間歇日記

世界Aの始末書


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2002年7月下旬

【7月30日(火)】
▼最近、やたら目にする2ちゃんねる用語”「……とか言ってみるテスト」ってのにイライラする。以前書いた「責任回避をしながら自己主張はしたいメンタリティー」が凝縮されたような言葉だもんなあ。テストばっかりするなー! 「私はこう思う」って言えばすむだけの話じゃないのよさ(またなぜかピノコ語)。アッチョンブリケ。

【7月29日(月)】
▼いわゆる“ワン切り”のため、大阪で電話が通じにくくなる。おれのPHSまでが影響を受けていた。
 “ワン切り”を法で規制するのはけっこうたいへんなんだろうなあ。“ワン切り”の定義が難しい。ふつうの自動ダイアルアップで何度もリダイアルする行為なんてのまで取り締まられてはたまらない。じゃあ、単位時間内に連続何回電話をかけたら“ワン切り”とする――と決めてみたところで、休みやすみ電話するように自動化されるだけだ。ネットワーク上のサーバに不正侵入する準備行為に、「どっか閉め忘れてる扉はないかあ」と片っ端からノックしてまわるのに等しい“ポートスキャン”という行為があるが、そのヴァリエーションに、事後のアクセスログ・チェックやリアルタイムの侵入検知システムで発見されにくいように、ゆ〜〜〜〜〜っくり扉を叩いてまわる“スロースキャン”という手口がある。極端な話、一時間にひとつずつ扉を叩いてまわるなんてことをされると、それが不穏な動きであることはなかなか気づかない。“ワン切り”にも“スロー・ワン切り”が登場しかねないわな。ゆっくりだが、あきらかに自動化されたパターンを持つ行為を発見するには、検知システムのほうも長〜い目で見なくちゃならないよなあ。『レッド・オクトーバーを追え』(小説でも映画でもいいけど。映画は『!』付きね)で、無音が“武器”の電磁推進潜水艦レッド・オクトーバーが出す、通常の時間感覚では自然の雑音にしか聞こえないきわめてゆっくりとした唸りを、アメリカのソナー技師が人工的な音だと見破ったテクニックと似たような感じかも。だけど、よく考えたら、“スロー・ワン切り”なんてやったら、ワン切り業者はちっとも儲からないよな。
 ま、しょーもない空想はともかく、電話会社のほうとしては、ブラックリストで地道に潰してゆくしかないんだろうなあ。

