間歇日記

世界Aの始末書


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2002年5月上旬

【5月10日(金)】
「SAKURAドロップス」ってのは、どう見ても「SAKUMAドロップス」のパロディー・タイトルだろうと思っているのだが、最近サクマのドロップスってあんまり見かけないよなあ。おれくらいの世代なら、みんな子供のころに舌が七色になるくらい食ったはずだけど、それにしても、宇多田ヒカルがなんでこんなものを知っているのだろう? いやまあ、そりゃいまも売ってるけどさ。
 で、ちょっとウェブを検索してみたら、驚くべきことがわかった。知っている人はずっと知っていたのだろうが、おれは知らなかった。「ああ懐かしのサクマ式ドロップス」というページによれば、「サクマ式ドロップス」と「サクマドロップス」とはちがう会社が作っているのだそうだ。戦前はひとつの会社だったのが戦時中に解散し、戦後、元社員が別々に池袋の「佐久間製菓株式会社」と恵比寿の 「サクマ製菓株式會社」とを立ち上げたのだという。前者が「サクマ式ドロップス」で、後者が「サクマドロップス」なのだそうだ。ひえええ、知らなかったなあ。世界は驚異に満ちている。

【5月9日(木)】
書庫らしい書庫を作る計画、第二段階である。会社から帰ると、注文してあった組立て式スチール本棚が六本届いていた。げげげげっ。組み立てる前でもこんなにでかいのかよ。置く場所がないので、台所に置いてあるのだが、著しく邪魔である。これはとっとと組み立てねばなるまい。

【5月8日(水)】
▼いつも思うのだが、「ニュースJAPAN」(フジテレビ系)の田代尚子アナウンサーは、サイボーグのようだ。いやまあ、ふつうにしていればただのきれいな女性だし、ちゃんと笑ったりもするわけだが、ひとたびニュースを読みはじめるとサイボーグに変身するのである。田代アナが読むと、「どこそこ動物園でキリンの赤ちゃんが生まれました」みたいなニュースでも、なにやら襟を正して謹聴せねばならないような気になる。べつにおれは田代アナが嫌いなわけではなく、どちらかといえば好きなほうだが、もそっと崩してもいいんでないかい。クール・ビューティーってのは、得なのか損なのかよくわからない。そういえば、同じフジテレビの近藤サト元アナもそんな感じだったなあ。小島奈津子元アナは、二の線と三の線のメリハリがくっきりしていて、それが人気の秘密なのであろう。田代アナが「なおちゃん」と呼ばれているところなど想像もできない。え? あなた呼んでますか? そ、それは失礼いたしました。
 それにしても、フジテレビってなんでこんなに女性アナ(最近おれは、「女子アナ」って言葉を使わないようにしている。この言葉が持つ「女は腰かけ」みたいな感覚が鼻につきだしたからだ)が多いのかね? ぽろぽろ辞めるのに、いつのまにか増えている。まるでモーニング娘。のようでとても覚えきれない。
▼ゴールデンウィークを過ぎても阪神タイガースの調子がよいという異常事態が続いている。たいてい、ゴールデンウィークころには失速するものなのだが……。こりゃあ、そろそろハレー彗星がやってくるかな?

【5月7日(火)】
おれたちは性の奴隷である。たとえば、このページの昨日までの日記だけでも、「先見性」「可能性」「類似性」と、三つも「なになに性」ってのを使っている。「可能性」なんか三回も出てくるではないか。どうもこの、ちょっと頭が疲れているとものぐさになり、すぐに「性」をくっつけて漢語風の名詞にしてしまうわけだ。そのほうが頭が楽になってしまっているのである。でも、あんまり性の奴隷になると、日本語らしくない。かといって、大和言葉だけでふつうに文章が書けるものでもない。「先を見とおす力があるさま」とか「似ているさま」などといちいち書いていたのではまどろっこしい。少なくとも、ひとつの文章の中に「なになに性」がふたつは出てこないようにしようとは思うものの、やっぱり使ったほうが楽なんだよな(読むほうは“うざい”かもしれないが)。結局、「性」を付けることで概念をカプセル化することができるから、そういうカプセルをたくさん一緒くたに使わねばならないような抽象的な文章では、「性」の便利さ(危うく「利便性」と書くところだった)に寄っかかってしまいがちだ。ついつい使いすぎてしまうので、たまにはわざと大和言葉に“開いて”やる思考の訓練をしてみるのもよいだろう。うまく大和言葉にできなかったら要注意である。それはつまり、中身のないカプセルだけを使っている状態で、怠惰な思考に陥っていることを意味するからだ。「なんたら性」「かんたら性」だらけの文章を見たら、「こいつは性の奴隷だ」と揶揄するのを流行らせてはどうか。

