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2002年4月下旬 |
【4月29日(月)】
▼一日遅れで、ジョージ・アレック・エフィンジャーの死を知る。失礼ながら、いつ噂を聞いてもいつ死んでも不思議はないような話ばかりだったので、「ええっ!」というほどの驚きはないのである。ガタガタの身体でよく頑張られたものだ。おれのハードウェアも、さいわい大病こそしてないものの、お世辞にも強靭とは言えないものだから、ひとごととは思えない。お疲れさまと言ってあげたい。
エフィンジャーといえば、やっぱり『重力が衰えるとき』(浅倉久志訳、ハヤカワ文庫SF)ですなあ。と、訳書を紹介しているが、じつはおれ、翻訳は持ってなくて、これは原書で読んだのだった。アラブ風サイバーパンクの奇妙なカッコよさにはひっくりかえった。〈人格モディ〉なんてのは、末長く残るガジェットでありましょう。やっぱりナニです、SFの名ガジェットってのは、「あ、これ欲しいっ」と思えるかどうかが決め手ですな。
どこか関節の外れた感じで不思議な質感のあるあの『重力が衰えるとき』の世界は、ワン・アンド・オンリーでしょうなあ。吉川良太郎が『ペロー・ザ・キャット全仕事』をひっさげて颯爽とデビューしたとき、「おや、フランス版『重力が衰えるとき』なのかな?」と思った人は多いにちがいない。もちろん、同じ犯罪都市とはいえ、吉川良太郎の《パレ・フラノ》にはオリジナルな存在感があるのだが、ことほどさようにエフィンジャーの《ブーダイーン》のインパクトが強かったということなのだろう。
あちこちでけっこう短篇が訳されているわりには、なんだかとっちらかった紹介のされかたをしているようで、日本で紹介された作品を集めたオリジナル短篇集でもそろそろ欲しいところだ。「まったく、何でも知ってるエイリアン」とか「シュレーディンガーの子猫」とか、中村融でも山岸真でもない常人のSFファンの口からも、短篇のタイトルがすらすら出てくるというのはたいしたものだと思う。おれ、短篇のタイトルって、すぐ忘れるんだよ。「魂はみずからの社会を選ぶ――侵略と撃退:エミリー・ディキンスンの詩二篇の執筆年代再考:ウェルズ的視点」(コニー・ウィリス)なんてのなら憶えているほうが異常だと思うが、大好きなジェイムズ・ティプトリー・ジュニアの短篇ですら、「あれや、ほれ、あれあれ、あれやがな」状態になることがある。憶えているつもりでも、いざ書こうとすると、読点がどこにあったかとか文字遣いがどうだったかとか、自信がなくなるのである。それはともかくエフィンジャー、どちらかというとマイナーな作家という印象がありながら、短篇でもしっかりSF史に足跡を刻んでいるところはさすがだ。
「秘密戦隊エフィンジャー」ってのは、たいていの人が考えたことのあるネタだと思うが(どういう“たいていの人”だよ?)、しかし、いくらなんでも、この『重力が衰えるとき』ってページには、エフィンジャーも草葉の陰で苦笑していることだろうなあ。
▼『博士の異常な発明』(清水義範、集英社)が思ったよりずっと面白かったので、ちょっと得した感じ。“発明もの”SF短篇集なのだが、なんかこう、とても懐かしい感じがしますなあ。そうだよ、おれたちはこういうのを読んでSFに入ってきたもんだよ。坂道を転がり落ちはじめたともいうがな。SF初心者の方にとくにお薦め。遠い未来の考古学者たちが古代日本(ってのは、むろん現代のこと)の遺物を根拠に、当時の日本人の素朴な(?)生活について議論を闘わせる「鼎談 日本遺跡考古学の世界」みたいなのは、往年の傑作テレビ歴史番組(?)『カノッサの屈辱』のノリで、おれはとくにこういうのが好きである。清水義範の本領発揮だ。パターンとしては定番なのだが、定番の中で活きる小技はその都度新鮮なもので、何度読んでも好きなんだな、この手の作品。「でん六の柿ピー」はいいよなあ。国産ピーナッツだからうまいと袋にも書いてある。なに? なぜ突然「でん六の柿ピー」かって? お読みなさい、読めばわかります。
【4月28日(日)】
