間歇日記

世界Aの始末書


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2002年4月中旬

【4月20日(土)】
▼ワールドカップ・ミニ替え歌シリーズ(いつシリーズにした?)第二弾。

♪亡霊、亡霊、亡霊、亡霊〜
 We are the dead, we are the dead.

 くだらねー。でも、くだらねーやつほど、ふと気がつくと唄っていたりするものなのだ。昨日なんぞ、頭の中で一日中「暴徒制圧のテーマ」(だから、いつテーマにした?)を唄っていた。

【4月19日(金)】
▼なにやらだんだん世間が慌ただしくなってきた。ワールドカップ開催まで、あと一か月とちょっとである。世間が慌ただしいというよりも、マスコミが慌ただしい。磯野貴理子のように慌ただしい。
 それはそうとして、フーリガンとやらがやってくるのは、たしかに迷惑にちがいない。おれはもう、とにかく人ごみがなによりも大っ嫌いなので、フーリガンが巻き起こした過去の惨事の映像などを見ると、磯野貴理子どころではなく頭が痛くなってくる。他人が押し潰されているのを見ても吐き気がしてくるほどだ。
 そこで、フーリガンに目を光らせる警察の方々のため、突如、応援歌を作ってみた。これを唄うには、まず、ハトをたくさん用意する必要がある。用意しましたか? では、それをいっせいに空に放してください。できれば、大阪の生野区のあたりがよい。ハトを放したら、飛び去ってしまう前にすかさず唄おう、フーリガン対策の応援歌!

♪暴徒、暴徒、暴徒〜
 暴徒、暴徒、暴徒〜
 暴徒、制〜圧〜

 暴徒制圧がお送りする、底抜け脱線ゲ〜〜ムってのはあまりにも古いか。『本物は誰だ』でもいいことにしておこう。なに、『クイズダービー』? ふっ、そんなつい昨日のことを。

【4月18日(木)】
磯野貴理子はけっこう可愛いと思っているのはおれだけだろうか? おれの母なんぞ、磯野貴理子がテレビに出てくると、「頭痛がしてくる……」とあわててチャンネルを替えようとする。そんなに厭がるほどのキャラクターかなあ、じっくり見ると、なかなかの美女ではないか。こういう人が身近におったら声のひとつもかけたくなるのではなかろうかと思いつつ、三分ほど観ているとたしかに頭痛がしてくる。磯野貴理子が出てきたら、音を消して鑑賞するのがいいかもな。

【4月17日(水)】
▼コンビニで「A.猪木伝承・安田スタミナ弁当」なるものを買い、食ってみる。どうもこのサンクスってコンビニは、けったいな弁当ばかり出しているようだ。小泉首相弁当ってのもあったし(単に白髪葱が入っているだけだったような気がするのだが)、最近の傑作では、高橋尚子弁当がなかなかの出来であった。うまかったので、一週間に二回食ったくらいである。高橋尚子弁当の付録のような存在ながら、じつは弁当よりうまい「小出監督のおつまみセット」なるものもあって、あれはマジでうまかった。高橋尚子が弁当の権威だとは思えないが、小出監督はおつまみの権威であるにちがいないと思わせる威光暗示が効いていた。
 それにしても、このアントニオ猪木弁当シリーズ、「藤田情熱カレー」やら「元気そば」やら、なんだかんで六種類あって、格闘技に疎いおれには、安田だ藤田だと言われても顔が浮かばない。漫然とプロレスやらK−1やらを観ていることもあるから、顔見りゃ、ああとは思うんだろうけど。しかし、どう考えても、あのような身体がいくつあっても足らないようなことをしている人々が、コンビニの弁当を食ってスタミナをつけているとは思えない。なんたら伯爵だの公爵だのが、なぜかインスタントコーヒーを飲んでいたCMを連想する。
 猪木弁当に小さなカードがついていたので、最近焦点距離の調整にややタイムラグが生じるようになってきた眼を凝らして虫のような字を読むと、なにやらこの弁当でプレゼントが当たるらしい――「闘魂注入コース:アントニオ猪木本人より闘魂注入のビンタをプレゼント! 10名様」 要らんわい。おれのような優男が猪木のビンタなんぞ食らった日には、闘魂は注入されるかもしれんが、反対側から魂がはみ出して抜けてゆくわ。
 やはり弁当であるから、体育会系の有名人をフィーチャーしたくなるのはわかるが、漲る闘魂とか強靭な肉体とかとは縁のなさそうな、文藝系の有名人を弁当に使ってみても面白いのではないか。「中上健次のスタミナ弁当」とか「鈴木光司の情熱カレー」とかは、あんまり猪木弁当と変わらないのでボツ。「中島らものおつまみセット」はいいぞ。小出監督を凌駕するだろう。「友成純一のスプラッタパスタ」「田中啓文の異形幕の内」「牧野修の猫まんま」あたりは、食欲の湧くこと請け合いである。汁物も必要だな。「小林泰三のヒトブタ汁」がお薦めだ。パン食も欲しいな。パンのようであってじつはパンでないという「宮部みゆきの模倣パン」なんてのはどうだ。さては、それが言いたかっただけやな。