【5月6日(月)】
▼ひさびさに「タイムショック21」(テレビ朝日系)など観ていたら、二十年前に「タイムショック」に出てきた“火星ちゃん”という渾名の回答者が出てきてびっくり。いやあ、懐かしいな。すげーインパクトのあるキャラクターだったから、よく憶えているのだ。あいかわらずこの人、火星人みたいな顔をしている。いや、もちろんウェルズのほうではない、ブラウンブラッドベリのほうだ。ウェルズのほうだったら一段と面白いんだが、社会生活に支障を来たすだろう。
 「タイムショック21」は、家で気楽に観てると、本好きな人なら九〜十問くらいはしょっちゅう行くよね。本好きな人は、たいていこの手の一問一答クイズになるような、どうでもよい、くだらない、調べりゃすぐわかるようなことをたくさん知っているものだからだ。脳の記憶容量の無駄遣い(?)かもしれん。家で観ているぶんには、おれですらたまにパーフェクト出したりする。ところがどっこい、あそこに座るとそうはいかんのだろうなあ。高いところに上がるだけで、もう平常心ではなくなるだろう。おまけに、むかしの「タイムショック」は、三問以下の正解で椅子が回る場合でも回転面は常に地面と平行で穏当に回っていたが、いまの“トルネードスピン”ってやつは回転軸がふたつもあって三次元的に回るのだ。高所恐怖症のおれには、想像するだに怖ろしい。あんなことされたら小便ちびるのではないか。いくらなんでも三問以下の正解ということはないだろうが、もし椅子が回ったらと考えると、クイズどころではなくなるだろう。その点、「クイズ$ミリオネア」(フジテレビ系)は、出場できさえすれば、よほど運が悪くないかぎり、百万円くらいなら容易に持って帰れそうだ。あれはみのもんたに見つめられるだけで、椅子は回らないしな。もっとも、みのもんたに見つめられるというのは、相当平常心を乱される存外に過酷な試練なのかもしれないが……。

