間歇日記

世界Aの始末書


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2001年2月上旬

【2月10日(土)】
「かえる新聞」(平成13年1月19日号)で報道されている“忍者カエル”「きこりのホームページ」)をご存じであろうか? じ〜〜〜っと見つめ続けたところ、「どうやらこれがカエルであるらしい」と思われる部分は見つけたのだが、「これがカエルである」と確信を持つには至らないのであった。それくらいすごいパナマの忍者カエルである。こういう人間がおったらはなはだ厭だよな。風呂場や寝室に侵入されていてもわからない。知らずに熱湯をかけても、「ぎゃっ」という悲鳴が聞こえるだけで、やっぱりどこにいるのかわからない。あまりの恐怖に包丁をふりまわしたところたまたま怪我をさせることができ、警察は血痕を頼りにようやく逮捕する。「恐怖の擬態人間、のぞきで逮捕」などと週刊誌が報道する。職場の同僚は語る――「そういえば、会社でもどちらかというとおとなしいほうだったですね。そうですか、ああいう目立たないやつにかぎってアブナイんですよねえ」って、これくらい目立たないとむしろ職場では目立つんとちゃいますか?

【2月9日(金)】
「アリー・myラブ3」は、ちょっと趣向を変えてミステリ仕立て。殺人事件の容疑者にされてしまった気の弱いポッツ氏(先週も出てきたやたら手叩くのが“病気”の人ね)に事情を訊くアリー、動転しているポッツ氏が自分の人生がかかっているというのに珍妙な受け答えをするので、Are you trying to be funny? と呆れるのだが、これは訳しにくいだろうなあと思い、あとで日本語トラックを聴いてみると、「それ、ウケようと思ってやってる?」 うまいなあ。プロの技だ。
 それにしても、ビリーが脳腫瘍ってのはなんとも意外な展開。あの程度の幻覚を見るくらいで脳腫瘍だってんなら、アリーなんぞ腫瘍の中にわずかに脳が残っているという状態ではあるまいかと思うのだが……。

【2月8日(木)】
▼箪笥の抽出しに衣類をしまおうとするとき、いつも気になることがある。ものぐさなおれは、左手に衣類を持ったまま右手で抽出しを開けようとするのだが、そうすると抽出しは開かないのだ。箪笥の幅の半分しかない小さな抽出しは片手でも開く。手を掛けるための窪みが真ん中についているからだ。しかし、横に広い大きな抽出しには、その窪みが左半分の真ん中と右半分の真ん中にひとつずつついているため(つまり、小さな抽出しを横にふたつ連ねただけの構造になっているため)、片手を窪みに引っかけて引き出そうとすると、抽出しを斜めに引き出そうとする力が加わってしまい、引っかかって出てこないのだった。同じ構造の箪笥を使っている方は少なくないだろう。両手を使わないと開かない抽出しなんて、じつにタコな設計である。
 どうタコかというと、おれみたいなものぐさを戒めることができるにしても、あんな設計では一方の手が不自由な人には使えないではないか。じゃあ、横に広い大きな抽出しにも、手を掛ける窪みを真ん中につければよいのか? そう簡単にはいかない。大きな抽出しに窪みがふたつついているのにはそれなりの理由がある。通常両手で引き出すように意図されている抽出しは、ぎっしり詰め込むとかなり重いのであって、力の弱いお年寄りなどが片手で引き出すのはひと苦労であるはずだ。
 では、一方の手が不自由な人とお年寄りが同居している場合、大きな抽出しのあの窪みはどこについているべきか? 一方の手が不自由な人とお年寄りとは、同居不可能であるか?
 そんなことはないわな。ふつうの大きな抽出しの窪みふたつに加えて、もうひとつ真ん中に窪みをつければよいだけだ。箪笥を作る側の人たちが、なんでこれだけのことに気がつかないのか、じつに不思議である。こんなことでは、将来、いろいろな星の種属で混成チームを組んで宇宙船を飛ばすといった、知的生命体にとってあたりまえのことすらできないではないか。まったく、この星の連中は、ヘンなところで頭がよいくせに、ごくごく基本的なところで著しくヌケている。そもそも、おれの故郷では……(以下、略)。
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

