間歇日記

世界Aの始末書


ホームプロフィール間歇日記ブックレヴューエッセイ掌篇小説リンク

← 前の日記へ日記の目次へ次の日記へ →


2000年1月下旬

【1月31日(月)】
▼電車に乗っていて(またもやこの書き出しだが、サラリーマンだからしかたがないのだ)、ふと車輌と車輌のあいだにある窓を見る。そこには別の窓が映っていて、ちょうどきれいな鏡のような状態になっているのだった。外の景色が映って、進行方向とは逆に流れている。じっと見ていると、不思議なことに逆に流れている景色に違和感がなくなってきた。電車が加速したり減速したりするときにも、身体は逆方向のGを感じているはずなのに、それほど変な気がしないのだ。車輌は窓と平行にベンチ型のシートが並んでいるタイプで、すなわちおれは左右方向のGを受けている。
 ひょっとして、人間は左右方向の加速に対しては相当に鈍感なのではあるまいか。もし劇場式のシートに座っていて、身体が背凭れに押しつけられる方向に加速されているのに景色がうしろから前に流れて行ったら、さぞや奇妙な感じがすることだろう。なんとなく前後方向の加速に対しては敏感な気がする。ふつうに立っていて左右方向の加速を受けたとしても倒れにくいが、前後方向ならたちまち不安定になるからだろうか。加速の方向によって感受性に差があるのだとすれば、武道家などは自明のこととして技に取り入れているのかもしれない。
 さらに、人間が前後方向の加速より左右方向の加速に鈍いのだとすれば、上下方向の加速にはもっと鈍いはずだ。突然重力が○・九五Gだの一・○五Gだのになったとしても、直立している人はそれを加速と感じず、ふっと眩暈がした程度にしか思わないのではなかろうか。こういうのって、どこかの体育大学あたりに、きちんと定量的に研究している人がいそうだよな。
▼近所で痴漢が出たそうで、団地の掲示板に注意を呼びかける貼り紙がしてある。迷惑だ。べつにおれが尻を撫でられたり乳を揉まれたりするから迷惑なのではない。おれが怪しいと思う人が少なからずいそうだから迷惑なのである。そりゃもう、絶対そう思っているやつがいるにちがいないのである。そりゃまあ、おれがもし近所の人なら、母親と二人で暮している三十七の独身男などには絶対自分の娘を近づけないであろう。しかもそいつは、会社に行く以外はほとんど家に閉じこもって、パソコンを叩いたり、いかがわしげな小説(小説なんてものは、ことごとくいかがわしいのだ)を読んだりしているらしいではないか。あの宮崎なんたらの同類かもしれんそうにちがいない絶対そうだと良識ある社会人なら思うであろう。同類ではないと本人ですらきっぱり否定できぬのだから、無理からぬことである。そう自分でも思うから、痴漢などが出るとはなはだ迷惑だ。おれはまだそこまでは行っていない。いつか行かないともかぎらないが、なるべく行かないようにしている。堅気の女子衆に手をかけるまでには心神喪失していない(おれに手をかけられた、あるいは、かけられそうになった憶えのある女子衆は少なくともおれには堅気だと思われていないのである。どうだ、まいったか)。おれは“まだ”結婚していないのではなく、結婚しないライフスタイルの人なのだ――などと近所に説明してまわるわけにもいかず、なにやら癪に障る。
 そういえばこの掲示板、以前には「SF商法にご用心!」なんてビラが貼ってあったよなあ……。もう、なにか事件があるたびにおれが疑われているようで、激しく迷惑だ。そのうち、「とてもとても大きな顔をした“外国人”の隠し妻がいるらしい」とか「人間離れした娘もいるらしい」とか噂されるのではあるまいか。おれだっていつ乱心もしくは発狂するかわからないから(すでに乱心もしくは発狂しているという説もないではない)未来永劫絶対に痴漢じゃないとは言い切れないが、少なくとも今回のは、いままでのは、おれじゃない。おれじゃありませんっ!

【1月30日(日)】
『栞と紙魚子 殺戮詩集』(諸星大二郎、朝日ソノラマ)が届いたので、さっそく読む。ますます怪しいキャラクターが増えてきて、脂が乗ってきた感じ。おれは諸星大二郎のギャグが大好きだが、正直言って『栞と紙魚子の生首事件』のころには、三巻も続くとは思っていなかった。こういうのが好きな人が多いってのは、喜ばしいことだ(が、ちょっと怖いかも)。ときおり稗田礼二郎が出てくるギャグがあるけど、いっそのこと《妖怪ハンター》シリーズのほうにも栞と紙魚子をゲスト出演させてはどうか。ゲストと言わず、もろに主役格で共演させても面白そうだな。胃の頭町にフィールド・ワークに来た稗田礼二郎は、「おれがいままでやってきたことはなんだったんだ」と、よよと泣き崩れるにちがいない。
 それにしても、クトルーちゃんのママの全身像がいまだに掴めない(そこがいいんだけど)。おれはぜひ《栞と紙魚子》シリーズのキャラクター商品を出してほしいと思っている。ヨグのぬいぐるみとかムルムルのケータイ・ストラップとかがあったら、絶対買っちゃうよね。か、買いませんか? 買うような人しか読まないような気もするんだけどな。