【5月5日(日)】
▼将門の血の匂いにアテられたのか、どうも風邪らしい。セミナー疲れもあって、一日寝ていた。

【5月4日(土)】
「オタク第3世代は、本当に動物化しているのか?」(出演:東浩紀大森望)の続き。動物化の話はいつしかどこかへ行ってしまい、Nシステム(自動車ナンバー自動読み取り装置)やら住基ネットやら個人情報保護法案やら、コンピュータ・ネットワーク社会におけるプライバシーの話になる。東浩紀的には、最先端の技術リテラシーと文学的想像力を備えたSF作家こそが、こうした問題を作品で掘り下げるべきだということらしい。頷けないこともないが、そぉ〜れはどお〜かなぁ〜((C)浅草キッド@「クイズ!バーチャQ」)とおれはちょっと首を傾げる。まさか東さんは“かがく学習まんが”的なSFを書けと言っているわけではないと思う。現存する科学技術、あるいは、現存する基礎研究から出現が演繹的に想像される科学技術が、われわれの近未来の日常にどのようなインパクトをもたらすかを、非SF読者にも受け容れられるように書くのも、いまSFに求められていることではないか、という意味だろう。
 たしかに小松左京『日本沈没』(一九七三)などはそのように一般に受け容れられたフシもないではないのだが、はたしてあれがその後の映画やテレビドラマの原作としてのパニック小説以上のものとしてあれほど売れたのかと考えると、そこのところははなはだ疑問である。その再話とも言える『首都消失』(一九八五)を読んで、日本の構造改革が可及的速やかに必要であると、八○年代にそこいらのサラリーマンや主婦たちが騒いだだろうか。『さよならジュピター』(一九八二)で描かれる組織論は昨今雨後の筍のように出ているビジネス書の内容を大幅に先取りしているが、そこに注目した企業経営者が当時どのくらいいたものだろう? そこをちゃんと読み取って自分のテーマとして引き継いでいる点(〈SFオンライン〉41号「SFマガジンを読もう」−「ヒドラ氷穴」参照)では、最近では林譲治の右に出るSF作家はいないと思うけれども、いったいどれほどの経営者たちが七月に出る『ウロボロスの波動』(林譲治、ハヤカワSFシリーズ Jコレクション)に言及するものか、悲観的に楽しみである。要するに、SFが、それこそ東さんの期待するように、“すでにいまそこにあるが顕在化していない近未来の危機”をSFとして描いてみせても、それが警鐘として受け止められることは少ないと思うのだ。というか、警鐘として機能してしまったが最後、それはおなじみの「これは単なるSFではない」という言葉と共に“消費”されてしまうのである。
 東さんがSFに期待するような役割は、SFの役割の一部ではあるが、SFとしてはそれが主に来るべきものではないと思う。主に来てしまうと、ちがうものになってしまうような気がする。また、東さんが期待するような役割を(主目的ではないにしても)担ったSFといえば、ブルース・スターリングの諸作品がすでに日本にも十分紹介されている。ことにネットワーク社会のひとつの未来像なら、『ネットの中の島々(上・下)』(ブルース・スターリング、小川隆訳、ハヤカワ文庫SF)にとどめを刺すだろう。この作品の技術的・社会的先見性と文学的想像力が、はたしてどのくらい常連SFファン以外の読者層に伝わったろう? スターリングだけではない。むろん、ウィリアム・ギブスンもそうだし、最近ではグレッグ・イーガンのやっていることは、まさに東さんが期待するSFの姿を包含するだろう。日本人SF作家なら、神林長平は常に東浩紀的期待に応えているはずだし、草上仁東野司は軽いノリの作品にこそ、先端技術やネットワーク社会への深い洞察に基づいた現代への問題提起を一般読者にもわかりやすく描いているだろう。SF周辺領域なら、たとえば、川端裕人が――と『THE S.O.U.P.』を思い出しつつ考えていたらちょうどおれのうしろで声がして、「たとえば、川端裕人なんかが(東浩紀的期待に添うものを)書いていると思う」といった発言。おや、と振り向くと、いつのまにか徳間書店の大野修一さんがすぐうしろにいらした。さすがは慧眼の編集者である(おれと同じ思考をしてたら慧眼なのかよ)。あっ、大野さんの顔を見て思い出した。こういう文脈だったら、『コンピュータが死んだ日』(石原藤夫)みたいなものこそが、SFとしては最もふさわしい作品ではないか。あれもずいぶんといろいろな出版社を渡り歩いた作品だが、最後は徳間文庫だったはずだ。「あれ、ぜひ復刊してくださいよ」と私語モードで大野さんに言う。
 話が逸れた。つまり、東さん的期待にすでに応えているSFが十分存在するにもかかわらず、それらがはたして東さんが期待するように機能しているかどうかとなると、どうもそうは思えないと言いたいわけである。首を傾げながらも、一応おれも「東さんの言うような作品は、たとえば七○年代の『油断!』(堺屋太一)のようなものだと思うが、あれはたしか当時は“ポリティカル・フィクション”(PF)と呼ばれていたと思う」と指摘してみたところ、東さんの論調は、「そうそう、そのポリティカル・フィクションが〈SFマガジン〉なんかに載るべきだ」という流れになってしまった。うーん、まあ、たしかにそういうもの“も”載って悪いとは思わないので(SFとして評価されるか、ましてや一般読者が注目するかどうかには懐疑的だが)、黙って聴いていた。というか、おれはああいう場ではあんまりうまく割り込んで自説を展開することができないのだ。おれ的には、「SFのフクロウは朝焼けに飛び立つ」くらいがいかがわしくて好きなので、昼間や夕暮れに飛び立つのは、目立つがちょっとちがうんじゃないかと思うわけなのである。いま『油断!』にSF的価値があるかというと、おれはさしてないと思う。だが、『コンピュータが死んだ日』にはありすぎるほどあるのである。そのちがいを生むものが那辺にあるかを考えていただければ、“SFとしてのポリティカル・フィクション”に対しておれが抱く違和感がおのずと伝わるのではなかろうか。
 さて、ここから、なにがなんだかわからなくなってくる。“ポリティカル・フィクション”がにわかに独り歩きをはじめ、酔っ払って寝たり起きたりしている永瀬唯さんが、永瀬さんが寝ているあいだに交わされたNシステムの話を蒸し返すかと思うと、これまた酔っ払った浅暮三文さんが、“ポリティカル・フィクション”を書くんなら日本の個人情報がどうしたなどという話よりももっと書くべき話があるシャロンがアラファトがと突然中東情勢の話にこだわりはじめる。その永瀬・浅暮攻撃が周期的に繰り返されるのを、これまたすっかりできあがった東浩紀さんが受けて立ち、話はひたすら“ポリティカル・フィクション”と〈SFマガジン〉を焦点に楕円を描きながら螺旋状に朝までのたくってゆくのだった。円広志の歌声を頭の中に聴いていたのは、ひとりおれだけではあるまい。
 結局、三人の酔っ払いの掛け合いを聴衆が楽しむという構図になり、それはそれで面白く、朝を迎えた。東さんが小便に立ったまま帰ってこなくなったため、参加者は三々五々散ってゆき、お開きとなる。あとで知った話だが、塩澤編集長は、この企画の「神林長平が好きだ」という東さんの発言をきっかけに『戦闘妖精・雪風 解析マニュアル』(早川書房編集部編、早川書房))に彼の原稿を取りつけたらしい。じつに仕事熱心な人である。
 朝の大広間でのエンディングは例年のごとし(なんだか、年々日記が手抜きになってくる)。大野万紀さん、北野勇作さん、塩澤編集長、水鏡子さん、福井健太さんらと、合宿会場近くのマクドナルド二階で朝食。例の“動物化”企画の話をあれやこれやとしていると、いままで誰もいなかった空席のあたりから湧いて出たかのように突如おれたちの一団の前に出現した者がある。当の東浩紀さんであった。なにやら酒を飲みすぎて降りる駅を乗り過ごしてしまった酔っ払いのような風情、「ここはどこ? 私は誰?」といった目つきできょとんとしてらっしゃる。どうやら、奥のほうでいままで寝ていたらしい。東さんは、支柱に身を預けながら、起き抜けのせいか宿酔のせいかで内容のよくわからない挨拶をおれたちにすると、ふらふらと階下へ降りていった。どのくらいここで寝ていたのだろう? 朝のマクドナルドを仮眠所にするとはさすがはなかなかの豪傑だが、東さんは東大出身だから、ひょっとすると学生時代から本郷のこのマクドナルドを仮眠所に使っていたのかもしれない。

【5月3日(金)】
▼今年も「SFセミナー」に出かける。ついこのあいだ東京へ行ったばかりなのに、また東下りである。今回は、新幹線の切符をネットで買ってみた。京都−東京間程度では距離が短くてまだ割引きはないのだが、クレジットカードが使えるのでポイントが貯まるし、すぐに払わなくってもいいじゃないか。なかなか便利である。予定が固まっている場合、高額の切符は今後もこうするにかぎる。
 ローカル線で京都駅に付いたら、乗り継ぎ時間がぎりぎりなので、とにかく切符を受け取ろうとあわてて新幹線ホームへの入口に急ぐ。「インターネットで買ったんですが。番号は……」と告げると、なんだか話が噛み合わない。「うちはJR東海なんで」と言うのである。いつも利用している窓口がJR東海だとは知らなんだ。そんなもん、JRはJRじゃ。東京の会社のウェブサイトにアクセスしたら「このサイトのこのページだけ物理的には大阪のサーバ上にあるのでアクセスできない」と言われたような気分である。

