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2002年3月下旬 |
【3月30日(土)】
▼タダで配られているタブロイド版の情報紙が郵便受けに入っていたので、なんの気なしに眺めていると、「世界初公開、新種恐竜イービノサウルスがやってくる!」というアオリが目に留まる。ほお、と思った次の瞬間、のけぞって大笑い――「掘りたて恐竜展」
な、なんちゅうネーミングの展示会じゃ。化石から湯気でも出ていそうである。いやしかし、なかなか秀逸なネーミングだ。絶対忘れない。たいしたコピーライターである。なんかこう、急いで見に行かないと鮮度が落ちるかのような気になるではないか。
【3月29日(金)】
▼ぎょえっ。喜多哲士さんの日記(2002年3月28日)を見てびっくり。喜多さんが髭を剃っている。阪神ファンが昂じて、バースの真似をしているのだろうか。おれが初めて喜多さんと生身で会ったときには、すでに喜多さんは髭を生やしていた。髭のない顔を見るのは、この写真が初めてなのである。なんというか、あの喜多さん独特の“関西のおっさん口調”が、おれの頭の中で髭のない喜多さんの写真と一致しない。な、なにやら若々しいではないか。正直言って、イベントなどで喜多夫妻と会うと、「おれと同い年のわりには妙におっさん臭いおやじでも、このような若々しい美女と連れ立って歩けるのであるなあ」と非常に勇気づけられていたのであるが、あの髭の下には、なかなか若々しいおっさんが隠れていたのである。ああ、驚いた。
▼『のーてんき通信』(武田康廣、ワニブックス)を読み終える。武田さんにとっては、SFがイベントというものと不可分に結びついているのだなあと、感心しながら楽しく読んだ。だいたい、小説なんてものにとり憑かれてしまう人間というのは、“生まれてすみません”的なメンタリティーを多かれ少なかれ持っている。客観的に見て高い能力やきらめく才能の持ち主であってさえ、この世の中、この宇宙とうまく折り合えない“できそこない”であるという劣等感を抱いていたりする。激しい劣等感と世界に対する憎悪と愛情と傲岸なエリート意識のようなものがごちゃごちゃになっているややこしい人格であることが多く、当然のことながら、こういう人間はあんまり人づきあいが得意でない。であるからして、文藝を必要とする人間は、仲間を欲しがりつつも基本的には群れないものなのだが、ここに唯一、じつに特異な文藝分野が存在する。SFである。しばしばあちこちで同好の士が集まっては、ひたすら駄弁ったり大騒ぎをしたりする。歴史小説やら恋愛小説やらが好きな連中が集まって“歴史小説大会”や“恋愛小説大会”などを開いている姿はとても想像できない。人口の多いはずのミステリファンですら、“日本ミステリ大会”なんてものは開催しないのである。なぜ、SFだけがこうなのか? これはおれにとって、とても深い謎なのだ。SFが特別だというのではなく、ほかの文藝分野にも同じ成分が含まれているのだろうとは思うが、おそらくSFは、なじかは知らねど、その成分が濃いのであろう。それがなんなのかはよくわからないのだが……。
『のーてんき通信』を読んでこの謎が解けたかというと、やっぱり謎のままである。が、なんとなく感じたのは、武田さんはじつはとても内向的な人間なのではないかということである。基本的に内向的な人間でなければ、これほど外向的にはなれないのではないかと思うのだ。ここいらに謎を解く手がかりがありそうではある。
本書の「用語事典」や「人名事典」も、あたりまえのことながら用語や人名の羅列であるにもかかわらず、けっこう笑えた。げっ、大迫純一氏も一九六二年生まれだったのか。し、知らんかった。《ゾア・ハンター》シリーズ(『ゾア・ハンター』『ウリエルの娘』『復讐のエムブリオ』『カムラッドの証人』)の続刊、楽しみに待っておりますぞ。
【3月28日(木)】
▼電車の中で豪快なくしゃみをしているおやじがいた。まるでなにかそうしなくてはならないかのように、「ぶわぁああっくしょいっ!」と吠えている。書いた文字を読んでいるかのようだ。電車の中なのだから、もう少し控えめなくしゃみはできないものか。あれは、ほんとうに、自然にああいう音が出てしまうのだろうか? おれのくしゃみがおとなしすぎるのか? そういえば、生理学的には、くしゃみはオーガズムと非常によく似た現象であるといった話をどこかで読んだことがある。とすると、どうしても“声が出ちゃう”人がいたとて不思議ではない。あのおやじもそうなのだろう……い、厭な画を想像しちまったな。
