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2001年11月下旬 |
【11月29日(木)】
▼佐川急便のテレビCMを観るたびに思う。ほれ、若い女性がバカでかい犬のぬいぐるみを買って、佐川急便の配達員が持つ端末でカード決済するというアレである。あの巨大なぬいぐるみ、どう見ても十万円以上はすると思う。大きなお世話だと言われればそれまでだが、それにしても、あんなもん買う金があるならおれにくれ。
【11月28日(水)】
▼ふとDDIポケットのサイトに行ってみて狂喜する。おおおお、九州松下電器が新端末「KX-HV200」を出すではないか。いまの九州松下の最新機種(KX-HS110)はおれの持ってる機種(KX-HS100)のマイナーチェンジ型にすぎないが、今度は本腰を入れて打って出るつもりの新製品らしい。“パカパカ”である。シェルタイプである。ふたつ折りである。「おれはふたつ折りタイプを使ったことがないし、どうも嵩張って苦手である。分厚い。ふたつ折りにするための要請からキーストロークが浅い。開けるときにいちいちワン・アクション必要なのも、“いらち”のおれには向かない。やっぱりケータイはストレートタイプでしょー」などと書いてはいたが、スペックを読むぶんには、おれがシェルタイプを嫌う理由が次々と否定されてゆくではないか。薄い。軽い。キーストロークは実機を見ないとわからないが、ボタンを押せば九十度に開くとのことだから、片手で操作しやすそうだ。まあ、余計な可動部のあるものはそれだけ壊れやすいわけだが、片手で開けやすいのは魅力ではある。なにより、KX-HS100 で使っているSDがそのまま持ってゆけるのがありがたい。その他の機能も、現行機種のよいところを受け継いでいるばかりか、パワーアップしているようだ。すでに九州松下の端末を使っている人なら、これは買いでしょう。それにしても、六万五千五百三十六色TFT液晶とは、えらく気合いを入れたものだ。いったい実売価格はいくらになるのか、ちょっと怖い気もする。
感心したのは、ヒンジの部分である。ワンタッチオープン機構の説明にあるように、この機種は左手でボタンを押していったん九十度に開き、そこからさらに親指をディスプレイの左端にかけ、押し上げて開くわけである。よって、ディスプレイには、ヒンジを支点にそれを本体に対して捻るようなテコの力が働いてしまう。ヒンジの形が左右対称では、ヒンジ部分に大きなねじれの力がかかり壊れやすいと考えられる。ところが、よくよく写真を見ると、KX-HV200 の左右のヒンジは左側が太く、左の親指でディスプレイを弾き上げる操作によく耐え得るようになっているのだ。ディスプレイを短径方向にテコと見た場合、支点の最も強い部分を力点に極力近づけるように設計してある。この設計はすなわち、左手で操作することを前提としており、おれはケータイを左手で持つのでこういうタイプは好都合なのだ。ドコモの N503i の写真と比べてみると、ちがいがよくわかる。N503i は右のヒンジが太いのである。この設計は、左手でディスプレイを弾き上げる操作には弱いと思われる。どちからというと、N503i は右手で操作するように作られているらしい。いずれの機種も、アンテナ側のヒンジが太いのにも理由があるのだろう。シェルタイプを使っている人の挙動を観察するに、ディスプレイにアンテナがついている機種は、アンテナを腹に押し当てて開く人がかなりいる。やはり、ディスプレイにはねじれの力がかかる。だから、アンテナ側のヒンジが太くしてあるのではなかろうか。アンテナの配置とヒンジの形の関係には、もしかするとおれの知らない内部構造の事情も絡んでいるかもしれない。
以前、ケータイのキーやポインティングデバイスの配置について、左手特化型と左右対称型の問題を考察したことがあったが、この問題はいまも形を変えて生きているようだ。
いやあ、しかし、今度は本気だね、九州松下。発売されるのが楽しみだ。それにしても、AirH"対応ってどういう意味だろう? いや、意味はわかるけど、料金体系はどうなるのかな? まあ、音声端末とAirH"端末を同じものにしてしまったのでは、電話をしながら(あるいは、ケータイメールを操作しながら)パソコンを使うという局面を考えると、あんまり便利そうじゃないよな。おれの使いかたなら、ケータイとAirH"端末は、あえて分けておいたほうがよさそうだ。