「じゃ、これはどこで受け取ればいいんですか?」
「ああ、それはJR西日本さんですね」
「だから、その窓口はどこですか?」
「JR西日本さんです」
「そのJR西日本の窓口でいちばん近いところへはここからどう行けばいいんですか?」
「烏丸口です」
 あと十五分しかない。
「だから、ここからはどう行くの!?」

 まったく、どうなっておるのだろう。“よその会社”が勝手に新奇な方法で売った切符のことなど知るものかと言わんばかりだ。阪急電車大阪市営地下鉄だってもっとスムーズに連繋しとるぞ。JR西日本とかいうどこかよその会社が運営する最寄りの「緑の窓口」をようやく聞き出し、走って切符を取りにゆく。切符を手に同じ改札に駆け戻り、駅員には目もくれず自動改札を通して、エスカレータをホームに駆け上がった。五分前。危ないところだ。なんとか予約した列車に乗り込むことができた。
 ふつう、列車が走り出して間もなく、べつにあなたが鈴木宗男でなくとも検札がやってくる。ああ、検札だなと思い、切符は内ポケットにあるよなと心構えをしてペットボトルのお茶を飲んでいると、車掌はおれの席を通り過ぎて行ってしまった。あれあれあれ? ははあ、なるほど。JR西日本の「おでかけネット」で買った切符を受け取ったのは、京都駅発車まで十分もないぎりぎりの時間であった。その時点で「おれがたしかに受け取った」という情報がコンピュータに入力されるはずだが、おそらく、そのデータが車掌の端末にまで届くのにタイムラグがあるのだろう。なにしろ、よその会社だからな。あるいはバッチ処理していて、発車前の最新データをよそへ送信して同期を取るのは、発車の十分以上前なのかもしれん。どういう仕組みになっているのだかは知らんが、とにかくこういうことがあるらしい。ほほう、すると、おれはいまこの列車にはまだ乗っていないことになっているわけだ。少なくとも、この列車が持っているデータの上ではそうなのだ。ふっふっふ、まさかおれがこの列車に乗っているとは、十津川警部も気がつくめえ。西村京太郎氏に教えてあげたら喜ばれるかもしれないが、一面識もないうえ畑ちがい(?)なのでそんな面倒なことはしない。ミステリ作家の方は、この現象のちゃんとした原因をご自分で調べて、どうぞ勝手に使ってください。数学でも物理でもなんでも、この世の中、とにかくなにかの“境目”では特殊な面白いことが起こるものなのだ。名古屋駅を出てまもなく、鈴木宗男ではないおれのところにもちゃんと検札がやってきた。
 新幹線は途中でモグネスに踏み潰されることもなく(わからん人は、オタクなおじさん・おばさんに訊いてみよう)、おれは無事東京駅に降り立った。あんまりしょっちゅう東京に来ると、もちろん財布にも悪いが、身体にも悪いような気がする。アメリカの空港に降り立つとバターのようなチーズのような匂いがし、韓国の空港に降り立つとキムチの匂いがするという話をよく聞くが(おれは日本から出たことがないので知らんけれども)、東京駅も、降り立つとやっぱり匂いがするのである。将門の血の匂いだ。しませんか?
 会場の全電通労働会館には毎年来ているので、さすがに方向音痴なおれでも迷わず行けるようになった。今年も午後からの開演なので、遠方から来る参加者にはありがたいし、途中で昼飯を食いにゆく手間が省けてよい。会場では、出たばかりの〈ハヤカワSFシリーズ Jコレクション〉第一回配本分三作品がさっそく売られていた。よく売れているようだ。
 さて、例によって、レポート風感想である。

『SF入門というジャンル』(出演/巽孝之・川又千秋・牧眞司・小谷真理、司会/野田令子
 昨年末に『SF入門』日本SF作家クラブ編、早川書房)も出たことであるから、いろんなSF入門の話をしてしまおうという企画。古今のSF入門書がスライドで次から次へとスクリーンに投影される。「ああ、あんなのあったなあ」と懐かしく見たが、おれも存在すら知らなかった稀覯本もあり、たいへん勉強になった。なんの分野でもそうなのだろうが、なんかこう、入門書というものは、妙に気になるところがある。「これから入門しようという人に、いったいどういうふうに紹介しているのだろう?」と気になるわけだ。子供の教科書を覗きこむのと同じ心理かもしれん。あっ、円周率をおよそ3なんて言ってやがる、どういう了見だと憤ったり、ほほおぉ〜、こういうエレガントな説明のしかたがあったのか、これはすごい、ひょっとしたらおれはいままで“入門”を果たし得ていなかったのではないか、などと目から鱗がぼろぼろ落ちたりするのが、どっちにしても快感(?)なのではなかろうか。