【1月29日(土)】
▼体調が悪いのはいつものことだが、とくに体調が悪いのでうだうだする。食欲はあるのに腹具合が悪い。奇妙だ。風邪ではないらしい。性欲はあるのに勃起しないとか、物欲はあるのに金がないというのと似た症状だ。
 だものだから、セリーヌ・ディオンなど聴く。いくらおれが声フェチでもセリーヌ・ディオンを聴けば腹具合がよくなるかどうかはさだかでないが、少なくとも華原朋美よりはずっと効くだろう。もっとも、華原朋美の歌が身体に悪いなどと酷いことを言うつもりはなく、あれはあれで便秘のときに聴けばたちまち下痢をするだろうから、それはそれで薬効(?)があると考えることもできよう。
 世界には二種類の人間がいる。マライア・キャリーが好きな人間とセリーヌ・ディオンが好きな人間である。両方好きな人や両方嫌いな人はどうするのかという些細な問題はこの際無視する。おれはセリーヌ・ディオン派である。マライア・キャリーもたしかに脚はいい。声もいい。歌もうまい。だが、顔と雰囲気が嫌いだ。見るからに健康そうで、こちらが落ち着かない。セリーヌ・ディオンは、なんといっても眠そうな顔をしている。落ち着くではないか。そのしっとりとした色気は、マライア・キャリーのキャピキャピした健康美なんぞの太刀打ちできるところではない。
 セリーヌ・ディオンの英語は訛っている。フランス語のほうで育ったカナダ人だからだ。なんでもベルリッツで英語の特訓をして英語圏デビューしたそうなんだが、なぜか日本では「セリーヌでイーオン」などと恩知らずにも商売敵の英会話学校を宣伝している。特訓の甲斐あってか、フランス語にはないはずの子音( th とか just の j とか)はほぼきちんと出しているのに(ときどき出し損なうが)、母音のいくつか( call の a とか come の o とか)は意味伝達に支障のない範囲で独特の訛りを残したままだ。子音から子音、子音から母音への音の捌きかたや結合のさせかた、無音化のさせかたにも、英語としては不自然なところがときおり出る。この訛りが色っぽいのである。カナダ人なのに、なーんとなくヨーロッパ風のエキゾチズムを感じさせる。たぶん、アメリカ人にもそのあたりに色気を感じる人がいるのではないか。おなじみ『タイタニック』のラヴ・テーマ My Heart Will Go On にセリーヌ・ディオンを起用した人の思惑がわかるような気がする。あのどことなく国籍不明の味があるバラードを多国籍ドラマの看板シーンで唄う歌手は、誰が聴いても国籍が特定できそうなネイティヴっぽい英語でなど唄ってはならないのだ。生っ粋のニューヨークっ子のマライア・キャリーなどもってのほかである。
 最近よく ♪That's the way it is などと鼻歌を唄っているのだが、先日こいつのいい訳を思いついた。「そういうものよ」なんてのはあたりまえすぎて面白くない。「これでいいのだ」ってのはどうだろう? ちょびっとニュアンスがちがうんじゃないかって? チョーヤ梅酒のCMの「酸性の反対なのだ」といい勝負だと思うんだがなあ。