『ウリエルの娘 ゾアハンター』
(大迫純一、ハルキ・ノベルス)

 《ゾアハンター》シリーズ第二作。第一作の『ゾアハンター』がやたら面白く、第一作の「あとがき」にはすでに第二作執筆中とあって、こりゃあ角川さんもよほど気に入ったなと思っていたら、なんと第一作が発売される前から三作めまでのスケジュールが組まれていたのだそうである。というわけで、三作めまでは“月刊ゾアハンター”状態だ。キャラクター中心のヒーロー・アクションものにはたしかに最初のブーストは必要だろうからこういう売りかたは正解だと思うが、以降は読者を待たせるくらいがちょうどよいだろう。
 『ゾアハンター』は、SFとしての設定がしっかりしているということは〈SFオンライン〉での書評にも書いたが、もうひとつおれがこのシリーズに期待しているのは、ヒーローものとしての真正直さなのである。
 おれたちの世代は、正義に食傷している。人生の初期にいったんは正義に憧れ、やがて正義の胡散臭さを知り、悪の魅力も哀しみも恍惚も知り、斜に構えカシコくなり、あらゆるものを相対的に捉えるという回路が頭の中にできてしまった。それ自体はいいことだとおれは思うが、ともすると相対主義の名の下になにものにもコミットしないフラットな精神状態が一種の“逃げ”であることにも気づいているはずで、徹底した相対化が結局は自己崩壊にしか繋がらないことをよく知りながら、「まだ相対化が足らんなあ」とうしろめたく思いつつも、現実の世の中で生きてゆくために涙を呑んでフリップ・フロップな決断を下す――という自家撞着的な哀しみを背負ってみな生きている(のだと思う)。まだおれたちの世代には、最初にヒーローに憧れたころの美意識が“核”として超自我にあるが、最初から相対化地獄に放り込まれた若い世代には、その“核”すらないかもしれない。だから、自己を確認する唯一最後の手がかりとして“欲望”しか見出せないなんてことになるんじゃなかろうか。相対化を突き詰めてゆくと、最後に自己を保つよすがとして残るのは、欲望と美意識しかない。前者だけならこれはもう動物であって、後者があるからこその人間である。しかし、欲望と美意識には大きな欠点がある。汎用性がないのだ。おれの欲望はあなたの欲望ではないし、あなたの美意識はおれの美意識ではない。汎用性がないからこそ、個人の最後の砦となるものなのだが、欲望や美意識は共有できない。“サムライ精神”やら“noblesse oblige”やらといったものは、それを潔い、かっこいい、美しいと感じられない者にはまったく通用しないものなのである。
 で、おれは『ゾアハンター』のヒロイズムをかっこいいと思う。長ずるにしたがって前頭葉にいろいろとくっついた知識どもに照らせばヒロイズムなどというものは笑止なのであるが、幼年期のおれが刷り込まれた“核”には、たしかにこういうヒーローをかっこいいと思う部分がある。おれはその“核”に嘘はつけないし、“ときには”こういうヒロイズムを抱きしめたいとも思うのであった。その、自分に嘘はつけないところで、おれは『ゾアハンター』を推すのである。

石ノ森 平凡な人間だから、正しいこと、人間らしいことがヒーローの基本線になっていく。やはり「正義が最後に勝つ」というものすごいシンプルな基本は、僕は大人になっても持ちつづけるべきだと思う。今は、そういうシンプルな考え方に対して冷ややかになっているじゃない。世の中というのは、みんな灰色で、何がよくって何が正しいか、何が悪いかっていうのが釈然としない、というのが全員に行き渡っている。子供にまでそういうのが広まっていて、みんな冷ややかな目で世の中を見ているという状況は怖いと思う。
 ヒーロー物に託した最大のメッセージは、どういう大人になっても、「やっぱり正義は勝つんだよ」ということを、シンプルでも、みんながあざ笑おうが、人間として心の底から思おうということなんだよ。それをいいつづけていきたいと思うんだよ。