『かめ、くらげ、たぬき、北野勇作』(出演/北野勇作、司会/尾山ノルマ)
 北野勇作さんにいろいろ訊く企画である。なんちゅう紹介や。
 北野さんは、ひとことで言うと、みたいな人である。しゃべるのが速いとかそういう意味ではない。どちらかというと、平均より遅い。つまり、周囲が速かろうが遅かろうがどう動いていようが、あたかも北野さんを基準に時空の構造が決定されているかのごとく、強靭なまでにマイペースなのである。だというのに、「おれはマイペースで生きる」とかなんとかほざいてはやたら摩擦を招くだけの輩とは対極にあるようなキャラクターで、いま北野さんがここにいてこういうふうにしていることが宇宙開闢のときから約束されていたかのように風景に溶け込んでいる不思議な人なのだ。当然のことながら、会場がまるごと“北野ペース”に呑まれてしまい、ときおり時計を見ないと、いったいどのくらいの時間が経ったのかさっぱりわからない始末であった。阪神淡路大震災の被災者として、当時まだ結婚していなかったいまの奥さんの実家に転がり込み、なにやらそのまま長居してしまったなどという、たいへんなのかのどかなのかよくわからないほんわかとした話には、たいへん感銘を受けた。北野さんと奥さんも北野さんと奥さんだが、奥さんの親御さんも親御さんである。なんか、そういう実話自体が、すでに北野さんの作品に出てきそうな雰囲気なのだ。おもろい人やな、ほんまに。

『立ち上がれSF新レーベル! 編集者パネル』(出演/大野修一(徳間書店)・塩澤快浩(早川書房)・中津宗一郎(角川春樹事務所)・保坂智弘(祥伝社)、司会/小浜徹也(東京創元社))
 各社の社長さんの近況を尋ねる小浜さんの名司会が愉快。「ハルキさんはお元気ですか?」「いまちょっと遠いところへ行っておりまして……」「徳間さんはお元気ですか?」「ハルキさんよりももっと遠いところへ行ってしまいまして……」
 それはさておき、二年前にはまだ遠いところへ行っていなかった(行くことは決まっていた)角川春樹氏の独演会(聞き手付き)を思い出すと、たった二年でずいぶん状況は変わったなと感無量。“SF”という禁断の二文字を堂々と謳う出版社がこんなに増え(まあ、早川・創元はあたりまえとして)、しかも、次々と新しいレーベルが立ち上がった。“冬の時代”などと言われていたのは、いったいいつのことか。
 子供のころは、本というものは「きっと出版の会社のかしこい人たちがいっぱいあつまって、よしこういうのを出そう、いやそんなのはだめだ、いや出そう出そうそうしよう」などと話し合って論理的に出しているのだろうと思っていたもので、あんまり本に興味のない人たちはひょっとすると大人でもそう思っているのかもしれないのだが、このパネルに並んだ方々の話を聴いていると、天の配剤で出るものだということがよくわかる。出るべくして出る条件がおのずと整ったときに、人を得れば出るのだ。昨今のSFの復興は、編集者個人の“想い”と能力と彼らをとりまく種々の条件が重なって形になってきているもののようである。本は出るべくして出るなどというと今西進化論的でちょっと厭なのだが、そう表現したいところはたしかにあるのだ。たぶん、“ミームの中立進化”みたいなこともあるんだろうな。日々受信するさまざまな外界からの刺激が作家や編集者や読者の中に本人にも気づかない形で変異を引き起こし、ある日突然「そうだ、おれはずっとSFが書きたかったのだ出したかったのだ読みたかったのだ。そうだったのだ」と、表現型に浮上するといった感じか。

『小説の可能性を求めて――奥泉光インタビュー』(出演/奥泉光、聞き手/鈴木力)
 SFやミステリの手法をごくあたりまえに用いる純文学作家は少なくない。というか、小説というのは本来なんでもありの自由な文藝なのであるから、SFだろうがミステリだろうが、なんでもかんでも取り入れないほうがどうかしているのである。そこで、芥川賞を取ったという大きなハンディキャップを背負いながらも、近年とくにSFファン・ミステリファンから注目され、高く評価されている奥泉光の登場である。芥川賞というのは妙な賞で、受賞作はやたら売れるらしいのだが、二作め以降は「芥川賞作家」という肩書きはむしろハンデになっているとしか思われない。どんなジャンルのどんな面白いものを書いても、「純文学とかいう伝統藝能の人」と思われてしまう傾向があるからだ。「おれは“小説家”だ。本が売れなくなるから“純文学作家”と呼ぶな」と、どこかのサイファイ作家のように抗議する人が純文学作家と呼ばれている人たちの中から現われても不思議ではないと思うのだがどうか。
 奥泉作品をよく読み込んでいる鈴木力氏の的確な聞き手ぶりもあって、意外と饒舌(『鳥類学者のファンタジア』を読んでいる人には意外じゃないかもしれないが)な奥泉節が愉快であった。以前〈SFマガジン〉のインタビューを読んでいたこともあって、小説観そのものにはさほど驚かされず(そりゃ、おれの小説観に近いわけだから)、“奥泉光”というキャラクターが楽しかった。奥泉氏は、なにかこう、“名探偵”みたいなしゃべりかたをするのである。ほれ、育ちがよくて飄々としていて自分の世界に入ると嬉々として事物や現象の解説をはじめるタイプの名探偵っているじゃないすか。あんな感じね。
 SFとの距離の取りかたは非常に自覚的で、自分の資質は驚天動地のSF的アイディアで勝負できるといったものではないと冷静に分析していらっしゃる。つまり、自分にないものがSFの中にあるのを認めていて、それを資質に反して追うのではなく、自分は小説の小説としての可能性を追う、その過程でSFやミステリが使えるのであれば、遠慮なく使うといったスタンスだ。SFのレゾン・デートルに対する外部からの敬意、あるいは、羨望すら感じられるのである。そこいらへんが、SFやミステリの読者からも好感を持たれる所以なのだろう。小説の小説としての可能性を追い求める作家が“純文学作家”なのだとしたら、奥泉光はまさに“純文学作家”だ。当然、その“純文学”の中には、SFもミステリも入ってくるというだけの話である。となると、奥泉流の“純文学”とはおれ用語に言う“一般主流文学”だし、それすなわちおれ流にはSFのことだから、結局同じものだろう。同じものを、おれはこっちから、奥泉光はあっちから見ているだけのことだ。

