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2001年10月下旬 |
【10月30日(火)】
▼湯舟に身を沈め、入浴剤の小袋を見る。ほれ、袋に小分けにしてあって、それぞれ各地の名湯に似せた色が出るようになっている入浴剤のセットがあるでしょう。アレである。今日は有馬温泉にしよう、はて、どんな色になるんだっけなと袋を見ると、「うんこ色」と書いてあって、あまりにも率直なもの言いに一瞬はなはだ驚く。近ごろどうも、手元の細かい文字を見るときにピントが合うまで、若いころより心持ち時間がかかるのを自覚するようになってきた。もちろん「うこん色」の見まちがいである。そうか、うこん色であったかとほっとして小袋の封を切り、胸の前で一気に湯に溶かすと、身のまわりが見るみる赤茶色に染まってゆく。なんだ、やっぱり「うんこ色」じゃないか。
【10月29日(月)】
▼《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。
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「Treva」で撮影 |
うーん、写真の写りが悪くて申しわけない。ほんとはもっと白い本である。まあ、おもちゃカメラですから。
あの『つかぬことをうかがいますが… 科学者も思わず苦笑した102の質問』の続刊である。もちろん、また、つかぬことをうかがっている。The Last Word 2 という味もそっけもない原題に比べ、この邦題は秀逸だ。かくなるうえは、このあとどこまで続くのかはわからないが、『パイプのけむり』方式のタイトルでウケを狙っていただきたい。第二百八十一弾くらいになると、『やっぱりまたひたすら懲りもせずとことん、つかぬことをうかがいますが… 科学者も世をはかなむ108の質問』とかになるのではないか。
今回いきなりびっくりしたのは、「厄介な作業をしてると、どうして舌を出して唇ではさんだりしちゃうんでしょう?」という質問である。おれ自身よくやる動作であり、おれも前から不思議に思っていたのだ。おれの場合は、舌を唇ではさむというよりは、舌先を上唇に当てるような感じになる。そうしないと、ただ意味もなく大口を開けているだけだから、舌が手持ち無沙汰(?)になるからだろうと思っていたのだが、寄せられた回答がこれまたケッサクである。例によって、ここに載っている回答が正しいのだかどうなのだかはわからない。こういうくだらないことの理由を一応考えてみるというのが大事なので、また、それを娯楽にできる精神のありかたを保っていたいものである。
ぱらぱらと眺めてみて、はなはだ感心したのは、この質問である――「わたしたちは三人とも、理科の授業で、水の上に立てたロウソクを逆さにしたコップで覆うという実験をしたことがあります。ロウソクが消えると、コップの中の水が上がりました。/理科の先生からは、水が上がるのはロウソクが燃えて酸素がなくなったからだと教わりました。でも、コップのなかのロウソクを四本に増やしたら、一本だけのときよりも水がずっと高く上がったんです。どうしてですか?」
子供のころに、学校であると家であるとを問わず、この実験をやったことがない人は少ないと思う。コップの底に煤をつけて必ず怒られるアレである。それにしても、この質問者の三人はたいしたやつらだ。ロウソクを増やしてやってみるなんてのは、健全な好奇心がなくては思いつかないだろう。学習指導要領を消化するのが主目的であるかのような教育は、この子らの健全な好奇心の前には音を立てて瓦解する。そもそも、いまの日本の教育なら、ロウソクを増やして実験をしている時間などなかろうし(「教科書を読んでおけ」で終わりかもしれん)、子供らが家でやろうにも、帰ってきてから寝るまで塾やら習い事やらなにやらでスケジュールがぎっしり詰まっているため、そんな酔狂なことはやっとられんのが現状ではあるまいか。でもおれは、この三人みたいな酔狂なやつらこそが、優れた学校に進めて優れた教育を受けられるような社会であってほしいと思う。こいつらになら、世界の未来を託せる。