――石ノ森章太郎インタビュー/聞き手・池田憲章「人間の目線が『仮面ライダーの魂だった』」
(『ウルトラマン対仮面ライダー』池田憲章+高橋信之、文春文庫PLUS)

 大迫純一は、こうした石ノ森のヒロイズムの正統な後継者だろう(『ゾアハンター』には、仮面ライダーへの言及がある)。よく誤解されているが、手塚治虫には底なしのペシミズムとその残りかすとしての蜘蛛の糸であるヒューマニズムはあっても、石ノ森のようなヒロイズムはない。むしろ手塚はそれが嫌いであり、テレビやアニメの要請でヒロイズムのようなものを描いてしまったときには、自分の作品であっても悪感情を顕わにする。『ビッグX』『マグマ大使』『サンダーマスク』に対しては、わが子ながらじつに冷たい(島本和彦の「マグマ大使 地上最大のロケット人間の巻」は、そのあたりを鋭く笑いにしていて楽しい)。おれはべったり手塚寄りの人間ではあるけれども、石ノ森のヒロイズムを笑う気にはなれない。むしろ、心の癒しとして、それをときには必要とする。こう言うと作者は厭がるかもしれないが、ゾアハンター・黒川丈は、現代に於いてはそれこそ“癒し系”のヒーローなのではあるまいか。

【2月7日(水)】
▼次世代Windowsの「Windows XP」という名前が気になっている。XPとはなんぞや? マイクロソフトは experience だなどと言っているが、欧米の連中がこの二文字の大それた洒落に気づいていないはずはない。学生時代、空きっ腹を抱えて礼拝堂でバッハを聴いていたとき、この二文字は厭というほど目に焼きつけられた。礼拝堂の演台には、「X」と「P」の重ね文字が書いてあったのだ。まかりまちがって教会などに足を踏み入れたことのある人はこの「X」と「P」を目にしたことがあろうからご存じだと思うが、この重ね文字はキリストの象徴である。ほんとうは英語の「X」と「P」ではなくて、ギリシア語をラテン・アルファベットで綴った XPISTUS の最初の二文字なのだ。キリスト教徒の連中は当然のことながらこの符合に気づいていて、神をも畏れぬネーミングに腹の中で苦笑したり憤慨したりしているにちがいない。「い〜や、experience だよ」と先に釘を刺されてしまったので(キリストだけに)、「こんな不謹慎なこと考えてるのは私だけじゃなかろうか」と思って口に出さないのではあるまいか。
 じゃあ、おれが代わりに言ってやろう。マイクロソフトは表立っては言わないが(どこかで言っているかもしれんけど)、あのネーミングは、ビル・ゲイツ、そしてマイクロソフトが、新しい千年紀のキリストだとでも言わんばかりの大胆不敵な言葉遊びなのである。きっとそうだ。おれはマイクロソフトがあまり好きではないが、この冒涜的なセンスはけっこう好きだな。いいギャグだ。見直したぞ。
〈THATTA ONLINE〉で、「20世紀のSFマンガ20作」というのを募集している。菊池鈴々の RinRin Pageとの共催で、鈴々さんとこでは「20世紀の少女マンガ20作」を募っている。「20世紀のSFマンガ20作」ねえ……。言われてみればいろいろ思い浮かぶのだが、二十に絞り込むのに悩みまくりそうで、じつはおれはまだ投票していない。『火の鳥』(手塚治虫)は絶対入れるとして、そうだなあ、『アキラ』(大友克洋)も入るよなあ。『スター・レッド』『百億の昼と千億の夜』(萩尾望都)も入れにゃならんし、諸星大二郎水樹和佳子も複数入れずばなるまいし……。なんか、おれが入れると、十本くらい手塚治虫ばかりになってしまいそうな気もせんでもないし……。ううむ、難しい。もう少し時間の取れるときにゆっくり考えよう。SFファン、マンガファン、SFマンガファンの方は、ぜひどうぞ。
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

