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2003年7月上旬 |
【7月9日(水)】
▼長崎の幼児誘拐殺人事件の犯人として、十二歳の少年が“補導”される。本人は犯行を認めているという。やれやれ、やっぱりか。理路整然と推理していたわけではないが、この事件を最初に知ったときに、なーんとなく酒鬼薔薇クンのことを連想したのだった。なぜだかよくわからない。たぶん、虐待された犬も発見されているとかいったことが報道されたあたりからだったように思う。「な〜んか、子供の仕業のような気がしてならん」と母に言っていたのだが、「そやけど、子供が車運転するか?」とワイドショーで勉強している母に反論され、「うーむ」と引き下がっていたのである。同じような“気がしていた”人は、おそらくたくさんいるだろうと思う。
となると、酒鬼薔薇事件のときに起きたことが、今度もまた性懲りもなく起きるはずで、確実に繰り返されるであろうあんなことやこんなことが思い浮かび、なんとも暗鬱な気分になる。また、仮想現実がどうのこうのと適当なことをほざくやつがたくさん現われるんだろうなあ。最近では“ゲーム脳”とやらがどうしたのこうしたのと、わけのわからないことをほざく御仁もある。これだけの数の人間がおれば、非常に特殊なやつが少々現われても驚くにはあたらない。十二歳の少年がこういう事件を起こしたことが、どのくらい特殊なことなのかを、ゆっくり時間をかけて見極めてゆく必要があるだろう。おれたちが過去の事例から学習していることは、こうした事件を己に都合よく利用する輩が必ず現われることくらいだ。個々の事件を考えるのはたいへん難しいが、そういう輩の言説に気をつけていることなら比較的容易にできるのである。
【7月7日(月)】
▼《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。
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学研M文庫で出た本格お笑い伝奇SF(“本格”は“お笑い”にも“伝奇”にも“SF”にもかかる)『UMAハンター馬子(1)湖の秘密』の続篇。今度はウルフ・ノベルスでお目見えとなった。体裁が変わったこともあって、1だの2だのと番号は付かなくなっている。「恐怖の超猿人」「水中からの挑戦」「闇に光る目」の三篇が収められている。もちろん今回もシリーズの“縛り”の入ったタイトルである。この縛りがどこまで使えるのか気になったので、資料を見ながら検討してみた。“あからさまな固有名詞が使われているタイトル”は使えないとすれば、《UMAハンター馬子》は四十二話までには終わらねばならないことになる。タイトルを使うぶんには大丈夫だろうから、もちろん幻の第十二話「遊星より愛をこめて」も入れて数えている。なに、“縛り”ってなんのことだ、さっぱりわからんって? この日記の読者の五人に一人くらいはそういう方もいらっしゃるかもしれませんなあ。尾崎紀世彦氏はきっとおわかりだと思う。
【7月4日(金)】
▼九年近く通勤に使ったソフトアタッシェのファスナーが、ひと月ほど前とうとう壊れてしまった。まあ、壊れたのはファスナーだけだからしばらく安全ピンで留めて使っていたのだが、まずいことに先日母に見つけられてしまい、みっともない、ご近所に会わせる顔がない(ちなみにおれは、いったいどこの何者なのか近所ではほとんど認識されていないし、おれも近所の人の顔も名前もほとんど知らない。そういう団地である)、そんなふうに育てた覚えはない、早く買え早く買え一日でも早く買え恥ずかしくて表も歩けないとうるさいのなんの、半狂乱になって騒ぐ。四十の息子が多少壊れた持ちものを工夫して使っているのを、六十五の母親がなぜそんなにも恥ずかしがらねばならないのか、そもそもそのような些細なことがいったい全体母になんの関係があるのかがさっぱり理解できず、まるで異星のフラスポネルレース実況生中継をその星の言語で聞くようにぽかーんと聞いていた。フラスポネルレースとはなにか? それがわかれば苦労はないのである。
