間歇日記

世界Aの始末書


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2001年5月中旬

【5月20日(日)】
▼あろうことか、ディスクに作業エリアが取れなくなって、SCANDISK による修復が途中で終わってしまう。次に立ち上げようとすると、SCANDISK までフリーズしてしまう。SCANDISK をスキップしても、Windows95 が立ち上がるのに必要なだけの空き容量がないのだ。しかたがないのでフロッピィディスクでブートして、消せるファイルを消しまくって掃除したら、Windows95 は立ち上がるようになった。
 しかし、まだクロスリンクの問題は解決されていない。改めて SCANDISK で調べてみると、クロスリンクに関与しているファイルどもは、幸いどれもさほど重要なものではない。横着して消してしまうことにする。さらに SCANDISK をかけて、一応、ディスク内の致命的論理エラーをチェックし、念のため、クラスタも全部検査させる。最初にフリーズしたときのタイミングがたまたま悪かっただけで、物理的障害は生じていなかった。ともかく問題は解決されたようだ。おれはべつにパソコンマニアではないので(パソコンフェチではあるかもしれないが)、こういうことに時間を使うと無性に損をしたような気になる。
 そういえば、このパソコン、わが愛機“カーリー・ドゥルガー”も、買ってからもうすぐ丸三年になるのか。IT業界換算だと、約二十一年前のパソコンを使っていることになる。そろそろガタが来ているかなあ。でも、おれの部屋のテレビは二十三年間使っているから、まだパソコンのほうが新しいぞ。べつにおれは、このパソコンで『ジュラシック・パーク』を作っているわけではないので、まだまだ頑張ってもらいましょう。ケータイは年に一個買うのに、このアンバランスはいったいなんなのだろう?

【5月19日(土)】
▼パソコンの調子が悪くてあせる。フリーズしたのでやむなく強制終了したら、ファイルにクロスリンクが発生したと SCANDISK が言ってくる。なにぶんにも慢性的な金欠病だから、まだまだ壊れられては困るのである。しかたがないから、そのまま SCANDISK に修復を開始させたところ、これがやたらと時間がかかる。書きものをあきらめて、ひたすら本を読む。

【5月18日(金)】
▼おれはファンタジーが苦手なので、単におれが無知であるだけなのかもしれないのだが、前から不思議に思っていることがある。妖精妖怪には、なにか本質的ちがいがあるのであろうか? 妖精はいいやつで妖怪は悪いやつだというわけでもなさそうだ。悪い妖精やいい妖怪なんてものも、しばしば耳にする。ただ、なんとなく雰囲気だけで分類しているのであろうか? 考え出すとますますわからなくなってきて、の決定的な見分けかたを調べているような気になる。つまり、調べれば調べるほど例外が次々と現われてきて、素人には結局どうでもいいような気になるということである。
 妖精と妖怪とのあいだに決定的なちがいがないのであれば、たとえば、めるへんめーかー的絵柄の花園の中を、ぬらりひょんに翅が生えたようなやつらが楽しげに舞い踊っていてもよさそうなものであるが、どうもそういうのは想像しにくい。この違和感はなんだろう? そうか、ぬらりひょんのような「やつらが楽しげに舞い踊って」いるあたりに違和感の最大の源があるのではないか。妖精というと、なんとなく“同種で群れている”感じがある。それに対し、妖怪の場合は、単独行動をしている絵が浮かぶではないか。妖怪が群れている場合は、異なる種の妖怪が墓場で運動会をしていたりするわけであって、ぬりかべが五十枚も六十枚もひしめきあって談笑している図なんてものは、水木しげるだって描いていないだろう。コロボックルが薄野あたりにぼーっとひとりで立っていたら妖怪だが、富良野あたりで蕗の葉の下で身を寄せ合っていたら、立派な妖精であろう。
 つまり、まつろわぬ異形の者のうち、一応社会性を持っていると人間(でいるつもりの連中、すなわち、“妖精”“妖怪”という言葉を使うほうの連中)に認知されている集団が妖精で、その社会性が想像の埒外にある周縁の者どもが妖怪ということになっているのではなかろうか。コギャルや暴走族は妖精だが(どう見ても妖怪としか言いようがない姿形の者も多いが)、引きこもりなどは妖怪として社会に認識されているのかもしれない。うーむ、なんか民俗学的、文化人類学的にとてつもなく深いところにたどり着きそうな気もしないではないが、べつにたどり着いたところで一文にもならないので、ここらで引き返すことにしよう。
 あまり大きな声では言えないが、おれとしては密かに納得している定義があるにはあるのである。ロシア人の少女が妖精で、その三十年後が妖怪である――というものだが、国際問題に発展してもなんなので、これはあくまで非公式な定義である。なに、日本人だってそうだ? た、たしかに、思い当たる事例は少なくない。