『20世紀SF(3)1960年代』
(クラーク/バラード他、中村融/山岸真編、河出文庫)

 快調の《20世紀SF》シリーズ、いよいよおれが生まれたデケイドに突入。おれの説では一九六二年で一度世界は終わっているので、“世界が終わる文学”あるいは“常に世界の終わりとその後を見ている文学”としてのSFが、時代背景ともあいまって、ここいらからおれの感覚では俄然面白くなってくる。いわゆる“ニュー・ウェーヴ”も登場。勉強(あるいは、口直し??)のつもりで、ちびちびと読ませていただくとしよう。

【2月6日(火)】
1月29日の日記で遊んだ“ヘンな音楽グループ名”関係で、宮本春日さんから秀逸なのが一本寄せられた――「ロス・インディオス&シルバー仮面」
 お、おみごと。「安室奈美恵と猿の軍団」ってのもいいかも。しかし、考えてみると、「安室奈美恵とスーパーモンキーズ」でいちばん猿っぽい顔をしていたのは、ほかならぬ安室奈美恵ではないかと思うのだがどうか。タレントとしての“華”はいまいちかもしれんが、MAXはそれなりにかっこいいと思うぞ。もっとも、あの業界、“それなり”というのがいちばんいけないのであって、ナンバーワンになり得るかオンリーワンになり得るかの“華”“アク”“毒”がなくてはいけないのだった。
 安室奈美恵といえば、朝日放送鳥木千鶴アナから、また情報をいただいている。『ヘンなグループ名。グループではありませんが、わたしは、沖縄で「安室 奈美平」というキャラクターに出会い、感銘を受けました。サザエボンの仲間のようです』
 沖縄にもこういうのがあるのかあ。「たしか首から下と目がアムロちゃん(”Body Feel EXIT”当時、コギャルのカリスマだったころの)で、それ以外が波平だったとおもいます」とのことであるが、記憶はさだかでないそうだ。たぶん、そういうものなのだろう。だって、首から下と目が波平で、それ以外がアムロちゃんだったら、なんだかわけのわからないキャラクターになってしまうではないか。それにしても、いろんなご当地“サザエボン”があるものである。違法行為だとは思うんだが……。
 サザエボン風のキャラを考えるってのも面白いな。あ、思いついた。「田原朋美」ってのはどうだろう? むちゃくちゃ唄が下手そうではないか(てなこと書いてると、田原俊彦華原朋美からメールが来ても不思議はない媒体がウェブなのであった。懲りないやつだな。でも、嘘を書いてるわけじゃないしなあ)。