【3月27日(水)】
▼《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。
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「Treva」で撮影 |
会社から帰ると、おつきあいのない出版社から本が届いていて、「はて?」と開封したら、綾波レイが表紙の中からあの“斜めうしろ睨み目”で見ている。そうなのだ、読者諸君、この本には綾波レイのイラストが満載、全員プレゼントには綾波レイ・ランチボックス(紙製)がもらえ、さらに応募者の中から一名様に等身大綾波レイ抱き枕が当たる――なんてことはまったくない。本書は、言わずと知れた、株式会社ガイナックス・取締役統括本部長、武田康廣さんのSF人生一代記なのである。まあ、パラパラと見たところ、エヴァンゲリオンの話も出てくることは出てくるようだ。なんちゅうか、著者の立場を最大限に利用して“売り”に入ったものすごい装幀である。が、「どや、ウリに入った装幀やろ。えげつないこといけしゃあしゃあとよーやるやろ」などと著者がどわはははと笑っているところまでが見える装幀であるため、全然厭味ではない。
武田さんのSF人生“一代記”であるらしいと書いたが、じつのところ“半生記”であるに決まっている。なにしろ、武田さんはまだ生きているのだから……とまで書けば、おれがいまなにを連想しているかピンと来る方が、この日記の読者には五人のうち二人くらいはいるにちがいない。そう、手塚治虫の『がちゃぼい一代記』である。人が半生記を書くときには、たいてい遠からず大きな飛躍が訪れるものなのだ。半生を整理するから飛躍の足がかりが得られるのか、無意識の世界に蠢く飛躍の萌芽が半生記を書かせるのか、どちらかよくわからないが、そういうものであるらしい。これはさっそく読まずばなるまい。おれは三十近くまでファンダムやらSFイベントやらというものにまったく触れずにいた“遅れてきたSFファン”なものだから、武田さんが歩んできたような道の話はたいへん新鮮に感じるのである。勉強させていただくことにしよう。
【3月26日(火)】
▼会社の帰り、駅でちらりとキオスクに一瞥を投げると、「辻元入院」の文字が目に飛び込んでくる。だから、「宗男包囲網」などとやるんなら、「清美入院」にせんと不公平じゃて。なにやら鈴木宗男のほうがアイドルみたいだ。もっとも、“社民党のヒロスエ”ですら、やっぱり“原陽子議員”呼ばわり(?)しかしてもらえないのだから、辻元清美議員ではまだまだアイドル性で鈴木宗男に及ばないのかもなあ。
帰宅してみると、辻元議員が辞職していた。議員バッジを外すシーンをテレビで観ながら、「あれって、もらえないのかな」などとバカなことを考える。もしもらえるんなら、ウェブのオークションに出したら面白いのに。大橋巨泉のバッジとどちらが高値がつくだろう。いや、両方ともたいした値はつかないかも。やはりマニアは、鈴木宗男のバッジが出品されるのに備えて、いま無駄遣いはしないだろう。
▼《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。
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「Treva」で撮影 |
『レスレクティオ』は、あの『エリ・エリ』の続篇である。またまたしつこく予知能力を発揮すると、〈週刊読書人〉2002年4月12日号のSF書評で取り上げる予定なので、そちらを読んで――じゃない、予知していただきたい。予知した結果、おれがこの作品を貶しているかのように思う方もあるかもしれないが、そういうわけではない。そもそも神だの存在だのと真っ向から切り結ぼうという作品は、眼高手低になるのがあたりまえである。ならなかったらびっくりだ。平谷美樹は、びっくりさせてくれるほどの作家ではまだない。ここまでのところ、眼高手低は平谷美樹の“作風”といってもいいくらいで、そのような気概を持ったSF作家がいてほしいではないか。こういう作家は、いつか必ずほんとうにびっくりさせてくれるはずなのだ。おれは、平谷美樹には、こぢんまりと小手先の技術だけに走ってその場その場をしのぎ続けるような作家にはなってほしくない。坂口安吾なんて、はっきり言って長篇は下手くそもいいところだが、それでも人は安吾に惹かれてやまないのである。「風博士」みたいなのばかり書き飛ばしていたら、才気走っただけの小賢しいマイナー・ポエットで終わっていたかもしれない。ほとんど失敗で終わっているしっちゃかめっちゃかの長篇群を迫力で読ませてしまう眼高手低作家だったからこそ、安吾はいつの世にも人気があるのだろう。もっとも、安吾レベルの“手低”ってのは、通常の基準からすれば充分高いと思うけど。
