間歇日記

世界Aの始末書


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2001年10月上旬

【10月10日(水)】
宇多田ヒカル昨日の日記が話題になっている。「21世紀が泣いてる…」か。さすが、いいコピーだなあ。「ニューヨークはどこにいっても、星条旗だらけなんだ」ってのもいい。“そういうの”は日本人の専売特許であることになっているはずで、民族的には日本人でアメリカで育った宇多田がそれを不健全だと感じているのはじつに皮肉な図式だ。愉快ですらある。日記そのものは、宇多田自身にも自分がなにを言いたいのかよくわかっていないような文章だけれども、彼女はべつにその能力に長けているわけではないのだから、それはそれでよいだろう。感じるべきところをちゃんと感じているのが、もどかしさの中からも伝わってくるのはさすがだと思う。宇多田は半分(以上?)アメリカ人みたいなものなのだから、これもアメリカの世論だ。そうした世論を、世間の注目を浴びる立場の人間がストレートに表現するのを見ると、ちょっとほっとする。表現者に解釈を期待してはいけない。彼女は感じたことを表現している。ちゃんと表現者の仕事をしている。表現者は考えても差し支えないのであって、考えが表現を縛ってしまうのであれば、下手な考え休むに似たりというものだ。

【10月9日(火)】
▼アメリカが空爆を再開。毎日やるんだろうなあ。こっちはこっちで、小泉首相は“Show the frog.”などと言っている。小泉首相もカエラーだったのか。じつは「今月の言葉」で使おうと思っていたのに、よりによって首相に先を越されてしまう程度のネタだったとは……。
バルタン星人は最初から二進法を使っていたにちがいないというおれの説(8月30日の日記)に関して、モりやまさんがさらに驚異的な仮説をお寄せくださった。おれは、原始バルタン星人がややこしい計算をしたりするときには、「八人とか十六人とか三十二人とかが横一列に並び」ハサミを開いたり閉じたりしていたと述べたが、モりやまさんの説はバルタン史学に一石を投じる画期的なものである――「奴らは分身しよりますから、実は一人で何十桁もの計算ができるのではないでしょうか?」
 すばらしい。どうしておれはこんな簡単なことに気づかなかったのだろう。そうだ、まさにそうやって計算していたにちがいない。さらにモりやまさんは自説を展開する――「原始バルタン星人は何人も並ばないと計算できなかったかもしれませんがある時、ふとしたきっかけ(?)から分身できるようになったバルタン星人が驚異的な計算能力を身に付け進化していったとは考えられませんか?」
 ああ、なんということだ。モりやまさんともあろう偉大な頭脳が、原因と結果を取りちがえている。「ふとしたきっかけ」などと偶然に頼ってはならない。モりやまさんは、真実までもう一歩ではないか。そう、バルタン星人は、大きな数の計算をするためにこそ、分身の能力を発達させたのである。これが答えだ。でないと、分身などという、日常生活ではあまり意味のない能力を発達させる必然性がないではないか。これがホモ・サピエンスであれば、分身をするときには、ひとりのサスケがふたりのサスケに、三人四人、五人、十人と、やはり五や十に囚われた不必要に複雑な分身のしかたをするわけだが、バルタン星人は2、4、8、16、32、64、128、256、512人……と分身するはずである。フォン・ノイマン式コンピュータとたいへん親和性があり、彼らが驚異的なスピードで科学技術を発達させていった理由が察せられようというものだ。
 そうか、そうだったのかー。世界は驚異に満ちている。

【10月8日(月)】
▼このサイトを開設して、今日で丸五年「モモヒザ三年、尻八年」吉行淳之介大人はおっしゃったものであるが、そうか、あと三年で尻か(なにがだ)。いやあ、それにしても、日記って、読んでくれる人がいると続くもんだねえ。
▼アメリカがアフガニスタンへの攻撃を開始。さあ、これで日本も戦争に加わった。そんなもん、“戦闘に関与しない後方支援”などというケッタイな概念が攻撃されている側に通用するものか。日本はいま、アメリカと一緒に戦争(これを戦争と呼ぶかどうかは別問題として)をしているのだ。これだけは認識しておかねばならない。伊丹やら関空やらを飛び立った旅客機が京橋のツインタワーやクリスタルタワーに突っ込んできたとしても、なんの不思議もないのである。まあ、先に狙われるのは東京である可能性は高いだろうけど。
エミー賞の受賞式が延期されているらしい。こっちが芋の蔓食いながら紙の戦闘機やら風船爆弾やら人間魚雷やらを作っていたときに、『白雪姫』やら『ピノキオ』やら『ダンボ』やら『バンビ』やら原子爆弾やらを作りながら戦争をしていたあの国の多様性の底力をこそおれは子供心にも心底怖ろしいと思ったものだが、その国にこれほど余裕がなくなっていることが、いまのおれにはいちばん怖ろしい。

