間歇日記

世界Aの始末書


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2000年7月上旬

【7月10日(月)】
▼あっ、なんということだ。杉並太郎さんの今日付けの日記を読んでいて、はたと気づいた。昨日書いた“ ”は、“ちょんちょん・ひげかっこ”ではなく、“ちょんちょん”もしくは“ひげかっこ”なのではないか。よく本を見ると、そう取れるように書いてある。それにしてもおれは、こういうことをまったく知らんなあ。こういうことだけ知っているよりはましかもしれんが、限度というものがある。いまから文章指南の類でも読んでみるか? でも、なんだか余計下手になりそうな気もする。ムカデは、自分がどうやって歩いているかなど考えてはならんのだ。
5日の日記で書いたカエルグッズ専門店の件を「かえる新聞」にタレ込んでおいたら、早くも7月10日号に掲載されていた。しかも、併設の「かえる掲示板」に、さっそくかの店「cave」を贔屓にしていてメンバーズカードまで持ってらっしゃるけろろんさんという方が現れた。「国内プリティカエルより、海外リアルカエル好きの方におすすめです」ということで、水玉螢之丞さんから追加情報として頂戴していた「ややハイブラウな輸入雑貨」を扱っているという証言とも合致する。同じ店にちがいない(って、カエルグッズ専門店がそんなにうようよあるかよ)。
 それにしても、「かえる新聞」の情報力には端倪すべからざるものがある。やはり、カエルのことなら「かえる新聞」だ。

【7月9日(日)】
『この文庫がすごい! 2000年版』(別冊宝島編集部編、宝島社)の表紙を見ていて、ふと思う。このおやじもねーちゃんも、なぜか右手に文庫本を持って読んでいる。これって、すげー妙な気がするんだよな。ふつう、日本語の文庫本を読む場合、左手で持ったほうが断然読みやすいだろうに。片手でページがめくれるからだ。まあ、絵的には、この二人は読者から向かって左側を向いていなくてはならないだろうし、だとすると右手で文庫本を持たざるを得ないのはわかるのだが、どうも気色が悪い。あなたは片手で本を持って読むとき、右手で持ちますか、左手で持ちますか?
 おれの理屈でゆけば、英語の本を読むときには右手で持たねばならなくなる。ところが、実際には、やっぱり左手で持っていることが多い。むかしは、片手でページがめくりやすかろうと、理論どおりに(いつ理論ができたのだ?)右手で持っていたのだが、どうも日本語の文庫本とは勝手がちがう。洋書のペーパーバックは、日本の文庫本に比べると格段に紙質が悪く、しかもサイズが大きいため、右手で持とうが左手で持とうが、そもそも片手でページを繰るなどという横着なことがやりにくいのである。
 だが、必要は発明の母といおうかなんといおうか、右手が吊り革から離せない状況は、長年のあいだにペーパーバックを左手だけで読む技をおれに編み出させた。
 いま、百二十ページと百二十一ページが見開きになっている状態で読んでいるとする。当然左手の親指は百二十ページを、左手の小指は百二十一ページを押さえており、残りの三本の指は本の背から裏表紙のあたりを押さえている。ちょうどパームボールを投げる(そんなもの日常生活では投げないが)ような手の形になっているわけだ。さて、この見開きを読み終え、百二十二ページに移らねばならない。まず、百二十ページを押さえている親指を本の中央付近に滑らせ、親指で百二十ページと百二十一ページを同時に押さえる。と同時に、百二十一ページを押さえていた小指を浮かせて、小指の腹で百二十一ページと百二十二ページが印刷されている紙を一枚だけ引っかけて(ここが難しい)百二十ページ側に少し折り返すように持ち上げながら素早く百二十二ページと百二十三ページのあいだに小指を滑り込ませる。あとは親指を百二十ページからはずし、紙を一枚跨いで百二十二ページにあてがいつつ、小指で百二十三ページを押さえ、親指と小指で本を両側にぐいっと開く。これで改ページ操作完了である。洋書のペーパーバックの場合、とくに小指を手の甲側に反り返らせる筋力が日本語の文庫本を読むときよりも必要とされる。また、日本語のハードカバーを読む際にも、この技はほぼそのまま適用できる。異なるのは、紙を一枚引っかける動作を親指で行う点である。親指の腹のほうが面積も広く柔軟性があるため、慣れれば親指の腹の上で紙の端を滑らせて(このときあまり力を入れてはならない。親指の腹が切れてしまうことがある)、かなりのスピードでぺらぺらと機械のようにページを繰ってゆくことができるようになる。こういうケッタイな技巧を身につけているのは、たいていが電車の中で長時間本を読むことを強いられている人々である。あ、あなた、できますか、やっぱり。
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