【4月16日(火)】
▼朝、テレビにイチロー新庄の姿が現われ、どでかいテロップ――「Major 日本人 大活躍」
 悪かったな、マイナー日本人で。
3月2日の日記で書いたG・K・クロワゼットの話について、前野[いろもの物理学者]昌弘さんから情報をいただいた。あー、SFファンダムでは「いろものさん」といえば、科学解説者、および、いわゆる“超科学”(その筋の人々は“ちょ〜”と言い習わす)に愉快で鋭い突っ込みを入れる藝人(1997年2月9日の日記参照)として泣く子も笑う有名人であるが、この日記はけっこうSFファンでない人も読んでくださっているらしいので、解説しておく必要があろう。“いろもの物理学者”というのはあくまで前野さんのハンドルネームおよび谷甲州黙認ファンクラブ「人外青年協力隊」での役職名なのであって、本職はちゃんとした物理学者である。“物理学についていろものな人”という意味ではなく、“いろもの”で、かつ“物理学者”という意味なので、そこんとこ混同しないように。
 で、前野さんからの情報だが、『新・トンデモ超常現象56の真相』(皆神竜太郎・志水一夫・加門正一、Skeptic library 06・太田出版)によれば、例のクロワゼットの“透視”については、『TV局スタッフにより、クロワゼットに事前に情報が与えられていた』『当時の関係者には「見つかるとしたらダム」ということは常識だった』という話があるそうなのである。超科学(トンデモ科学)を笑い飛ばす団体“と学会”の本は、最初のころは面白がって読んでいたが、次から次へと出るうえに、こちらの感覚が鈍化してきたせいか多少のことでは笑えなくなってしまい、最近チェックしていなかった。去年出た本か。さっそく見ておこう。
 クロワゼットの例の“透視”にどういう裏事情があったらしいかについては、前野さんが前掲書を紹介してくださったメールを、多少長くなるが、そのまま引用させていただこう――


なんで「見つかるとしたらダム」なのにダムが探されてなかったかというと、その女の子の母親が「あの子はダムにはいかない」と主張していたので他のところから探していたからだそうで、「やっぱりダムだよ」という話になって「じゃあ今日捜索隊を出そう」と言ってたその日の早朝にTV局が来て見つけちゃった、というのが当時の状況だそうです。TV局員がその日ダムに捜索隊が出ることを知っていて、「今日あのダム捜索するんだってさ、クロワちゃん連れて先にダム乗り込んで、みつけちゃったりしたらすげえいい番組撮れるじゃん」なんて言って出かけてみたら大当たり、って邪推も成立するわけです。もちろんこれは「クロワゼットは透視してない」という証拠にはならず、「『透視』するのは実は簡単だった」という証拠にしかなりません。しかし、同時に行った他のいくつかの透視は見事に失敗していることや、それ以前のクロワゼットの評判(これも上記の本の一つ前の項目に書いてあるのですが、クロワゼットの過去の業績ってのは騙りが多いようです) にきな臭い話があることからすると、まぁたぶん真相は『十分なリサーチの末のまぐれあたり』ってところではないかと思います。