▼テレビで放映されるというので、遅ればせながらいまごろ『シュリ』(監督:カン・ジェギュ)を観る。面白かった。面白かったけど、この程度のものだったのかと思ったのも否定できない。当時は韓国がこれほどハリウッド的な映画を作れたというだけで話題になったのだろうけど、なんの意外性もない、安全牌で固めたようなプロットだ。おれたちはこういうのをゲップが出るほど観て育ったぞ。これをハリウッド的と言ったら、ハリウッドが怒るのではないか。
でも、面白い。ここまで来ると、お約束でハリウッド的なものをこれ見よがしに取り入れているように見えてしまい、そのメタな感じがけっこう愉快なのである。堀ちえみの『スチュワーデス物語』に似た感じとでも言おうか。ハリウッド的でありながらハリウッド的なものに対する悪意を放射しているような感じが、非ハリウッド的な部分をよく引き立てる。なんだかややこしいが、結局、ハリウッド的にし損なっているところこそが見どころなのかもしれない。「ハンバーガーやらチーズやら、たらふく食って育ったやつにはわかるまい」と、北朝鮮のテロリストが韓国諜報員に浴びせる言葉は、この映画の自己言及にほかならないのであって、その自己言及の中になにかが軋る音がする。ハンバーガーを食って育ったおれの中にも、その音に共鳴するなにかがあるのだ。
ま、正直なところ、女テロリスト役の女優さんがいちばんよかったが……(結局それかい)。狙撃銃のスコープを覗くさまがとても似合う顔立ちだ。不思議なことに、それ以外のシーンではさほど美人だとも思えないのである。トイレで出撃準備をしていてスコープがカメラ目線になるところなんぞ、あ、撃って撃って、ボクを撃ってと思わずテレビに乗り出してしまった。
【4月27日(土)】
▼高校生のころから勉強部屋に使っていた三畳間は、いつしか人間が長時間過ごす場所ではなくなっているのである。本を放り込んでいるうちに天井近くまで本が積み上がってしまい、素人がうかつに入ると怪我をしかねない怖るべき部屋なのである。いくらなんでもこれではいかん。下のほうの本が必要になって取ろうとすると、汗だくになって本と格闘せねばならない。
そこで、ようやく重い腰を上げ、この魔の部屋を、連休を利用して大改造することにした。なにしろ、もう人間が長時間過ごしたりはせぬのだから、勉強机だの箪笥だの不必要に家具じみた作りで余計なスペースを食う木製本棚だのといったものはすべて捨てる。ひたすら収納にのみ徹した大型のスチール本棚をとりあえず六本買い、壁面を全部本棚にする。それで足りるとはとても思えないが、なにはともあれ、いまよりは本が取り出しやすくなるだろう。この部屋を“本置き部屋”から“書庫”に改造するのだ。
妹や姪たちも手伝いに来てくれて、朝から大騒ぎである。あたりまえの話ではあるのだが、三畳間に天井までぎっしりと詰まった本を効率良く整理するには、ほかにまるまる空いた三畳間ぶんのスペースがあることが望ましい。ワーキングメモリが豊富にあれば、メモリ内容を頻繁にスワップしてハードディスクにいちいち書き込んだりしなくてすむのと同じ理屈である(というか、コンピュータのほうがリアルワールドと同じ理屈なのだが)。ところが、うちにはまるまる空いた三畳間ぶんのスペースなどというものはない。もしあれば、そこにもとっくに本が置いてあるはずだ。だものだから、三畳間から掻き出した本どもを、ほかの部屋の床からソファーの上からテーブルの下から、とにかく空いているところに一時的に退避させなくてはならない。台所の床にまでぎっしり本が並んだ。歩きまわることすらおぼつかない。まず片足を上げ、それをどこに下ろすかを探し、ツイスターゲームのように身体をねじりながらゆっくりと移動してゆかねばならないのだった。それも、本を抱えながらだ。
夜までかかって、まず読まないだろう雑誌類や書類などをごっそり処分し、家具をすべて捨て、いったん外に出した本をなんとかかんとか三畳間に詰め込んだ。あとで本棚を設置する壁面付近は空けておかなくてはならない。発注した本棚はまだ来ていないのだ。家具を捨てる前に本棚が来てしまうと、いくら組立て式とはいえ、それこそ作業スペースがなくなって二進も三進もいかなくなる。仮に作業スペースがあったとしても、部屋を総ざらえして本棚を組み立て再び収納するなどという作業が一日でできるとはとても思えない。
