間歇日記

世界Aの始末書


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2001年6月上旬

【6月10日(日)】
5月26日の日記で悩んでいた“一九六七年生まれのSF関係者”について、やぴさんから重要なご指摘――「67年生まれといえば、SF者には重要人物であるところの原田知世さんをお忘れではないかと」
 あっ、なんということだ。おれとしたことが、こんな重要人物を忘れていたとは。そうかあ、岡田有希子が生きていれば、原田知世くらいになっているわけか。時をかけていたころは学芸会みたいな歌でハラハラさせてくれた知世ちゃんも、いまでは歌一本でも十分やってゆけるたいへん味のある歌手・原田知世に成長している。前にも書いたけど、三十ころからの原田知世は、じっつにいい! こういうおねーちゃんと木陰でブレンディでも飲みながら、ゆっくり語らいたいものである。うちはネスカフェだけどね。
 原田知世にしてこうなのだから(というのも知世さんに失礼な言種だが)、当時から歌唱力のあった岡田有希子が、いまどのような歌手になっておったかと思うと、まったく命は粗末にしてはならんとしみじみ思うよなあ。だから若人よ、死んではいかん。殺すのはもっといかんが、なにがあっても死んではいかん。いま書いてて思いついたのだが、「ああ、もうダメだあ」という気になったら、いま成功してしあわせに生きている(ように見える)有名人の過去を、インターネットやら古本屋やら古ビデオ・古レコード店やらで探し出して眺めてみるのもいいかもよ。「なんだ、この役者、こんなチョイ役やってたのか。しかもひでー大根」「ひええ、歌下手だったんだな〜」「このガチャ文で作家でございと本を出していたのか」「滑舌悪いなあ」「あーらら、カンでるカンでる」「つまんねーネタ」などなど、生きてさえいりゃ、少なくとも生きたぶんは成長できることを実感できて、希望が湧いてくるんじゃなかろうか。まさに、明日があるさ、である。もちろん、ガロアとかランボーとか、そういうのは忘れましょう。天才に生まれなかったと悲観するんなら、世の中の人、ほとんど死なにゃならんからね。

【6月9日(土)】
▼テレビというのは怖ろしいもので、森内閣のときにはあれほどカッコ悪く、世間の同情すら集めていた福田官房長官(前弁明長官)、最近、やたら自信に満ち溢れた感じで渋くかっこよい。ソラマメが眼鏡をかけたような顔でも、なにやら凜々しく見えてくるから不思議である。やはり、アホらしいと思いながら仕事をするのと、手応えを感じながら仕事をするのとでは、人間、見かけからして変わってくるものなのであろうな。アホらしいと思いつつも表には出さないのがプロというものであるという見かたもあろうが、まあ、そのあたりは、忍ぶれどエーリッヒ・フォン・デニケンとむかしの人はうまいことを言う(むちゃくちゃなネタやな)。
 その点、おれはどうも社会生活上激しく損をしているような気がする。やる気満々で萌えて、じゃない、燃えておっても、いつも気のないつまらなそうな顔をしているからである。人はよく、初対面の人をあとで評して「いやあ、あの人は、実際に会ったら活きいきしてとても明るい人でしたー」みたいなことを言うものだが、おれの場合、たぶん「実物は、無表情な面白みのない人でしたー」と言われているのではなかろうか。そういうことを言われていたとしても、べつに心を入れ替えて表情豊かにしようなどとも思わないところが、さらに損な性格である。ほんとうのことなのだから、いたしかたない。生身で会っているほうが発している情報量が少ないタイプの人間というのは少なからずいて、そういうやつは非常にネット向きなんじゃあるまいか。おれはSF映画の未来社会みたいに、誰もがテレビ電話で話しているなんて光景には怖気をふるう。そんなものが一般家庭にあたりまえのように普及しても、おれはたいてい“映像を切って”使いそうな気がする。テキストの原始的な世界が、おれにとっては最もおれがおれらしく活きいきとおれでいられる場所なのである。こういうところを読みにきているあなたも、その手の endangered species なんじゃないすか?