《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

『超・恋・愛』
大原まり子、光文社文庫)
「Treva」で撮影

 これはやはり、“超”と“恋”と“愛”のあいだの“・”に大きな意味があるのであろう。とにかく“・”には要注意なのである。叙述トリックかもしれない。といっても、「恋愛短編集」とあるからには、ひとまずは恋愛短篇集であるにちがいない。もっとも、大原まり子の描く恋愛が、あなたの語彙の恋愛であるかどうかは保証しないが……。
 とかなんとかもったいぶったことを言っているが、収録作の半分以上は雑誌や他の単行本で一度は読んでいるので、だいたいのトーンはわかるのだった。冒頭には、まだ読んだことのない「書くと癒される」という短篇がある。うーむ、これもタイトルだけを見ていると、なにやら企みがありそうな感じがそこはかとなくしてくるぞ。『彗星パニック 〈SFバカ本〉』の腰巻コピーは、「癒されてる場合じゃない!!」ではなかったか。ここにはなんらかの呼応があるのやもしれない。人の書いたものを読んで癒されている場合ではないが、書くと癒されるからみなも書けという意味を読み取るか否かは読者の勝手である、っていくら恋愛を論ずるのが苦手だからって自分でもなにを言っているのかわからない。やっぱり“・”の部分を読まなくては、大原まり子を読んでいることにならないということか。ジョージア・オキーフっぽい表紙画も意味深でお洒落。

【10月7日(日)】
菅浩江さん宅のすぐそばにお住いの藤原ヨウコウさんは深夜に帰宅。我孫子武丸さんは奥様を呼び寄せて、そのまま朝までみなで駄弁り続ける。田中哲弥さんから“どや顔”という言葉を聞き、はなはだ感心した。関西弁らしいが、おれの語彙にはなかったのだ。CG技術に不必要に淫したような某映画の話になり、いかにも高いCG技術を見せびらかしているだけのようなシーンの話を聞いた田中さんが、「“どや顔”ですな」と評したのである。つまり、役者などがここぞという演技やらネタやらを見せたとき、「どや!?(どうだ!?)」と言わんばかりにする表情を“どや顔”と称するのだそうだ。なーるほど。これはいい言葉だ。どのくらい一般的に通じるものかはわからないが、たいへん面白い。覚えておこう。
 ひさびさに徹夜でおしゃべりをしたため、さすがにへろへろ。我孫子さんもへろへろ。田中さんはまだ三日くらいぶっ続けでしゃべれそうだ。田中さんとおれは、我孫子さんの車で(もちろん運転は奥さんである)最寄りの駅まで送ってもらう。京都の地下鉄の扉がホームの扉と連動しているのを見て、田中さんが珍しがっている。たしかに神戸の地下鉄はこんなふうにはなっていない。しかし、大阪のニュートラムには乗ったことがないのだろうか。まあ、インテックス大阪にでも行く用事がなければ、あんまり乗らないかもしれないな。それにしても、ここから大久保町まではひと旅行である。お疲れさま。
 家に帰ってトーストを食うと、死んだように寝る。死んだことはないが。