【5月17日(木)】
「ニュースステーション」(テレビ朝日系)に、韓国の人気女優、李英愛(イ・ヨンエ)が生出演(公式サイトはハングル環境がないと読めないが、どのみちおれには英語のところしかわからない)。べ、別嬪さんですなあ。美人などという言葉では言い表わせぬものがある。これはやはり“別嬪”以外のなにものでもありますまい。なんとなく若村麻由美奥菜恵と(若いころの)吉永小百合と(若いころの)原節子を足して三・一四一五九……(およそ三)で割ったような感じである。これでもっと翳があればなあ。
 それにしても、若い女性のしゃべる朝鮮語というのは、どうしてあんなに色っぽいのであろうか。黒田福美なども、もともと美人ではあるが、朝鮮語をしゃべっているときには二割増しくらいに見える。やっぱり、あの「○○ヨ〜」という可愛らしい語尾が効くのかねえ。そういえば、色っぽく見える効果を狙ってか、若い娘が朝鮮語のようなしゃべりかたを真似ているのをたまに耳にする。「おめ〜ヨ〜、その服ヨ〜、ダセ〜んだヨ〜」 あれはちがいますかそうですか。

【5月16日(水)】
「夏のイナズマ」サントリー)なる発泡酒がコンビニに並んでいたので、試しに買って帰る。飲んでみると、まるでサイダーのようだ。たしかに刺激的で爽快ではある。アルコール分は六パーセントと、えらく高い。一方、アサヒビールのビール「スーパーモルト」は、飲んだことはないが、アルコール分が三・五パーセントというのをウリにしている。つまり、発泡酒はアルコール分が高くなってゆき、ビールは低くなってゆくというわけか? 発泡酒は刺激で勝負、ビールは味で勝負と、同じ土俵で闘わないように二極分解していっているようだ。いろいろな業界に当てはめて考えられる現象かもしれない。

【5月15日(火)】
“ヘンな音楽グループ名”の新作を思いつく――「高石ともやとウルトラセブン」
 いや、べつに“ワイルドセブン”でもいいんですけど

【5月14日(月)】
▼最近、やたらと野菜ジュースの類が飲みたくなる。週末など、湯水のように飲んでいると言ってよい。もっとも、ふだん湯水をそれほど飲んでいるわけではないが……。
 なぜか昨今の野菜ジュースには、果汁などが入った軟弱なものが多くて嘆かわしい。飲んでみると甘かったりする。けしからん。やはり野菜ジュースというものは、ぷ〜んと強烈な青臭さが立ち昇ってくる塩味の液体でなくてはならない。その点、カゴメはすばらしい。
 甘い野菜ジュースもたまには飲むのだが、なんとも頼りない。身体によいものを摂取しているという気がしないのである。あんまりまずいのも困るが、野菜ジュースは塩味であるべきですよねえ?

【5月13日(日)】
ダグラス・アダムス氏が11日に心臓発作で亡くなっていたという報道。びっくりだ。まだ四十九歳だったというから、まったく惜しい。訃報自体がなにかの冗談ではないかと思った人も多かったろう。そう思ってもらえたのならアダムス氏も本望であろうが、残念ながら冗談ではなかった。英国ユーモア小説の巨星墜つ。
 でも、どういうわけか、ダグラス・アダムスをはじめ、テリー・プラチェットとかジョージ・ミケシュとか、イギリスの屈折したユーモア(まあ、ミケシュはハンガリー生まれだが、イギリス人以上にイギリス人的ユーモア感覚の持ち主だ)は、日本ではウケないんだよなあ。モンティ・パイソンとかを好む人はけっこういるんだけどね。そういえば、トム・ホルトの翻訳は、もう出ないのだろうか。いまの日本は、みんなが紙屑同然のポンド紙幣で尻を拭いていたころの英国に似ていなくもなく、一種の自虐的開き直りみたいな英国風ユーモアが日本人にもウケそうな気がするんだけどね。日本のミケシュみたいな人が現われないものかな。おれがイギリス人をとくに羨ましく思うのは、王室おちょくりジョークである。王室をスマートにおちょくることにかけては、イギリス人は王国・立憲君主国の中でも世界最高水準にあるにちがいない。つまり、それだけ王室が親しまれているということでもあろう。首相公選制が実現したら、皇室は英国王室に倣って、メディアを駆使した戦略的“パンダ化”の道を歩むのが利口だと思う。おっと、これは以前にも書いたな。もはや若い世代にとっては、皇族というのは芸能人の一種以外の何者でもないだろうし、ほとんど自分たちの生活とは関係のない人たちなのである。若い世代どころか、おれにとってはそうである。今後ますます、皇室の存在感は希薄になってゆくであろう。皇室を存続させたければ、まず、秀逸な皇室おちょくりジョークの作家を育てなくてはならない。マスコミも、森前首相をいたぶった情熱の十分の一くらいは、スマートな皇室おちょくりに割いてはいかがなものか。皇族の方々も、イギリス人の爪の垢でも煎じて飲み、適度なスキャンダルやらなにやらで常に面白い話題を提供して、国民を楽しませてくれなくてはならない。女性誌なども“雅子様”などと堅苦しい呼びかたはやめてはどうか。“塩爺”みたいにファンサイトができるくらいでなくては。“マチャミ”ってのがおるのだから“マチャコ”というのはどうだろう? ずいぶん親しみが増すと思うぞ。