【6月8日(金)】
▼大阪教育大附属池田小学校に刃物を持った男が乱入し、子供や教師を殺傷した。殺されたのは八人、みな子供である。
 会社でウェブを見て、こりゃあ、どえらい事件が起こったもんだなあと思っていたら、ケータイに CNN.com からのメールが飛んできた。なんと刃物男の事件を報じている。そのままURLをクリックして、ウェブから詳報を取る。アメリカでもやたら大きな扱いだ。そういえば、昨夜、筑紫哲也「ニュース23」(TBS系)で、近年アメリカでしばしば発生している学校襲撃事件に触れ、「日本でもいつ起こってもおかしくない」といったことを言っていたばかりである。あちらの場合は、たいてい生徒が学校を襲撃するわけだが、アメリカ人にとってもやはり十二分に関心を引く事件ではあるのだろう。「日本ではまだ大人が襲撃している段階なのか。牧歌的だな」などと思っているアメリカ人もおるかもしれんが、こんなものはアメリカに追いつかんでもよろしい。
 犯人の宅間守なる男は三十七歳というので、一瞬どきっとする。またもや昭和三十七年生まれかとあわてたが、よく考えたら、昭和三十七年生まれが三十七歳だったのは去年の話であり、宅間は昭和三十八年生まれである。この一年の差は大きい(なにがだ)。
 それにしても、報道で事件の内容を詳しく知るにつれ、またもや厭〜な予感がしてくる。宅間は精神安定剤を十日分飲んで犯行に及んだなどと供述しているそうで、そうなると、おなじみの刑法第三九条「心神喪失者の行為は之を罰せず」、つまり『怪奇大作戦』幻の第二十四話問題が、もろに頭をもたげてくることになりそうだ。残念ながら、『怪奇大作戦』をリアルタイムで観ていたおれの記憶にも、この「狂鬼人間」の回はないのである。観逃したのかもしれないし、アホな子供にはピンと来なかったため忘れてしまったのかもしれん。たとえ問題の多い表現があったにせよ、昭和四十四年にこの問題が子供番組で真正面から取り上げられていたというのは注目すべき事実であり、「ピー」だらけになってもよいから、なんとかもう一度世に出してもらえないものだろうか。みんながヘンだヘンだと気づいていた問題に関して、この三十二年間にどのような改善があったのか、あるいは、もののみごとに先送りをし続けてきたのかが、浮き彫りになるような気がするのである。マスコミさん、いまこそ『怪奇大作戦』第二十四話を掘り出して、現代のパースペクティヴで光を当ててやってくれ。
 精神障害は立派な病気であって、それ自体は、べつに胃潰瘍やらイボ痔やら貧血やらと変わらん。おれだって明日にも精神障害を抱えるかもしれん。素質は十分に高いと自覚はしているし、ことによると、すでに抱えているのかもしれん。しかし、胃潰瘍やイボ痔の人は、それが原因で子供を刺し殺したりはしないのである。狂暴な精神障害者はほんの一部だろうとは思うが、精神障害者だからといって十把一絡に医者だけに任せておいてよいのか? 宅間がほんとうに精神障害者なのか、心神喪失状態にあったのか否かは、この際重要な問題ではない。“先送り”をやめるよい機会、と言うと、社会を構成している大人のはしくれとして殺された子供たちにあまりにも申しわけないけれども、やはり、よい機会だ。今度ばかりは“先送り”してはならん。犯罪を冒す可能性が十分に高い類の精神障害者をどう扱うか、医療関係者、司法関係者、立法関係者には、徹底的に再検討してもらいたい。宅間のような人間が起訴もされずにうろうろしている世の中に、どこの親が朝安心して子供を送り出せるというのだ。