【10月6日(土)】
菅浩江さんの“三度目の星雲賞受賞祝い兼推理作家協会賞受賞祝い兼このSFが読みたい一位祝い”という長い名前の会に呼ばれているので、ひさびさに京都に出かけてゆく。京都に出かけてゆくって、おまえは京都に住んどるんとちがうんかいと突っ込む方もあるやもしれないが、ここいらへんの伏見区のはずれなどは、一応行政区画的には京都市内ではあるが、あんまり“京都”ではない。子供のころから、中京区やら左京区やらいかにも京都らしいところへ出かけることを、おれたちは“京都に行く”と言い習わしている。同じ習慣をお持ちの京都市民も少なからずいらっしゃることと思う。たぶん日野とか保谷とかにお住いの方々も、日常的に“東京へ行く”などと言うのではあるまいか。京都といっても、必ずしも市田ひろみ三田寛子菅浩江のような人々ばかりがそこいらを歩いていて「いけずやわぁ」「すかんたこ」「どすえ」などと言いながらお茶漬けを食えと迫ってくるわけではないのである。
 さんざん迷いつつ(おれは京都の地理にむちゃくちゃ疎い)、指定された料亭に時間ぎりぎりに到着する。こぢんまりとした京都らしい店だ。集まった人々の顔ぶれがじつに京都らしく、格調高く雅やかな歴史と文化の香りが、血と臓物の匂いに大部分かき消されてかすかに立ち上ってくるような面々である――我孫子武丸北野勇作小林泰三田中哲弥田中啓文藤原ヨウコウ牧野修(敬称略)。
 やがて、主賓の菅さんと武田康廣さん夫妻が娘さんを伴って一家で登場。宴会がはじまる。ふつう“宴会”というと、こちらでアニソンをがなり立てているやつがいるかと思うとあちらからは古本売りの口上が聞こえ、そのへんでは泥酔して半裸で「愛国戦隊大日本」を唄いながらシュレーディンガー音頭を踊っているやつの足下でパソコンを広げている人々が相対論やらサイファイやら2ちゃんねるやらについて議論しているかと思うとその隣ではMTGをやっておりさらにその隣でドイツ製だかアメリカ製だかのボードゲームやらカードゲームやらをしている連中がわけのわからないかけ声を飛ばし合っているとそこへ着ぐるみやコスプレの一団が乱入し、どこからともなく絹を裂くような若い男の悲鳴が聞こえてきたかと思うと大広間の障子を突き破って装甲車が乗り上げてくるといったあたりがごくごくありふれた一般的イメージだと思うが、この宴会はじつに格調高く、うまいフグなど食いながらあんまり表ではできないSFの話などをするうち、たちまち時間は過ぎる。
 二次会はなんと、お言葉に甘えて菅さん宅にみなで押しかけ、さらにバカ話を続ける。このたび映画化された「玩具修理者」の撮影現場で田中麗奈と七秒間言葉を交わしてツーカーの仲になったという小林泰三さんを、みなでいじり倒す。小林さんは、かの名場面“階段落ち”の撮影などを見学に行ったそうである。おれは素朴に思うのだが、田中麗奈のほうでは目の前の中年男をはたして原作者だと認識していたのであろうか?
 飲んで騒いで丘に上っているうち深夜近くになり、北野さん、小林さん、田中啓文さん、牧野さんが辞去。田中哲弥さんは大久保町まで帰り着けるかどうか怪しいため、覚悟を決めて残る。我孫子さん、哲弥さん、藤原さんと菅・武田夫妻とで酒を飲みながらあれこれ。菅さんはこのところなかなか夜を徹して駄弁る機会がなかったとのことで、自宅で宴会をやればいいのだこれはいい手だなどとすごいことをおっしゃる。クローズド宴会(?)ならではの、いろいろ面白い話を聴く。