全身がバラバラになりそうに痛い。脚といわず腰といわず腕といわず、バンテリンを塗りまくる。「ぶつかっテいこうヨ。コッチにはバンテリンあるヨ。これは有利デス」などとテレビでラモスが言っているが、これ以上ぶつかっていったら死ぬ。こんなに運動したのはひさしぶりだ。本を抱えて床に置いたり、床に置いた本をまた抱えて動かしたりで、とくに腰の疲労が激しい。
まだちゃんとした書庫への道は遠いが、なんとか峠を越えた。来週には、本棚の設置を開始しよう。いままで放置していたのが悪いのだが、書庫を作るのがこれほどたいへんだとは……。本道楽にも体力が必要なようだ。おれなんかは、本道楽といっても、まだまだただの本好きの水準であって、本という物体にそれほど執着があるわけではない。なにがなんでも集めようという気はそれほどなくて、一度手にした本がなかなか捨てられないがゆえに、勝手に貯まってゆくだけなのだ。とくに気に入ったものを除いては、いっそ電磁的記録媒体に全部放り込めたら、それはそれでよいと思っている。また、本が貯まってゆくといっても、幸か不幸か古本にそれほど手を出していないぶんだけ、まだ人間らしい生活をしているであろう。ほんものの本道楽の人々は、いったいどうやって物理的空間と折り合いをつけているのだろうか。想像するだに怖ろしい。
へとへとになってぐったりと横になったおれは、知らずしらず歌を口ずさんでいた。疲れているときにかぎってなぜか替え歌を思いつくおのが頭脳の性癖には、慣れているとはいえ閉口する――
厭な元歌だなあ。
▼《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。
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「Treva」で撮影 |
『太陽の簒奪者』『どーなつ』『傀儡后』は、早川書房が満を持して放つ、日本SFの活きのいいところを揃えた叢書《ハヤカワSFシリーズ Jコレクション》の記念すべき第一回配本分である。一挙三作品、しかも、電子書籍版(ザウルス用)も同時刊行というから、これは小説では珍しい。二十一世紀やなあ。
で、おなじみの予知能力だが、『太陽の簒奪者』の評は、〈週刊読書人〉2002年5月10日号と〈SFマガジン〉2002年7月号に書きそうな気がする。書くだろう。きっと書くにちがいない。どういうことを書くのか、先のリンクをクリックすれば簡単に予知できるようになっているので、ご用とお急ぎでない方は、ぜひ予知していただきたい。
『どーなつ』は、おなじみヘンテコリンでじつはハードなほのぼの北野ワールド爆裂の作品である。独立した作品として読んでなんの支障もないと思うが、徳間デュアル文庫で入手できる北野作品はすべて読んだうえで読んだほうが、より一層楽しめると思う――といった書評や感想の定型があるのだが、正直なところ、『どーなつ』をいきなり読むのがじつは正解なのではないかとすら思うのである。あとがきによれば、『どーなつ』の原型(の原型?)は、北野勇作が作家としてデビューする前にすでに存在していたという。『昔、火星があった場所』も『クラゲの海に浮かぶ舟』も『かめくん』も『ザリガニマン』も読んでいない頭で『どーなつ』を読むという体験をおれはし損なった。その貴重な体験がまだ可能な人は、いっそ『どーなつ』から読んではどうか。あれ、おれはこの本、今日頂戴したばかりなのに、まるですでに読んでしまったかのように話しているぞ。いかん、気を緩めるとついつい予知能力を発揮してしまう。
ああ、出てしまった、『傀儡后』。こんなフェティッシュな小説を堅気の人が読むのはどうかと思うが、こういうこと言うと読みたくなるでしょ。フェティッシュっつっても、お話のあちらこちらどちらそちらに出てくるようなラバーやらドールやらのことを言っているのではない。いやまあ、それそのものも怪しくていいが、そのフェチ感覚を通常人にも体験させてしまう筆力がいかがわしい。要するに、この人は言葉フェチなのである。小説家なんてものは言葉フェチに決まっているが、牧野修はとくに筋金入りだ。言葉そのものに興奮したい同好の士にはお薦め。あれ、おれはこの本、今日頂戴したばかりなのに……って、これは〈SFマガジン〉に短期集中分載してた作品だから必ずしも予知能力ではないのだ。