【1月28日(金)】
▼会社の帰りに小腹が空いたので、マクドナルドに入る(こんな書き出しばっかりだな)。どうも歳のせいか、一度にたくさん食えなくなったくせに、ちょっと腹が減ると我慢できない。秘裂からとろとろと肉汁を垂れ流すハンバーガーの映像なんぞを思い浮かべると、たちまち欲望に抗しきれなくなり獣になってしまう。
 二人がけの席にひとりで座り、チーズグリルビーフバーガーをほくほくと食う。至福の時である。隣席の大学生らしき四人の若者が騒がしい。耳をそばだてていると、どうやらカウンタで注文を訊いている女性店員が可愛いので騒いでいるらしい。はて、そうだったかいな? おじさんとは好みがちがうのだろう。追加注文をする相談をしているもようである。若者のうちのひとりが「チーズブリルギーフバーガー」などと言っている。しっかり練習してから行かんとまちがうぞ(1999年2月20日24日の日記参照)。
喜多哲士さんが「ぼやき日記」(2000年1月20日付)で書いてらした“京都市長選挙の投票を啓発するポスター”をバスの中でようやく見た。二月六日は市長選挙なのである。なるほど、高田美和大魔神を掌に乗せて微笑んでいる。な、なるほど、こんなネタ誰がわかるねんと思うわなあ。おれの五親等以内の親類縁者を全員かき集めて訊いてみたとしても、わかるのはまずおれひとりだろう。しょーもないことで威張るな。試しに母に訊いてみたが、年齢的に高田美和は知っていても、大魔神を知らん。妹なら大魔神は知っているはずだが、おそらく高田美和を知らん。どこに訴求層を定めとるんじゃ、このポスターは? たしかに喜多さんのおっしゃるように、目的を度外視して遊んでいるとしか思えん。こういうのは大好きだ。それにしても、よく市の選挙管理委員会がこの企画を通したな。
 大魔神といえば、むかし懐かしい土曜深夜のバラエティ『今夜は最高!』でデビュー(?)した“大魔神子”について語らねばなるまい。十数年前の話だから、若い方はご存じないかもしれないなあ。いやね、この番組のコントで、タモリが大魔神の着ぐるみを着て出てきたわけですよ。その格好がミニスカートのアイドル歌手みたいだと気づいたタモリは、絶対アドリブだと思うんだが、「○月○日、○○レコードからデビューします“ダイマ・ジンコ”どぇ〜す。よぉしくおねぁいしまぁ〜す」と、股のところに両手を揃えて上体をくねくねさせながらアイドル歌手“大魔神子”を誕生させたのであった。大爆笑だったね、あれは。番組スタッフもノリがいい人ばかりだったんだろう、その後も鎧のミニスカートにサングラスをかけた大型新人・大魔神子はことあるごとに登場し、タモリが最初に適当にでっち上げて歌った「恋の大魔神」は、ワンコーラスだけだったがちゃんとした曲に成長した(レコードを出せばよかったのに、さすがにそこまではやらなかったようだ。おれが知らないだけだったりして)。
 おれは大魔神を見るたびに、もう一度大魔神子ちゃんを見たいなあと思うのである。そこで、もしやと思ってネットを漁ってみると、なななんと「大魔神子史」などというページがあるではないか。インターネットおそるべし。
▼コンビニに入ると、「動物占いランド」なる商品が並んでいた。「売れてます」なんてわざわざ書いてあるからには、やはり売れているのだろう。動物のマスコット人形に、ラムネ菓子がおまけとして入っているらしい。潔い。むかしの仮面ライダースナックだって、スナック菓子のほうがおまけだったからな。二百円も出してこんなものを買うやつが大勢いるのか、世も末だなと思いつつ見ているうちに、なんとなく欲しくなって象のやつを買ってしまった。箱には「対象年齢3才以上」などと書いてある。だったらおれは堂々と買ってよいにちがいない。玖保キリコはさぞや儲かっていることだろう。
 そういえば、おれはいま流行りの「動物占い」ってのをやったことがなかったので、公式サイトでやってみた。おれはサルだそうである。「おだてりゃどこまでも登ってゆく」そうだ。当たっていると言えば当たっているし、ハズれていると言えばハズれている。占いなんてそんなもんだ。そもそも、カエルがないのがけしからん。驚いたことに、この公式サイトには有料の占いまであるのである。ほんとに金払ってまでやるやつがいるのかねえ。
 儲かるんだったらおれもやろうかな。じつは、ひとつ温めているアイディアがあるのだ。動物占いなんかより、ずっと身近で親近感が持てる占いだ。その名も“臓物占い”。生年月日から人間を十二の臓器に分け、性格や相性を占うのである。「あなたは膵臓人間」とかね。いい企画でしょう。井上雅彦氏に企画を持ち込み、《異形コレクション》の別冊として売り出せばベストセラーまちがいなしだ。リアルで可愛い臓物キャラの人形にラムネ菓子を付けて売ろう。キャラクター・デザインは誰がいいだろうな。おれはホラー・コミックをあまり読まないので、臓物が得意そうな人をあまり思いつかないのだ。いままで読んだ中で「臓物がうまいなあ」と思ったのは千之ナイフなんだが……(女の子の顔はみんな同じだと思うけど)。
 もっとも、とっくにどこかの誰かが“臓物占い”のページを作っていたりして……どれどれ……げげっ、期間限定だけどほんとうにあるじゃん、臓物占い。インターネットおそるべし。