【10月5日(金)】
▼会社からの帰りに特急電車の席に着くと、足下に菓子パンかなにかを食ったあとのビニール袋が散乱している。ビニール袋が産卵しているよりはいくらか心和む光景ではあろうと無理にものごとの明るい面を見ようとすることもできようが、おれはそれほど人間ができてはいない。腹の中で激怒する。あとに人が座ることを考えないのか――というのはありふれた公徳心だ。おれの公徳心は少しばかりちがう。宇宙にひとつしかないタイプの特殊な公徳心である。つまり、あとに“おれ”が座ることを考えないのか、というものだ。
 電車の席に着いて足下にビニール袋を見つけたことは一度や二度ではない。空き缶が置いてあることすらある。完全な空き缶であればまだましだが、なぜかたいていわざとでもあるかのように飲み残しが入っている。あるいは、全部飲んだあと中に小便でも入れて放置したのかもしれん。電車が揺れると、そいつが倒れる。きゃわきゃわきゃわきゃわきゃわきゃわなどと中途半端な音を立てながら、中身を撒き散らしてうしろのほうまで転がってゆく。電車の速度が落ちると、そいつがきゃわきゃわきゃわきゃわきゃわきゃわと帰ってくる。殺してやろうかと思う。ビニール袋やら空き缶やらを放置してゆくやつを、ほんとうに殺してやろうかといつも思う。思わいでか。いったい全体、脳の中にどのようなネットワークがあり、神経細胞がどう興奮すればこういうことができるのか、おれの理解の埒外である。まだクラゲやゾウリムシの考えていることのほうがよくわかりそうな気さえする。
 おれはこのようなとき、決まって自分が超能力者だと考えることにしている。おれは“サイコメトリック・テレキネシス”とでも呼ぶべき特殊な能力の持ち主なのだ。超能力はたいてい特殊な能力だろうが、細かいことにこだわっていては大成しないぞ。捨てられているビニール袋におれが足で触れると、たちまちにしてそのビニール袋の“過去”がおれの中に流れ込んでくる。一度でもこの袋に触れたやつの居所は手に取るようにわかるのだ。おれの脳裡にどことも知れぬ駅のホームが浮かび上がる。いたいた。あのな〜んにも考えてなさそうな白痴的表情の若者だ。乗り換え駅で電車を待っているな。あっ。ホームに痰を吐きやがった。おれはますます怒りに顫え、「ふんっ!」と鼻息も荒くビニール袋に念を集中させる。すると、かつてこのビニール袋に触れていた菓子パンが、やつの腹の中でプラズマ化して爆散する――といった光景を想像し、おれはなんとか怒りを鎮めることにしているのである。
 もし、あなたの眼前で臓物を弾け跳ばしながら爆散するやつがいたら、そいつはおれの座る席に菓子パンのビニール袋か空き缶を残していったやつだと思っていただきたい。おれの超能力のことは口外なさらぬよう。

【10月4日(木)】
▼今日は“イワシの日”らしい。なんだそれは?
葉月里緒菜が婚約していたらしい。がーん。いや、婚約するのはいいのだが、たぶんこのまま引退しそうな気がする。それがじつに残念である。なぜか慰めのメール(?)が二、三通、おれのところに殺到した。うーむ、大きなかんちがいをしていらっしゃるようだ。たとえ葉月里緒菜がおれの家の向かいに住んでいたとしても、おれはまちがっても結婚したいなどとは思わないにちがいない。原田知世が住んでいても蜷川有紀が住んでいても高樹沙耶が住んでいても高樹澪が住んでいても高木美保(眼鏡あり)が住んでいても毬谷友子が住んでいても本上まなみが住んでいてもメリル・ストリープが住んでいてもシャーロット・ランプリングが住んでいたとしても(ありったけの好みを出してきたな)、そういうふうにはけっして思わないであろう。おつきあいしてみたいとは思うだろうけどね。

【10月3日(水)】
▼死んだ子の歳を数えるてなことは言うが、おれはときどき、生まれてない子の歳を数えて愕然とする。あなた、しませんか? たとえば、おれが高校を出てすぐ子供を作ってしまっていたとしたら、たぶん十九歳で父親になっているわけである。とすれば、いまおれには十九歳の子供がいても不思議ではない。で、そいつにもすでに子供がいても不思議ではない。つまりおれは、すでにお爺さんであっても不思議ではないことになる。あたりまえのことではあるが、改めて考えるとたいへん不気味だ。三十八歳というのは、そういう意味で非常に面白い年齢なのではなかろうか。計算能力を持つ人間なる動物は、子供を持たず三十八歳になると、おそらく自動的にこういうことを考えてしまうようにできているのかもしれない。次にこういう“区切り”がやってくるのは、「大学を出てすぐ子供を作ったとしたら……」と考えるころであろうから、それは四十六歳ということになるな。
 いま十九歳の若者に、いまのおれが「お父さん」などと呼ばれている可能性があったと想像するだけでも、あまりの不気味さに身の毛がよだつ。漱石「夢十夜」を連想するのだ。いつのまにか背負っていたあの青坊主が、耳元で「お父さん」と囁く声がまざまざと聞こえるような気がするのである。おれってヘンか?