『でならひ草子 三号』(第39回日本SF大会「ゼロコン」内自主企画「SF創作講座」教材)
(発行者:杉並太郎/講師:森下一仁、久美沙織、塩澤快浩、三村美衣/世話役:杉並太郎)

 昨年もくださった『でならひ草子』、今年はSF大会前に送ってきてくださった。ありがとうございます。残念ながら、今年もおれはSF大会には行かないので、この講座でどのような熱い講評が交わされるのか、目の当たりにすることはできない。いつの日か覗かせていただくこともあると思いますが、今年もみなさんがんばってください。
 巻末についていた「原稿の書き方――森下先生の資料より」を読んでいて、奇妙な感慨を覚える。誰に習ったわけでもないのに、おれはいつのまにかこうしたことどもを身につけてしまっているではないか。むろん、本来こうすべきだと知っていても、個人的に気色が悪いので基本をハズしていることだってあるのだが、プロがまとめた「原稿の書き方」に知らずしらず近づいているのは、なんだか不思議な感じがする。
 ふむふむ。“ ”は、“ちょんちょん・ひげかっこ”と言うのか。知らなんだ。音声で校正をすることがほとんどないからだろう。「意味不明の単語など、特定の言葉を強調する際に使用する」とある。おそらくこれは、もともと日本語にあった符合ではなかろう。海外渡来のものなのではなかろうか。いつぞや、丸谷才一が“ちょんちょん・ひげかっこ”の多用に苦言を呈していたことがあったように思うけど、便利なんだよな、これ。とっくにお気づきであろうが、おれはこの“ちょんちょん・ひげかっこ”を多用する。小松左京の影響かもしれん。小松左京がある種の衒学的ノリで飛ばしているときなど、“ちょんちょん・ひげかっこ”の嵐になってくる。『虚無回廊』なんぞ、すごいところでは五行に五つくらい出てきているところがあったように思う(むかし、連載一回分に何度出てくるか数えてみたことがあるのだ)。小松左京の“ちょんちょん・ひげかっこ”は、「特定の言葉を強調する」ためというよりも、「その言葉に通常の意味を逸脱する幅や含みがある」ということを示すために使われていることが多い。たとえば、小松左京が「生命は……」と書くとそれは字義どおり生命の話なのだが、ひとたび「“生命”は……」と書けば、そこに妖しい意味が生じる。“生命”の背後に、シュレーディンガーやらフォン・ベルタランフィやらドーキンスやらプリゴジンやらなにやらかにやら、およそ日常語の生命ではない意味の含みが勝手に付与されてしまうのである。勝手に付与されない読者は、そのまま日常語として読み流していっても差し支えないのだ。小松左京は“ちょんちょん・ひげかっこ”によって、読者の教養を総動員せよと暗黙のメッセージをタイポグラフィカルには発しながら、音声としては日常語として読んでも流れに支障がないようにしているのである。つまりこれは、「読者各人の持っているものに応じて読め」と突き放しているわけで、あまり厭味にならずに(専門用語をさほど使わずに)ペダントリーを展開するのに有効な手なのだ。“ちょんちょん・ひげかっこ”を無視しては小松左京の文体を語れないほどに、これは重要な小技なのである。
 で、おれの用法はというと、小松左京には遠く及ばず、単に細かいニュアンスを別の言葉で説明するのが面倒なので、なじみの言葉に“ちょんちょん・ひげかっこ”で含みを持たせるという情けないものである。一歩まちがえると思考の怠慢に持ってこいの小技なので、おれの文章が「ああ、読みにくいなあ」と思ったら、以て他山の石としていただきたい。