【1月27日(木)】
▼また総務庁のウェブサイトがやられ、マスコミに“ハッカー”の文字が乱れ飛ぶ。「あれはクラッカーじゃ」と怒っている人が少なからずいるにちがいないのだが、以前にも書いたように、こういうのはなかなか一朝一夕には変わるものではない。お気の毒なことだ。日本では古来、クラッカーといえば“あたり前田”なのであって、これもなかなか変わるものではない。元ネタを知らない世代ですら、一般教養として「あたり前田のクラッカー」を知っていたりする。それにしても、前田のクラッカーってまだ売ってるのだろうか?
旭屋書店の通販サイト netdirect asahiya がいつのまにかずいぶん使い勝手がよくなっていて、最近こっちをメインバンクならぬメイン・ウェブ書店にしている(ちなみに、www.asahiya.co.jp は歴としたオンライン・ショップだが、鰻屋さんなので本とまちがって買わないように)。とくにコミックを買うのには、新宿南店に在庫がないコミックは扱ってくれなくなった紀伊國屋書店紀伊國屋 Book Web などに比べるとずっとよい。そんな片田舎の店に在庫があろうがなかろうが、インターネット利用者の知ったことかよ。
 amazon.comWish List を参考にしたと思われる、netdirect asahiya の「本棚」なる機能がやたら便利だ。「すぐには買わないが、買うかもしれん本」をとりあえず放り込んでおいて保存できる仕掛けである。自分の好きなようにカテゴリーを作れる(六つまで)点は、アマゾンを超えている。アマゾンの Wish List には、公開できるというものすごい仕様があったりするけど、これはまあ、本をプレゼントする習慣があまり一般的でない日本では、取り入れてもウケるかどうかわからないよな。おれは自分の Wish List は公開していない。公開しておけば、どこかの奇特な人がおれのリストを検索して親切にもおれに本を買ってくださるかもしれないのだが、それもなんだか気色が悪いわ。
 十年一日のごとくサービスに進歩のない紀伊國屋 Book Web はうかうかしていてはいけない。もう少し“パーソラナライズ”された(できる)インタフェースとサービス体系にしなくちゃね。ワン−トゥ−ワン・マーケティングのためにあるようなインターネットという媒体で、客を十把一絡にしか扱わない旧態依然たるやりかたをいつまでもしていたのでは、いくら先行者のメリットがあっても、その地位は危ういと思うな。この“おれ”が紀伊國屋 Book Web の得意客であると、錯覚でもよいから実感できたことがないのだ。再販制度のために送料以外では価格競争ができない日本では、サイトのインタフェースとプラス・アルファの付加価値がすべてである。このままでは、紀伊國屋の記事やデータベースでたまたま見つけた本を、とりあえず旭屋の“自分の本棚”に放り込んでおき、そのうち旭屋で買うといった使いかたさえされかねない。というか、おれがすでにそういう使いかたをしていたりするんだよなあ。一回ぶんの注文の送料を有効に使うためには、一冊だけ買うのはもったいないわけだから、「あ、そうそう、今回はこれとこれも乗せよう」って具合に“ついで買い”をするのがふつうだろう。その際、“そのうち買おうかなと思っている本”のリストがショッピングカートと連動した状態で“一会員にひとつ”与えられていることがいかに強力な武器になるか、紀伊國屋書店さんは、ネットで本を買おうとする利用者の視点に立ってよく研究するべきだよ。

【1月26日(水)】
▼な、情けねー。科学技術庁のウェブサイトが、ハッキングの“被害後”にも簡単に外部からアクセスできたことを、Mainichi Interactive が1月26日付けで報じている(「被害後も外部アクセス可能に 甘い危機管理意識--科技庁」)。な、なんだ、これは――。もしかして、科学技術庁はコンピュータが苦手なのだろうか。わざとディレクトリに蓋をせずに画像を配布しているエロサイトじゃあるまいし(さては見たことあるな?>おれ)、なに考えてんだろうね、まったく。文科系の省庁(なんてものがあるのかどうか知らないが)のほうが、よっぽどセキュリティが固いではないか。上記の記事は『専門家は「外部から見えるような形で作業を行うのはセキュリティー上お粗末としか言いようがない」と指摘している』などと報じているが、こんなのなにも専門家のコメントである必要なんかないじゃないか。パソコンなど目にすることなく、おそらく想像だにもすることなく死んだおれの婆さんが仮に生きていたとしよう。「ホームページというのはこれこれこういうものなんだが、これこれこういう事件が起きた。ホームページを元に戻して、またやられないようにするためにはどういうふうに用心する?」と訊いてみたとしたら、婆さんはこう言ったにちがいない――「泥棒に入られたみたいなもんか? 二度と絶対にやられんようにするのは難しいやろな。人間のすることやさかいな。それに、そのほーむぺーじちゅうのは、みんなに見てもらうためのもんやろ? そしたら、あんまり来にくいようにしといたら意味ないわな。ようけ人が見にくるんやったら、絶対阿呆も悪人も来よる。塩酸かけよるやつだけは美空ひばりを観にきたらあかんというわけにはいかん。津川雅彦の子ぉがさらわれたあと、芸能人は子供の顔をテレビやら雑誌やらに出さんようになったもんやのに、最近の芸能人は喜んで出してよる。あほや。ああ、話が逸れたな。ほーむぺーじか。まあ、家に新しい鍵やら新しい警報の仕掛けやら付けるんやったら、人に見られんように付けるのがあたりまえやな」おれが子供のころ、婆さんは空き巣に入られたことがあったのである。
 それにしても、日本人は完全にナメられているなあ。腹立つ。意外とチョロいとわかったので、しばらくはあちこちの官公庁がやられるにちがいない。いや、チョロいことは連中にはとっくにわかっていて、目立たないように必要な情報だけ失敬していっていたのだろう。今回のようにとくに主張したいことがある場合を別にすれば、ひたすら目立たないようにしてターゲットを骨までしゃぶるのが賢いやりかただ。知能犯にとって、相手がこちらの存在に気づいていないほど気持ちよく都合のよいことはないのだから。それをアピールしたくてたまらないやつは、幼児性の抜けない部分を持っているわけで、知能犯としては二流なのだ。
 日本のお上が危機管理音痴なのは、すでに日本国民にはもちろん、諸外国にも知れ渡っている。阪神淡路大震災ペルー大使館人質事件などがあったあとでさえ、これでもかとばかりにJCO臨界事件みたいなのが起こるのだ。サイバースペースでだけセキュリティが固いわけがないではないか。セキュリティに万全はないから危機が襲ってくるのはいたしかたのないことだが、すわ一大事となったとき、日本のお上はたちまち途方に暮れ、ひきつけを起こしてその場にうずくまって動けなくなるか、動けば必ず傷口を広げるようなバカなことをやる。これはもう、世界の“定説”だ。もしサミットを前にした外圧がなかったら「不正アクセス行為の禁止等に関する法律」すら、もっと成立が遅れていたかもしれない。今回のようなカワイイ事件でガードが強固になるなら、むしろけっこうなことなのではなかろうか。こういうハッカー論理はあまり好きじゃないが、残念ながら日本のお上に対して効果的であることはたしかだ。
 なんとなく筑紫哲也みたいな陳腐な見解で、この日記らしいバカさ加減が足りないのだが、やっぱりそう考えざるを得ない。婆さんもよく言っていた。「一事が万事てな。うちやから言うて自堕落なことしとったら、必ず外に出たときもお里が知れるもんや」
 いやあ、いまだに耳が痛いぜ。
▼今日もまた“ご長寿早押し”が出た。