あ、そういえば……今度の新機種にも、やっぱり暇潰しキャラクター(?)として、「モモリン」と「クロスケ」ってのが出てくるんだろうなあ。いろいろ操作をするたびに、画面に黒と桃色のコウモリみたいな生きものが現われては踊るのである。まあ、慣れるとそこそこ可愛いのでべつに出てもいいのだが、最近おれにはあいつらが「2ちゃんねる」の“モナー”に見えてしかたがないのだ。
【11月27日(火)】
▼風野春樹さんの読冊日記(2001年11月24日)で知った、“Akiba Itsuki”なるペンネームのロシア人おたく少女のサイトに遅ればせながら行ってみる。あっという間に、SF系・アニメ系・おたく系・その他諸々系ウェブサイトの話題を独占しているようだ。す、すげー。ホンモノのおたくである。日本語のメッセージや自分で唄ったアニソンの音声ファイルまで置いてある。日本語も歌もなかなかうまくてびっくりだ。とくに歌はお世辞抜きにうまい。日本のアイドル歌手でこれ以下のはいっぱいいるぞ。
いやあ、日本の文化侵略おそるべし。というか、こういうのも民間外交と言うのだろうなあ。ここまで日本の文化を愛してくれているロシア人少女がいるのは、日本人としてなんとなく嬉しいじゃないか。しかし、この娘の前では、うっかり「愛國戦隊大日本」の主題歌とか唄えませんなあ。待てよ、でも東西冷戦の時代とはちがい、案外 Itsuki ちゃんも、家ではあっけらかんと大声で唄ってたりして。学校で流行ってたらどうしよう。「♪もしも日本が弱ければ ロシアがたちまち……」
【11月26日(月)】
▼〈SFマガジン〉(2002年1月号)を買う。レヴュアー陣が今月を最後に一新されることになる。喜多哲士さんは八年もやっていたのか。言われてみればそうなのだが、こりゃもうじつにたいへんなことである。ほかの方々も喜多さんと同じくらいの長丁場をこなしてきている。レヴュアーというのは、たいてい兼業である。まこと、頭の下がる話だ。むかし雑誌に載っていた誰かの文章を読んでいて感心した覚えがあるのだが、“七年”という月日を実感をこめて端的に表現すると「キンタマの虫がランドセルを背負う」月日だというのである。おお、これはみごとな表現だなあと、子供のいないおれにも七年の重みが実感されたものであった。それはともかく、レヴュアーの方々、お疲れさまです。
『目覚めよ、女王戦士の翼!(上・下)』(キャサリン・アサロ、中原尚哉訳)も買う。柏崎玲央奈さんが解説を書いたとご本人から聞いていたのでさっそく見てみると、いきなりおれの名前が出てきてのけぞる。よく考えたらこのシリーズの解説、『稲妻よ、聖なる星をめざせ!』の小谷真理さんのにも、『制覇せよ、光輝の海を!(上・下)』の牧眞司さんのにも、毎回おれの名前が出てくる。そりゃまあ、シリーズ一冊め『飛翔せよ、閃光の虚空(そら)へ!』の解説を書いているから、作家のプロフィールなどに言及する際にはそうしたほうが便利なのだが、べつにそれは解説者の名前に触れなくともできることであり、まことにありがたいことである。
【11月25日(日)】
▼母の誕生日である。ということは、おれももうすぐ八捨九入して四十歳になってしまうわけで、三十代も後半に入ることになる。三十になるときもなったらなったでどうということはなかった。四十になってもたぶんそうだろう。中身は十六くらいのころからほとんど変わっていないような気がする。身体だけがだんだんついてこなくなるのがもどかしい。ここまで同じようであったのだから、八十になってもやっぱり中身は十六のつもりで死んでゆくのであろうな。まあ、そんなに生きられるとはとても思えないが。
【11月24日(土)】
▼《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。
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「Treva」で撮影 |