【7月8日(土)】
▼先日、rhyme さんから驚くべきタレコミをいただいていたのを忘れていた。6月15日の日記で、「おれもまさか、そんなことを考える人が――いや、考えるばかりか、やってみる人がほかにいようとは夢にも思わなかった。げに、世間というのは広い」と驚いていたら、世間はおれが考えていたよりもさらに広いことが判明した。なんと、「なっとうチョコ」富士食品)という製品がほんとうに発売されていたのである。1999年2月13日の日記でご紹介したような“藁苞に入った納豆型のチョコレート”なのではない。正真正銘の納豆とチョコの合体したものらしい。「富良野の納豆屋さんがまじめに本気でつくりました。 糸引きドライ納豆(北海道産)をチョコでくるんだ、不思議なおいしさです」などと自信たっぷりに紹介してある。「まじめに本気で」というあたりに、なぜそんなに強調するのかと不安なものを感じないでもないのだが、rhyme さんのご報告を読んでみると、その不安はさらに膨れ上がる――

「一昨日、職場で女性が何かの土産(?)に持ってきたのですが、
納豆をチョコでからめ、溶けないように外側を
ミルク/ホワイト/抹茶チョコでコーティングしたものでした。
m&mのチョコレートが一回り大きくなったものが近いでしょうか。
それが小さなカップアイス用らしき容器に入っていました。

一粒食べてみたところ、一噛み目の食感は甘納豆といった感じで、
これはなかなかいけると思いました。
二噛み目は、納豆チョコを噛み潰した奥歯の辺りになにやら
「ねとー」という感触が伝わり、えもいわれぬ気持ちにさせられました。
そして三噛み目、あの納豆特有の刺激臭が口一杯に広がり、
鼻に抜けました。そこに周囲のチョコの甘みが舌に重なります。

う、うげえええええぇぇぇぇぇっっっ!!!!

……そのままトイレに駆け込んでしまいました。
納豆そのものは大好きだったのですが、なんだかこれからは
普通に納豆を食べる事が出来ないような気がして恐ろしいです。

 こ、こういうものであるそうだ。怖るべきことに、富士食品はちゃんとこの商品をウェブでも通信販売している「不思議なおいしさ」というやつを確認してみたい。ような気もする。ちょっと、時節柄すぐには注文してみる気にはならないのであるが、そのうち買ってみるかもしれないので、あまり期待せずに期待しておいていただきたい。

【7月7日(金)】
雪印乳業による食中毒事件は、まだまだ影響が広がっている。やっていたこと(やっていなかったこと)は、結局JCOと同じだ(1999年9月30日10月1日2日10日11日2000年1月26日の日記参照)。あれでは、おそらくいままでにも、個別の事例としては食中毒じみた事件があちこちで起こっていたのではあるまいか。「しまった。ちょっと古かったのかな」ですませてしまっていた消費者も、いないとは言えまい。
 とはいえ、JCOや雪印乳業に石を投げられる企業が日本にそんなにたくさんあるとは、おれにはとても思われないのである。「危険物や食品を扱っているのだから……」と呆れる気持ちはよくわかる。が、定性的に似たような会社は、むしろ多数派であろうとおれは思う。今日も会社の人間とそんな話をしていたのだ。

会社の人「うちは食べもの作ってないでよかったなあ」
おれ  「うちが牛乳屋だったら、きっと食中毒出してますよね。核燃料屋だったら、絶対臨界事故起こしてるだろうし」
会社の人「よかったなあ」
おれ  「よかったですよかったです」