【2月5日(月)】
ハイブリッド携帯(PHSと呼んではいかんらしいのだ。オレ的にはすでに“ケータイ”はPHSを包含しているのだが)を H" から feel H" に乗り換える。どの機種にしたものかいろいろ研究したが、おれの使いかたであれば、パナソニックの「ル・モテ」のストレートタイプ(KX-HS100)が最適と結論づける。おれはふたつ折りタイプを使ったことがないし、どうも嵩張って苦手である。分厚い。ふたつ折りにするための要請からキーストロークが浅い。開けるときにいちいちワン・アクション必要なのも、“いらち”のおれには向かない。やっぱりケータイはストレートタイプでしょー。色はブラックにしようかシルバーにしようか迷ったが、ブラックはまだ品薄で在庫がないらしく、なかなかメカっぽい光沢が悪くなかったのでシルバーにする。♪きむらかずしさんのと同機種同色である。オモチャであるとはわかっていながら、どうせ買うならと、当然イメージキャプチャーユニット「Treva」(シルバー)も買う。
 パナソニック機は、今回の feel H" では、東芝機と並んで最も冒険をしなかった機種である。エンタテインメント的には、そりゃあ、サンヨーや京セラのは魅力的であるが、メールのヘビーユーザやビジネスユースにこだわるのであれば、旧機種の延長線上にある“練れた”機能と操作性に期待したいところだ。SDメモリカードスロット搭載ってのは、なにより頼もしいではないか。
 さすがの操作性で、ほとんどマニュアルを見なくても、日常よく使う機能はたちまち使えるようになった。ユーザ・インタフェースが intuitive である。操作性に関しては、いままで使っていたケンウッド機も人気がないわりには非常に優れており、今回ケンウッドが feel H" に参入しなかったのはちょっと残念ではある。
 着信音にはびっくりだ。テレビCMで流れているショパンの「幻想即興曲」が既定値に設定されているが、あまりの音のよさにあいた口が塞がらない。最初に鳴らしてみたときに、思わず笑ってしまったくらいだ。これは、電話としてはあきらかにオーバースペックではあるまいか。もっとも、こういう機器はもうすでに“デンワ”ではなくなっているのだから、音楽が楽しめたところでなにも妙なことはない。パナソニック機でこれなのだから、音と大型ディスプレイを売りものにしている feel H" の目玉商品、サンヨーの「RZ-J90/J91」であればいったいどのようなことになっているのか、想像するだに怖ろしい。持っている人がいたら、とっ捕まえて聴かせてもらうことにしよう。
 さて、せっかく Treva も買ったのだから、さっそく写真を撮ってみることにしよう。箪笥の上のオーディオデッキの前に並べてある食玩のフィギュアを写してみたんだが、まあ、遊べる範囲だよね。ケータイ本体で見るよりも、パソコンで見るほうがずっときれいに見えることは言うまでもない。

初代ウルトラマンとウルトラマンティガ。ウルトラマンガイアとウルトラセブン。セブンの左肘あたりに見えているのは、ネグロポンテの Being Digital ペーパーバック版。さすがにタイトルは読めない。
初代ウルトラマン、ティガ、ガイア、セブンが集結。ガイアの足下になにかいるので、接写してみよう…………ウルトラの星に祈る(あるいは、ガイアの股間に見とれる)カエルだった。

 と、まあ、これくらいには撮れますな。まだ撮影に習熟していないので、ちょっとぶれたかもしれない。ケータイ側では bmp ファイルで保存されるが、それを自分にメールしてパソコンで jpeg 形式に変換した。画質の加工はまったく行なっていない。パソコンでもっと加工すれば、いくらかは“見られる”画像になることだろう。
 考えてみると、この日記におれが撮った写真が登場したのは、これが初めてである。なにしろ、おれはちゃんとしたデジタルカメラを持っていない。カメラという道具の使用頻度があまりに低いため、使用頻度とコストとを秤にかけると、アホらしくて買う気になれないのだ。そのかわり、“ちゃんとしていない”デジタルカメラは、これでふたつも持っていることになる。これからは、この程度の画質であれば、この日記に画像が出現することもあり得るので、“フユーキーの過激写真教室”もはじめるかもしれない。くだらない写真ばかり撮りそうな気がするが、この制約の中での美の追求ってのも、俳句のようでなかなかよいではないか。

【2月4日(日)】
高野史緒さんから「Gの話……」というタイトルのメールが飛んできた。ゴジラについてのメールだろうか、はたまたゴルゴ13か、いや、高野さんのことだからバッハ関係の話題かもしれんとメールを開いてみると、1月25日の日記に対する反応であった。つまり“痔”の話である。「ワタシが真っ先に思い出したのは、マーラーがウィーン国立歌劇場でオペラを指揮してて、終演と同時に大出血して死にかけた、という話」って、やっぱり高野さんともなると連想するものの格調が高い。おれも負けじと背伸びして、精一杯格調の高い返事を出した――「演目は『大痔の歌』だったのでしょうか。しかし、マーラーが出血するというのは、あきらかに病気です。ふつー、出血するのはヴァーギナーのほうではないかと……」