『名探偵Z 不可能推理』とな――? はて、おれにミステリを送ってくださるとは、角川春樹事務所さんはなにを企んでいるのだろう? 装幀からして怪しいが、どうやらこのミステリ、尋常なものではないらしい。バカSFならぬ、バカミステリのようなのだ。だったら、「あいつはいかにも好きそうだ」と送ってくださっても不思議はない。とはいえ、SFファンなるものは、ちょっとやそっとのバカではなかなか驚かないぞ。どれどれ、さっそく読みはじめることとしよう……。
【3月25日(月)】
▼わっ。おなじみ、朝日放送サイトの鳥木千鶴アナのページがさっそく模様替えされていた。一昨日書いたように、レギュラー出演の「タージンのこの指とまれ」が終わったため、番組の紹介ページがなくなったわけである。番組には、鳥木さんが「過去を切り売りする」ことになっているコーナーがあって、ウェブにも面白いエッセイがたくさん掲載されていたのであるが、番組終了とともになくなってしまった。こんなこともあろうかと、昨日、番組のページはすべてダウンロードしておいたのだが、正直なところ、こんなに迅速に更新されるとは思わなかった。朝日放送のウェブ担当スタッフは優秀だ。在阪局の中でもとくにリキが入っているように思われる。
でもって、鳥木さんのページに新コンテンツが登場。鳥木さんは大阪日日新聞に連載コラムをお持ちなのであるが、そのバックナンバーから自選の「特選!逆立ちヒポポタマス」を、朝日放送サイトに新たなコメントつきで再録してくださるというのである。おおお、すばらしい。これでこそインターネットである。朝日放送や大阪日日新聞が届かない文化果つる未開の地にお住いの鳥木ファンにも、“よりぬき鳥木千鶴”が届くのだっ。どうだ、まいったか。
よく考えてみると、鳥木さんの世代の地方局アナウンサーにとっては、これはとても不思議なことだと思うのである。鳥木さんは石川県出身であるが、あたりまえのことながら石川県でも朝日放送のウェブページは見える。大学やアナウンス学校でのお友だちは全国に散っているだろうが、お互いにお互いの活躍をネットで知ることができる。いまの新人アナウンサーなら、そんなことは最初からあたりまえだと思っているだろうけれども、十年前にはちっともあたりまえではなかったのだ。
やがてブロードバンド環境があたりまえのものとなり、放送と通信とが完全に融合してしまうと、地方局は従来の意味での地方局ではなくなってしまう。琉球放送ばかり視聴している北海道在住の人なんてものが、当然のように現われる。「琉球放送の小林真樹子アナは可愛い」などとニューヨークの寿司屋でインド人のシステムエンジニアと中国人のデザイナーが話しているなんてことになる。いまでさえ、京阪電車のキャンペーン・キャラクターである“おけいはん”には、全国にファンがいるのである。女優・水野麗奈としてではなく、“おけいはん”として彼女を知ったという、“おけいはん”のファンが全国にいる。なんとも不思議な時代だ。同様のことが地方局にも起こる。いや、すでに起こりつつある。つまり、地方局は、“地方でしか視聴できない局”から“地方から発信する、全世界で視聴できる局”へと変貌を迫られているのだ。もはや、地方局が地方にあることは、少しもハンディキャップなどではない。むしろ、そのローカル性こそが最大の武器となろう。全国局と地方局とのちがいは、どれだけ広範囲に放送できるかではなく、なにを放送できるかにのみかかってくるからだ。示し合わせたように同じような内容の放送など、ほかに選択肢が増えれば誰が欲しがるものか。面白い。なんという面白い時代だ。われわれは、幸運にもそのとてつもなく面白い変化の真っただ中に生まれ合わせたのだ。“大阪のCNN”やら“名古屋のアル・ジャジーラ”やら“青森のBBC”やらが続々誕生する日も近いにちがいない。
▼《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。
「Treva」で撮影 |