 なにがよかったんだかわからないが、まあ、三分の一は冗談、三分の二は本気である。
 逃げも隠れもできんからだろうけど、常態のウェブサイトを閉鎖し完全に食中毒事件の謝罪と対応に当てているのには、あたりまえのこととはいえ、遅まきながらの誠意は感じられる。そうだよ、企業のウェブサイトというのは、こういうふうに使うものだ。こういうふうに使わねばならん事態は遠慮したいけどね。
 いやあ、しかし、うちの牛乳は明治乳業のでよかったなあ。いや、おれはあまり牛乳を飲まないのだが、母親が骨粗鬆症を気にしていて、努めて飲むようにしているのだ。もっとも、雪印の同業他社には、ライバルが食中毒を出して喜んでおられては困るのである。きっといまごろ、どの会社も自社工場の総点検を命じているにちがいない。たぶん、命じていると思う。命じているんじゃないかな。ま、ちょっと覚悟はしておけ(古い)。

【7月6日(木)】
▼昨日届いていた郵便物をようやくゆっくり見ると、富士ゼロックスのものである。はて、うちにはコピーなんぞない(ファックスすらない)のになと開けてみると、ああ、そうか、以前「オンデマンド版小松左京全集」『虚無回廊III』を買ったのだった。このたび、角川春樹事務所から単行本として出版されたので、記念に単行本と同じブックカバーをくれるという。なるほど、オンデマンド版の体裁は同人誌みたいだもんな。同封されていたカバーをかけてみると、なかなかかっこいい。いま、この版を持っている人は、失礼ながらそんなに多くはいないだろうと思うと、なんとなく気持ちがよい。
 小松左京氏からのメッセージがあるというので、特別キャンペーンのページにアクセスし、同封されていたパスワードを入れてみた。お教えしたいところだが、そうもいくまい。買った者だけが浴せる特典である。そういえば、なにやらキャンペーンを行うということはちょっと前にメールで案内が来ていたのだが、見るのを忘れていたのだった。まさか「『さよならジュピター』のトレーナー」が賞品であったとは……たっ、たしかに「現在ほとんど出回っていないレア物」にはちがいない。
 小松左京氏のメッセージ内容は読者への「乞う!ご期待」的なものに留まっていたが、動画がお元気そうでなによりである。もう、十数年前になるだろうか、出演なさったテレビ番組を見ながら数えていたら、一時間の番組で、きっかり五分に一本煙草を吸っていらしたのにはたまげた。最近は吸ってらっしゃるのだろうか。「じつはどうしても、その、ご挨拶しろとわれわれのまわりの連中が言うもんですから、こういう便利な仕掛けができたんでご挨拶しますが……」ってあたりが、なんとも小松左京らしくて、にやりとしてしまった。ともあれ、『虚無回廊』再始動である。「SFセミナー2000」角川春樹社長は、「鞭を入れてでも書いてもらうしかないでしょう。SFというのはSMです」などと言っていた。楽しみである。