【5月12日(土)】
▼昨日に引き続き、今日もナビオ阪急の前にいたりする。昨年の“やおい晩餐会”と同じ面子で、今年も集まって飯を食うことになっているのだ。狼谷辰之さんとご夫君のアルビレオさん、木根尚子さん、宮本春日さんの四名である。アルビレオさんはSF者であるが、三人の女性は筋金入りのやおい者で、じつに強烈な個性の人々なのであった。たぶん、おれがいちばんフツーの人であろうと思われる。
 飯を食いながら、いろいろとくだらない話をする。やたらと大声を出すグループが多いうえに音が反響するため、あまりゆっくり話すには向かない店であったが、料理は安くて量が多く、腹いっぱい食えた。木根さんに著書を頂戴する。パラパラめくると、美青年が美少年を押し倒しているイラスト。醜男が醜少年を押し倒しているイラストではなぜいけないのであろうか。そういうのを好む人もいると思うのだが……。
 ご家庭の都合で早退しなければならなくなった狼谷さんを見送り、残りの面子で喫茶店へ。おれは持ってきたパンフレットを広げ、『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲』の解説をはじめる。やはり、おれより年長のアルビレオさんにはネタがよくわかり、オヤジ二人で懐かし話をしているのを、若き乙女が聴いているという構図になる。なぜかシュールストレミングの話になる。なんと、木根さんは体験者であったのだ。なんでも、学生のころ、研究室の先生にスウェーデン人の学者から送られてきたらしく、臭いともなんともひとことも触れられていなかったため、わざわざ送ってきたのだからうまいものにちがいないと、あろうことか研究室で開缶したのだそうだ。つまり、屋内でである。無茶をするものだ。もちろん、よその研究室からも血相を変えた人々が駆けつけてきて、テロかなにかでも発生したかのごとき大騒ぎになったという。その後しばらくは、木根さんの研究室から本を借りた人が返却に来ると、「臭かった」と本の感想を述べたそうである。なぜ研究室の人々はそんな怖ろしいことをしたのかと木根さんに問うと、「缶のどこを読んでも、臭いともなんとも書いていなかったから」だそうである。こ、これはたしかに盲点だ。パッケージに「臭いので注意」などと書いた納豆はない。その国ではあまりにあたりまえのことは、あえて言挙げされることはないのである。成文法というものは、異なる文化の接するところに発生する。ある文化圏内であたりまえであるルールは、いちいち文章にしたりはしないのである。おれは文化人類学と法学の交わるところに遠く思いを馳せた。あとはまあ、SFの話とかやおいの話とかネットの話とか動物の話とかプリオン病の話とか目のたくさんある妖怪の話とか東京都の市の話とかティーンズルビー文庫の話とか、いろいろする。
 喫茶店を出て、地下鉄の駅の前で一時間ほど立ち話。じつは、木根さんは、昨年の“やおい晩餐会”で話題になった「星は、昴」(谷甲州)の“やおい版”をすでに完成させているのである。ところが、怖がってなかなか一般公開してくれないのである。そのうち極秘のページで限定的に公開したいとはおっしゃっている。『エリコ』(谷甲州、早川書房)を書いたくらいの作家がやおいパロくらいで動じるとも思えず、また、ファンも目くじらを立てるとも思えず、むしろ喜びそうな気さえするのでぜひぜひネットで一般公開なさいと言っているのだが、どうもその気はないらしい。それにしても、「星は、昴」のやおいねえ……「めちゃめちゃにしてほしいのに、指一本触れてもらえないなんて……。でも、そんな辛さもまた、格別でございます」(「哀愁の女主人、情熱の女奴隷」/森奈津子『西城秀樹のおかげです』イースト・プレス所収)みたいな感じなのだろうか? まあ、「哀愁の女主人……」のほうは、やおいじゃなくてSFSMだしなあ。
 というわけで、ともかくやおい版「星は、昴」が読みたい方は、木根尚子先生に励ましのお便りを出そう!
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