「べつに持ちものが多少壊れているからといって、わしという人間がいささかでも変わるわけではない。そして、わしにはそのことがよくわかっているし、わしにとって世界はわしのためにあるのだから、わしがわしにとって不本意でないことをしているかぎり、わしはべつにいっこうにかまわん」とおれはおれの星ではあたりまえのことをおれの星の言語で述べるのだが、やはり通じている気配はなく、母は「それが人にはわからんからいかんのや」などとむちゃくちゃな論理を展開する。おれはまるで異星のフラスポネルレース実況生中継を……(以下略)。おれは持てる知識と知能をフルスロットルに叩き込んで、なんとか母の言わんとしていることを推測した。母にとって、人間とは「わしはこれくらいの価値の人間である」と常に外見や持ちもので主張していなくてはならないものであるらしい。ははあ、エルキュール・ポアロのようなものか。そういえば、同じテレビを二十三年間使っていたことに関してはあまり文句を言われた記憶はない。なるほど、人に見えなければいいのだな。たしかに、そのような不可解な世界観にも存在の余地はあるだろう。世界は驚異に満ちている。だが、おれ自身は、ポアロよりも刑事コロンボと世界観を共有したい。
ともあれ、世界観のちがいとなれば、これは如何ともしがたい。宗教戦争のようなものである。まあ、とにかくこのままではうるさくてかなわんし、いずれにせよそのうち新しいのを買わねばと思っていたので、今日早めに会社を出て買いにゆくことにした。
買うと決まれば、方針は明確である。機能美に徹したものがよい。おれはいま持っているこのソフトアタッシェを買った店に行ってみることにした。たしかこれは、京橋のダイエーの鞄屋で買ったのであったな……。
いざダイエーに来てみると、目当ての鞄屋を思い出せない。鞄を売っているところは何箇所かあり、ついでだからいいのがないか見まわってみたが、どうもグッとくるものがない。さて、このソフトアタッシェを買ったのはどの店であったか……。ダイエーの中を上がったり下がったりしているうちに、ようやく思い出した。というか、発見すると同時に思い出した。たしか、鞄屋というよりはお好み焼き屋のほうが似合う感じの、六十代か七十代かことによるとそれ以上のおばちゃんが一人でやっていたはずだ。はたして店に入ると、ちゃんとあのおばちゃんがいるではないか。
最近のソフトアタッシェはどういうものかとおれはしばらく店内を見てまわった。が、どうもおれに訴えかけてくるものが見つからない。最近の鞄にはやたら仕切りやらポケットやらがたくさんついているが、これがけっこうくせものである。仕切りやらポケットやらが多ければいかにもものがたくさん入るかのように錯覚するけれども、ドラえもんに尋ねてみるまでもなく、三次元空間ではそのような都合のよいことは起こらない。藝のない鞄にかぎって、仕切りやポケットの数で造りのまずさをごまかしがちである。カードを入れる切り込みがたくさんついている財布に、切り込みの数だけカードを入れてみるとよい。ちゃんとした財布であれば、カードを入れた状態で利便性に支障を来たさないかが考慮されているはずである。鞄もしかり。
やがておれは、おれがいま持っている鞄とまったく同じものがまだ売られているのを発見し、はなはだ驚いた。おれはおばちゃんに話しかけた。
「この鞄、九年くらい前にここで買うたんやけど。おばちゃんのことも憶えてるわ」
「ああ、それねえ。入ってきはったときにすぐわかりましたわ。ずっと扱うてますねん。そこにありますわ」
「ええ、ありますねえ。これ、全然モデルチェンジしてへんのですか?」
「してまへんわ。いっぺんそれ使わはった人は、たいていそればっかり買わはりますわ。それが最初に出たんは、もう二十年くらい前やね」
「ちょっと見せてもうてもよろしいか?」
「どうぞどうぞ」
おれは同型の鞄を手に取って、あちこち開けて見てみた。驚いたことに、細部に至るまでまったく変わっていない。いまどきこのような商品はきわめて珍しい。
「ほんまに変わってませんな」
「へえ、それは好きな人はほんまに好きです。軽いし丈夫やしね。それは九年使わはりましたか?」
「ええ、ぱんぱんに本入れたりして、けっこう鞄使いは荒いんやけどね」