『クリプトノミコン1 チューリング』、これもついに出た〜という感じ。チューリングってのは、もちろん、あのチューリングである。おや、この作品の書評も、なんか〈週刊読書人〉2002年6月7日号に書きそうな気がするぞ。四分冊の一冊めが出たところで書評するなど無謀であるが、それほど一冊めだけでも面白かった――というふうに感じることになるのだろう。斜に構えながらおちゃらけていてよく考えると深いという、スティーヴンスン流の妙なレトリックがおれは最近気に入りつつある。なにしろ、暗号である、暗号。暗号なんてものは、それだけでも十分面白い。ましてや、実在の人物も数々登場する虚実入り交じった情報戦を暗号ネタで四冊分引っ張るとなると、読みたくならないほうが不思議である。どこいらへんからSFになってくるのかも期待に胸顫える。これは予知じゃなくて、ほんとにそうなのだ。
【4月26日(金)】
▼テレビの中で辻元清美元衆議院議員が突然笑いはじめる。あれ、よく見たら泣いている。ややこしい泣きかたをする人である。それにしてもザル法も法、罪は罪にしても、あんなことみんなやっとるやん。辻元氏は多少ズボラであっただけだろうに。
【4月25日(木)】
▼「野鳥名鑑」(バンダイ)なる玩具菓子をコンビニで発見。試しに買ってみる(いつも試しに買っているが)。台座についているボタンを押すと、野鳥が鳴くという趣向らしい。ウグイスを買ってみたのだが、なかなかリアルな声で鳴く。というか、ここいらに春先飛んでくるウグイスよりもよっぽどうまい。なぜこんなところにウグイスが来るのかいまだによくわからないのだが、いつも春になると近所にやってくるのだ。その鳴き声たるや、よい先生がいないせいか、下手くそなことおびただしい。うっかりすると、ツクツクホウシが鳴いているのかと思うほどである(話半分に聴いてや)。この食玩を来年まで残しておいて、そこいらの木にくくりつけておいてやろうか。問題はどうやってボタンを押させるかだが……。
【4月24日(水)】
▼彼は旅をしていた。ゆけどもゆけども砂漠だ。たまに集落の跡を見つけては、持ち主のなくなった物資を調達し命を繋ぐ生活が続いている。人類はもう滅びてしまったのだろうか。赤茶けた砂漠の彼方に建物が見えてくるたび、今度こそ生き残りがいるにちがいないと一縷の望みを膨らませる彼であったが、そのたび廃墟を吹きすぎる風は、彼の心からなけなしの希望をこそげ取ってゆくのであった。
建物だ! 町だ! 彼は痩せ馬に鞭を入れた。今度こそ、今度こそ……。
崩壊したビルの瓦礫の周囲に、いくつもの掘立小屋が建っている。携帯用の放射線測定器は、自然界の健全なバックグラウンド程度の値を示し続けていた。少なくとも、〈大破壊〉の後にも生き残った人間がいたのだ――。彼は日が傾くまで、おーいおーいと声を枯らしながら、瓦礫のあいだを走りまわった。しかし、人間はおろか、一匹の犬猫も、虫さえも見つけることはできなかった。疲れきった彼は、テントを張るとたちまち泥のような眠りに落ちた。
翌朝、彼はかつて町であったものをあとにした。見送るのは朝日だけであった。また、廃墟だったか。これでいくつめの廃墟をあとにしたことだろう……。馬の背に揺られながら、彼はぽつりとつぶやいた。
「……廃墟にいとまがない」
ウケてくれる人がいないのが、なによりも寂しい彼であった。
……たまにはSF書評屋らしく、ポスト・ホロコーストSF風小噺でした。田中啓文風とも言う。
【4月23日(火)】
▼公務員なんてものがそもそも必要かどうかということを最近よく考えるのである。「そりゃあ必要だろう。基本的に資本制の下では、世の中はすべて銭カネで動いている。公務員が存在しなかったら、銭カネの論理ではできそうにもないが絶対に必要な“みんなのための仕事”を誰が行なうのだ?」と、ふつう思うよな。おれもむかしはそう思っていた。が、このところとくに、「銭カネの論理に最も縛られて動いているのが、ほかならぬ公務員なのではないのか?」と思うことが多いのだ。みなさんも、きっとそう感じてらっしゃることだろう。