一九九○年代に発表された英語圏SF傑作短篇のアンソロジーである。〈SFマガジン〉を読んでいるような人は放っておいても読むだろうと思うのでいいのだが、こういうアンソロジーは、ふだんSFを読まない方々、あるいは、「このところ、ちょっとSFから離れているなあ」と自覚する方々にこそお薦めしたい。いろんな作家がいっぺんに読めるからである。「おお、この作家面白いじゃん。もっと読みたい。長篇も読みたい」と読者が思ったときに、必ずしも手軽に翻訳が入手できる状態ではない点が、日本のアンソロジーと事情が異なる問題点なのだが……。でもまあ、これは翻訳海外SFの慢性的な問題点であって、いまにはじまったことではない。収録作家のうち半数くらいは長篇の翻訳も読める状態のはずなので、そう思えばこのアンソロジーに入っている作家には、今世紀になっても変わらず、いや、ますます活躍している人が多いと言える。
例によって予知能力を発揮すると、このアンソロジーは〈週刊読書人〉2002年5月10日号で書評するにちがいないので(つまり、六月にはこのサイトに掲載するにちがいないので)、詳しくはそちらをどうぞ。いやしかし、「ルミナス」(グレッグ・イーガン)はブッ跳んでていいぞ。今年の短篇SFベスト3には、すでに入ったろうな。
【3月24日(日)】
▼晩飯を食いながら考えた。智に働けば――って、このネタ、前にも使ったな。まあ、古典は何度使ってもよいのである。で、なにを考えたかというと、「……そういえば、ゴルゴ13が飯を食うところを見た覚えがないなあ」
むろん、おれとてあの膨大な『ゴルゴ13』を全部読んでいるわけではない。が、かなり読んではいるだろう。なのに、デューク東郷がぱくぱくと飯を食っているシーンが浮かんでこない。酒はしょっちゅう飲んでいるよな。バーのカウンタの端っこのほうに座って、あんまりうまそうでもなく飲んでいる。おつまみもなんにもなしで、グラスだけ握り締めるようにして飲んでいる。ゴルゴ13は固形物が食えないのだろうか? セックスシーンはしばしば出てくるというのに、なぜか頑に(?)ものを食わない。食事をしているところを見られるのとセックスしているところを見られるのとでは、後者のほうがはるかに都合が悪いと思うのだが、じつに不思議なことである。
一方、ゴルゴ13とよく比較されるブラック・ジャックは、ちゃんとものを食う。手術で得た大金で島を買っちゃうせいか、カレーライスやらお茶づけやら、ヒーローのわりにはしみったれたものばかり食っている。それでも、一応ちゃんとものを食っているのはえらい。ゴルゴ13よりははるかに健康的な生活をしている。さすが医者だ。
はて、いったいこの考察からなにが得られたというのだろう?
【3月23日(土)】
▼ああ、なんということだ。今日で朝日放送ラジオの「タージンのこの指とまれ」が終わってしまった。寂しい。タージンはあっちこっちの番組に出てくるが、鳥木千鶴アナは朝日放送系列の番組にしか出てこない(あたりまえだ)。この番組は、鳥木さんのお声がいちばん長時間聴ける番組だったのである。タージンものけぞる鳥木さんの爆弾発言が飛び出す番組だったのである。鳥木さんがだしぬけに『アタックNo.1』を唄う番組だったのである。ううむ、ベテラン・アナウンサーの風格たっぷりにニュースを読んでいる鳥木さんが、別人格の(というか、たぶんこっちが“素”の)“とりP”に変身してタージンと天然漫才を繰り広げる楽しい番組だったのである。まあ、ニュースを読んでいるときが“素”のアナウンサーがおったら気色が悪いけれども、鳥木さんの場合は、とくにギャップが激しいのがまた魅力的なのであった。
とまあ、いくらご説明しても、朝日放送のエリア外の方にはどのような番組であったのかうまく伝わるまいが、なんというかこの、ベタベタの関西藝人と生っ粋の関西人ではない局アナ(鳥木さんは石川県七尾市出身である)との異文化が交わるところに生じる絶妙な空気がたいへんよろしかったのだ。機会があれば、またぜひ復活してほしいものである。
【3月22日(金)】
▼あれ? おれがラファティが死んだことを知ったのは、ひょっとしたら今日のことではなかったろうか? いや、やっぱり昨日だったかもしれん。うーむ、いくら今年四十歳になるとはいえ、記憶力の減退があまりにもはなはだしい。昨日や今日のことすら、まるでひと月もふた月もむかしのことであるかのように感じられる。『カサブランカ』のボギー状態である(ちょっとちがうような気もするが)。
ラファティといえば、たしかラファティラファティと早口で叫びながら行なう球技のようなものがあったやに記憶しているがちがうかもしれん。ああ、やっぱり記憶力の減退がはなはだしい。
【3月21日(木)】
▼R・A・ラファティが亡くなったと知る。ダグラス・アダムスの訃報を聞いたときもそうだったが、まず、たいていの人は「わははは、ホラでしょう?」と思ったことであろう。そう思ってもらえるところがすごいのである。たぶん、九割くらいの人は、まだ疑っているにちがいない。まあ、ラファティのことだから、そのうち人を食った新作を発表するに決まっている。心配ない心配ない。