おれは再びほかの鞄を見てまわりいじり倒したが、やっぱり購入意欲をそそるものがない。ついにおれは、いま持っている鞄とまったく同じ鞄を手に取って言った。
「やっぱり、これにしますわ」
「やっぱり、そうですやろ。それ買わはる人はみなそうですわ」
うむ、嘘ではあるまい。おれもどうやら、ほかのソフトアタッシェを受けつけない身体になっていたようだ。なにしろ、おれ自身が九年間使った実績が、よいものであることを証明している。株式会社IKETEIというところが出している「VEGA」というブランドのソフトアタッシェだ。とにかく造りがしっかりしている。デザインがシンプルで美しい。仕切りやポケットの数も位置もちょうどよく、安易に数を増やしてごまかそうとしていない。軽い。ふだんは空の状態で持ったりしないため忘れていたが、この鞄は空にするとこんなに軽かったのかと驚くほど軽い。これはもう、おれも自信を持ってお薦めする。ソフトアタッシェは「VEGA」にかぎる。まるで銃器のような美しさを備えた傑作である。すばらしい。
というわけで、おれは九年間使った鞄を、まったく同じものに買い替えた。愛用品を“同じものに買い替えた”のは、HP200LX以来のことである。この鞄を九年前にこの店で買ったときにはたしか二万円だったのだが、今回は一万七千円だった。さほど値段が下がっていないのにも充分納得がゆく。また九年使えるとすれば、たいへんお得な買いものとしか言いようがない。なにしろ、この古いほうの鞄は、たまに使って九年保ったのではない。月曜日から金曜日までをほぼ毎日使って九年保ったのである。驚異的だ。
おれは新しい鞄の入った紙袋を提げて店を出ると喫茶店で中身を詰め替え、京橋駅前の飲食店街に出た。古い鞄を持って帰ってもバラバラにしなければ捨てられそうにないため、飲食店街のそばになら大きなゴミを捨てられる場所があるだろうと思ったのだ。ところが、いざ探してみると、大きな紙袋を捨てられそうなところがなかなか見つからない。よく考えたら、黒い大きな鞄が入っている紙袋などというものをうかつなところに放置しようものなら、とてもとても怪しい人にまちがえられかねない。うろうろしていると、キャバレーだかピンサロだかの客引きのにーちゃんに声をかけられた。いまそれどころではないと通りすぎたおれは、「あっ、そーだ」と百八十度ターンして、「このへんに、これくらいのゴミ捨てられるようなとこあらへんか?」と、客引きのにーちゃんに声をかけた。にーちゃんはきょとんとしている。もっともだ。自分が声をかけられるのには慣れていないのだろう。
「はあ、ゴミですか……」
「これほら、古い鞄なんやけどな。壊れてるさかい使えへんで」
にーちゃんはしばらく心当たりの場所を思い出そうとするように背伸びしてあちこちを見やっていたが、やがて驚くべきことを言った。
「ぼく、捨てときますわ」
なんという感心な若者であろう。突如現れた金のなさそうなおっさんのゴミを引き取ってくれるというのだ。おれは「ええっ、ええんか? しょーもないこと頼んで悪いなー。いやあー、おおきに」と、どうもさっきからふだんより濃いめになっている大阪弁で言いながらにーちゃんに紙袋を渡し、片手で拝みながら立ち去った。ここで財布から一万円札を抜いて黙ってにーちゃんの胸ポケットに押し込むとカッコいいのだが、生憎おれにはそこまでのダンディズムはない。ダンディズムがないのもさることながら、そもそも財布の中に一万円札など残っていない。じゃあ、残っていたら一万円渡したのかというと、絶対にそんなことはせん。こんなおっさんに遭遇したのが、このにーちゃんの身の不運である。いやあ、それにしても、ええにーちゃんやったなあ。将来ひとかどの人物になることであろう。ここでもう一度礼を言っておこう。にーちゃん、おおきに。
おれは新しい鞄を提げて、いい気分で家路を急いだ。IKETEI には九年後にも「VEGA」を作っていてほしい。ダイエー専門店街の「バッグショップ ロベ 京橋店」のおばちゃんには、九年後にも元気に鞄を売っていてほしい。この新しい鞄が何年保つかはわからないが、次もおれはきっと同じ店に同じ鞄を買いにゆくにちがいない。
【7月2日(水)】