むろん、本来の意味での public servant としての自覚と使命感と誇りを胸に、日夜公共の福祉のために働いていらっしゃる公務員もあるやもしれない。そういう方々には心から敬意を表する。“みんなのために役立つ”などという意識とは根底から無縁のおれなどには、とてもできそうにない仕事だからだ。だが、そうしたみずからを律する精神とも自覚とも使命感とも誇りとも無縁でありながら、たまたま公務員になっている人も少なくないのではないか。つまり、マクドナルドでバイトでもするかのような感じで、公務員として就職してしまった人々がけっこう、かなり、ずいぶんいるんじゃないかと思うわけである。言い替えれば、マクドナルドのバイトのほうが身分が安定しており退職金がどーんともらえ一応形の上だけでも人々の尊敬の対象になるという世界であったとしたら、マクドナルドのバイトを目指していたであろうような人々が数多く公務員になっているのではあるまいか。こんな形で引き合いに出すのは、マクドナルドでアルバイトをしている方々に失礼かもしれないが、おれの正直な実感では、マクドナルドのアルバイトのほうが、そこいらの下手な公務員よりもよほど public servant としての教育を受け、その自覚を、使命感を、誇りを有しているように思われるのである。いっそのこと、直に地域住民や国民と接するような公務員の仕事は、すべて国がマクドナルドにアウトソースしてはどうかと、おれはマジで考えている。
だものだから、そろそろ前提から疑ってかかるのがSFファン的であろうと思うのだ。“むかしからやってきているある仕事を、もしいま新たにはじめるのだとしたなら、ほんとうにやりはじめる必要があるか?”という意味のことを、ピーター・ドラッカーがしょっちゅう言っている。いい爺さんのくせに発想は若々しいなといつも感心する。どんなことだって、むかしそれをやりはじめたということは、そのときはたしかに必要だったのであろう。が、状況が変われば必要でなくなることなどいくらだってある。化学反応にだって、反応がはじまるまでは絶対に必要だが、いったんはじまってしまえば無用となる触媒なんてものもあるではないか。きわめてあたりまえの考えかただと思うが、「過去にはたしかに必要であったが、いまは必要ない、あるいは、害になるものがある」ということが理解できない人々が、この世の中にはなぜか少なからず棲息している。「これはもう必要ない」ということが万人の目にあきらかであっても、そのことを指摘されると、自分たちの過去や人生そのものを否定されたように怒る人がけっこういるのだ。だからそうは言ってないって、そのときは必要だったわけでしょ、でも、いまは必要ないよね――と指摘すると、さらに怒るのである。不可解だ。理解できない。たぶん、アメリカ政府と密約を交わしておれたちの社会にこっそり入り込んでいる異星人かなにかなのであろう。こういうところで、まっとうな地球人の考えかたが理解できず馬脚を表わすのだ。石器時代には石器はたしかに必要であったが、現代人には必要ない。なのに、現代人が石器をないがしろにしている、不要だと言っていると怒っているようなものである。「私らの若いころにはシモヤケやアカギレにもめげず洗濯板でごしごしと……」「しんどくてもちゃんと手作りの料理を旦那様に……」などと若い嫁、いや、息子の配偶者に説教している(つもりの)姑みたいなものだ。その姑たちにしてみたところで、当時全自動洗濯機があればそんなことをわざわざしているはずがないし、自分も外で働いている女性が配偶者にコンビニ弁当を出そうがマンモスの生肉を放り投げて出そうが、夫婦間で納得しているのであれば、なんの問題もない。婆ァの出る幕ではないのだ。昨今のコンビニ弁当は下手な手料理よりよっぽどうまいし、投資額が同じであれば、コンビニ弁当のほうが安く栄養のバランスが取れたものが食えるのは常識である。少量ずつ多品種の食材を用いて栄養のバランスの取れた料理を自作すると、コンビニ弁当買うよりはるかに高くつく。うちは貧乏なくせに最近手料理が多くて家族の健康によくないので、週に一度はコンビニの幕の内弁当をみんなで食べましょう――と考える良妻賢母なるものも、現代では成り立つ。たいへん合理的でよろしいことである。