「○○(おれの姪の名)が、インフレエンザでたいへんやて」
おれ「インフルエンザ、インフルエンザ」

 そういえば、昨日の“ご長寿早押し”の話に対して、ケダちゃんからさっそく投稿(?)があった。『わたしとしては、電子レンジの逆バージョンのほうにそそられてしまいました……>遺伝子レンジ。3分間チンすると組変わるレンジです。入れ替えて笑える組み合わせが他にもたくさん思いつけばいいのですが……。「あ、あれ変えよ」とか、「げ、飲む」とか、関連商品もいろいろあるでしょうし……』
 うーむ。「あ、あれ変えよ」か。これはやられた。家電メーカが新型の電子レンジを出すかもしれないぞ。「イントロンでチーン!」とか。「インターフェロンでチーン!」のほうが語呂がいいか。ちなみに、おれの日記好みの方は、ケダちゃんの日記帳伝言板にもぜひどうぞ。ここに劣るとも優らぬアホなことがいっぱい書いてある。

【1月25日(火)】
科学技術庁のウェブサイトがハッキングを受けていたことが昨夕わかったそうなんだが、きっとこういう“続篇”が頭の中で走り出した人が少なくないものと思われる……

 時差ぼけで眠そうなその男の両手が、十本脚の別の生きもののようにキーボードを舞った。ワークステーションのディスプレイにログが流れてゆく。流れてゆく、流れてゆく、流れてゆく。ほんとうに判読できているのだろうか。こいつは居眠りをしているのではないのか――肩ごしに見守る技術者たちが本気で心配しはじめたとき、画面のスクロールがぴたりと止まった。男の首筋に緊張が漲っているのがわかる。キーボードに両手を乗せたままゆっくりとふり向いた彼の目は、長旅の疲れで濁っていた先ほどまでの様子が嘘のように、不敵な輝きを放っていた。猟犬の目だ。
「どうですか?」
 場ちがいなスーツ姿の男が一歩進み出て、心配そうに尋ねる。男は答えず、椅子を回して一同に向き直ると、ため息とも含み笑いともつかないものを漏らした。
「やつか、ツトム?」彼と一緒にやってきた黒人技師が、両手をポケットに突っ込んだまま愉快でたまらないといった調子の英語で言った。
「Yeah, it's him.――やつです。ミトニックです」