▼『トリビアの泉』(フジテレビ系)が21時というゴールデンタイムに復活。関東では深夜にやってたらしいが、関西では正月の朝にはじまったくらいであって、いずれにせよ、やってるほうだって一般ウケするとは思ってなかったのだろう。ひさびさにおれが大笑いできるノリの番組なので、楽しみに観ていた。このたびのゴールデンタイム進出もむろんチェック済みであり、ビデオの留守録をセットしておいたのだが、どうやらゴールデンタイム版初回から野球が延びたようで、会社から帰宅したらまだ野球だった。おかけで飯食いながらリアルタイムで観ることができた。放送時間も一時間と倍に増え、レギュラー陣にはタモリも加わって豪華になっている。高橋克実と八嶋智人の、ただ立ってるだけでエキセントリックなコンビをMCに温存したのは大正解と言える。とくに八嶋智人という俳優は、そのオーバーテンション、オーバーアクションにワン・アンド・オンリーの魅力がある奇才であるから、なーんの役にも立たない知識をさも大事のように披瀝する役回りには最適の人選だ。
いやしかし、こういう、知力を傾けて大バカをやる系統の番組では、フジテレビの右に出る局はありませんなあ。そりゃあ他局だってそういうのをやったりはするけど、全然センスがちがう。他局がこういうのをやると、多くはスベる。作ってるほうも楽しんでバカをやっているという雰囲気が伝わってこないんだな。フジテレビのブレーンには、モンティ・パイソンなんかが大好きな人が多いんじゃないかと思う。SFの(というか、SFファンの)匂いもぷんぷんする。そりゃまあ、『トリビアの泉』のスーパーバイザーは唐沢俊一だし、冒頭から毎回アイザック・アシモフが出てくるし、野田昌宏宇宙大元帥にも縁浅からぬ局だしなあ(というか、ご本人が“ガチャピンのモデル”という“トリビア”の当事者として出演してたし)。ま、とにかく、『カノッサの屈辱』も『カルトQ』も『ボキャブラ天国』も、週に一度バカになって笑える“なんの役にも立たない名番組”として、おれの頭の中のテレビ史には特大の文字で記されているのである。この『トリビアの泉』も、それらの金字塔に連なることになるであろう。考えてみれば、『カルトQ』と『ボキャブラ天国』を合体させたものが『トリビアの泉』なのだ。
さて、新生『トリビアの泉』、初回からタモリがトークで使ってた小ネタのトリビア(トリビアってのはたいてい小ネタだが)「『ウルトラセブン』のテーマソング冒頭の三回めの“セブン”は尾崎紀世彦が唄っている」だが、はて、そんなもの、おれたち(どういう“たち”かはご想像にお任せする)のあいだではトリビアでもなんでもありゃせん。常識の範疇に属することである。おれはCDで『ウルトラセブンのうた』を聴くとき(この日記の読者の五世帯に三世帯くらいは、『ウルトラセブンのうた』をなんらかの形でお持ちであると思う)、いちいち「あ、これが尾崎紀世彦だ」と思いながら聴くぞ。試しに「Google」で「ウルトラセブン 尾崎紀世彦」を検索してみると、ほーら、こんなにヒットする。常識だ、常識だ。ま、トリビアというのは、しばしばそれを知っている人は常識だと思っているものなのである。「こんなの常識でしょう」と思っていることを番組に送ってみたら、思わぬ高へぇが取れたりしてね。
余談だけど、MEGUMI ってのは、ぶっきらぼうでいいキャラだねえ。なかなか頭の回転も早い。身体見せなくても、バラエティーでも当分やっていける人材ではあるまいか。イエローキャブと言えば胸がでかいだけのねーちゃんの集団だと思われがちだが、あのヘンな社長の眼力が優れているのか、ときどき面白い才能が出現する。おれ、『トリビアの泉』で MEGUMI のファンになったよ。このコはお笑い系の才能を相手にしたとき光るタイプだ。
【7月1日(火)】
▼t.A.T.u.は昨日帰国したようで、マスコミはあいかわらずあちこちで怒ったふりして面白おかしく叩いている。どこかのテレビ番組か新聞かに、きっとあのネタが出現するはずだと注意していたのだが、少なくともおれの目に触れる範囲では、あのネタは出現しなかった。おっかしいなあ。絶対スポーツ紙あたりが見出しに使うと思ってたんだがなあ――『さらばモスクワ愚連隊』って。
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