜなら、それらの諸都市は戦利品として取得したものだから、と答えたので、監督官たちは動員令を発布した。その軍隊を率いてアギスは、 アカイアを通って ラリソス河を下ってエリス地方に侵入した。 [24] しかし、ちょうど軍隊が敵地にあって、領地が伐採されている最中に、地震が起こった。そこでアギスは、神意と考えて、領土から再び退去して軍隊を解散した。しかし、これがために、エリス人たちはますます大胆になって、ラケダイモン人たちに対する嫌悪者として知られた諸国に使節を送った。 [25] そこで、その年のうちに、監督官たちは再びエリス攻撃の動員令を発布し、ボイオティア人たちとコリントス人たちとを除いて、その他の同盟軍はもちろん全軍、アテナイ人たちまでも、アギスに従って共同出兵した。かくて、アギスが アウロンを経由して〔エリスに〕侵入するや、すぐさま レプレオン人たちがエリス人たちに離反して彼に投降し、マキストス人たちもすぐさま〔投降し〕、これにすぐ続いてエピタリオン人たちが〔投降した〕。さらに〔アルペイオス河を〕渡河するや、 レトリノイ人たち、 アムピドロイ人たち、 マルガナ人たちが投降した。 [26] かくして、彼は オリュムピアに進駐して、*ゼウス・オリュムポスに犠牲をささげた。もはや妨害しようとする者は誰一人いなかった。犠牲をささげると、市域に向け行軍し、耕地を伐採し焼き払い、有り余るほどのものを獲得し、有り余るほどの奴隷人足を領土から捕獲した。そのため、これを耳にして、他にもアルカディアやアカイア地方から多くの者たちがすすんで出兵に同行し、その掠奪(harpage)に参加した。そのため、この出兵そのものが、あたかもペロポンネソスにとっての糧秣あさりのごとき様相を呈したのである。 *ゼウス・オリュムポス……「オリュムポス山にましますゼウス」の意。オリュムポス山はギリシア世界の方々にあるが、最も有名なのは、マケドニアとテッタリアとの国境にそびえる最高峰(2885m)である。 [27] こうして、〔アギスは〕その都市に到着すると、郊外区域と美しい体育場とを損壊したが、都市本体の方は、(城壁がなかったことからして)、彼はこれを攻略することができなかった、というよりは、むしろそれを望まなかったのだと考えられている。さて、領土が荒らされ、軍勢が キュレネ(2)近くにあったとき、 クセニアス一味が、――彼は父親から相続した金をメディムノス桝で計り分けたといわれている男だが、――国が自分たちの力でラケダイモン人たちに投降することを望んで、両刃剣(xiphos)をとって屋敷から繰り出して殺戮を始め、他にも何人かを殺害したが、民衆の指導者トラシュダイオスに似た男を一人殺害し、 トラシュダイオスその人を殺したと思いこみ、そのため、民衆は完全に意気阻喪しておとなしくなり、 [28] 殺戮者たちの方も、万事は遂行されたと思いこみ、一味の同調者たちも武装して市場に集まった。ところが、トラシュダイオスは、酩酊してしまって、その場にまだ寝ていただけであった。そこで、民衆は彼が殺害されていないのを察知するや、その邸宅は四方八方から〔民衆によって、守りのために〕取り囲まれ、さながら、蜜蜂の群に大将蜂が〔取り巻かれている〕がごとき様相を呈した。 [29] そして、トラシュダイオスが民衆を擁して嚮導してからは、戦闘が起こったあげく、民衆の制するところとなり、殺戮に手を染めた連中はラケダイモン人たちのもとに追放された。ところでアギスの方は、退却して再び アルペイオス河を渡った後、アルペイオス河畔の エピタリオンに、守備隊と、総督として リュシッポスと、エリスからの亡命者たちとを残して、軍隊は解散し、自分は家郷へと引き上げた。 [30] かくして、残りの夏と、これに続く冬の間、リュシッポスと彼の麾下の者たちとによって、エリス人たちの領土は蹂躙・略奪されつづけた。そこで、次の夏〔BC 397〕、トラシュダイロスはラケダイモンに使いを送って、 ペイアとキュレネ(2)との城壁を取り壊し、 トリピュリア地方の都市、つまり、 プリクサとエピタリオン、さらにレトリノイ、アムピドロイ、マルガナを解放し、これらの諸都市に加えて、 アクロレイオイも、アルカディア人たちに文句を付けられていた ラシオンをも〔解放することに〕同意した。しかしながら、 ヘライアと マキストスとの中間にある都市 エペイオンは保有することをエリス人たちは要求した。すなわち、この領土は、都市の全体をかつて保有していた人々から30タラントンで購入し、その金額はすでに支払ったと彼らは主張したのである。 [31] しかし、ラケダイモン人たちは、弱い相手からものを取得するのに、力づくで購入することは、力づくで取り上げるのに劣らず義しいことではないと判断して、その領土も手放すよう強要した。しかしながら、ゼウス・オリュムポスの神殿は、もともと彼らのものではなかったのだが、彼らがこれを裁量することを奪わなかったが、それは、領有権を主張する連中〔=ピサ人たち〕が地の者(chorites)たちであり、裁量するに充分でないと考えたからである。かくして、これらの事柄が同意され、エリス人たちとラケダイモン人たちとの間に和平と同盟が成った。かくのごとき次第で、ラケダイモン人たちとエリス人たちとの戦争は幕を閉じた。 |