 なあるほど、そのような背景があったとすれば、オッカムの剃刀的には、「『透視』するのは実は簡単だった」と解釈するほうが妥当だなあ。これが真相だとすれば、あのテレビ局のクルーは、そのような状況でうまくクロワゼットを招いて番組を撮れたという点に於いて、たいへんラッキーだったと言えるだろう。こうした状況下でお誂え向きの番組を企画していたことのほうが、よほど超能力的であると言えないこともないが……。
 なんとなく残念なような気もするのだが、真相がこうであったほうが気持ちがよいこともたしかである。おれもよくこの日記で予知能力を発揮しているので、透視能力者にはそこはかとない親近感を覚えておったのに、おれの予知能力とはちがい、少なくともこの件に関しては、「十分なリサーチの末のまぐれあたり」なのだろう。
 忌々しいのは、クロワゼットがすでに亡くなっていることである。論理的には、前野さんも指摘しているように、これを以て「クロワゼットは透視していない」ことの証明にすることはできない。が、より単純かつ蓋然性の高い説明がほかにできるからには、そちらのほうに分があるわけである。その、より単純かつ蓋然性の高い説明ができてしまう条件を想定し得るかぎりすべて封じておいたうえで“透視”をしてみせなくては、科学的に“透視”を云々していることにはならない。おれが科学者に期待するのは、いわゆる“超能力”に関するそういう実証なのである。クロワゼットが生きているあいだに、科学的研究対象にした人はいないのだろうか? でもやっぱり、そういう酔狂な(おれはちっとも酔狂だとは思わないのだが)研究をしても、学者は生活できんだろうなあ。

【4月15日(月)】
『90年代SF傑作選(上・下)』(山岸真編、ハヤカワ文庫SF)を読み終える。いやあ、やっぱり、テッド・チャングレッグ・イーガンはいいねえ。今日読み終えたはずなのに、なぜ3月25日の日記に、『「ルミナス」(グレッグ・イーガン)はブッ跳んでていいぞ』などと書いているのかよくわからないが、言わなければ気づく人は少なかろうから、気にしないことにする。
 〈SFマガジン〉でも以前読んではいたものの、テッド・チャンの「理解」、やっぱり好きやなあ。何度読んでも面白い。ぐんぐん知能が増進し、“超知能”としか呼びようのないものを得る男の話だが、その“主観”を説得力たっぷりに描き切る手腕はすばらしい。「どこまで行くねん?」というエスカレーションの面白さはSFの武器のひとつとはいえ、知能増進テーマでただただここまで突っ走るのも珍しいだろう。「頭のいい人はきっとこんなふうなんだろうなあ」と想像してみることは誰にでもあるだろうが、あまりにも頭がよくなり、しかも、ずんずんよくなってゆく状態などというのは、常人の想像を超える。というか、知能や意識というものの正体が完全に解明されているわけではないのだから、増進するといっても、“どっち”に“どういうふうに”増進するのか、想像の手がかりがないのである。魚を食べると頭がよくなると最近みな気軽に唄っているが、“頭がよくなる”ということがどういうことなのか、深く考えれば考えるほどわからなくなる。それはおれの頭が悪いせいなのかもしれないが、そもそも、なにを以て“頭がよい”とするのか、納得できる統一見解などないではないか。ないからこそ、想像を羽ばたかせる余地がある。「理解」は、その“想像できないものを想像する”ところに、SF作家の面目躍如たる気概が満ち溢れていて、とてもいい。
 「理解」の主人公が神のような知能の頂点から再び凡人の知能に転げ落ちてゆく話なんてのは、なにしろ古典があるから、SFファンならすぐ思いつくだろうけど、思いついたって、説得力のあるものが書ける人はなかなかいないだろう。でも、そういう話も読んでみたいものだ。『アルジャーノンに花束を』(ダニエル・キイス)や「理解」と肩を並べる“知能もの”期待。心理学や大脳生理学のポピュラーな知見を援用した程度のものでは、もはや現代のSFファンにはもの足りないのではなかろうか。むろん、物語の面白さを追求する方向もあるが、現代の科学・技術の知見をフルに活用した想像を堪能させてくれるようなものは、まだあまりないのではなかろうか。知能テーマに関しては、なんとなく保守的な気がする。早い話が、知能テーマで現代のハードSFが読みたい。現代の最新の知見で、知能に関して、想像できないものをどこまで想像することができるのか。その挑戦が読みたい。なにしろ、知能というのは、それがどのようなものであれ世界解釈の方法そのものであるにはちがいないのだから、SFのエッセンスに不可欠に関わるテーマでもあるのだ。
 いやあ、しかし「理解」には、何度も笑った。笑うところ、たくさんあるでしょう? エスカレーションは、たとえシリアスな作品でも、笑えてなんぼのもんである。「わたしは新たな言語の考案にとりかかっている」には大爆笑。最近、おれの個人的流行語は、「ゲシュタルトがわたしを呼んでいる」である。いいなあ、これ。「理解」が『90年代SF傑作選』に入ったことでもあるから、ぜひ流行らせたいものである。今年の流行語大賞を狙おう。学生諸君は、授業中ぼーっとしていて先生に当てられたら、うつろな目で宙を見つめながら、「事象の微視的描写にすぎないそのような知識には興味がありません。ゲシュタルトがわたしを呼んでいる……」と言ってみよう。サラリーマンの方々は、会議中にやおら立ち上がって、「ゲシュタルトがわたしを呼んでいる!」と叫んで退出しみよう。小泉首相は、記者にマイクを向けられたら、「ゲシュタルトがわたしを呼んでいる」と不敵な笑みを浮かべてつぶやき、悠然と立ち去ってみよう。また支持率が上がること請け合いである。
 それはそうとして、突如「窓際のテッド・チャン」ってのを思いついたのだが、こういうのは知能と呼べるのか?