【10月2日(火)】
▼マクドナルドでハンバーガーを食っていると、隣の席に座っていた若いサラリーマンのふたり連れが、突然、『アリー・myラブ3』の再放送の話をはじめる。正確には、ひとりのほうがファンであるらしく、もうひとりのほうにしきりに観ろ観ろと勧めているのであった。勧められているほうは、あんまり気のないようすだ。そこで、アリー・ファンの若者は、第三シリーズ冒頭の洗車場のシーンから結婚式をぶち壊したためにアリーが訴えられるところまで、やたら細かく説明しはじめるではないか。なかなか的確なあらすじの展開で、おれまで聴き入ってしまった。そいつは、「おもろいから観てみ、今夜観てみ」とかなりしつこく相手に迫っている。「こいつの言うとおりだ。観ろ」と、何度割り込もうと思ったことか。
武部農林水産大臣が、「牛肉を大いに食べる会」だかなんだか、とにかく牛肉を食う妙な会をやっていた。あんな年寄りが食っても、なにやら悲壮なだけで、全然説得力がない。もしこれがもとで狂牛病に罹ったとしても、発病するころには、狂牛病なのか老化なのかよくわからんのではなかろうか。孫でも連れてきて、あ〜んっつって食わせてみせてくれるのなら、多少は信用してもよい(孫がいい迷惑だと思うけど)。それが多くの国民が実際に置かれている立場だからだ。
 この妙な会に参加していながら、「ハンバーグなんかはなにが入っているかわからない」などとほざいているオヤジがいて呆れる。悪かったな。今日食ったところだ。このオヤジ、いったいなんのためにこんな会に参加しておるのだ? ちょっとでもパニックを抑え、業者に罪ほろぼしをしようというのではないのか? ハンバーグ屋をいじめてどうする。
9月6日の日記を読んだ田中哲弥さんから、モーニング娘。「ヒラメみたいな顔した黒髪の娘」は、『きっと「カゴ」という娘でありましょう』とメールが来る。おお、そうだそうだ、たしかそんな名であったような気もする。田中さんもたまたま観たテレビでその娘だけが気に入って『いろいろ友人に話したり絵に描いて説明した結果「それはきっとツジかカゴ」というところまでなんとかこぎつけ、その後数十年の努力と試行錯誤の結果「カゴ」の方であることがつい先日判明したばかり』なのだという。うむ、そうだそうだ、たしかにもうひとりよく似た娘がいる。さては、あれが“ツジ”であるか。「正直なところ、今でもツジとカゴの判別には大変気を使います」 たしかにたしかに。髪の毛の色で絞り込むことはできるのだが、おれも誰かに「こっちがカゴだな? まちがいなくそうだな? いっひっひ、そうかなぁあ〜?」などと迫られたら、「いや……ツジかも」と宇宙が揺らぐかもしれん。
 ともあれ、田中さんが言うからには、あれはカゴなのであろう。「ヒラメみたいな顔した黒髪の娘」で、ちゃんと通じたではないか。それにしても、田中さんとはこういう思わぬところでみょ〜に趣味が一致するのではなはだ不気味である。気をつけなくてはなるまい。しかし、要するに、ロリコンなのでは?

【10月1日(月)】
肉骨粉の流通が全面禁止された。まあ、おれは肉骨粉を食ったことはないからべつに困らないわけだが、ってそういう問題か。考えてみれば、肉骨粉というのはソイレント・グリーンにほかならないわけで、ことによるといつの日か、「むかしは牛の問題だったのになあ」と懐かしく思い出さないともかぎらない。
 それはともかく、肉骨粉という言葉を聞かない日はない今日このごろ、おれにはわが国の食糧行政よりも先に、些細なことが気にかかる。“肉骨粉”は、正しくはどう読めばよいのだろうか? コメンテータなどは“にっこっぷん”と言う人も少なくないが、アナウンサーたちは“にく・こっぷん”に落ちついているようだ。だが、あれは“肉+(骨の粉)”なのではなく、“(肉+骨)の粉”なのではなかろうか。とすれば、音便を許容するとしても“にっこつ・ふん”と読むべきではないかと思うのである。しかし、“にく”だけが訓読みであることを考えれば、“こつ”と“ふん”とのほうが親和性が高いというのも頷ける。意味を取るか、音を取るか、悩ましいところだ。いっそのこと、ひっくり返して“こつにくふん”とでもしてしまえば悩まずにすむのだが、そうすると今度は“骨肉”のほうに別の意味が生じてしまい、イメージが混乱する。うーむ。
 “肉骨粉”なんて言葉が一般人の日常語彙に入ってきたのは、狂牛病騒ぎ以降のことだと思う。少なくともおれは、今回の事件でこの言葉を初めて知った。もしかするとそのうち、あんまり言葉に注意を払わないタイプの人たちが“肉骨の争い”などといった新語を編み出し、やがてそっちが一般化してしまったりするかもしれない。するなー。[◆2001年12月9日追記◆“ニク”は音読みである。2001年10月31日の日記参照]


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