 し、しかし、どうやって……というところから、下村努ケヴィン・ミトニックの手に汗握る虚々実々の知恵比べが再びはじまるのである。じつはミトニックは、FBIに捕まる直前、世界征服を企む悪の秘密結社の手によって体内にコンピュータと無線インタフェースを埋め込まれ、コンピュータに手を触れずにハッキングができる驚異の改造人間に生まれ変わっていたのであったあ――ってSF、誰か書きませんか? 書きませんよねえ。はい、すみません。
▼朝、台所のテーブルの上に福豆が置いてあった。べつに豆撒きをするわけでもないのだが、毎年一応食うだけは食うのがわが家の習わしになっているのだ。福豆の袋には、遺伝子組み替え大豆を使っていない旨が大きく表記されている。「最近は、なんにでも書いてあるな」とおれは軽い調子で母に言った。「そうやなあ」と母は答えた。
 夜、帰宅して台所で晩飯の豆腐を食っていると(うちはダイニング・キッチンである)、茶を煎れながら母が言った。「そういえば、その豆腐にも書いたあったで……ほれ、なんやったかいな……あれや、あれ……」
 母がなにを言おうとしているのかはすぐわかったものの、頭の体操をさせれば少しはボケ防止に役立つだろうと、おれは母がその言葉を思い出すのを待った。「……なんちゅうんかいな、ほれ、“電子組み替え”やないて書いたあった」
 おれはむせた。咀嚼してぐちゃぐちゃになった米を危うく口から吹き出すところであったが、両手がふさがっていたため口を押さえることもできず、なんとか頬を膨らませて耐えた。噴飯やる方ないとはこのことだ。「遺伝子や、遺伝子組み替え!」一応、関西人の礼儀として突っ込む。
 毎日が「ご長寿早押しクイズ」のようである。それにしても、ものすごい食いものを発明してくれるわい。マダム・フユキもびっくりだ。“電子組み替え食品”とは、いったいどのようなものだろう。SFだ。この親にしてこの息子あり。なにしろ電子を組み替えるのだ。電子を叩き割るくらいの膨大なエネルギーが必要だろう。組み替えたそれは、やっぱり電子なのだろうか。“組み替わって”いたとしても、あくまで電子であるなら、物性に影響はないはずだ。だったらわざわざ組み替える意味などないと思うのだが、そこはそれ、食通の舌には微妙なちがいがわかるのかもしれん。おれは、なぜか“電子レンジ”などと奇妙な名で呼ばれている機械をぼーっと眺めながら、「電子組み替え食品、電子組み替え食品……」と頭の中で繰り返し続けるのだった。

【1月24日(月)】
▼昼休み。あまり食欲がないので、食べやすいものはないかとビルの地下食堂街をうろついていた。たまにしか入らない店のサービスランチがハヤシライスで、これなら食えそうだと入って注文する。やがて、カウンタに座っているおれの前に、店のねーちゃんがハヤシライスを運んできて置いた。ややや。なにやら違和感があるぞ。みなさんは、ハヤシライスを食うとき、ハヤシ(?)が右に来るように置くか、それとも――もういいですかそうですか。
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

『究極蛮人ダンジョーV外伝 魔物始末タンビーZ 巻之一』
秋津透、秋津洲企画)

 秋津透の読者は「え、そんなの出てたっけ?」などと驚かないように。これは同人誌である。秋津さんは、商業出版が止まってしまったシリーズも、同人誌でどんどん外伝を出す不撓不屈の読者思いの士なのだ。ご本人がなんとしても書かずにはいられなくなるせいでもあるようなのだが……。ウェブページで通販もなさっている。
 これは「ほとんど発作的に書き上げた」という十数ページの短い作品なので、すぐに拝読した。こ、これは……なんとも怖ろしい作品だ。いわゆる“秋津ルビ”をウェブページで再現するのは至難の業であるからルビは( )に入れることにして、とくに怖ろしいところをちょこっとだけ引用してみよう。世にも禍々しい魔物が登場するシーンである――

「ヴァッキャヨー!
 ゲンギューッジャ、ヴァッキャヨー!
 ゴーミュイーン、ヴァッキャヨー!」
 身体(からだ)の大きさ(サイズ)からすると比較的小さい翼をばたばたと羽ばたかせ、巨大な人面怪鳥は、身の毛もよだつような声で咆哮(おたけび)をあげる。
 この怪鳥こそは、世界各地をどたばたと高速で走り回り、召喚さ(よ ば)れもしないのにあちこちの古代都市に乱入したあげく、巨脚(でかあし)による踏みつけ蹴飛ばし(げしげしがしがし)攻撃と、所構わぬ嘔吐物排泄物(ゲ ロ ク ソ)垂れ流し攻撃で、どんなに栄えている都市でも瞬時に壊滅させて無人の廃墟と化してしまう伝説の超迷惑(ちょーこまった)魔物(モンスター)、悪名(そのなも)高い偏執痴鳥ヴァッキャヨーである。

 うーむ、わかる人にはなんとなくわかるかもしれないが、わからない人にはさっぱりわからないであろう話で恐縮だが、げに作家の想像力というのは怖ろしいものである。むろん、こんな怪鳥は作家の空想の産物であって現実にこんなものがいるはずがないのはなにも説明するまでもないことだ。おれがこの小説の世界に住んでいなくてよかったなあと、胸を撫で下ろしている。あははは。そうさ、現実にはこんなものはいない。えええ、いませんとも。