 昼の部は終わり、浅暮三文さんや福井健太さんたちの団体に紛れ込んで晩飯を食う。“迷探偵”ルーフォック・オルメスについて、これはよい機会と専門家の福井さんに訊いてみる。先日『名探偵Z 不可能推理』芦辺拓、ハルキ・ノベルス)を読んで気に入ったのだが、その原型であるという“ルーフォック・オルメスもの”をおれは読んだことがないのである。ミステリファン的基準では、ひょっとすると“ルーフォック・オルメスもの”を読んだことがないというのは、R・A・ラファティを読んだことがないのに匹敵するくらいなのかもしれないが(いや、そこまでメジャーではないのかもしれん。ハワード・ウォルドロップくらいだろうか?)、まあ、ミステリファンの世界はよくわからん。とにかく、訊いてみた。なんでも、非常に入手しにくいというわけではないが、入手しやすいわけでもない。そこそこの古本屋ならたまに出ているといった程度のものであるらしい。からくり屋敷の水責めのようにしてインクが溜まってゆくようにした巨大なインク壺の中に作家が監禁されるという話があるそうだ。なぜそんなことをするのかというと、作家にインクを消費させるためであって……とまあ、ここまで言うと犯人がわかってしまうが、ネタばらしをしたからといって文句が来るとは思われない。とにかくそんな話ばっかりだそうである。な、なるほど、面白そうだ。
 合宿オープニングは例年のごとし(なんだか、年々日記が手抜きになってくる)。さてさて、夜はどの企画部屋へ行くかな。今年も裏番組同士がけっこう面白そうで迷う。
 が、まずは、「SF十段」(出演:大野万紀大森望・日下三蔵・水鏡子・牧眞司・山岸真・三村美衣)を観戦しにゆく。この錚々たるSF講談社、じゃない、高段者の面々が、好きなSF作品の“プレゼンテーション合戦”を行ない、十段位を競うというものである。文章で紹介させればなにしろプロなんだからうまいに決まっているところを、制限時間内にプレゼンをさせるところが面白いわけだ。この方々はしゃべるほうも藝達者だけれども、“制限時間内に”というのがミソ。この方々の話藝は、時間をきっかり区切られると威力が半減するのである。たいていのSFファンはそうだと思うぞ。単位時間内に発話する語数では、三村美衣さんにかなう人はこの中にはいないと思うが(小浜徹也さんがいれば話は別)、やはり制限時間付きというのはやりにくそうであった。こういうのは学校の先生がうまそうだよな。SF業界には先生がけっこういるから、いずれ先生対決というのをやってはどうだろう。
 で、次は「ジェンダー研の部屋 〜Sense of Gender賞始動!〜」(出演:柏崎玲央奈・工藤央奈・小谷真理)である。いよいよ〈Sense of Gender賞〉というのができるのだそうで、おお、それはよいことだ、で、それはなに? と思っていたら、〈SFマガジン〉塩澤編集長とおれが今年もいつのまにかゲストということになっていて、〈Sense of Gender賞〉の名づけ親であるらしい永瀬唯さんを交え、推薦作のリストを見ながら、あーでもないこーでもないとジェンダーな話(どういう話だ?)をする。推薦作リストは、必ず七月ころにはできているにちがいないとおれがほとんど確信のように予知する「ジェンダーSF研究会」のサイトに載ることになるにちがいないと予知するので、そちらへタイムリープしてくだされば推薦作はわかるはずである。『ΑΩ』小林泰三、角川書店)が入っているのがなんともお茶目。そうだよなあ、言われてみれば、ジェンダーSFだよなあ。で、ジェンダーSFってなに? ……というのは、いずれ書くことになるにちがいない推薦評で、おれが自分で考えなくてはならなくなるにちがいないのだった。
 次行ってみよう! いやじつは、今回の合宿でおれが個人的に最も楽しみにしている企画が、「オタク第3世代は、本当に動物化しているのか?」(出演:東浩紀・大森望)なのである。ことほどさように、『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会』(東浩紀、講談社現代新書)は面白かった。書評屋にあるまじきもの言いではあるが、あれが正しいかどうかは、じつはおれにとってはどうでもよい。というか、あれは「あ、これは大筋ではそうにちがいない」と直覚する類の論である。たとえば、ピーター・ドラッカーの言うことはたいていそのうち当たるが、いつ当たるか、細かくはどのように当たるかはあんまり問題ではない。あの爺いは、忌々しいことに、大筋はけっして外さないのだ。『動物化するポストモダン』にも、おそらく各論の部分ではそれこそ濃い濃い濃〜い専門家からいろいろ異論が出るにはちがいないが、大枠はどうしようもなく正しいとおれは思うのである。なぜなら、あたりまえのことだからだ。なに、あたりまえだから正しいなんて、ちっとも説明になっとらん? まあ、いいじゃないか、それを説明するのは東浩紀の仕事なので、おれの知ったことではないのだ。二足す二がなぜ四になるのかなどという高度な説明はおれにはできん。東浩紀という人は、神林長平的というか水鏡子的というか(おこがましいが、おれ的でもあるわけだが)、たぶん結論が一足跳びに見えてしまって、そこへと至る階梯を他人に示すために言語を駆使して論理的に考えるというタイプなのだろうと勝手に推測しているのでなんとなく親近感を覚え、生身の話を聴くのが楽しみなのだ。
 というわけで、東浩紀なる人はどういう人なのか興味津々で、早くもはじまっている東浩紀氏と若者とのやりとりをわくわくしながら聴いていた。それがとんでもない夜のはじまりになろうとは、誰が予測し得たであろうか? まあ、東さんが酒を飲むペースに気づいていた人には――さらに、このセミナーに永瀬唯さんと浅暮三文さんも参加していることに思い至った人には――完璧に予測し得たかもしれないのだが……。明日へと続く。