で、この実験、はたして、上記の理科の先生が言うように(あるいは、そう教えることになっているだろうように)、コップの中の酸素がなくなるから水位が上がるのだろうか――回答(くどいようだが、正解かどうかはわからないよ)は、本書を読まれたし。この例は、以前この日記に書いた「コップの水に氷を浮かべて、コップの縁ぎりぎりのところまで水を注ぎ足します。さて、氷が融けたらどうなるでしょう?」の話に通じるところがある。現実とは、こういうものなのだ。だからこそ、面白い。
【10月28日(日)】
▼“文化唯物論”で知られるアメリカの文化人類学者、マービン・ハリス氏の訃報に触れる。といっても、おれは文化唯物論という魅力的な響きに惹かれて『ヒトはなぜヒトを食べたか』(鈴木洋一訳、早川書房)を読んだのみなのだが……。要するに、古代アステカ文明の食人は、宗教的儀礼として恣意的に出現したものではなく、まさにその“風土”を考えるに、蛋白源が不足する環境にあったからであるといった主張を展開する本である。つまり、蛋白質の不足という純物理的事情が宗教的儀礼の衣を纏った食人という文化を析出したとするもので、彼の言う“文化唯物論”の好例というわけだ。
読んだときはむちゃくちゃに面白かったのだが、よくよく考えると、かなり無理のある主張ではないかという気もする。たしかに、あらゆる文化に物理的基盤があるとするのはたいへん魅力的考えかたではあるが、言語や機械が物理的環境を“作り返す”のが常であるように、それらを含む文化もまた、記号操作が実体を作り返し、その実体がまた記号を生むといった相互依存関係の中で育まれてゆくものだろうからだ。ソシュールだったら文化唯物論には大反対したのではなかろうか。たとえば、なぜか多くの言語で“否定”に関係する語が“n”音(やその類縁)を含むといった(あまり確証のない)現象があるとして、もしそこに解剖学的・神経生理学的説明がつけられたとすれば、それはハリスの言う文化唯物論に近いものになるだろう。が、任意の語のアナグラムや、音の類似などからくるイメージ連関が、フロイト的な無意識のレベルで生成され、そこから別の儀礼や風習などが出てくるといった現象は、文化唯物論では到底説明できない。先日、NHKの『中国語会話』を観ていて知ったのだが、中国で金魚や蝙蝠がめでたいものとされるのは、「金が余る」「福が来る」と同じ音(あるいは、似た音)であるせいだということであった。こういうことがある以上、文化唯物論は、あくまで特定の条件下での概念装置として意味を持つのがせいぜいの特殊論にすぎないのではないかと思う。古代アステカのような隔離された文明でなら、かなり有効ではあるかもしれないが、文化の交流が生じたら、なにがなにやらわからなくなるだろう。あくまでフィーリングとしてのもの言いだが、物理化学が扱うような量子的なレベルでの化学反応を、古典物理としての天体物理学のアナロジーで説明しきれると主張しているかのようにすら感じられる。まあ、ハリスはほかの著書でこうした意見に反論しているのかもしれないが、おれは読んでないので知らないし、あんまり読む気も起こらない。
とはいえ、やっぱり“文化唯物論”って響きが魅力的なのはたしかですなあ。秀逸な命名だ。文化唯物論であらゆる文化の説明がついてほしいという、一種SF的なロマンをかき立てるものがある。だから早川書房から出てるってわけでもないだろうけど。
【10月27日(土)】
▼イチローが国民栄誉賞を辞退したとのことで、なんとなく痛快。1998年10月2日の日記で、『スポーツ選手は、政治家にバカにされているからこそ、生きていても国民栄誉賞がもらえるのだ』とか『たとえば、イチローあたりが、おれと同じようなことを淡々と記者会見で述べ、「そんなもん要らん」と言ったら、国民は拍手喝采するのではあるまいか』とかほざいていたのだが、ほんとうにやってくれるとは嬉しい。まあ、辞退の理由については、もう少し穏やかなことを言っているらしいが、あんなもんに大した価値を認めていないと暗に表明してくれるだけで十分である。わはははは、いやあ、イチローはサムライだねえ。職人だねえ。いや、サムライや職人などという賛辞ではまだ足りぬ。どうもイチローという存在をうまく表現できていないような気がする。さて、なんと褒めたものか……。おお、そうじゃ、これこそイチローにふさわしい――イチローはハッカーだねえ!