【7月5日(水)】
▼おっと、そうだそうだ、宣伝をするのを忘れていた。十一日にオープン予定の「bk1(ビーケーワン)」は、なんと開店から三か月間、送料は無料なのだそうである。太っ腹だ。無料なのは、原稿料ではなく送料なので、おまちがえのなきよう。
 ああ、しかし、こんなことなら、例のタイムマシンを落札しておくのだった。本を買うときは、「bk1」の開店直後にやってきて買えばよいのだ。待てよ、それだと未来の新刊が買えないか。世の中、そうそううまくは行かないのだ。
水玉螢之丞さんからタレコミ情報。わざわざおれにメールしてくださるのだから、フィギュアの情報ではない。アメコミでもない。猟銃でもない。言わずと知れた、カエルである。なんでも、吉祥寺にカエルグッズ専門店ができたのだそうだ。「cave」という店で、「〒180-0004 武蔵野市吉祥寺本町2−26−1 TEL:0422-20-4321/営業時間:11:00 〜 21:00/木曜不定休/cave@abox2.so-net.ne.jp」とのこと。ドアと窓枠は当然のように緑色で、レジ脇の iMac もグリーンだという。ウェブサイトがあれば、さっそく見にゆくところだが、残念ながらサイト開設やオンライン通販の予定はまだないそうだ。
 うーむ、場所が場所だからなあ。ひょいひょい行くわけにはいかない。見てみたいなあ……。おお、そうじゃ! 「かえる新聞」にタレ込んでみよう。カエル業界の朝日新聞と呼ばれる(いま呼びはじめたのだが)あの新聞なら、全国に投稿者と特派員がうようよいる。なぜか瀬名秀明さんも載ったことがあるくらいだ。もしかすると、近場の誰かが取材してくれるかもしれん。これはよいアイディアだ。善(なにが?)は急げじゃ。水玉さん、ありがとうございます。

【7月4日(火)】
▼リストカメラは快調。どうやら、最初に当たったやつがたまたま初期不良だったようだ。カメラが常時腕についているなどという体験をしたことがない(あたりまえだ)ので、ただそれだけのことが妙に新鮮である。のべつまくなしに写真を撮りまくっているわけではないのに、“撮り得る”という可能性を携帯しているだけで愉快なのだ。駅や電車の中で美女を見かけると、無性に撮りたくなってしまうのには困った。もちろん、そんなはしたないことはしない。やはり、本人に仁義を切らなくては礼を失するであろう。なにより、電車の中で見知らぬ女性の写真を撮りまくっていたら、ただのアブナイおじさんではないか。自分がされて不快なことは、人にもしてはなるまい。こういうものが世に出まわっていちばん心配なのは、そうした美意識を欠く人間が、とんでもないことにこの道具を悪用し、おれが同類に見られることである。ポイっと道端に煙草の吸い殻を捨てるやつを見ると、自分が喫煙者であるにもかかわらず、いや、喫煙者だからこそ、殺意が湧く。殺意に近い感情などというなまやさしいものではない。殺意そのものが湧く。そんなとき、おれは自分の想像の世界では突如念動力の持ち主になっていて、けしからんやつの頭蓋の中に想像の手を突っ込み、脳髄をぐちゃぐちゃに握り潰してやることにしている。あなたもやるでしょう? いーえ、やります。やっているに決まっている。
 ひょっとすると、おれが生きているあいだに、装着すると念動力が使えるようになる腕時計なんてものが二万円くらいで発売されるかもしれないが、こればかりは買うのを思いとどまるだろうな。おれのゆくところ、目から鼻から耳から口から血を噴き出して倒れるやつが続出するにちがいないからだ。

【7月3日(月)】
凍ってしまったリストカメラを会社の帰りにさっそく販売店に持ってゆくと、あっさり交換してくれた。そりゃまあ、これくらいの値段のものなら、初期不良はとっとと交換するわな。家までの帰路、またまたいろいろなものを撮りながら性能を確認する。買い損ねていた〈小説新潮〉をふだん通らない駅の地下道の売店で発見。岩井志麻子さんがライフルを片手に半裸の男を踏みつけている話題のグラビアを確認する。焼肉屋の二階で山本周五郎賞受賞の知らせを受け、感極まって泣いている岩井さんをここぞとばかりにデジカメで撮影している大森望さんが写っている。この人の前でライオンに食われたりしないように気をつけよう。当然〈小説新潮〉を買い、ほくほくと家に帰る。
 家に帰ってしまうと、あまり撮るものがない。テレビの画面もけっこうきれいに写るのだが、なにが哀しゅうて久米宏渡辺真理をわざわざ小さな白黒写真に収めにゃならんか。なにか撮るものはないかと部屋を見まわしているうち、いいことを思いついた。さっき買ってきた〈小説新潮〉のグラビアを撮ろう。写真をもう一度写真に撮るのである。ある程度の大きさの文字なら判読できるほどに写るのは実験済みだが、撮ってみて改めて感心する。「第十三回山本周五郎賞決定! ぼっけえ、きょうてえ 岩井志麻子」というキャプションがきちんと写っている。読める。そうだ、どのくらい文字が写るだろう――と、二つ折りにした新聞の上半分がちょうど画面いっぱいになるくらいにして撮ってみると、「雪印大阪工場を営業禁止 黄色ブドウ球菌が原因 製品から毒素」と、要するに、見出しくらいは問題なく読める。“営業停止”ではなく“営業禁止”だとはっきりわかるんだからたいしたものだ。しかし、“黄色ブドウ球菌”“黄邑プドワ球薗”では絶対にないのだなと問い詰められると、ちょっと自信がない。“黄邑プドワ球薗”とはなにかと問い詰められると、なんだかわからない。だからいいのだ。
 さらに文字判読試験ということで、マンガを撮ってみる。B5版の八分の一ページぶんくらいのコマを画面いっぱいに合わせると、なんとかネームが読めるではないか。いやあ、使えるなあ。満足、満足。