【6月7日(木)】
先日修理に出したケータイがもう返ってきた。えらく早い。やはりメーカ責任ということで、無料である。けっこうけっこう。まあ、あれで金取られたら怒るだろうが、あたりまえのことであっても無料は嬉しい。それにしても不思議なのは、ちゃんと直しているらしいことである。細かい傷などを見ると、戻ってきた筐体はまちがいなくおれが修理に出したものと同じであった。おれのケータイはすでに発売から半年は経っている。買ったときは、たしか一万一千円だったが、いま同じ機種の値段をあちこちで見てみると、もはや五千円を切っているショップだって少なくない。ケータイというのは、それほど足の早い商品なのだ。ちょうど、後継機種も出るから、なおのこと安くなっている。つまり、そんな機種の故障(しかもメーカ責任の故障)を、いちいち人間が分解してほんとうに直していたのでは、メーカは必要以上に損をするのではなかろうか? 電話帳などのデータは吸い上げて代替機に移してあるわけだから、いっそ新品と交換してしまったほうがメーカにとっては得だろう。というか、損が少ないだろう。たしかに吸い上げることのできない仕様のデータ(ウェブページのブックマークなど)は本体に多少残ってはいるけれども、再入力するのはそれほどの手間ではない。なのに律義に“修理”してくれるとは、なんとも不思議な気がした。それとも、修理したほうが、やっぱり損は少ないのかな? はたまた、地球環境のことを考えた措置なのであろうか。こういう精密機器の調子がおかしい場合、“修理”などするよりもとっ替えてしまったほうが早いという発想におれたち現代人はすっかり慣れてしまったけれども、そんなことばかりしていたのでは、なるほど環境のためにはよろしくないであろう。
 ま、とにかく早く戻ってきてくれてよかった。おれにとってもはやケータイは“左手の友だち”たいていのメールをまずそれで読む端末であり(全角一万文字受信は強力である。程度問題だとは思うけど)、新聞のようなものでもあり、ラジオのようなものでもあり、懐中時計のような目覚まし時計のようなものでもあり、カメラのようなもの(って、カメラだけど)でもあり、ICレコーダーのようなもの(って、ICレコーダーだけど)でもあり、ネタ帳のようなもの(って、ネタ帳だけど)でもあり、栞のようなものでもあり、文鎮のようなものでもあり、さらに驚くべきことに、電話のようなものですらある。手ごろな重さ・大きさの、じつに便利な機械だ。一メートル以上身体から離すと、なんとなく眼鏡をかけ忘れているような気になるほどだ。やっぱりおれは機械フェチなんだなあと、われながら呆れる。こういうものにまるでコギャルのようにたちまち過剰適応してしまうあたり、そろそろ四十も近いおっさんとしては忸怩たる思いがないでもないが、でも、楽しいし可愛いじゃん、ケータイって。なに? 「feel H"」PHSだろうって? PHSも含めてケータイって呼ぶんだよ、おれは。現状では音が悪くてデータ通信が遅くて地下でしばしば使えなかったりするほうのケータイは、とくに“携帯電話”と呼び分けることはあるけれども。

【6月6日(水)】
▼おれの子供のころは、六月六日といえば、とにかく雨がざあざあ降っているコックさんの“絵かき唄”を連想したものであるが、『オーメン』以降、頭の中で『アヴェ・サンターニ』が流れはじめることになっている。たしかにあれはすごい名曲だと思うのだが、日本の気候にはどうも合わん。ただでさえそろそろ蒸し暑くじめじめとしてくるというのに、あんな曲が頭の中を流れていたのでは、どこまでもどこまでも落ち込んでゆきそうである。だが、『アヴェ・サンターニ』を頭の中で流しながら道を歩いていると、なかなかどうしてあれは“ノリのいい”曲なのではないかと思う。歩きやすいのだ。単純労働のBGMとかによさそうである。ちょっとテンポは遅いが、盆踊りに使ってみても悪くないかもしれない。四角四面の櫓のまわりを、みながあの曲に合わせてゾンビのようにぐるぐると行進するのだ。これは怖いぞ。なにか禍々しい宗教儀式のようである。
 そうだ、“コックさん”といえば、おれには不朽の名作があった。むかし、夜な夜なパソコン通信でチャットに興じていたころ、チャット藝のひとつとして編み出したネタである――

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 これはやっぱりチャットでやるべきネタだよなあ。下からスクロールアップして徐々に全貌が現われるところがいいのだ。ウェブではいまひとつインパクトがない。チャット以外のほかのどの媒体でやっても、場ちがいな感じのするネタと言えよう。

【6月5日(火)】
田中外相外務省がますます面白くなってきた。もはや外相の食後の屁が「プッ」だったか「ブリッ」だったかまで、どこかの役人がリークしてくれる。さすが優れた頭脳の持ち主が群れ集う外務省だけのことはあり、「プッ」だったか「ブリッ」だったかを聞き分けるために立派な学校を出て全身全霊を傾け税金から高給を取っている人材にはこと欠かないらしい。ニッポン、万歳である。公務員というやつは、すばらしい人は超人的にすばらしいが、落ちるとなると地の底までも品性下劣になれる危険な職業である。民間の営利企業なら、地の底までも品性下劣になる前に組織が潰れるかクビになってしまうから、かなりの求道者であってもなかなか“下を極める”ことは難しいのだ。