【7月27日(土)】
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

『戦闘妖精・雪風解析マニュアル』
(早川書房編集部編、早川書房)
『ウロボロスの波動』
林譲治、ハヤカワSFシリーズ Jコレクション)
「Treva」で撮影

 『戦闘妖精・雪風解析マニュアル』のほうは、ご恵贈いただいたにはいただいたのだが、拙稿も載っているので、まあ、ここでも宣伝しとこうというわけである。〈SFマガジン〉1999年7月号に書いた神林長平論「長平を見るには 長平の目がいる」を大幅に加筆・改稿して捲土重来を図った。大筋は変わらないが、前回はちょっとテンションが続かず尻切れトンボ気味だったのが、少しはましになっている。その後の作品が出たためにさらに見えてくるものがあったところも大きい。タイトルは一瞬で決めた――「長平を見るには 長平の目がいる〈改〉」 これ以外につけようがないじゃないのよさ(と、なぜかピノコ語)。もちろん、おれの長いだけの屁理屈ばかりではなく、巽孝之さんや東浩紀さんほかの、より格調高い論考も載っている。小説もあるぞ。深井零の少年時代の記憶が初めて描かれる書き下ろし「ぼくの、マシン」が登場。どうやら近々柏崎玲央奈さんに見破られることになりそうな予感がするのだが、そうだよ、おれのスカしたペンネームの由来は、公的にはプロフィールで説明しているとおりだけど、当然、深井零を意識していないわけがないわさ。「零」だとかっこよすぎるし、「黎」ではこれまたあまりにも偉大な先達がいらして畏れ多いし、でも「虫」の字はどうしても使いたかった(理由は問うまい)ため、極楽トンボにゃちょうどいいだろうと、こういうことになったのだった。なんか照れくさいが、まあ、小説のキャラをペンネームにしている人はけっこういるのである。三村美衣さんなんて、よくこんなのを思いついたなと感動するほどの名作ペンネームだ(註:サム・ライミではない。くれぐれも)。おっと、話が逸れた。それから、なんたって、いまでは入手しにくい幻の作品「被書空間」が再録されているから、これはもう、若い神林ファンはなんとしても買いだ。《敵は海賊》シリーズのおなじみのキャラクターたちが、なんと雪風に遭遇するという、ファン垂涎のサービス短篇なのである。最後に唐突に「ありがとう」とあるように、星雲賞御礼のファンサービス作品だったわけだ。これを買い逃すと、〈SFマガジン〉1984年11月号『SFマガジン・セレクション1984』(早川書房編集部編、ハヤカワ文庫JA)を古本屋で探しまわるしかなくなるぞ。いやまあ、論理的にはこの『戦闘妖精・雪風解析マニュアル』を古本屋で探したっていいわけだが、いままでこれほど網羅的な神林長平徹底解剖本が出た記憶はないから、買った人はそうそう簡単には売らんと思う。こら、そこ、売るなー!
 『ウロボロスの波動』は、例によって〈週刊読書人〉2002年9月6日号で書評することになると、ほとんど確信のように予知するので、ここでは詳しく触れない。とか言いつつ、言い足りないから激しくお薦めするのだが、ハードSFを食わず嫌いしている人にはぜひ読んでほしい。そもそも、SFを読みながら嬉々として計算をはじめる小林泰三という人とか、SFを読みながら嬉々として工作をはじめる野尻抱介という人とかは非常に例外的な存在なのであって、ふつうの人はハードSFといえども、ただ読んで楽しむだけなのだ。ああいう人たちがふつうだと思って、ひけめを感じてはいけません。計算も工作もしない英米文学科卒のおれが読んでも面白いのだから、ハードSFは面白いのである。
 いま思いついたんだけど、小林泰三さんや野尻抱介さんにアラン・ロブ=グリエ『嫉妬』とか読ませたら、冒頭から計算や工作をはじめそうで、ちょっと怖いかも。安部公房『燃えつきた地図』とか『密会』とかも危ないよな。

【7月26日(金)】
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

『クリプトノミコン4 データヘブン』
(ニール・スティーヴンスン、中原尚哉訳、ハヤカワ文庫SF)
「Treva」で撮影

 いよいよ〈月刊クリプトノミコン〉最終巻。スティーヴンスンらしく、ここまででずいぶん話がとっちらかったけれども、いったい全体、この風呂敷をどう畳むつもりか。ま、スティーヴンスンなんだから、べつに畳まなくても面白いから怒らないけどね。
 余談だけど、“データヘブン”という表記はおれは嫌いなのである。『クリプトノミコン3』までを未読のための方にご説明しておくと、この“データヘブン”という造語は“タックスヘブン”のデータ版と思っていただければいい。で、嫌いなのはむろん“ヘブン”の部分ね。以前にも書いたけど、“ミッシング・リング”やらと同じで、カタカナ語での誤解を誘発・強化するような気がするんだよな。
 かといって、“ヘイブン”やら“ヘイヴン”やらと、英語の二重母音を日本語の母音ふたつに分解するのも、あんまり好きじゃない。“メイル”とかね。ひどいのになると、image“イメイジ”と表記したりしているケースがある。image の母音は二重母音じゃないってば。こういう人はたぶん、garage“ガレイジ”と表記したりするのだ。これらはどうにも容認できない表記である。原音主義でもなければ慣用主義でもない、いわば“架空の原音主義”とでも呼ぶべきスカした表記だからだ。英語のためにも、日本語のためにもよくないと思う。“イメージ”“ガレージ”なら、原音に極力似せる立場からも慣用に倣う立場からも、折衷案として容認できる。だがおれは、“シェイクスピア”と書くくせに“プレーンヨーグルト”と書く。論理的には首尾一貫していない。結局、どちらかというと慣用に倣う立場に近い。
 が、“タックスヘブン”は慣用に倣いたくないわけである。理由は前述のとおりで、tax heaven が原語であるがごとき誤解(もちろん、haven が正しい)を誘発・強化するからである。悩ましいところだが、じゃあ、みんなどう表記しているのじゃろうと、ちょっと「Google」で検索してみる――