【7月2日(日)】
▼一日中、頭痛と肩凝りに苛まれる。肩凝りはいつものことだが、頭痛はかなわん。頭痛薬を飲んで、まだ明るいうちから温めの風呂にゆっくり入って、なんとか仕事ができる状態にまで持ってゆこうとするが、なかなか治まってくれない。気候のせいだろうか。やたら暑い。しかし、エアコンで冷やすと、寒くはないが、なにやら頭痛がひどくなってくる気がする。また例によって、暑いのか寒いのか主観的にはさっぱりわからない状態が続く。汗だけはじわじわと出てくるし全身がだるいので、たぶん身体は暑いと感じているのだろうが、実感がないからひとごとのようである。ああ、またこんな調子が続くのだろうか。夏は嫌いだ。チューブの歌声を聴くと、条件反射で全身に悪寒が走る。だが、山下達郎はなぜか大丈夫なのだ。
 夕食後に少し寝て、ようやく頭痛がましになる。するとなぜか突然、味つけ海苔が食いたくなってきたので、とにかく貪り食う。じつは、昨日、近所のスーパーをうろついていたら、味つけ海苔が目に留まり、なにものかが買えとおれに命じたのだった。なんでもおれは、子供のころに味つけ海苔を一缶食ってひどく親に叱られたことがあるらしいのだ。本人は憶えていないのである。だが、やはり「味つけ海苔とは高級な食いものなのだ」とどこかに刷り込まれているらしく、ご飯のおかずにせずにそれだけを食うという行為が、なにかたいへんいけないことであるかのような気が、いまもかすかにするのだ。
 が、昨日ふと味つけ海苔を見たおれは、なんとなく奇妙な復讐心のようなものを覚えた。なんだ。おれは大人になっているのだ。味つけ海苔くらい自分で買えるではないか。キャビアを一缶食うというならともかく、味つけ海苔を一缶食ったところで、誰が文句を言うわけでもない。どうしてこんなことにいままで気づかなかったのだろう――。
 そこで、昨日買ってきた三十二枚入りの「梅しそのり」というやつを、ただただバリバリと、煎餅かなにかのように全部貪り食ったのだった。うまかった。なにやら、とてつもない贅沢をしたような気がする。これからもときどきやろう。どうも三十歳を超えたあたりから、おれはこういうくだらない欲望を抑えることをしなくなった。というか、「ああ、抑えなくてもよいのだ」と、日常の中で突然気づくようになったのだ。次にどんな欲望が襲ってくるのか、楽しみでもあるし怖ろしくもある。ひょっとしたら、五十、六十になったおれは(そんなに長生きできたとすれば)、若い女の尻を追いかけまわしては、夜毎、いや昼からホテルに連れ込んでいたりするのかもしれないが、まあ、双方合意の上なら、味つけ海苔を一缶食うのとさほど変わらないんじゃないの、とも思うのであった。