【1月23日(日)】
▼たとえば、誰かがやたら迷信がかったことを言うとする。うちの母なんぞしょっちゅう言っている。そんなとき、むかしは便利な言葉があったものだ。「月にロケットが飛ぶ時代に、なにを言うてんのや」
 読者のおじさん、おばさん、思い出すでしょう。“月にロケットが飛ぶ時代”ですぞ。あなたも使ったことがあるはずだ。だが、最近はこれに相当する表現が見当たらない。いろいろ作って言ってはみるのだが、いまひとつインパクトに欠けるのだ。「牛のコピーを食う時代に……」「時計型の無線通信機で話す時代に……」「スペースシャトルが飛ぶ時代に……」「小学生がコンピュータを持ち歩く時代に……」
 やっぱり、インパクトがない。「火星に探査機が飛ぶ時代に……」などと言ってみたところで、“月にロケットが飛ぶ”にはまったくかなわないのである。思うに、“月”や“ロケット”という言葉が持っている叙情性に、やはりわれわれはなにか打たれるものがあるのだろう。将来、「木星にロケットが飛ぶ時代に……」と言うようになったとしても、あのころ“月にロケットが飛ぶ時代”なる表現が持っていたパワーにはかなわないだろうと思うのである。なにか、いま使えるようないい表現があるでしょうかね?
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

『彗星パニック 〈SFバカ本〉』
岬兄悟大原まり子編/明智抄、いとうせいこう、大場惑、岡崎弘明、梶尾真治、久美沙織、東野司、牧野修、岬兄悟、村田基、山下定/廣済堂文庫)

 先週の金曜日に届いていたのだが、バタバタしていたためご恵贈御礼を失念していた。重ねて御礼申し上げます。
 さてさて、おなじみ《SFバカ本》シリーズ、今回からは恒例の「○○篇」というネーミングをやめたようだ。ちょっと見ると、ロボットSFか宇宙SFのアンソロジーのような表紙デザインであるため、勘ちがいして買い求めバカSFにハマってしまう人が続出しそうでたいへん愉快である。
 こうしてまた、自分のウェブサイトを持っている執筆者名にはリンクを張りながらご紹介しているが、今回はウェブサイトを持っていない作家が多いのが特徴と言えば言える。このシリーズは、いつも執筆者のウェブサイト所有率が異常に高かったのだ。このあたりに、人選に変化を与えようという意図が感じられる。
 腰巻のキャッチコピーがいいね。「癒されてる場合じゃない!!」 いやほんと、癒されてる場合じゃないよ。

【1月22日(土)】
トップページのカウンタが200,000を突破。もはやこの日記ページが看板になってしまって久しいが、やっぱり十万の桁の数字が変わると気持ちがいい。このサイトを一度でも訪れてくださったみなさま、ありがとうございます。
▼どうも癪なことがある。おれの携帯電話には“ノイズサプレッサ”なる機能がついている(ツーカーホンのウリのひとつだ)。どういうものかというと、送話口から拾う音のうち、人間の声の周波数帯以外の音波をカットする機能だ。周囲がざわざわしている場所で話すときに威力を発揮する。たしかに、電話で話している相手に訊いてみると、電波状態がよければ音質は相当クリアらしい。しかし、だ。この機能がどのくらい効果的に働いているのか、おれ自身にはさっぱりわからないのである。相手が同じ機能を備えた機種を使っていないかぎり、主観的にはなんのありがたみもない。まあ、母なんぞは耳が遠いから、それなりに役立ってはいるようなのだが、なんだか癪に障る。留守禄で実験してやろうかと思うこともあるにはあるけど、なんだか電話代がもったいない。
 三本の電波で切れにくいとかいう cdmaOne だって同じことだろう。だって、こっちが cdmaOne を使っていても、相手が切れやすい(などと言っている電話会社はどこにもないと思うが)携帯電話を使っていれば、あまり意味はないのである。
 で、前から不思議に思ってることに繋がるんだけどさ、最初に言葉を使った人間ってのは、いったいなにを考えておったのだろうね? 「これからは、危険を知らせるとき“グギャーッ、ギャギャッ”と言う代わりに“アブナイ”と言ってみることにしよう」と、ある日、頭のいいやつがふと思いついたとしても、まわりのやつは誰も“アブナイ”なんて言葉は知らないのである。考えにくいことだが、複数の人間が“アブナイ”という言葉を同時に思いついて使いはじめなきゃならんのではないか? やっぱりみんなでモノリスに触ったのだろうか? あるいは、最初のうちは周囲に理解してもらえなくても、はじめの天才が根気強くアブナイアブナイと言い続けているうち、ほかのやつにも状況との関係が掴めてきて、「ひょっとすると、あいつは危険を知らせるつもりで“アブナイ”などという奇異な音波を発しているのではあるまいか?」と、学習していったのだろうか? じつに不思議である。
 こういう謎は、電脳空間内のいわゆる“人工生命”の研究で解き明かせないものであろうか。どんどん進化させていると、あいつらは有性生殖を“発明”したりするそうだから、なにかの拍子に意味を持つ記号体系を発明し(最初はごく簡単な“叫び”のようなシグナルかもしれん)、それを仲間と交換することは生存に有利だと発見するかもしれんぞ。だとしたら、最初にその“言葉”を発明した個体から、それが伝播してゆく過程が観察できるだろう。いや……待てよ。よくよく考えてみると、その最初の“言葉”は、一個体が単独で発明するものではないのだろうな。最低ふたつの個体のあいだで生じる“関係性”から、ぽっと最初の言葉が発生するのにちがいない。人間もそうだったのかもな。ひとりの天才が発明した言語体系が広まっていったのではおそらくないのだ。個体と個体とが接触する界面から、言葉は湧いて出たのだろう。つまり、個体が“他者”を獲得したとき、海と空とのあいだに“水平線”という実在しない線が出現するのと同じように言葉が生まれたと考えるのが自然である。
 あ。清水義範〈SFマガジン〉の連載「銀河がこのようにあるために」でやろうとしているかもしれないことが、なーんとなく見えてきたぞ。