【2月3日(土)】
▼節分なので福豆が買ってあった。数えて食うのが面倒くさいので、「最低三十八個食えばよい」と慣習を拡大解釈し、ひと袋全部食う。納豆の親戚みたいなものだから、基本的におれはあれが好きだ。納豆で豆まきをする地方とか、どこかにないのだろうか。

【2月2日(金)】
▼おれもネット生活は長い。ウェブページは誰が読んでいるかわからないということも、何度かの驚きを通じて身に染みて知っているつもりであった。ウェブ書評で『パラサイト・イヴ』を揶揄していたら、ある日、瀬名秀明と名告る瀬名秀明さんからメールが来たり、おれにとっては手塚治虫にも並ぶ“神”の領域にいらっしゃる高名な女性マンガ家の方から突然メールを頂戴して泡を吹いたり、一面識もなかった高柳カヨ子さん(神林長平夫人)から初対面のときに「ホームページ読んでますよー」と言われてのけぞったりしたものであった。昨今はインターネットの利用者も爆発的に増えて、まあ、おれと年齢の近い出版関係者からは「はじめまして」とメールが来ても、さほど驚かなくはなった。慣れというのは怖ろしいものである。
 しかし、今回は出版関係者ではなかった。朝日放送鳥木千鶴アナウンサーから、突如メールをいただいたのである。まったく身に覚えがなければいたずらかもしれんとも思うところだが、身に覚えがありすぎだ。この日記に鳥木アナのことを書いたことがある(1998年9月8日)。「マニアック」だの「なんとなく垢抜けないおばちゃんっぽいイメージはあったのだが、ここ二、三年で見ちがえるように貫録が出てきて、ずいぶん色っぽくもなった」だの「藝術的なばかりの美脚の持ち主」だの「どちらかというと地味で、全国区に躍り出るというタイプの人ではない」だの「関西放送界の女神であるとおれは崇拝している」だの、上げたり下ろしたり、好き勝手を言っている。ひいいいぃ。どちらかというと珍しいお名前であるから、検索エンジンで発見なさる可能性は高い。「いつも楽しく為になる日記をありがとうございます」ときたもんだ。聞こえなかったかもしれないので、もう一度言おう、「いつも楽しく為になる日記をありがとうございます」 そこのお婆ちゃん、聞こえましたか? お年寄りのために念のため、もう一度言おう、「いつも楽しく為になる日記をありがとうございます」 い、いつもって、ひょえ〜、固定読者になってくださっていたのか。おれはまた泡を吹いた。げに、ウェブページというものは誰が読んでいるかわからない。
 で、鳥木さんがメールをくださったのは、大阪市北区中之島のリーガロイヤルホテルがやっている“アリー系ステイプラン”についてである。なんでも『アリー・マイ・ラブIII』ビデオレンタル開始記念(レンタルビデオのほうはタイトル表記がちがうのだ)ということで、一泊二日でアリー気分に浸れる格安の宿泊プランなのだった。鳥木さんもアリーのファンでいらして、先着三十名にアリーとお揃いの“百匹羊パジャマ”がもらえるというので、アリー・ファンのお友だちを誘って予約しようとしたところが、すでにパジャマは品切れで断念なさったのだそうである。うーむ、あのパジャマならおれも欲しいが、なんとなく妙な幻覚を見そうではあるな。リーガロイヤル地下の「セラーバー」では、『アリー・myラブ』の登場人物名を冠したオリジナル・カクテルを出しており、「アリー・メニュー」というディナーには、オリジナル・メモ帳がついてくるのだそうだ。レンタルビデオのほうの企画なら、excite のほうのアリー・サイトに情報があるかもと久々に行ってみたら、はたして載っていた。オリジナル・カクテルに、「ジョン・ケイジ」「トレーシー・クラーク」がないのは残念である。記念品もパジャマやメモ帳だけではなく、フェイス・ブラワイパー付き眼鏡リモコンで流せるトイレリモコンで外せる髪留めリモコンで伸び縮みするハイヒールニトログリセリン靴巨大グローブなどを用意してほしかった。カップルには、洗車場プレイが楽しめるサービスなどもよろしかろう、ってなにを言ってるんだ、おれは。
 いやあ、それにしても、びっくりしたなあ。インターネットは狭い。「関西放送界の女神」から突然メールが来たりするのである。冬樹宛アドレスから自動転送されてきたメールを会社で煙草吸いながらケータイで見たとき、おれはそれこそアリーのように幻覚を見ているのか思いましたぞ……というわけで、鳥木さんのご許可を得て、このびっくり体験を開示する次第なのである。そこのあなた、ウェブに迂闊なことは書けんぞ〜。