おっと、話が逸れた。ま、そういうことで、これだけいろいろ弊害が出てくると、“公務員というものは基本的には必要ない”というところから、すべてを発想してゆくべきなのではなかろうか。誤解のないように念を押すと、おれは“公務員が必要ない”と言っているのではないのだ。必要ないという前提にまず立って、そこから考えを進めろと言っているのである。そうしてこそ、ほんとうに公務員が必要な局面、必要な理由が見えてくるにちがいない。小泉内閣は、いまのところ、“創る仕事”ではろくなことをしていないが(そもそもおれは小泉首相に“創ること”は期待していない)、必要以上に金と時間をかけていまだに石器や洗濯板を使っていることを威張っている連中をおびき出したり、その連中が作り出した“むかしは必要だった”仕組みどもを、意図するとせざるとにかかわらず、ほじくり出したりして“壊す仕事”に関しては、なかなかよくやっていると思う。少なくとも、人々に“公務員なんて要らんのではないか”と疑問を抱かせるほどには、よくやっていると思う。ひょっとしたら、独裁者然として隙を見せまくることで、石器人やバカ姑どもがのこのこ表に出てくるようにして、あとは世間に叩き潰させるつもりなのではないかと邪推するほどである。まあ、それは買い被りすぎだと思うが、結果オーライだ。問題は、国民の忍耐がどこまで続くかだが……。支持率も、当初の狂騒的なところを過ぎて、まずまずあるべきあたりに来たことだし、なんだかんだ言っても、小泉純一郎以上の“ぶち壊し屋”がいま現われるとも思えない。おれたちとしては、ぶち壊しが一段落したあとの創造を誰に委ねるかをそろそろ考えておいたほうがよいのではなかろうか。いや、いったんうまくぶち壊してしまえば、現在身動きが取れないでいる優秀な人材がうようよ湧いて出てくるような気もする。日本人を過大評価しすぎかな?
で、結論を言うと、おれは公務員は必要だと思う。が、公務員は必要ないという前提でものごとを考えねばならないと思う。公務員というのは、逆説的だが、自分たちの仕事が必要でなくなる方向へと発想し、ものごとを考えてゆく専門家でなくてはならないのではないか。“自分を失業させるようにするエキスパート”が公務員なのだ。そのようなエキスパートとしてみなに必要とされる人々のみが、どのように世の中が変化してゆこうとも、けっして失業しない公務員として残るのにちがいない。
【4月22日(月)】
▼暴力団とつるんで詐欺をやっていて捕まったのが、こともあろうに大阪高検の公安部長であったという事件が世間を騒がせている。いやまあそりゃ、これだけ人間がおりゃ、暴力団とつるんで詐欺をやる高検の公安部長なるものがおっても、さほど不思議はない。ロシアの国益と手前の権勢欲を最優先に行動し税金を横流しする日本の国会議員なんてものとどっこいどっこいではあろう。詐欺では死刑にならんと思うが、外患罪は死刑である。なに、外患は言いすぎ? そうか? おれはずっと鈴木宗男はロシアのスパイだと思っていたのだが。あいつなら、もしもロシアが北海道に攻め込もうとしたら、揉み手をしながら道案内するだろうと思うぞ。その道をのちに“ムネオロード”と呼ぶことを条件にな。
それはともかく、この三井環という公安部長の写真、すごいな。よくもこれだけ凶悪な面構えの写真を選りすぐって報道するものだ。ただ凶悪なのではなくて、見る者に嫌悪感を与える卑しさが臭い立つような写真である。いくらなんでも、ふだんこんな顔をしている人間がいるものだろうか。報道の悪意みたいなものを感じる。もう少し、ニュートラルな写真はないのか。この三井なる男の写真、誰かに似ている。そうだ、スカンク草井だ。ほれ、卑しい小悪党役の手塚キャラクターがおるでしょう。たいていアセチレン・ランプの子分とかやってるやつだ。さらにじっと見ていると、なんとなくハカイダーのようにも見えてくる。目がハカイダーだ、目が。