【5月2日(木)】
朝日新聞阪神支局襲撃事件の時効が、今日の二十四時に成立する。もう、そんなに経ったのか。陳腐な言いまわしだが、つい昨日のことのような気がする。数年前にたまたま仕事で事件現場のそばを通りがかり、「ああ、ここがそうなのか」と記憶がリフレッシュされたせいもあるかもしれない。
 そのむかし、新聞記者というのはすごい仕事であった。自分の書いたものがたくさんの人に読まれるのである。とてもたくさんの人だ。大新聞ともなると、読んでいる人数の桁がちがう。こう言っちゃなんだが、SF雑誌などとは比べものにならない。〈SFマガジン〉が昭和四十年に筒井康隆「堕地獄仏法」(『筒井康隆全集2 48億の妄想/マグロマル』新潮社・所収)を載せたときにはかなり騒ぎになったらしいが、幸か不幸か、『風流無譚』事件の五年後に「堕地獄仏法」事件が載っている文藝史年表を、おれはまだ見たことがない。それくらいですんだということなのだろう。当時どのくらいの騒ぎになったのか、おれはまだ三つにもなっていないからさすがに記憶になく、実感としてわからないのだ。あ、SFファン以外の方はご存じないかもしれないので解説しておくと、「堕地獄仏法」は、実在の人物・団体とは一切関係なく万一類似性があったとしてもそれは偶然の一致によるものである“総花学会”という名の架空の邪悪な宗教団体を徹底的に茶化しまくった筒井康隆初期の傑作短篇である。
 で、なんの話だっけ、そうだ、新聞記者だ。襲撃事件の犯行声明を出した赤報隊とやらは、新聞記者のペンの力、朝日新聞の影響力を怖れて、あのような卑劣な行為に走った。そりゃそうでしょう、そこいらの塀に「警告あります。電波はアルミホイルで包む。キヨコが帰ってきますでしょう!」などとハリガミをしてまわっているヘンなおじさんが赤報隊とやらに都合の悪いことを書こうがなにしようがべつに怖くはないはずで、相手が大新聞社だからこそ社員を全員処刑するみたいな派手なことを言って脅えているわけだ。
 しかし、だ。不特定多数の、とても多数の人々に言論で訴えかけられるのは、もはや新聞記者の特権ではない。そういう意味では、この十五年で世界はまったく変わってしまったのだ。当の大新聞といえども、妙なことを書けば、たちまち世間の知識や良識や悪意や愚や退屈がこもった批判の矢が四方八方から飛んでくる。五本や六本ではない、払いのけてごまかせる本数ではない。雨霰と飛んでくるのだ。くだらぬ矢もあろうが、最も良質の矢の多くは、届くべき者に早晩ちゃんと届く。とても愉快なことに、こんな世の中になってしまったことが赤報隊の最大の誤算である。新聞記者なる職業の人間をわざわざ選んで殺傷した行為が、結果的にまったくの茶番になってしまったからだ。衆愚というものは新聞社が右と言えば右を向き、左と言えば左を向くものだと考えているにちがいない彼らの卑小な傲慢さと単純さを、時の流れとテクノロジーが最も滑稽な形で浮き彫りにしてしまった。赤報隊諸君、新聞社は君たちが過剰に脅えたほどにすごい存在ではもともとないし、大衆(というものがまだあるとすればだが)は君たちが見下したほどのバカではもともとない。そんなこともわからずに、世の中を変えようとしていたらしい(?)とは、ちゃんちゃらおかしい。児戯に類する。きっと世間知らずのお坊っちゃまお嬢ちゃまの集団なのだろう。
 おれは死後の世界など信じないが、もし殺された小尻記者が、よくも悪くも増殖してゆくいまのウェブページの隆盛、インターネットの繁茂を知ることができたなら、きっと声高らかに笑って大いに喜んだにちがいない。小尻記者は勝ったのだ。英国軍事情報部第六課〈MI6〉ですら、インターネットに流出してしまったスパイ名簿を完全に回収することはできなかった。お手上げである。いまもこっそり閲覧できるサイトがあるかもしれないし、ハードディスクにFDにMDにMOにCD−RにDVD−RAM(?)に保存して大事に持っているやつが無数にいることだろう。MI6にできないことが、赤報隊とやらにできるわけがない。弾丸ごときで人の口に戸を立てられると思ったら大まちがいである。仮にこんなことを書いたおれが撃ち殺されたとしたら、第二、第三、第四、第五のおれがいつまでもいつまでも現われ続けるだけのことだ。ざまあみろ。