【7月1日(土)】
昨日買ったばかりのカシオリストカメラ「WQV-1」をつけて近所に間食用の食いものを買いにゆき、途中、工事現場の看板(“オジギビト”とか)を撮ったりしてみる。傍から見ている人があったとすれば、「なぜあの人は突然工事現場の看板の前で立ち止まり、じっと腕時計を見ているのだろう?」と気味悪く思われてしまいそうだ。まあ、もう一年もしないうちに、「ああ、写真を撮っているのだな」と誰もが気にも留めなくなるにちがいない。少し前まで、「あの人はさっきから携帯電話の画面をじっと見ているけど、いったいなにをしているのだろう?」などと、かなり多くの人(とくに年配の人)は思っていたらしい。これからも、「あの人はさっきからじっと腕時計を見ながらゲラゲラ笑っている。近寄らないほうがよさそうだ」とか、「あの人はさっきから、ときおり眼鏡の弦に触れながら、空中に文字を書いたり、ありもしないものを手で払いのけようとしたり、ありもしないものを掴んで引き寄せようとしたり、指先で虚空を二回ずつ叩いたりしている。どこかの病院から逃げてきたのではないか」とかヘンな人が現われ続けるだろうが、どのみちみんなすぐに慣れてしまうのである。さらにあとになると、脳内でメールに読み耽っていても、「あの人はさっきからなにをぼーっとしているのだろう」くらいにしか思われなくなるのだろう。いや、待てよ。逆に、会議中などにぼーっとしていると、「こら、映画を観てるんじゃない」と怒られるかもな。いや、そもそも、そのころには、メンバーが退屈するような会議などというものをいちいち開いては時間を無駄にすることなどなくなるか。
 なかなかきれいに写るので、こりゃいいこりゃいいと撮りまくっていたら、夜になってから異変が発生した。三十枚くらい撮ったところで、新しい写真が保存できなくなってしまったのだ。というか、新しく撮った写真が保存されるべきところに、過去の写真がやや乱れた形で出現する。あらら、こりゃ索引部分のデータがおかしくなってるな。写真のデータは電池をはずしても保持されるとマニュアルにあるから、おそらくEEPROMのようなものに書き込んでいるのだろう。すると、書き込み時には比較的大きな電圧を必要とするはずだ。カシオが電子手帳に初めてEEPROMによるバックアップ機能を搭載したとき(落としたりして電池がはずれてしまっても、データが保持されるのだ)、この電圧の問題が難関であったとなにかで読んだことがある。逆に考えると、従来よりも低い電圧でEEPROMに書き込みができる技術を電子手帳で培ったカシオだからこそ、CR2032などという3Vのリチウム・ボタン電池で写真を記録する装置がこれだけ小さく作れたのかもしれん。だが、それゆえに、ここが最もデリケートな弱点であるとも考えられる。書き込み時に電圧調整に失敗し、不正なデータが書き込まれてしまうことも、ひょっとするとあるのやもしれないではないか。
 べつにたいしたものは撮っていないので、とりあえず写真のデータを一括消去してみる。すると、やはりバッテリの消耗サインが出た。電池のパワー不足が招いたエラーなのだろうか。出荷時に入っているのは、モニタ用の電池なので、寿命が短いのはあたりまえだ。こういうこともあろうかと、コンビニで買っておいた電池に入れ換えてみると、今度はウンともスンとも言わなくなってしまった。画像どころか時間すら表示されない。電源が切れているのと同じ状態である。おやおやあ? どうやら初期不良品を掴んでしまったらしい。今年は運が悪いな。
 ともあれ、早めに販売店に持ってゆくとしよう。最も懸念されるのは、出荷を急いだがゆえに、ROM焼きのソフトにバグがあるという事態である。それなら、もうそろそろニュースになっていても不思議じゃないしなあ……。この一台がたまたま不良品であることを祈ろう。


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