『[完本]黒衣伝説』
朝松健、早川書房)
『大魔神』
筒井康隆、徳間書店)
『歯医者の領分』
木根尚子、桜桃書房)
「Treva」で撮影

 ひょええ、なんだかやたら本がもらえる日である。ありがたやありがたや。
 『[完本]黒衣伝説』は、カバー・腰巻はもちろん、天地や小口まで真っ黒けの見るからに禍々しい本である。こういう黒い本は、たいへん聖なる書かたいへん邪なる書か筒井康隆の『恐怖』かと相場が決まっている。一九八八年にいまはなき大陸書房から刊行された『黒衣伝説』に大幅に加筆訂正を行なった“完本”だということで、なんだかとても怖そうな本だ。こわごわパラパラとめくってみると、朝松健本人の一人称で書かれている。こ、これは怖い。ところどころ、飯野文彦とか田中啓文とか牧野修とかいった名前が出てくる。こ、これは怖い。しかも、作中人物(?)であるはずの牧野修が解説を書いている。こ、これは怖い。なにしろ著者みずからが封印していた本だとあるから、なにか書いてはならないことが書いてあるのにちがいない。書いてはならないくらいなのだから、もちろん読んではいけないのだろう。もしかしたら、この本は書店では売っていないのではないか、早川書房が呪いをかけてやろうと定めた人間にだけ送りつけているのではないか。なに? あなた、書店で見た? 買ってしまった? あ、あの、あなた、読んだあと、黒服の男につけまわされたり不慮の事故に遭ったりせず、無事に生きていたらbk1かどこかに感想を書いて生存を証明してください。おれはそれから読む。
 『大魔神』は、ご存じ日本特撮映画史に残る名作、もちろんあの『大魔神』であり、タモリの着ぐるみでもなければ日本人大リーガーでもない。大映が新作『大魔神』を作ろうと筒井康隆の手になるシナリオまで書き上がっていたのだが、残念ながら映画の企画は中断してしまったのだそうで、シナリオだけ〈SF Japan〉(西暦2000年秋季号)に掲載されたのだった。本書は、その単行本化である。内容はといえば、これはもう、黄金の定型に徹した様式美の塊みたいなものであり、小説家・筒井康隆を期待する人は、ちょっと拍子抜けするかもしれない。思うに、これを書いたのは役者・筒井康隆であり、以前に京本政樹について述べたことと通じるが、演じるほうの欲望に正直な視点で書いたのではなかろうか。本の装幀には、楽しい仕掛けがしてある。カバーも腰巻もリヴァーシブルになっており、寺田克也(カバー)、菅原芳人(カバー裏ポスター)、唐沢なをき(腰巻裏/表紙)、沙村広明(扉/本文挿画)と、総勢四名もの“絵師”がこの薄い本に関わっているのだ。映画化されなかったからこそ、なおのことのお値打ち品であり、筒井ファン、“絵師”のファン、特撮ファン、大魔神ファンには、千三百円はけっして高くないだろう。
 『歯医者の領分』は、前述の“やおい晩餐会”で著者から直接いただいたものである。歯医者(もちろん男)と小学校の先生(もちろん男)とのナニでアレなところに、暴力団が絡む「闘う歯医者のヒート・ラブ」ストーリーなのだそうだ。どうもおれなどは、“闘う歯医者”と聞くと「リトルショップ・オブ・ホラーズ」のああいうやつを連想してしまうのだが、あれはべつに闘ってませんかそうですか。なるほど、歯医者というのは、なかなか“やおい”的にもおいしい職業であるというのは想像がつく。なにしろ、あの椅子に座ったとたん、自動的に“攻守”が決まってしまいますからなあ。ヘテロな男性でも、あの椅子に座った経験のない人は少ないだろうから、ウケになる恐怖と快感(?)の片鱗をたいていの人は実際に味わっているはずなのだ。歯医者が女医の場合、えも言われぬややこしい心情を体験するものであるが、これはまあ、ワカる人にはワカるでありましょう。