【4月14日(日)】
額田やえ子氏の訃報に触れる。額田やえ子氏といえば、やはり『刑事コロンボ』“カミさん”にとどめを刺す。よくぞ、あれを“カミさん”と訳したものだ。
 おれたちの世代だと、テレビ番組が白黒からカラーに変わっていった端境期を経験しているのだが、二か国語放送についてもそうだったのである。『刑事コロンボ』は、放映期間が長かった(というか、質は落ちたがいまだに続いている)こともあって、途中で二か国語放送になったのだ。おれはコロンボが原語で聴けると狂喜し、当時ビデオなんてものはもってないので、二か国語放送が受信できるラジカセで音だけ録音し、擦り切れるほど聴いた。おれはいっぱしのコロンボ・フリークだったので、勉強しているなどという意識はまったくなかった。青春時代の至福のひとときであった。どうしても英語で聴き取れない台詞があると、日本語トラックに切り替える。日本語の台詞を元に原語を推理するわけだ。そんなことをしながら、何度も感嘆したものである。職人の魔法のような技には、感嘆するほかない。なにしろ、テレビドラマの翻訳には、時間制限があるのだ。原語でしゃべっている映像の発話時間に比べて翻訳があまりに長かったら、まるでトルシエ監督の通訳のようで不自然である。映画の字幕と同じで、通常の翻訳とはまるで異なるレベルのコピーライター的な職人の技が要求されるのだ。
 二か国語放送が入るラジカセを買って、初めて『刑事コロンボ』を観たとき、おれはわくわくした。あの「うちのカミさん」は原語でどう言っているのか――?。 初回は英語トラックのみで観ることにしたのだが、はて、どうもそれらしい言葉が出てこない……。やがて、おれは気づいた。さっきから、コロンボは何度も言っているではないか。“My wife said...”と。
 おれは内心ずっこけた。ずっこけから立ち直ってくると、じわじわと驚きがやってきた。おれがいまから二十年、三十年と英語を勉強したとして、これを「うちのカミさん」と訳せるだろうか――ここはこの言葉でなければならないという確信とともに、おれの頭の中から自然に等身大の「うちのカミさん」が出てくるだろうか、と。仮に、いま現在、「最近、アメリカで人気の刑事ドラマです。ちょっと訳してみますか?」などという仕事がなにかのまちがいでおれのところにきて初めて『刑事コロンボ』を観ていたのだったとしても、おれには「うちのカミさん」を編み出す自信はない。
 ああいう仕事は、英語ができるだけでは絶対にダメなのである。対象とする外国語なんぞ、あの世界では“できてあたりまえ”、そこがスタートラインなのであって、そこからは広い常識や血の通った日本語の知識はもちろん、深い作品理解や人物理解、そしてなによりも作品に対する愛情と作品への没入が必要であるのにちがいない。コロンボという人物を、実在の人間としてわがものとしてはじめて、あの「うちのカミさん」が出てくるのだろう。
 あのように愛される“原語を超える訳語”には、そうそうしょっちゅうお目にかかれるものではない。額田氏の仕事にリアルタイムで触れられて、おれはとても得した気分である。お疲れさまでした。