第二回小松左京賞受賞作品である。あっ。この日記の常連読者の方はおそらくご存じだろうが、おれはだしぬけに予知能力の発作(?)に襲われることがある。日記を書いていると、まるですでに起こったことであるかのように“未来の記憶”がまざまざと脳裡に浮かぶのだ。こういうときのおれの予知は、的中率が非常に高い。どうもおれは、この本の書評をどこかに書きそうな気がする。書くのではないか。いや、書くにちがいない。どこに書くのだろう? 待て、いま精神を集中して、おぼろげながらに見えている未来に心眼を凝らしてみる……。うむ、見えてきた見えてきた。額の裏あたりに、ぼんやりと見え てきた。どこに書評を書くのだろう……うむむむ、もう少しだ――よし、見えたぞ。そこだっ! 普通人の精神にはとても耐えられない消耗を強いる荒技なので、よい子のみんなは真似しちゃだめだよ。はて、どこかでまったく同じ文章を書いたような気がするのだが、たぶん気のせいだろう。
【11月23日(金)】
▼ふと、神について考える。ずいぶんとおれらしくないことを考えるものだが、べつに神学上の深遠な思索をめぐらしたわけではない。以前、「迷子から二番目の真実[1]〜 自己紹介 〜」にも書いたのだが、「出エジプト記」で、神の名を問うモーゼに答えて神が自己紹介(?)したところによれば、神様というやつは「ありてあるもの」なのだという。つまり、「わしゃ唯一絶対の存在なんじゃから、自分自身の証を立てる必要なんぞあるかい。わしがここにあるちゅうたらあるに決まっとるんじゃ、わしがあること自体が名前じゃ、いちいち言葉で看板かける必要なんかあるか、ぼけ」という意味であろうと、長年思ってきた。たしか、大学のキリスト教学講義でも、そのようなことを習ったような気がする(そんなふうに教えたつもりはない、と先生はおっしゃるかもしれないが……)。だとすると、神というのはずいぶんと傲慢なやつらしい。言われたほうは、むかっときたであろう。モーゼもむかっときたにちがいない――と、そこまで考えたところで、おれは神とモーゼの会話のたいへんわかりやすい日本語訳を思いついたのだった。キリスト教学に一石を投じる名意訳ではないかとわれながら思うので、神をも畏れず公開することとする。
モーゼ「おまえいったい、なに様やねん?」
神 「神様じゃ」
将来、大阪弁訳旧約聖書なるものが出るようなことがあれば、ぜひ採用してほしい。
【11月22日(木)】
▼ヨドバシカメラ梅田店がJR大阪駅北口にオープン。といっても、おれはまだテレビで観ただけで行ってない。じつにバカでかいビルで、あの中にパソコンやらPDAやらケータイやらデジタル家電やらがひしめいているかと思うと、冷やかしてまわるだけでも疲労困憊しそうである。ジュンク堂書店大阪本店もそうだが、あまりにでかすぎるとかえって足が遠のくものなのだ。うっかり入ってしまったらなかなか出てこられないに決まっているから、かえって敬遠してしまうのである。本とちがって、パソコンやらなにやらは衝動買いするには高価すぎるから、ジュンク堂を見てまわるよりは被害は少ないと思うが、それでも油断はならん。最近、じつにビミョーな価格のパソコン、ビミョーな価格のデジタル・グッズが多いですからなあ。それに、大きなものは買わないくせに、べつにあってもなくてもいいようなデジタル小物とかパソコン周辺アクセサリとかは、「可愛い」「面白い」というだけの理由でついつい買ってしまうものなのである。これが意外と、塵も積れば山となるのだ。
しかし、ヨドバシカメラなどという新参者に負けていけはいかん、がんばれ、カメラのナニワ――とかなんとか言っても、おれの勤め先からは心斎橋に行くよりは梅田に行くほうが圧倒的に便利だもんなあ。日本橋に行くのもかなり面倒だ。梅田近辺にも小店舗のカメラのナニワは散在しているが、この怪物的なヨドバシカメラ梅田店には、とてもかなうまい。これからは、おれも東京モンの軍門に下ってしまうことになるであろう。おれはものぐさで、かつ“いらち”なので、よっぽど値段の差がないと、手近で便利でそのときに在庫があるでかいところでとっとと買ってしまう消費者なのだ。
【11月21日(水)】
▼風邪でダウン。一日寝る。やっぱり、このあいだの小包は……と少しは疑ったものの、「あきれた炭疸菌、ぼくらの炭疸菌、スッチャカメッチャカ、炭疸菌〜♪」などと替え歌を唄っていられるくらいであれば大丈夫だ。元歌がわかる人は、もう中年の手塚ファンだよなあ。
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