「タックスヘブン」で検索
「タックスヘヴン」で検索
「タックスヘイブン」で検索
「タックスヘイヴン」で検索
「タックスヘーブン」で検索
「タックスヘーヴン」で検索

 微妙なところですなあ。「ヘイブン」が一番人気だが「ヘブン」も無視できないほどに人気がある。こういう調査では、あくまでウェブ上での“人気”しかわからないわけで、ものによってはあきらかな誤表記・誤用が一番人気になったりもするのだが、まあ、参考にはなる。総合的には、おれは「ヘイブン」で妥協することにしよう。今後、ボーダーレスな英語メディアにどっぷり浸かって育ってきた若い連中が台頭してくるにしたがって、「ヘイヴン」派が増えてくるようになるだろうから、慣用がある程度変化してきたら、そのときには切り替えるとするか。
 ただ、おれがいくら「カタカナ語での誤解を誘発・強化するような気がする」と気味悪がってみたところで、すでに「tax heaven」なる語が英語を使っている連中のあいだですら相当勢力を強めてきているのは事実らしい。同じようにまちがうのは、日本人だけではないということだ。まあ、まだまだ「tax haven」のほうが優勢ではあるけどね。

【7月23日(火)】
『ジェンダーSF研究会』のサイトができたと、小谷真理さんからメールが来たので、さっそく行ってみる。おや? これはおれが2002年5月3日の日記で、「必ず七月ころにはできているにちがいないとおれがほとんど確信のように予知」したサイトではないか。やはりできたか。いや「やはり」などと自信なさげな言葉を使ってはならない。おれがこの日記で「ほとんど確信のように予知」した場合、それはもはや既成事実と同等なのだからな。わっはっは。
 でもって、同サイトには、おれも“推薦委員”として選考に参加した第一回〈Sense of Gender〉賞の選評もさっそく載っているので、ご用とお急ぎでないジェンダーが気になる方は、行ってみてください。

【7月22日(月)】
▼会社の帰りにソフマップに寄ったついでに、DVDのソフトコーナーを見回ってみる。DVDプレーヤーを持っていなかったくせに、いままでも後学のために覗いたことはあり、『鉄腕アトム』全話のボックスセットやらなにやらを涎を垂らして見ていたのだった。こんなところで衝動買いの魔に憑かれでもしたら、金がいくらあっても足りない。「いくらあっても足りない」などという台詞は、そもそも多少は金がある人間が言う台詞であって、衝動買いしなくたって「足りない」ようなやつが言う台詞ではない。厳密には、「こんなところで衝動買いの魔に憑かれでもしたら、金がさらに足りなくなる」と言うべきであろう。はなはだ精神衛生に悪いコーナーである。
 しかし、せっかくDVDプレーヤーも買ったことであるし、なにか買って帰ろうと物色をはじめる。マニアックな作品はたいてい高い。あんまりマニアックでなくても、最近の作品は高い。まあ、需要と供給の関係から、これは当然のことであろう。よって、古典的名作でしかもポピュラーなもので、かつ十分に安いものにまず目がゆく。千五百円のシリーズなんてのは、非常によろしい。本を買うのと変わらん。気軽に買える。でもって、千五百円の『2010年』を買う。ま、映画としてさほど名画ではないが、評価とは別次元で個人的には好きではある。これなら手元に置いておいても損はない。本篇はもちろんのこと、DVDの媒体特性が最大限に発揮されるのは“メイキングなどのおまけ映像”であって、おまけつきで千五百円なら上等だ。便利な世の中になったものである。
 帰宅して飯を食ったあと、『2010年』をバックグラウンドAVとして流しながら、パソコンに向かう。チャンドラ博士のあの台詞は、いつ聞いてもシビレますなあ―― Whether we are based on carbon or silicon makes no fundamental difference. We should each be treated with appropriate respect.


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