【4月13日(土)】
▼帰宅したら今日になっていた。数時間前にテレビ放映された映画『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲』の録画を、飯を食いながら観る。劇場で観たが、もちろん、もう一度観る。テレビの時間枠に合わせるため、かなりせわしなくカットされていた。こういう名画は、ノーカット放映してほしいねえ。なにが残念って、しんちゃんの両親が、悪の組織(?)イエスタデイ・ワンスモアの暗示にかかり、朝から仕事をほっぽり出して暴飲暴食しているシーンのギャグがカットされていたことである。パパのひろしが会社に行かないので、会社に行かなきゃだめだと詰め寄るしんちゃん。ひろしはしんちゃんを睨みつけ、どうして大人は会社に行かなきゃなんねぇんだ、「国会で青島幸男が決めたのか!?」
 どうして、アレをカットしたんだっ! なに、子供にはわからん? まあ、わからんわなあ。わかる子供がいたら気色悪いよ。『天才バカボン』全巻読んでる五歳児とかね。子供どころか、若者でも「都議会じゃないの?」って言うだろうな。でもなあ、もったいないなあ、あのギャグ。クレヨンしんちゃんが子供の番組だなんて、国会で青島幸男が決めたのか?

【4月12日(金)】
▼東京の一部地域限定販売の飲みものに、「葛西の戦士」というのがあるのだが――って、ないない。

【4月11日(木)】
「マサイの戦士」大塚製薬)なる奇妙な飲みものがあるのだが、どうやらこれは関西と四国の一部でしか売られていないらしい。それはまあよかろう。わりとみな知っていて、関東の人も「マサイの戦士ってのがあるらしい」などとよく話題にしている。おれは飲んだことないけどね。だが、「野菜の戦士」というのもあるってのは、できれば秘密にしておきたかったのだが、ウェブサイトを見るかぎり、どうもこっちのほうは地域限定商品ではないらしいのである。このサイトにはご丁寧にも「ネーミングの由来」というページがあって、野菜や乳酸菌が身体の中で“戦っている”ところから『戦う野菜飲料→「野菜の戦士」とネーミングしました』などと、いけしゃあしゃあと説明している。「うそつけーっ!」と関西人は突っ込みまくっているはずだが、もちろん、突っ込みを期待してこのようなページを作っているのだろう。強かなやつらである。おれなんぞ、最初に新発売の野菜飲料が「野菜の戦士」という名前だとプレスリリースで読んだとき、「絶対、名前を先に思いついたな」と確信した。この名前で出したいがために、わざわざ野菜飲料を企画したのではないかとおれは疑っている。要するに、田中啓文的発想である。こういうネーミングが通ってしまう会社が羨ましい。さすが、宇宙CMを撮るだけのことはある。おれが会社でなにかのネーミングをすると(なぜかそういう仕事はめぐりめぐっておれのところにくることになっている)、おれがいちばんいいと思っている作品がウケず、当て馬で適当に書いたものの中から、とくにつまらないものが多数決で通ったりするのだ。嬉しくもなんともない。ネーミングだけ、よその会社に売り込んでやろうかと思ったことが何度あったか。「野菜の戦士」――いいなあ。“野菜”はむろん“マサイ”と同じアクセントで読まなくてはならない。そう読んでいない人は関西人ではないと見分けがつくかも。


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