【10月26日(金)】
▼先週観逃した『アリー・myラブ4』(NHK)を観る。お、主題歌 Searchin' My Soul のアレンジが変わっている。キーボードがなくなってストリングス中心になり、心なしか、ちょっとテンポ遅くなったような気がする。これもなかなかいいな。それにしても、あれだけ擦った揉んだしたわりに、第三シリーズでアリーといちゃついていたイギリス弁護士はあっさりふられてしまったのか。今度はロバート・ダウニー・Jrらしい。まあ、たしかに弁護士とはなにかと縁のある人ではありましょうが……。
【10月25日(木)】
▼いつもテレビのCMを見て思うのだが、デアゴスティーニってのは鬼畜である。分冊百科事典だけならともかく、車やらバイクやらのミニチュアをああいうふうに売られたのでは、そりゃあ、好きな人にはたまらんにちがいない。とんだ出費であろう。それほど好きでないおれでも思わず買ってみようかと思うくらいであるから、好きな人の損害は推して知るべしである。
絶対売り出してほしくないのは(つまり、売り出してほしいのは)、フィギュア&ミニチュア付きの〈SFコレクション〉だ。そんなものに使う金はない。ないと言ったらない。創刊号はたぶん十八分の一ダイキャストモデル(?)のモノリスが付いてくる。創刊号だけはやたら安いので、ついつい買ってしまうわけだ。すると二号には、四万倍ヌーサイトかなんかが付いてくるにちがいない。ふつう買うだろう、これは。大小と来たら、当然三号の付録は、実物大「そばかすのフィギュア」以外にはない。まあ、まず正気であれば買うだろう。そのうち「はっ……」と気がつけば、パペッティア人やらラーマやら缶入りユービック・スプレーやらスタープレックス号やらトビナメやらヒトブタちゃんやら弘法大師やらのフィギュアやミニチュアが部屋に散乱しているのに気づくことになる。ならいでか。
【10月24日(水)】
▼「日本列島サーチの旅」というどこかで聞いたような企画でおれの日記がヒットしたと知らせてくださったのは、マッドネス933さん。なんでも、「予告」「ひも」「床」というキーワードでサーチしたところ、この日記がひっかかったという。世の中には、妙なことを思いつく人があるものだ(おもろいけど)。マッドネス933さんが検索に用いた infoseek(最近は、もう Japan をつけなくてもいいのだな) で「予告 ひも 床」を検索してみると、なるほど「 [間歇日記] 1998年8月中旬」がヒットする。「予告」も「ひも」も「床」も、全然関係ない異なる日の日記に出てくる。奇妙な縁でおれのページにやってくる人もいるものだ。
▼《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。
「Treva」で撮影 |
菅浩江の幻想・恐怖短篇集。腰巻には「心が粟立つホラーの世界……」と書いてあるが、「初出誌一覧」にある作品のうち、すでに読んだものから判断するに、いわゆる“ホラー”というレッテルから最近の読者が連想するであろうものとは、かなりちがう気がする。やはり、“幻想・恐怖”あるいは“幻想・怪奇”とでも言うほうがしっくり来るだろう。モダンホラーの親戚ではなくて、殿谷みな子のいわゆる“アーバン・ファンタジー”みたいな幻想小説のほうにずっと近い。
書き下ろしとして「美人の湯」というたいへん短い作品があったので、まずはすぐにこれだけ読んでみると、怖い怖い、これは怖い。女性の業の話だが、たぶんこれは男が読んだほうがずっと怖い。女性は多かれ少なかれ美への妄執みたいなものが自分の裡にあるのがわかろうが、男からすると、これはまさに得体の知れん、ほとんど妖怪変化の心理のようなものだからである。いやまあそりゃ男にだって、なぜおれはキムタクのようでないのだという思いは多少はあるだろうけれども、男性のそういう他愛のない羨望ごときは、ギャグにこそなれ、恐怖にはならんのである。むしろ、男の場合は、才能とか能力とかに関する嫉妬のほうがいやらしいし、怖い。もっとも、才能や能力に関する嫉妬は、「あれくらいの才能ならおれにでもことによると手が届く」と思うことができている範囲においていやらしく、また、怖いのであって、シェイクスピアやらアインシュタインやらに嫉妬するやつはあんまりおらんのだ(デンパ系除く)。ところが、どう考えても岩下志麻あたりに嫉妬しているとしか思えぬおばちゃんは実際によくいるのである。こわー。
しかし待てよ、昨今は女も男も社会化のされかたが急激に変わってきているので、「美男の湯」なんてのも成立するのやもしれん。成立したとしても、おれにはわからんだろうけどなあ。
【10月23日(火)】