おれも警察に捕まるようなことがあったら、最も凶悪に卑しく写っている写真を捜し出されて報道されるのだろうなあ。水玉螢之丞画伯が描いた似顔絵で許してくれればいいのだが……。
【4月21日(日)】
▼〈SFオンライン〉の“さよならパーティー”に出席するため、日帰りで東京へ。
新幹線の中で小便がしたくなり、男性専用のトイレで用を足す。いつも思うが、あれはもう、トイレというよりは、単なる“立ち小便コーナー”である。異様に狭い。しかも揺れるもんだから、左手で手すりを持ち(わざわざ手すりがついているあたりが、便利なようでちょっと怖い)、右手でおちんちんを支えて小便をするわけである。そこはかとない不条理感を覚えつつも、便器にまっすぐ飛んでゆく小便を眺めていて、ふと思った。おれはいま、列車の窓側に向けて小便を射出している。列車は時速二百キロメートル近くでおれの左側へ向けて進行している。よって、便器にまっすぐ飛んでゆくように見えているおれのこの小便は、射出方向と垂直の速度成分を持っているのであるから、ほんとうはこの小便の軌跡は……。と、頭の中で大ざっぱなベクトル演算をしたとたん、突如、車輌が完全に透明になっている光景を俯瞰で想像してしまった。この小便は、斜めに飛んでいるのである。時速二百キロメートル近くで運動するおちんちんの先端から斜めに迸る小便を、この便器はやはり同じ速度で運動しながら一滴残さず受け止めているのだ。車輌が透明で、外から見ている人がいたら、なかなかの藝当だと思うのではなかろうか。ここでもし、列車が加速あるいは減速したら、まっすぐである小便の軌跡がまるで重力にでも引かれるようにぐぐぐぐっと曲がるところが、おれの視点で観察できるはずだ(ひょっとしたら、エレベータがどうしたという思考実験はきれいごとのフィクションで、アインシュタインも列車で小便をしていて等価原理の着想を得たのではないか)。小便が曲がったのでは便器の外に飛び出してしまう。たとえば、時速百五十キロメートルで走っているところで、急激に時速百四十五キロメートルに減速したとしたら、依然時速百五十キロメートルで左に飛んでゆこうとする小便の速度を相殺するため、おれは減速の瞬間すかさず時速五キロメートルでおちんちんを右に振って、小便に列車の進行方向と逆方向の加速度を与えなくてはならない。列車がいつ減速するか、加速度を感じるまでおれには知る由もないので、それでも数滴はこぼれてしまうやもしれん。また、列車がどのくらいの時間をかけて時速五キロメートル分減速するかによって、おちんちんの振りかたも精妙に制御せねばならない。しかも、おちんちんを右へ振ったままではまずい。おれの身体そのものにかかった加速度もすぐおれの運動状態に影響し、ほんの少し遅れておれのおちんちんも時速百四十五キロメートルに速度を落とすから、小便も再びおれの視点でまっすぐ飛びはじめる。そのタイミングに合わせ、すぐさまおちんちんを左に振って正しく便器を狙わなくてはならない。小便者の視点から見て小便の軌跡をまっすぐに維持して便器を狙うのには、相当な熟練を要するにちがいない。熟練者のこの動作を透明な車輌の外から観察していたら、これまたどえらい藝当に見えることであろう。そんなことを考えていると、小便をしながらもたいへん緊張する。女性にはこういう高度な制御ができないだろうから(腰ごと振ればできるのかもしれん)、新幹線の男女共用トイレ(しゃがむやつ)は進行方向と並行に便器が配置されているのであろう。よく考えられているものである(考えてないかもしれん)。
まだ小便の効果的な制御方法について考えているうち、東京に到着。サンシャイン60には何度も来ているくせに、上層階へのエレベータは一階へ行かないとないことを忘れていて、地下で少し迷う。ようやくエレベータを捜し当てると、ちょうど神代創さんが乗り込むところであった。“さよならパーティー”は盛況で、こんなに執筆者がいたのか、そういえばいるよなあと、雑誌を五年もやればこれだけ関係者ができるというあたりまえの事実に感動する。〈SFマガジン〉なんぞ、一度でも執筆した人を遺族の代理出席もアリで全員集めたら、いったいどのくらいの規模のパーティーになるのか。中曽根康弘・元科学技術庁長官も来るわけだ。