【6月4日(月)】
▼そうかそうか、ネパールの王族射殺事件は、自動小銃の暴発であったか。わはははははは。器用な自動小銃やな。あれを聞いて、自動小銃がネズミ花火のように宮廷内を飛び跳ねながら王族を蜂の巣にしてゆく絵が浮かばなかった人はなかろう。すげーシュールなイメージで、おれは個人的に気に入った。それくらいのことをやってこそ正しく自動小銃なのであり、たいていの自動小銃は名前負けしておるのだ。
昨日またライトが点かなくなったケータイを修理に出す。修理に出すときにこそ、「ル・モテ」KX-HS100)のありがたみが実感できようというものだ。SDカードが使えるから、メールやら着メロやらを退避しておけるわけである。だが、代替機は「H"」ばかりで、そもそも代替機に「feel "H」は用意されていないという。なんともまぬけなサービスである。売ってるんなら、当然、揃えとけよ。それでも、一応先代の「ル・モテ」(KX-PH35S)を貸してくれた。基本的な操作は「feel "H」の「ル・モテ」とほとんど同じである。マニュアルも不要で、すぐ使えるようになった。
 さーて、おれのケータイはいつ返ってくるのであろうか。長ければ来週とか言ってたが、そのあいだに代替機に情が移ってしまったら、別れるのがつらくなるではないか。

【6月3日(日)】
点いたと思ったケータイのフロントライトが、また点かなくなる。どうなっておるのだ? こりゃあ、もう明日修理に出そう、そうしよう。
 フロントライトの故障はもろに不便だから修理に出す気になったが、じつは以前からかなりヘンテコなトラブルがあるにはあったのだ。まず、「かお」という文字列がカタカナ以外には変換できなくなった。これはしばらく使っていたらなぜか直ったのだが、今日試してみたら、また変換できなくなっている。学習機能を持つ辞書だから、それなりの情報を不揮発性のメモリに書き込んでいるわけであり、こういうバグはいかにもありそうだ。それだけならよいのだが、“先方が切らないと通話が切れない”という驚くべき現象にたまに遭遇した。つまり、時報や天気予報を聞いたりすると、先方は切ってくれないから、いったん電池を抜くしかなくなるのである。また、まれになんの前触れもなくフリーズしたりする。まあ、ここまで複雑化すると、立派なパソコンみたいなものだから、そうしょっちゅうでなければこれは許そう。だけど、これだけ怪現象が重なると、いくらなんでもこれはまずい。
 どうも気色が悪いので、DDIpocket機種変更データベースという便利なサイトで、同じ機種(Panasonic KX-HS100)のトラブルで同じような症例がないか調べてみる。このサイトはけっこう面白くて、同じものでもユーザの使いかたによって評価が著しく変わるのが勉強にもなる(なんのだ?)。すると、ビンゴ、同時期に同機種を買った人が、同じ故障を訴えているではないか。これはROM焼きソフトのバグである傍証になりそうだ。いやあ、インターネットって、こういうとき便利ですね。信憑性に疑問のある情報でも、ちがうソースからそこそこの量が提供されれば、立派にそれなりの意味はあるのだ。
 ヘンな動きさえしなければ、おれはこの機種の機能も使い勝手もたいへん気に入っている。おれのような使いかたをするユーザには、現時点でのベストチョイスであろうとすら思っているのだ。あまり松下電器産業(厳密には、この端末を作っている九州松下電器)をいじめる気はないが、せっかくいい製品を作っているのだから、品質管理もちゃんとしないともったいないぞ。

【6月2日(土)】
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

『こんなこと、だれに聞いたらいいの? 日常生活を笑わす雑学Q&A大全 [疑心暗鬼の巻]』
(セシル・アダムズ、春日井晶子訳、ハヤカワ文庫NF)
「Treva」で撮影

 二年ばかり前にこの日記でも取り上げた『つかぬことをうかがいますが… 科学者も思わず苦笑した102の質問』(ニュー・サイエンティスト編集部編、金子浩訳、ハヤカワ文庫)の親戚みたいな本である。つまり、知ったからといっておそらくなーんの役にも立たない知識の饗宴だ。『つかぬこと……』のほうは科学雑誌に掲載されたネタを厳選してあっただけあって、つかぬことながらずいぶんと頭を使わせられる本であったが、ちょっと拾い読みしてみたかぎりでは、こちらはもっと“つかぬこと”の分野が多岐に渡っている。しかも、『つかぬこと……』は問うほうも答えるほうも複数の協同作業だが、こちらは〈シカゴ・リーダー〉紙で「一般読者のどんな難問奇問にも答えてみせよう」と大見得を切った著者の連載コラム〈The Straight Dope〉のよりぬきだというから、ひとりで答えているわけだ。かなり趣はちがう。趣はちがえど、問うほうも答えるほうも、よくもこんなくだらないことを問い、よくもこんなくだらないことを答えているものだとあいた口が塞がらなくなる点では同じようなものである――