【5月1日(水)】
一昨日触れた“でん六の柿ピー”についてだが、事実誤認があったので訂正しておく。「国産ピーナッツだからうまいと袋にも書いてある」と書いてしまったのだけれども、よくよく袋を読むと、ピーナッツは中国産であり、バターピーナッツを国内自社加工しているからうまいと主張している。いや、なにを隠そう、いま、でん六の柿ピーを食いながらこれを書いている。しかし、いまどき国内自社加工を自慢している企業も珍しいと思う。そのぶん高いぞ、あるいは、量が少ないぞと言っているようなものだからだ。まあ、中国人やインド人やマレーシア人に日本人よりも安くうまく柿ピーを作られたのでは、なんとなく日本の立場がない。柿ピーくらい日本で作っていてもいいではないか。いずれ柿ピー業界にも“ユニクロ化”の波が押し寄せてくるかもしれないが、でん六はそのときどういう策で対抗するのか、注目していよう。日本の製菓技術でしか作れないような超高級柿ピーで対抗するしかないとは思うが……。
 ともあれ、この袋に書いてあることがほんとうだとすれば(どうも最近、食品のパッケージに書いてあることは、運がよければほんとうである程度の認識になってしまっている)、少なくとも、でん六は国内の雇用を創出しているのであって、この時代になかなか見上げたポリシーである。きっと哲学を持った骨のある経営者なのであろう。たかが柿ピー、されど柿ピーだ。日本から柿ピーが、都こんぶが、かっぱえびせんがなくなったら、これは文化的敗北以外のなにものでもあるまい。闘え、でん六! 負けるな、でん六! 日本の食文化を守るのだっ! って、マクドナルドでハンバーガーばっかり食ってるおれが言ってもなあ……。
宝酒造「生果汁チューハイ」のCM、熱を加えない製法とやらが「世界初!!」だとしきりに宣伝しているが、日本以外に缶チューハイ飲んでる国があるのか? しかも、そもそも果汁に熱を加えて作っていたことなんて、おれは知らなんだ。みんな知っていたのだろうか?
 おれだけが知らないのかもしれないので、これはいかんとタカラのウェブページで勉強したところ、なるほど、従来二回加熱していた工程を、ミクロフィルターによる濾過で代えている。これを見るかぎり、果汁入りチューハイの生果汁をミクロフィルターで濾過するなんてのは、「いままでなぜ誰もやらなかったのか?」的なアイディアなのだろうな。要素技術はとっくに存在していたはずだからだ。エイズウィルスすら濾過できるフィルターが商品化されているのは発表時に大々的に報道されたからたいていの人が知っていようし、ビールやらなにやら他の酒ではミクロフィルターによる濾過なんてのはよくやっているようだ。「チューハイでも使えるじゃん」と思いついたやつの勝利である。いや、たしかにはっきりわかるほどうまいのよさ、タカラの「生果汁チューハイ」。
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

『デューンへの道 公家(ハウス)アトレイデ1』
(ブライアン・ハーバート&ケヴィン・J・アンダースン、矢野徹訳、ハヤカワ文庫SF)
「Treva」で撮影

 ケヴィン・J・アンダースン、最近はなにをしているのかと思ったら、こういう仕事をしていたのか。ブライアン・ハーバートという人は、フランク・ハーバートの息子だという。なんでも、《デューン 砂の惑星》シリーズの前日譚なのだそうである。解説で水鏡子さんが《デューン》への熱烈な想いを語ってらっしゃるが、どうも世代差なのか、おれはあんまり《デューン》にはピンと来ないのだった。むかしペーパーバックを途中で投げたのだったと思う。分厚いせいもあったかもしれんが……。《公家アトレイデ》シリーズの刊行(と新作映画)に合わせてだろう、ハヤカワ文庫SFの《デューン》シリーズが重版されるというので、これを機に《公家アトレイデ》シリーズと一緒に通読に挑んでみよう。おれも歳食ったから、それ相応に好みも変わっているやもしれん。「あらまあ、なんと面白い」などと、いまさらのようにハマらんともかぎらない。まあ、秋から年末にかけてのベスト選出期までに読めたら上等かな。しばらくは、“月刊クリプトノミコン”があるしなあ。また、夏に出るらしい《戦闘妖精・雪風》ムックに、以前〈SFマガジン〉に書いた評論のようなものを大幅加筆改稿して載せる予定もある。ありがたいこっちゃが、忙しい忙しい。前に書いたときは、時間切れもあって、自分でも終盤息切れしとるなと不本意な思いが残ったので、今回は尻切れトンボにはならぬよう、じっくり取り組みたいのだ。といっても、ちっとも書き出さず、いまのところおれの〈無意識〉に勝手に準備をさせている状態なのだが……。ああ、ゲシュタルトが私を呼んでいる。


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