休刊の記念パーティーというものはけっこう珍しいものだというのだが、おれは出版関係のパーティーには、呼ばれたことはあっても出たことがないので(なにしろ、たいていが東京で開かれるのだ)、このパーティーがほかのパーティーと比べて雰囲気がどうちがうのか、まるでわからない。顔ぶれを見るかぎり、SFイベントと変わらない。出版関係のパーティーというのは、こういうものなのだろうか。ともあれ、なんだかんだ言っても、これだけの人々を繋ぐ“場”として機能し、日本SF界を盛り立てた〈SFオンライン〉の功績は大であろう。〈SFオンライン〉よ、永遠に。
関係者の挨拶シーン。 逆光で撮ったシルエットなのに、 わかる人には誰だかわかってしまうところが不思議である。 初代ウルトラマンのタイトルバックのようだ。 |
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「Treva」で撮影 |
パーティーのあとは、太っ腹の堺三保さんのおごりだというカラオケへ繰り出す。水鏡子さんの歌は年に一度は聴いているのだが、カラオケで唄うのは十数年ぶりとおっしゃる中村融さんの歌を聴けたのは大きな収穫である。
カラオケ終わって、二次会もお開き。遠方から来ていると、なかなか微妙な時間である。「始発でも間に合うでしょう。うち泊めますよ、ぐふふふ」と不敵な“小林泰三笑い”を浮かべる森岡浩之さんの本気とも冗談ともつかないありがたくも怖ろしいお勧めをもったいなくもお断りし、せっかく東京まで来たのだから夕食もみなさんと食べて帰ろうかとは思ったが、帰れなくなると困るので、そのままきっぱり京都へトンボ帰り。会社の出張だと近いのに、自腹だと遠いのが東京である
▼《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。
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「Treva」で撮影 |
上述のパーティーで、海法紀光さんから手渡しでいただいたのである。なんだかソフトウェアみたいなタイトルの本だが、それもそのはず、なんと、“シューティングゲームのノベライゼーション”なのだとのこと。RPGならいざ知らず、シューティングゲームをどないして小説にするねんと一瞬思うが、考えてみれば、補完するところが多ければ多いほど、作家としてはいろいろ創造の余地があるというものかもしれない。ひょっとしたら、切り裂きジャックを追ってタイムマシンで一九七○年代後半の日本にやってきたH・G・ウェルズが、ゲーセンでスペース・インベーダーをプレイして感動し、十九世紀に戻ってから書いたノヴェライゼーションが『宇宙戦争』であったという推測も成り立つのであり(成り立つか?)、まあ、そういうわけで(どういうわけで?)シューティングゲームの小説化というのもアリだろう。
おれはそもそもこのゲームを知らないので、どういう背景の話なのかわからないのだが、アオリによれば、「2005年夏、東京市。頻発する連続猟奇事件の影に凶兆を読みとった警視庁は、オカルト界の有力者を招聘する――それは人類と神々との壮絶なる戦いの始まりだった……」てな具合で、いやあもう、好き勝手やってますなーという感じである。海法さんによれば、“伝奇シューティングSFノベライズ”なのだそうで、最初から“不信の停止エンジン全開”を要請しているようなこの人を食った設定で、情報生命体やらブラックホールやらを絡めてハードSFを展開しているという。どうやら、元がシューティングゲームだというのをよいことに、“補完”しまくって書きたいものを書いているらしい。どういうものなのか読んでみないとわからないが、そういうのもひとつの手ぇやなあと思ったことである。テトリスやブロック崩し(アルカノイドでもいいけど)をノヴェライズしてハードSFにするなんてことも、自由度が大きいだけに可能やもしれない。
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