「おへそにたまる糸くずはどこからくるの?」
「相撲取りは睾丸を自由自在に身体のなかにしまえるってほんとうですか?」
「豚のペニスは螺旋状だってほんとうですか?」
「SMについての基本知識を教えてください」
「全中国人が椅子にのぼって同時に飛び降りたら、地軸がぶれるほどの衝撃が起こりませんかね?」
「銃で撃たれたりナイフで刺されたりしたら、どこがどうなって死ぬんですか?」
「人はパンのみで生きられますか?」
「赤ん坊をレンジでチンしたらどうなるの?」
「オレンジがオレンジって呼ばれるのはオレンジ色だからですか、それともオレンジ色という名前がオレンジからきてるの?」
「ミートローフにケチャップを塗ってアルミホイルで覆って冷蔵庫に入れたら、肉が触れた部分のホイルが溶けて、ケチャップの上にぐちゃぐちゃになった灰色のホイルが溜まっていたんです。どうして?」
「“真夜中”は午前なんですか、午後なんですか?」
「プリンス・オブ・ウェールズになるにはどうしたらいいですか?」
「裁判の重要な証人が無神論者や不可知論者だったら、神に誓えないですけど、どうやって宣誓するんでしょう?」
「あちこちで流れてるバックグラウンド・ミュージックって、日本製なんですか?」

 ええい、アホかアホかアホかアホか、お〜ま〜え〜は〜あ〜ほ〜か〜♪。問うほうも問うほうなら、答えるほうも答えるほうだ。これではまるで、eNOVELS「やみなべ人生相談」田中哲弥)である。
 ……でも、くだらなければくだらないほど知りたくなるのが人情というものだ。怖るべきことに、これは二分冊の第一弾で、ということは、まだ続きの巻が出るのだ。次は[五里霧中の巻]だろうか?

【6月1日(金)】
先日点かなくなったケータイのフロントライトが、どうしたことか急に点きはじめる。接触が悪いというよりも、どうもソフトにバグがあるような感じだ。この機種には、夜だけ照明をONにするというモードがあり、つまり時計で照明を制御しているわけなのだが、なにやらそのあたりがクサい。かなり初期のロットのはずなので、ROM焼きのソフトにバグがあっても不思議はない。だとすると、放置するといずれ重篤な事態を招きかねない(電話帳がぶっ壊れるとか)から、近日中に時間を作って修理に出すことにしよう。
▼最後尾の車輌に乗ろうと急行電車を待っていると、待ち行列のさらに“後尾側”に二十歳そこそこであろう女性がじっと立っている。オフィスの事務員かなにかだろうか、そんな制服を着ている。そんなところに電車のドアはないぞ。おいおい、まさかあなた、「不安の立像」(諸星大二郎)を呼び寄せようとしているのではないだろうな。つまり、アレだ、ヘンな気を起こしておるのではなかろうな。
 本を読みながらも気になって、ちらちらとその女性のほうを見ていたが、やがて電車が入ってきても飛び込む気配はまったくない。この女、さては鉄道マニアかなにかか――と思ったときに電車が完全に止まり、謎が解けた。彼女が立っていたのは、ちょうど運転席の窓の位置であり、おれが電車に乗り込んでからもじっと観察していると、彼女と運転士は他愛のない言葉を交わしながらイチャイチャしている。この二人、電車がこの駅に入ってきて停車しているだけの時間を利用して、逢引きをしておるのだ。
 おおお、若いのう。いまどき、こういうカップルがおるのか、まるでドラマのようじゃと妙に感心した。感心したところでやめておけばいいのだが、おれのこととて、反射的に話の続きを考えてしまう。おれの発想パターンをある程度掴んでらっしゃる勘のいい方は、もう展開が読めたかもしれない。そう、おれが考えた“話の続き”とは、急行電車が次の停車駅に入ってゆこうとしたとき、そのホームでさっきと同じ女が運転士に向かって手を振っている――というものである。その次の駅でも、さらに次でもだ。
 これが田中啓文であれば、なにか奇ッ怪な理屈をひねくり出して、同じ女が瞬間移動でもしたことになるであろう。「敵は快速」とかなんとかオチがつくかもしれん。牧野修であれば、この女は急行電車を見送ったあと、すぐさま自家用車をぶっ飛ばして途中で人を三、四人轢き殺し跳ね飛ばししながら次の駅へと急ぎ、さっきの急行が入ってくるや「キヨコがたいへんでしょう」とか言いながら運転士の袖を引っぱる。デンパ系のストーカーだったのだ。はたまた、我孫子武丸であれば、「ふっ。女は一卵性の四つ子か五つ子だ」とのたまい、女たちの怪行動の動機を理路整然と解説して、颯爽とカレーを食いにゆくであろう。『三人のゴーストハンター』はまだ読んでいないが、おそらくこういう楽しみが横溢した本であるにちがいない。


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