▼木根尚子さんから突如ケータイに直送メール。feel H" にしたのだそうである。おお、よきかな、よきかな。“直送メール”というやつは、DDIポケット派の人にしか通じない言葉かもしれないが、要するに、センターのサーバに溜まらない簡易メールだ。PHSの簡易メールしかなかった時代(といっても、H" や feel H" はいまでもPHSにはちがいないのだが)の名残りみたいなもので、文字数の制限がタイトなので、まとまったメッセージ交換には向かないが、いまでもけっこう便利なので H" や feel H" 同士ではよく使う。なにより、料金コースの設定次第ではこいつは完全に無料で使い放題であり、おれのはむろん無料で使い放題の料金コースなのだ。使わない手はない。相手がDDIポケットだと、いくらでもタダでメッセージのやりとりができるため、世にDDIポケット派が増えてくれると、まことにありがたい。つってもまあ、FOMA が普及すればPHSの生き残りにもあまり明るい未来はなさそうだが、あんなに高いものが爆発的に普及するには、まだかなり時間はかかりそうだ。だってあなた、テレビ電話を楽しもうったって、相手もテレビ電話ができる端末を持ってなきゃ意味ないんですぜ。常に動画コンテンツを楽しみたいという人なら、なにも電話器のみみちい画面で観なくても、PDAや小型パソコンを持ち歩くでしょうに。まあ、どう考えたって、最初に「メールが使いたいから」といまの世代の携帯電話が広まったような勢いでは、広まるはずがないと思うけどね。
それに、PHSが生き残れる目が少しはある。あたりまえの話ではあるが、基地局あたりの出力の弱さこそが、最大の強みになるにちがいない。いまDDIポケットのPHSは、全国の地下をほぼ100パーセントカバーしているが、携帯電話が100パーセントを達成するのは、ちょっとやそっとのことではないのである。電波が強すぎて、他の電子機器への悪影響が心配される場合、どうしても中継局が敷設できないエリアが、都市部だからこそ、残ってしまうからだ。携帯電話は地下ではPHSに原理的に勝てない(そのかわり、PHSは過疎地や山間部では原理的に携帯電話に勝てない)。影響が懸念される機器にいちいち電磁シールドをかけてまわるわけにもゆくまい。都市生活者(とくに地下にいる可能性が高い人々)に「携帯電話のどこがいいのだ?」というPHS愛用者が多いのは、データ通信速度のためばかりではない。FOMA の登場によって一気に通信速度で引き離されたとはいえ、そもそも繋がらなければ意味な〜いじゃん。もはや、通信速度が遅かろうが速かろうが、常に wireless でも wired な状態でないと不安でしかたがない人種(おれもそうだけど)は、かなりの勢力になっていると思われる。地下の喫茶店で仕事をするような種属がいるかぎり、PHSはそうそう簡単には滅びませんぞ。線が太いに越したことはないが、細くとも ubiquitous であることのほうが、おれには重要だ。
【10月22日(月)】
▼真中瞳は、べつにパイラ星人でもいいのではないかと気づいた。が、やっぱり、入浴シーンが難しいな。
▼《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。
「Treva」で撮影 |
「ザリガニマン=トーノヒトシは改造人間ではない!?」――という腰巻コピーを頭の中で中江真司が読んでしまうほど、どう見ても仮面ライダー関係の企画本にしか見えない表紙であるがそうではないそうではない、あの『かめくん』の姉妹篇なのだそうである。これも徳間デュアル文庫の《デュアルノヴェラ》シリーズ、つまり、中篇だ。
いつものことながら、アオリや腰巻で端的に内容が紹介しにくい感じの作品であり、アオリや腰巻を読んでもどういう話なのだかよくわからない。まあ、今回は『かめくん』の姉妹篇という重要な手がかりがあるわけだから、ザリガニマンのことが知りたければとっとと買って読むのが正解であろう。ノヴェラだからすぐ読めるだろうしね。
【10月21日(日)】
▼真中瞳という人がいるが、あれは芸名なのであろうか。いかにも芸名っぽい感じだが、本名であっても不思議はない程度の微妙なところである。芸名だとしたら、あんまり似合ってないと思うのだ。じつは、彼女以上に“真中瞳”という名前が似合っている人をおれはむかしから知っていたことに気づいたのであった。そこで八方手を尽くして、その“ほんものの真中瞳”のセクシーなヌードと入浴シーンの写真を入手したのである。ひとめご覧になれば、きっとおれの主張にみなさんも深く納得してくださることと思う。
検索エンジンからいらしたそこのあなた、なにか言いたそうですけど……?
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