【5月11日(金)】
▼浅草の短大生刺殺事件、ついに犯人が捕まった。一部の媒体では「レッサーパンダ男逮捕」などと報じられている。これではまるでショッカーの怪人であるとケダちゃんとこの掲示板で話題になっていたが、こういうひねこびた動物の改造人間はゲルショッカーデストロンではないかと思う。
 それはさておき、あのそっくりの似顔絵、ちょっと大友克洋入ってないか? 『童夢』に出てきた念動力爺いが、さすがにレッサーパンダじゃなかったけど、やっぱりあんな子供じみた帽子をかぶっていたよなあ。似顔絵描きの人が意識の底でそういう連想をしたため、おのずとあのような画風になってしまったのかもよ。
▼会社を出ると、おれはすぐさまタクシーを拾った。まにあいそうだ。タクシーはナビオ阪急前に滑り込む。おれは汗を拭いながらエレベータに駆け込み、目的のフロアでまろび出た。キオスクで新聞でも買うように慌ただしくパンフレットを買うと、スーツ姿にソフトアタッシェを提げたおれは窓口に顔を寄せ、低い声でニヒルに言い放った――「クレヨンしんちゃん、大人一枚」
 そうなのだ、いやあ、まにあったまにあった。シリーズ最高傑作との噂も高い、映画『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲』を、最終日の最終回でなんとか観ることができた。
 上映前に劇場内を見わたすと、さすがに最終回は空いている。うしろのほうの席はほとんど親子連れで埋まっているが、子供を連れてきている親たちはおれよりも若そうだ。親子連れたちと離れてぽつりぽつりと座っているスーツ姿の男が三、四人。もちろん、一人で来ているやつばかりだ。おお、やっぱり同類がおるわい。だが、どうやらおれが劇場内の最年長者であるらしい。おれは前から四列めあたりの中央にどっかと陣取ると、スクリーンを見上げた。
 ……うーむ、噂どおりの名作である。子供の観客など放り出して、子供を劇場に連れてくる親向けに作っているのはいつものことだが、今回はとくにそれが著しい。おれが笑っているところと、子供が笑っているところが全然ちがうではないか。いや、笑っているのはおれひとりという場面がいくつあったことか。完全にヘンなおじさんである。あっと驚くタメゴローだの万博の迷子バッヂだのカルメン・マキだの、下手したら、子供連れてきてる親だって知らんってば。ああ、そうか、しんちゃんのパパも万博で親が行列に怖れをなして月の石を見られなかったのか、そうかそうか、おれもそうだくそあんなものはそこいらに転がっている玄武岩とさして変わらんくやしくないくやしくないくやしくないぞ、ぐすんなどと思わず涙ぐんでしまったりもしたが、しんちゃんの「ずるいぞ!」のひとことにはドキーンと感動したね。なに、なんだかわからん? そりゃもうあなた、いずれテレビ放映されるだろうしビデオにもなるだろうから、そのときは絶対忘れずに観てください。じつに重苦しくも勇気の出る映画であった。まあ、やっぱり家族で落とすか〜といささかの落胆がないでもなかったけれども、これはファミリー映画なのであるから、そこを責めるのは“ないものねだり”ならぬ、“なければならないもの貶し”であるから反則だろう。
 しかし、これだけのものを作ってしまったら、いったい来年以降どうするのだろう?
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

『ドッグファイト』
(谷口裕貴、徳間書店)
『ペロー・ザ・キャット全仕事』
(吉川良太郎、徳間書店)
「Treva」で撮影

 ひゃー、『ドッグファイト』のほうは、なにがなんだかわからない写真になってしまった。やはり、このあたりがケータイのおもちゃカメラの限界だよなあ。もっときれいな書影が見たい方は、bk1へどうぞ。
 第2回日本SF新人賞、話題の“犬猫同時受賞”作品である。かたや、テレパスが犬と精神を通わせる話であるらしく、かたや、アウトロー青年が電脳の力で猫に乗り移る話であるらしい。〈SF JAPAN〉(西暦2001年春季号)の選評を読むかぎりでは、いずれもSFSFしていて面白そうだ。二作品とも、某所で書評をすることになる予定になる予定(日記をリアルタイムで書かないと、こういうややこしいことになるから面倒だ)であるから、ここでは多くを語るまい。語るまいもなにも、まだ読んでないってば。


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