【1月21日(金)】
▼小腹が空いたら、できるだけカップ麺を食っている。少々カップ麺の頻度を上げているだけで、基本的には平時の食生活とそれほど変わるものではない。いやね、万が一のY2K対策にと、いつもより多めに買いだめしてあったやつが嵩張ってしようがないのだ。ふだんから買いだめはしてあるのだが、いまはとくにたくさん積んである。「赤いきつね」の上蓋がたちまち三枚溜まってしまった。「デジタルグッズコース」ポケットボードピュアに応募してみよう。こういうのって当たったためしがないんだが、ま、せっかくだしね。
▼去年の秋ごろからやたら忙しくなかなかストレスが解消できないため、気分転換に新しいペンを買う。といっても二千円くらいのものである。最近は安いペンでもたいへん書き心地がよく、二百円〜三百円くらいのもので十分なのだけれども、常時携帯する愛用のペンには、やはりある程度の重量感と、緊急時には護身用の武器になる堅牢性が欲しい。よって、ボディは重い金属製を好む。手で文字を書くことはめっきり少なくなってしまったから、長時間の使用に耐えるほどの快適さを求めるわけでもない。
 おれがずっと気に入っているのは、三菱EXCEED シリーズである。とくに、黒ボールペン、赤ボールペン、シャープペンシルが一本になっている EXCEED 3 が好きだ。ノック部分はひとつで、ノックするときにペンをどのように構えているかで出てくるペン種が変わるのである。重力スイッチとでも言うべき、じつにエレガントなアイディアだ。同じ仕組みのものは、パイロットプラチナなど各社から出ているのだが、おれの記憶では最初に出したのは三菱であったように思う。最近では青ボールペンが加わった四種ペン仕様のものもある。青ペンの使用頻度は低いし、妙に太いのでおれはあまり好まないけどね。どうせ四種にするなら、青ペンの替わりに千枚通しのような針が出てくるようにしてほしいものだが、いくらなんでもそこまで露骨に護身用を謳ったペンを売るわけにはいかないだろう。改造すればできないことはないかもな。
 ペンに武器としての性能など要らんだろうというのは、むかしの日本の話である。最近じゃ、目の焦点の合ってないやつが、夜道や地下道でいつ襲ってくるかわかったものではないのだ。手近になにもなければ、やはり懐に差しているペンを手に取るだろうと思うぞ。なにも闘ってこれを滅ぼす必要はなく、相手を怯ませられるか、走って逃げる時間が稼げればいいのだ。顔めがけて投げつけて逃げてもいい。よくよく考えてみると、投げつけることができて多少なりともダメージを与えられる物品を、ふつうの人はあまり携行していない。やむを得ず接近戦にでもなったら、これはもうこちらも殺されることを覚悟で闘うしかないだろう。シャープペンシルの先端には、十分に皮膚を貫くだけの鋭利さがある。あとはペン軸がどのくらい強いかだ。ひたすら目を狙えばよろしい。通りすがりの善良な市民に襲いかかってくるようなやつを失明させたとて、おれの良心は痛まない。殺らなければ殺られるという事態になれば、早い話がなんだって武器にせざるを得ないはずだ。どうせ殺されるのなら、相手の体組織の一部なりとも抉り取って死んでやりたいものである。


↑ ページの先頭へ ↑

← 前の日記へ日記の目次へ次の日記へ →

ホームプロフィール間歇日記ブックレヴューエッセイ掌篇小説リンク



冬樹 蛉にメールを出す