【2月1日(木)】
▼マスコミの話題は、昨日発生した日本航空機同士のニアミスで持ち切りである。どうやら、ほんとうにニアだったらしい。一方のパイロットは、高度差十メートルですれちがったなどと報告しているそうであるし、もう一方のパイロットの報告も高度差は「僅差」だったとのことだ。ほんとかね〜。ほんとうだとしたらどえらいことだが、まだしも“高度差”だからよかったのかもしれない。いくら双方が上昇、下降しているとしても、垂直方向の速度は水平方向のそれに比べればずっと小さいはずだからだ。でも、十メートルってのはいくらなんでも怖いよなあ。
 ニアミス時の二機の垂直方向の相対速度は見当がつかないので、これがもし「高度差ゼロ、水平距離十メートルですれちがった事故」だったとしたら、どれくらいどえらいことなのだろうかと、なんとなく気になった。これはどえらいぞ。ちょっと想像してみるだけでも、そのどえらさがわかる。大型旅客機の速度はマッハ約○・八だそうだから、単純計算で秒速約二百七十メートルである。十メートルなど、二十七分の一秒で移動してしまうではないか。ましてや、二機の航空機が絡むのだから相対速度はもっと大きい。正面衝突のコースにあるとすれば、相対速度は当然、秒速約五百四十メートルだ。仮に航路が直角に交わって衝突したとすればどうなるのかな? 中学校以来使っていない脳の部分を叩き起こし、直角二等辺三角形を思い浮かべて考えてみると……えーと、直角二等辺三角形のふたつの等辺をそれぞれ航空機の航路、衝突ポイントを直角の頂点だとすれば、一方の航空機が鋭角の頂点から直角の頂点まで移動するのに要する時間で、斜辺方向には斜辺の中点に達する距離を移動することになる。つまり、斜辺方向の速度は等辺方向の速度の二分のルート2倍だから、その速度の二機が正面衝突すると考えれば分母が消える。てことは、と電卓を叩くと、それぞれマッハ○・八で飛んでいる二機の旅客機の航路が直角に交わって衝突するときの相対速度は、秒速約三百八十二メートルである。え? おまえ、三角関数知らんのか、て? 知らんわけではないが、思い出すのに著しく時間がかかる(それは知らんのと変わらんのとちゃうか?)。答えが出たらええやんか。もう少しややこしい角度で交わって衝突するケースは、算数の得意な人が各自計算してください。
 まあ、とにかく、秒速約三百八十二メートルで事態が進行している世界の十メートルってのは、時間で捉えれば約○・○二六秒ということになる。今回の二機は、羽田発那覇行きと釜山発成田行きだったのだから、局所的にどう飛んでいるかは知らんが、まず常識で考えれば直角に交わるよりも正面衝突に近いほうの角度ですれちがったのだろう。もし二機の“水平距離”が十メートルだったとしたら、ほんの百分の二秒ほどなにかが悪いほうに転べばみごとに衝突だ。相手機がだしぬけに雲間から目の前に現れたりしたら、シェーンであろうが高橋名人であろうが回避できんな。高度差十メートルがほんとうだったとしても、それが“高度差”であったのは不幸中の幸いである。


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冬樹 蛉にメールを出す