▼またまた『タイムスリップグリコ』などという鬼畜な企画菓子がコンビニに並んでいたため、ぐっとこらえて一個だけ買う。むかーしのグリコのキャラメルをおまけごと復刻したものである。どうも世間は、よってたかって三十代から四十代の人間に金を使わせようとしているようだ。一個めで鉄人28号が当たらなかったら、二個めは買わんと固く決意する。帰宅して、おまけを引きむしると、「松下電器産業株式会社 シリンダー型掃除機MC−8」が出てきた。はらほろひれはれ。鉄人28号じゃなかったら、せめてトヨタ2000GTでもいいぞと思っていたのに、よりによって掃除機とは……。むかしからよう言いまんがな、掃除機ものは馬鹿を見る、て。と、一応、古典に敬意を表して、文句を言いながらも掃除機を組み立てる。座布団の上に寝ている猫まで付いているのはご愛嬌。説明書には、この掃除機は一九五九年モデルとある。おれの生まれる前だ。そのころに電気掃除機のあった家庭なんて、よほどの金持ちだろう。わが家に電気掃除機がやってきたのは、たしか、おれが幼稚園のころ、いや、小学校に上がろうかというころだったと記憶している。それももらいものだった。コードを引き出しては巻き戻し、引き出しては巻き戻し、叱られながら遊んでいたものだ。最初のころは、おれはにわかに掃除をしたがっていた。感心な子供である。ところが、そのころは、掃除をしたがるよい子も、こんなふうに怒られるのであった――「電気代がもったいない」
見栄でもいいから「電気がもったいない」と叱れば、いかにも地球環境のことを考えていそうで人聞きがいいものを、そのころのたいていの大人には、そんな視点はない。「電気代がもったいない」というのが、正しい貧乏人の叱りかたであった。だものだから、電気掃除機なるものは、掃除の最後に満を持して登場する秘密兵器のような感じだった。最初は帚で掃いて、めぼしいゴミやら塵やらを片づけてから、仕上げに電気掃除機を使うのである。そんなことしてたのは、おれの家だけか? いやあ、そんなことはないと思うな、みなさんのご家庭でもそうしてたでしょ、年配の方?
思えば、その後に登場したクーラーも、万策尽きたあとの最終兵器であった。できるだけ扇風機、もしくは、団扇で我慢するのだ。日中にクーラーなど点けると怒られる。暑いと効かないのでもったいないというのだ。そんなことはないだろう、点ければ点けたぶんは効くじゃないかと熱力学を説いてみてもはじまらない。そのころのクーラーというものは、なにしろ“クーラー”と呼んでいたくらいであるから、快適な室温を保つための機械ではなかったのだ。点けるからには、寒いくらいの冷風にありがたく身を晒し、「あああ、涼しいっ!」とたしかにまちがいなくその効果をひしひしと実感しなくてはならない機械だったのである。「クーラーの風、そっちに行ってるか?」などという珍妙な会話が大人たちのあいだでなんの不思議もなく交わされていた。“扇風機の上等なやつ”と思っているわけだ。貧乏人が持ち慣れない機械をにわかに持っても、思想がついてこないのである。そして、そのころの日本人はたいてい貧乏人だったのである。まさに、『ちびまる子ちゃん』の世代なのだ。あれを観て花輪君に感情移入する人は、きわめて少数派であろうと思われる。言わずもがなだが、花輪君は、そんな貧乏人だらけの日常に於ける、デフォルメされた“え〜トコの子”として機能するキャラクターである。“ちょっとえ〜トコの子”でも、多くの貧乏人の子の主観では、あれくらいに見えていたということなのだろう。
さて、日中にクーラーを使わないのなら、いったいいつ使うのか? 聞いて驚け、夜、涼しくなってきてから、風呂上がりなどにようやく二、三時間――いや、一、二時間かな――いよいよという感じでたいそうにクーラーを稼働させるのである。クーラーの紐(むかしのクーラーにはリモコンがなかった)を引っぱってスイッチを入れるとき、おれはおのずと『サンダーバード』のテーマ曲を口ずさんでいた。
あんなころが多少懐かしいとは思うが、頼まれても戻りたくはない。でも、ときおり、おれたちゃえらく贅沢になったなと思うこともあるな。「べつにクーラーなんかなくたって死にゃしない」とクーラーを買う前はよく言われたものだが、いまはクーラーがないと冗談抜きで死ぬかもしれん。むかしの夏は涼しかったんだなあ。
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